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2021年03月15日

判り易く面白い日本史  本日より毎日掲載  その1 旧石器時代の遺跡・食べ物・暮らしを解説!

 


 判り易く面白い日本史  本日より毎日掲載  その1
 

 まえがき

 本当は歴史が好きなのに、何故か日本史にだけ全くと言って興味を持て無かった・・・その理由は色々と在るが、結論を云うと全体的に面白味が無いからだろう。日本の歴史が劇的に変化するのは、戦国時代と幕末から明治時代に限られてしまう様に感じてしまう。それ以外は・・・神話の話や天皇を巡る争いに終始してしまう感がしてしまう。
 それに比較すると世界史は、エジプトの古代史・アレキサンダーの長征、そしてローマ時代に中央アジアの大モンゴル帝国から、イスラム教国の隆盛と衰退・・・ナポレオンの活躍とヨーロッパの抗争・・・その他数限り無いストーリーに溢れ返るのだ。
 しかし、我が国の歴史をどうしても孫にも伝えたい、とすると「判り易く面白い日本史」を自ら探して学ばなければ為らないと考えた。そこで次の「日本の歴史を分かり易く解説!」を参照にさせて頂く事にした。非常に好く出来た文献ですので広く皆様と共に学んで行きたいと思います。本日より、毎日一度の掲載で継続してお届けしたいと思います。もう一度日本史を・・・

         r1.jpg R1

 今から1万5000年以上も昔、私達日本人の祖先は移動しながら獲物を狩って生活して居ました。時代は移り、弥生時代には稲作の普及により、飢えの心配が格段に減りました。又、定住が可能に為った為、家を建てて安心して眠れる様に為りました。
 その後も、先代の文化や技術を受け継ぎ発展させ、それを後世に残す事で私達の生活は進歩して来ました。
1939年からの第2次世界大戦・・・日本を守る為に多くの人が犠牲と為り、積み重ねた文化や資産が破壊されてしまいました。それでも、その後必死に働いて来た先代達によって経済は大きく成長し、様々な権利が保障される様に為り、現在は大分豊かな生活を送る事が出来る様に為りました。
 これからを生きる私達は、日本の文化や技術を受け継ぎ、改善し発展させ、次の世代に残すよう努めて行けたら良いのではないでしょうか?先代、先々代とそうして来た様に…

 便宜上の時代区分 これに沿って話を進めて行きます

 1 旧石器時代(〜紀元前1万4千年)
 2 縄文時代(紀元前1万4千年〜紀元前300年頃)
 3 弥生時代(紀元前300年〜250年頃)
 4 古墳時代(250年〜600年頃)
 5 飛鳥時代(592年〜710年)
 6 奈良時代(710年〜794年)
 7 平安時代(794年〜1185年)
 8 鎌倉時代(1185年〜1333年)
 9 室町時代(1336年〜1573年)
 10 戦国時代(1467年〜1603年)
 11 江戸時代(1603年〜1868年)
 12 明治時代(1868年〜1912年)
 13 大正時代(1912年〜1926年)
 14 昭和時代(1926年〜1989年)




 第1回 旧石器時代の遺跡・食べ物・暮らしを解説!


 旧石器時代  (〜1万2千年前)
 
 地球上に人間が現れたのは、今から約500万年前でした。それから氷河時代が訪れ、寒冷な氷期と少し暖かい間氷期が繰り返され、その度に海面が上下しました。地殻変動や火山活動も激しく、地形も大きく変化しました。
 当時、日本列島はアジア大陸と陸続きで、現在の様に大陸から切り離されたのは約1万年前の氷河期終わりの頃と云われています。氷河期の日本列島にはナウマンゾウ・マンモス・オオツノジカ等の大型の動物が遣って来ましたが、人間もこれを追って日本列島に移り住みました。

 打製石器の発見

  動画 https://youtu.be/pseZz_-qIOI

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               <出典:日本旧石器学会>

 1949年 群馬県岩宿で打製石器が発見されました。地層からおよそ3万年前のものと考えられ、この時期を旧石器時代と呼びます。旧石器時代の石器は初め石を割ったり削ったりして打撃用として使って居ましたが、次第に先端を磨いて切断機能を持つナイフ形石器や、動物を突き刺す槍先の様な尖頭器、黒曜石等を材料にした石刃等が作られるように為りました。
 これ等の石器は見晴らしの良い丘の上から発見される事が多く、小さな集団でマンモス等を追って移動しながら住んで居た事を想像出来ます。

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                    岩宿遺跡

 先土器文化

 1949年の岩宿遺跡の調査の結果、日本に「旧石器文化」が在ったことが確認されました。これを機に、日本各地で旧石器時代の石器が相次いで発見されました。石器と一緒に土器が現れ無い事から「先土器文化」と呼ばれました。1990年代に為ると、アジアにおける旧石器文化の研究が進んで「旧石器文化」と呼ばれる様に為りました。

 旧石器時代の食事と暮らし

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 旧石器時代の遺跡からは、野牛・ナウマンゾウ等の大型動物の骨。ニホンシカ・イノシシ・ノウサギ等の中小型動物の骨が発見されています。又、大型動物を解体する作業場も発見されています。このことから、当時の人々は大型動物を狩って生活して居たと考えられます。
 竪穴式住居の遺跡が殆ど無い事や、植物加工用の石器よりも狩猟に使う石器の発見が多いこともそれを裏付けて居ます。大型の動物を追い賭けて狩猟生活をして居た為、ひとつの場所に定住することが無く、洞穴や岩陰等で生活して居たと考えられます。只、中にははさみ山遺跡の様に竪穴住居で暮らして居た跡もあります。

     第一回 おわり 第2回 縄文時代(紀元前1万4千年〜紀元前300年頃)へつづく





2020年04月13日

日中戦争・太平洋戦争従軍の証言 赤池 光夫さん(兵士・男性)その3



  日中戦争・太平洋戦争従軍の証言 

  赤池 光夫さん(兵士・男性)その3


 その3 シンガポール攻略戦 

 戦場の「シンガポール」は狭い。中央にブキティマ高地が在り、この丘を手中にすればシ島の町は眼下に在り、戦略上重要な意義がある。是が非でも攻略しようとする我が軍と、これを死守しようとする英軍との思惑が絡み合い、この高地の攻防戦は熾烈な戦いとなり、丘は双方の激しい砲爆弾で焼け爛れ、真っ赤な山肌を曝け出し無残な姿に変貌した。
 夜ともなれば、我が軍の突撃する悲壮な喚声が沸き起こり死闘が繰り返されていた。こうした状況の中で、英軍も抗し切れず遂に撤退。我が軍は多くの犠牲を払いながらこの高地の奪取に成功し、これにより戦況は一転有利に働き2月15日を迎えた。

 この日は前夜から激しい攻防戦が展開され、頑強に抵抗する敵に攻め倦んで居た。夕闇が迫る頃、我が軍は市の郊外「パヤレバー」付近に進出した。午後8時ごろ、突然背後から「敵は降伏した。戦闘停止」の逓伝が戦闘指令所から届いた。
 耳を澄ませば遠地近地で「万歳」「万歳」の歓声が沸き起こり、先刻まで激しく撃ち合っていた砲声は鳴りを潜め、時折散発的に銃声が聞こえてくる。敵は降伏したのだ。

  「現在地に停止」「煙草を吸って良し」「警戒は続行すべし」

 部隊長の命令が次々と出された。思わず自分たちも「万歳」「万歳」と叫び抱き合って喜ぶ者、嬉し涙を軍服の袖で拭く兵士、戦勝の喜びの興奮に一同酔い痴れた。思えば16年12月8日、シ島攻略戦の火蓋を切って以来、激しい戦闘の日々が続いた。そして数多くの戦友の尊い命が失われた。こうしてシンガポール攻略戦は日本軍の勝利に帰した。

 私が復員後間も無く兄が出征した為、兄の代わりと為り留守宅を守って居りましたが、僅か90日で私に召集令状が来た。同年兵に来無いのに何で俺だけに令状が来たのかと理解に苦しんだ。令状を受け取り5日目、慌ただしく東部63部隊(甲府49連隊)に応召入隊した。案内され本部前に行くと、底には去る6月、一緒に帰還した同じ中隊の古屋少尉と下士官数人も、中隊コソ違ったが同じ宮部隊の人達だった。

 「来る10月1日には、第1回学徒兵が入隊して来る。戦争体験の有る諸君は、短期間で有るが実践的教育訓練をして欲しい」との事だった。
 数日後の10月1日、学徒兵が入隊起居を共にし教育に専念。翌19年3月、学徒兵が前橋予備士官学校に転属・入校と同時に私たちは召集解除された。しかし、同年10月、再び東部63部隊へ応召、軍務に就いた。思えば昭和18年戦地から帰還、同年10月末に召集、翌19年3月召集解除、そして同年10月召集と軍務に振り回され、私生活は全く無視された日々が続き悩み苦しんだ。

 軍隊教育も3月召集解除され、僅か7か月留守の間に大きく変わり、戦闘訓練も従来は専ら攻めの訓練だったが、敵の本土上陸を想定し、今如何にして本土を守るか、一兵と云えども足を踏ませ無い為の守りの戦法に変わり厳しい訓練が続いた。
 その一方で、一段と激しさを増す空襲の被害を最小限に留める為兵舎の間引きも始まり、湯村山には陣地構築作業も行われて居た。7月6日の深夜から7日の早朝に掛けて空襲があり、一夜の内に甲府の町は焦土と化した。

 8月15日終戦当日、私は平常通り練兵場へ出て教育訓練を行い、正午近く部隊へ戻って来たら、重大放送が有るからコレを聞く様にと命令が在った。放送は雑音が多く好く聞き取れ無かったが、昭和天皇自らのもので、我が国はポツダム宣言を受け入れ無条件で連合国に降伏したとの趣旨の玉音放送だった。
 図らずも敗戦の悲報を聞いた将兵は口惜しさと、無念、憤りがその極みに達し、皆男泣きして軍服の袖で涙を拭いた。

 戦争は敵だ。戦争に正義は無い。如何なる理由が有ろうとも戦争と云う手段は許されぬ。戦争は世界の人類を苦しめ、平和は幸福をもたらす。私は過つて戦場へ駆り出され、祖国日本の為に命を賭けて戦い、過酷で悲惨な日々を送った戦争体験者なのであります。今は高齢で残された余命は僅かだが、この命の有る限り、日本は元より世界に不戦平和を訴え続けて行きたいと思って居る。


                   おわり














日中戦争・太平洋戦争従軍の証言 赤池 光夫さん(兵士・男性)その2

 

 日中戦争・太平洋戦争従軍の証言

  赤池 光夫さん(兵士・男性) その2



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 その2 宮部隊は山下奉文の第25軍の指揮下に

 7日の午後、突如出動命令が下った。「我が軍はX日Y時を期し某国境を武力を以て突破する。各員は出来るだけ弾薬と食糧を確保し戦闘の万全を期すべし」との事だった。

 準備が完了し、出発したのは夜10時頃だった。行動は静かに慎重に行われ、国境へと近付き、8日午前零時の侵攻の時の来るのを待った。そして運命の零時が到来、砲口は一斉に火を噴き「タイ」国境の平和の夢を破り仁義無き戦争が始まった。この行動が世界の国々を巻き込む大戦に為ろうとは、神為らぬ身の誰しも夢想だにして居なかった。
 国境を越えた我が軍は「バンコク」で編成替えが在り、南支派遣宮部隊第25軍と為り山下奉文の指揮下に入った。この時、主力は既にマレー北部「シンゴラ」に上陸南進中で、宮部隊もコレに追随すべく前線へ急いだ。

 対する英軍は全てが機械化され、近代的装備と物量で頑強に抵抗する敵に何時も苦戦を強いられ、多大な犠牲を払う日々が続いた。こうした状況の中で、部隊はジャングルを掻き分け、側面からの攻撃に連係退路を遮断する等、混乱に陥れ、戦果を収める様に為った。

 「敵が敗退したら直ちに追え」「1時間余裕を与えれば攻略に2時間掛かる」

 これは山下奉文の厳命だ。敵が敗退すれば直ちに追い、遭遇すれば激しい戦いが続く。犠牲者も日毎に増え、戦死者の荼毘等する余裕が無い。ソコで小指を切り煙草(たばこ)の空き缶に入れ白布に包んだ。戦友を2人も負い戦って居る勇敢な戦友も居た。
 中部マレーを過ぎた頃、シンガポールの軍港から艦砲射撃が始まった。私は実物を見た事は無いが、この砲弾は大人の等身大も有る巨大な物で、兵隊仲間ではドラム缶が飛んで来ると恐れられて居た。

 熱地では雨期に為ると毎日の様にスコールが有る。ズブ濡れに為っても着替え等は無い。太陽と体温で乾かす。弾丸を避け窪地に入れば、そこは水溜りだ。負傷でもすれば鮮血と泥濘で全身泥塗れと為り、その惨たらしさに思わず目を反らしたく為る。「傷は浅いぞ、頑張れ」と巻く包帯も泥んコだ。親、兄弟、肉親がこの惨状を見たら、誰でも気を失い卒倒するだろう。
 戦争の日々は毎日が命の綱渡りだ。今在って数分後の命の保障は無い。幸い私は武運を得て、翌年1月31日、ジョホールに入城する事が出来た。目の前には幅僅か2q程のジョホール水道が在り、その向こうは目指すシンガポールだ。

 上陸地点を偵察に行き眼鏡で覗けば、幾つものトーチカが並び銃眼がコチラを睨んで居る。シンガポールへ英軍が立て籠った今は、歩兵の戦闘は休止状態に為って居る。しかし、空中戦と砲撃戦は一層激しく続けられ、我が軍は機を見て上陸作戦を敢行すべくそのチャンスを狙って居た。
 2月9日、遂に出動命令が下り、早夕げを終え暮色迫る泊地を出発、乗船地へ向かった。敵の目を盗み、乗船地へ着いた時はスッカリ夜の帳が下り、重油タンクの真っ赤な火柱が目に飛び込んで来た。

 命令が出る迄背嚢を枕に寝そべれば、両軍の撃ち合う砲弾が上空で不気味な音を立て唸って居る。間も無く乗船命令が出て鉄舟に足を踏み入れた。

 「もう二度とこの大地は踏め無い」

 悲壮の思いが全身を駆け巡った。鉄舟には20人位乗っただろうか。小さい鉄舟では身動きも出来ず、増して銃を構え応戦する事も出来無い。只マッシグラに敵陣へ突っ込む。上陸すれば成功だ。エンジンを全開し横一列と為り、弾雨の海へ躍り出た。
 海上は重油タンクの燃える火柱で昼の様に明るく、突進する船団は敵弾に次々と沈没した。海上は助けを求める声、大声で何やら叫ぶ声等が交錯し、阿鼻叫喚・魔の海と化した。幸い私の乗った鉄舟は無傷で対岸へ到着した。


 その3へつづく













日中戦争・太平洋戦争従軍の証言 赤池 光夫さん(兵士・男性) その1



  日中戦争・太平洋戦争従軍の証言

  赤池 光夫さん(兵士・男性)


 その1 入営し南支へ 

 私は徴兵検査で甲種合格と為り、昭和13年12月1日 近衛歩兵第4連隊へ現役兵として入営し、皇居のご守護や大宮(青山)御所の警護の重任に当たって居た。恰も日中戦争の真っ只中、我が近衛師団にも動員令が降下、昭和15年6月29日、軍旗を先頭に東京・芝浦港から征途に就いた。
 約1か月の長い船旅を終え、深夜、南支の小さな漁港に錨(いかり)を下ろした。此処は既に皇軍の占領下に在り治安も好く、膨大な軍需物資の揚陸作業も順調に進み翌早朝に終了した。輸送船から用意して来た朝食もソコソコに、直ちに目的地に向かい行軍が始まった。

 真夏の南支は酷暑、それとも炎暑と表現した方が適切なのか。兎に角全身が燃える様に暑い。兵も軍馬もこの暑さと戦いながら、黙々と只管行軍を続けて居た。出発の時に用意して来た水筒もカラッポだ。止めど無く溢れ出る汗に喉はカラカラ。
 田にはボーフラが泳いで居る。ボーフラが居る田は毒を撒いて居ない証拠だ。ソンな勝手の良い解釈をして、兵も軍馬も皆、田水で渇きを癒やして居た。しかし、その内に腹痛が始まり猛烈な下痢が続き、体が嫌に怠い。

 溜り兼ねて衛生兵に薬をお願いした処、正露丸を足った5粒呉れた。私は責めて3日分位欲しかったので再度要請したら、腹痛を訴えて居るのはホボ全員の将兵で、前線には限られた量だけの薬しか無い「生水は決して飲むな」と注意され断られた。
 如何に妙薬でも足った5粒。一度だけの服用で治療する事は不可能だと思いながらも、どうする事も出来無かった。ヤガテ、体調不良を訴え野戦病院に収容される将兵が続出。軍馬も何頭かが熱中症や下痢を起こし、数頭が斃死すると言う最悪な事態に為り、それからは昼は木陰で休養を取り夜の行軍に切り替え、目的地「南寧」を目指した。戦争は弾丸の下だけでは無い、全く想定外の自然との厳しいもう一つの戦いが在る事を初めて知った。

 大陸の夏は暑く、戦野は途轍も無く広くその果てを知ら無い。皇軍はこの広大な戦野に敵を求め昼夜を問わず行軍を続ける。軍馬は重機関銃や重い弾薬を背負って兵と行動を共にする。日本の軍馬は暑さに想像以上に弱い。
 オーラ、オーラと優しい言葉を掛けながらの進軍、全身汗ビッショリの軍馬の手綱を引っ張っても、お尻を押して遣っても動こうとし無い、もう動け無いのだ軍馬も暑さに負けたのだ。重い荷物を下ろし、鞍を外し汗を拭って遣る。塩を舐めさせる水を飲ませる。疲れた身体で懸命に馬の介抱をする。戦争は「酷」の連続だ。

 将兵も軍馬も長途の行軍で疲れ果てた頃、敵と遭遇し激しい戦いが始まる。ヤガテ敵が敗退し、赫赫(かっかく)たる武勲と戦果を土産に前線基地へ戻る。多大な戦果は、我が軍にも掛け替えの無い尊い戦友の命との引き換えの上に成り立って居ると思うと、無念の涙が頬を伝わる。誠に悲しい限りである。
 南支の奥地「南寧」に前線基地を置いた我が軍は、幾度かの転戦・転進を繰り返しながら、何時しか広州市周辺に部隊を展開して居た。或る時「珠江」上流数10kmの「浮垾」の町に敵が兵力を増強しつつ有るとの情報を入手。この敵をせん滅すべく、我が部隊は深夜、隠密裡に敵地を目指し遡航して居た。

 2時間程経った頃、船団が突然停止した。干潮の為減水し航行不能に陥ったのだ。止む無く、潮の満ちる迄待つ事に為った。この間、日本軍が「浮垾」を目指し遡行中との情報が敵司令部に入手されて居るとは日本軍は知る由も無かった。潮が満ちて、再び遡航が始まったのは午前10時頃だった。
 黎明(れいめい)攻撃の予定が大幅に遅れ、敵地到着は正午の予定、それ迄に昼食を取る様命令が出た。飯盒を取り出し二口目を口に運ぼうとした時、突然敵の攻撃を受けた。

 私の乗っていた船は「建寧丸」と言い、水上1階・水面下2階の大型木造船で現地調達の物で、この船の、水上1階の窓際に乗って居た。窓を開けると敵の機関銃が火を吐いて居る。直ちに応戦、3発目を撃とうとしたら、轟音と共に船が傾き足が濡れて来た。
 撃ち方を辞め振り向くと船内は真っ赤な血の海、多数の将兵が入り混り、悶え苦しみ正に地獄絵そのままだった。これは大変だ危ないと、銃を船内に押し込み泳ぎ出した。振り向くとマストが水中に没する処で、この間僅か2〜3秒の出来事だった。

 フト見ると、前方に丸木舟が浮いて居て日本兵が乗って居る。私はこの舟を目指し泳ぎ着き助けられた。舟には櫓(ろ)も櫂(かい)も無く、素手で力を合わせ必死に漕ぎ続けた。「建寧丸」を沈めた敵は、私達の丸木舟に銃口を向け撃ち続ける。
 ボチャ、ボチャと敵弾が近くの水面で音を立てて居る。しかし、ユラユラ揺れ続けながら流れに乗って逃げる丸木舟は、幸いに被弾する事も無く無事対岸へ上陸する事が出来た。

 上流を眺めると、遥か彼方に黒煙が空を覆って居る。アノ下が「浮垾」だ。私達はその煙を目指した。5人は誰も武器を持って居ない。人目を避ける為、ワザと川岸の雑草を押し倒しながら歩き続けた。
 要約友軍と合流した時は、戦いが終わり夕食中だった。私達は居合わせた戦友から分けて貰い空腹を凌いだ。夜10時頃全員集合、戦果を部隊長に報告する時が来た。私は本隊と合流後、部下の所在を確認の為各中隊を訪ね必死に探し回った。しかし、無事の部下とは残念ながら出会え無かった。

 「第6分隊、総員5名現在員1名、4名は行方不明、終わり」

 部隊長は頷き、私の前を通り過ぎた。ヤガテ訓示が終わり解散と為り、背嚢を枕に横に為ったら一気に疲れが出て深い眠りに入り、戦友に起こされ目が覚めた。間も無く広州から「建寧丸」引き揚げの為、潜水夫や増援の兵士等が到着した。
 中隊長も急を聞き駆け付けて来た。私は戦闘経過を報告し、部下を失った事を陳謝した処、中隊長は、無言のママ肩を叩き「ご苦労であった」と労われ恐縮した。

 引き揚げ作業は干潮時で水面が下がって居た為、順調に収容・検体が進み、部下全員の遺体を引き取ったのは午後3時頃だった。私は応援に来た戦友の力を借り、部下を荼毘(だび)に付した。火勢が弱いと灰に為る。少しでも多くの骨を拾う為には強火で無ければ為ら無い。目を真っ赤に腫らしながら、不眠不休で翌早朝、焼き終え骨を拾い、広州の中隊に着いたのは作戦出発3日後の夕刻だった。

 「貴様何を考えているんだ」「元気を出せ、元気を」

 同僚の励ましの言葉も私の耳は聞き入れて呉れない。イッソあの時、部下と運命を共にすれば良かった。私だけが生き残った。自分が如何にも女々しく卑怯に思えて情け無かった。そんな沈んだ日々が続く或る夜、「何時までも悲しんで居たら散華した部下は浮かばれ無い。気を持ち直し元気を出せ、頑張れ」と誰かが励まして呉れて居る。目が覚めたら夢だった。私はこの夢を機に、再び元気を取り戻す事が出来た。

  昭和16年7月29日、宮部隊南部仏印に進駐した。間も無く「サイゴン」の港には日本から貨物船が連日到着する様に為り、将兵は膨大な量の軍需物資の揚陸作業に毎日汗を流して居た。
 この頃「サイゴン」の町は日本の兵士で溢れ、郊外のゴム林の中にはドラム缶の夥しい列が並び、軍需物資の梱包(こんぽう)は山と積まれる等、異様な雰囲気が漂って居た。

 近い内に何かが起こる・・・そんな噂が兵隊仲間で囁かれて居た。間も無くその噂は現実と為り、12月2日深夜、屯営を出発。密かにメコン河を渡り、軍用トラックで昼夜を分かたずカンボジア平野を走り続け、5日に「タイ」との国境の町「プノンペン」に到着、6日は何事も無く宿舎で長旅の疲れを癒やして居た。


 その2へつづく












2020年04月11日

日中戦争 一兵士の従軍記録 〜祖父の戦争を知る〜


 

 日中戦争 従軍記
 
 一兵士の従軍記録 〜祖父の戦争を知る〜


 〜一人の兵士が、戦場で書き記した日記が残されて居る。昭和9年から昭和20年迄、日中戦争から太平洋戦争迄の期間の内、3度に渉り従軍した述べ6年間の出来事が綴られて居る。
 そこには、激しい戦闘・厳しい軍隊での生活・兵士達の揺れる心等が克明に記録されて居る。日記を書いたのは山本武さん。ソコからは、一人の善良な農民が苛烈な戦場の中で、平然と人を殺せる兵士に変わって行く姿が浮かび上がって来る。
 武さんは、戦場でどの様な体験をし、戦後、その記録とどう向き合ったのか、そして、子や孫達は、その思いをどの様に受け止め様としたのだろうか〜


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              戦友と・・・中央が武さん

 武さん2度目の招集

 昭和12年、1937年7月7日 北京郊外の盧溝橋で起きた日中両軍の衝突を切っ掛けに、日本と中国は全面戦争に突入して行った。戦場は、ヤガテ中国全土へと拡大して行く。
 日本から、健康な男子が次々と兵士として招集されて行った。武さんが2度目に招集されたのは、昭和12年9月 当時24歳だった武さんは、町の青年会長を勤め、地域の若者のリーダー的存在だった。

 武さんの日記 「9月10日早朝、遂に私にも来た。所謂赤紙・召集令状である。この日の有る事を、早くから期して居る者に執って特別な感激も無く、悲惨な覚悟とても湧かない。全く淡々とした気持ちで、午前中は親子3人で稲刈りに出る。午後は辞めにして、予てから動員が降りたら、直ぐ知らせるからとの約束も有り、許婚のはるえの家を訪ねる」

 武さんは、陸軍歩兵36連隊に入隊した。武さんは、短期間の訓練を受けた後、凡そ1,000人の兵士達と共に中国を目指して出発した。

 苦戦する上海の戦況
  
 大阪から船に乗った36連隊の目的地は、日中が激しい戦闘を繰り返して居た上海だった。当時上海の日本軍は、中国の精鋭部隊に苦戦を強いられて居た。抗日の機運が高まる中で中国軍の兵士達の士気は旺盛だった。強固な陣地と日本軍を遥かに上回る兵力・中国軍の頑強な抵抗の前に戦線は膠着して居た。36連隊は、そうした戦況を打開する為の増援部隊として送り込まれたのだ。武さんは、上陸直後から戦争の厳しさに直面する。

 クリークに浮かぶ死体 砲弾の恐ろしさを書く日記 「9月30日、上海に上陸するや、落雷の如き砲弾の炸裂する轟音に先ず肝を冷やされる。重い背嚢を負い、汗と埃に塗れ乍ら行軍する。水筒の水は瞬く間に飲み干して、喉は渇き口中は粘る。左側のクリーク内至る所に、腐乱した敵兵が浮かんで居て、悪臭が鼻を突く。クリークの水は飲んではいけ無いとの再三の命令、構わず飲もうと思うが、死骸の浮いて居るのを見ると矢張り手が出無い」

 上海に上陸してから10日後、武さんは、初めて本格的な戦争を体験する。手記には、次々と戦死して行く戦友達の姿、どうする事も出来無い武さんの悲痛な思いが記されて居る。

 「10月9日、余りの事に驚き、茫然自失、冷水を浴びたる様な寒気を覚え、藪は重症危篤・川合は頭部を貫通され、ドンブリとヒックリ返る。鼻や耳から鮮血が迸り、脳みそも食み出て即死で有る。アア、何と悲惨なことであろうか。目前に数10名が亡く為り、或いは傷着いて倒れて居るが、収容する術が無く只悔し涙に咽ぶのみである」

 次々と死んで行く戦友達、武さんの心の中には、ヤガテ中国兵に対する怒りや憎しみが渦巻く様に為って行く。上海上陸から約2週間、激しい戦闘の後の束の間のひと時、武さんは故郷に思いを馳せる事があった。

 「10月13日、丁度1ヶ月前、はるえと二人で映画を見に行き、話し合った思い出の日である。狭い壕の中で、遥かな彼女の事を思ったり故郷の家族の顔を忍んだり、今頃は稲刈りでドンなに忙しい事だろう等と思いながら寝転んで居る。夜に入って、又迫撃砲の集中砲火を受ける」

 中国兵への憎しみの戦争実態

 一休みする日本軍・泥濘を歩き続ける・激化する市街戦・憎みても余り有る・・・武さんの部隊は、多くの戦死者を出しながらも、中国軍の陣地を一つズツ攻略して行った。武さんは、徐々に日常の感覚を失って行く。
 
 「10月14日、朝早く裏のクリークに飯盒炊さんに行く。クリークはドンより濁って青みガカッタ汚水であり、そこに段々腐乱して行く敵兵の屍が浮いて居り、それを向こう側に押し遣って水を汲み米を研ぐ。向こう側の兵は、その屍を、又コチラへ押し遣ると云った状態であり、内地では想像も出来無い事」

 武さんの部隊は、中国軍の防御の頼みとする河川やクリークを突破し、占領地域を広げて行った。それに伴い、捕虜と為る中国兵の数が多く為って行く。武さんは或る日、上官が捕虜を殺害する様子を目撃する。

 「11月1日午後8時過ぎ、部落に入り歩哨を立て一夜を明かす。夜半、中国軍正規兵1名を捕まえる。朝、小隊長が軍刀の試し切りをすると竹藪の中に連れて行き、白刃一閃閃き敵の首は斬り落ちるかと見て居たのに、手元が狂ったのか腕が拙いのか、刀は敵兵の頭に当たり血が出ただけで首は跳ば無い。慌てた小隊長殿は、刀を振るって滅多打ちにしヤッと殺す事が出来て、見て居た我々もホッとする。ヤガテ、冷たい雨がショボショボ振り出し、濡れた体には寒さが応える」

 「12月11日、地下室に、8名の敵兵が武装した姿で集まって居る。我々を見、銃剣を向けられるや、何ら抵抗せず両手を上げて降伏する」


 直ちに死刑執行 死刑執行で飯も美味しく  

 「調べてみると、この兵達は、田中分隊長を狙撃した奴等と判る。相談の結果、直ちに殺す事に決め、田中分隊長他の墓標の前に連れて行き死刑執行する。気持ち好い。夕食の時、皆に話した。俺は元来、極めて内気な恥ずかしがり屋で小心者だ。子供の頃、カエルや蛇1匹殺す事はしなかった。それが、誠に平気に出来るし、これで亡き戦友も浮かばれると思うと、後味が悪い処か返って気持ちが好く、飯も美味しく頂けるんだから、戦争とは、ドンなものをも悪魔にしてしまうんだナア」

 長男「親父は、とても優しい人でした。子煩悩で孫達も可愛がるし、近所にも、敵が出来る様な人ではありませんでした。一方、戦争では、人が遣っては為ら無い事も、遣ら無ければ行けない。人間とは、変わるものだな・・・或る意味ではショックでしたね」

 その後、武さんの部隊は、南京を攻略、徐州作戦に参加する。此処に中国軍の主力が終結して居ると察知して、日本軍は、これを包囲殲滅しようとした。日本軍は、民衆の支援を受けた中国軍のゲリラ戦に悩まされる。

 「5月16日、落伍者を残したママ、午前2時前進を開始する。半里も行かぬ内、平穏だと思って居た町は、砲弾の音で戦いが始まったらしい。敵兵が一斉蜂起して襲撃を始め、我が軍は悲惨な状態に或ると云う。この付近の一般の住民は、良民の様な姿をして居るが、家の中に銃を隠し持ち手榴弾も在るから、ヨクヨク注意する様伝えられる」

 武さんは、徐州作戦で体験した話を、晩年に至る迄、胸に秘めて居た。それは、兵士と民衆の見分けが着か無い為の、混乱した戦場で起きた悲劇だった。戦後30年以上経って武さんが話す事を躊躇した・・・戦場での最も苦い記憶。体験は日記の中に示されて居る・・・昭和13年5月20日、徐州郊外での出来事である。

 「午前8時頃、僅か3時間の睡眠で出発、山を越えて東方に向かう。途中、部落に火を放ち、敵の拠点と為るのを防ぐ。更に中隊長命により、農村と云えども女も子供も片っ端から突き殺す。残酷の極みなり。一度に、50人・60人・・・可愛い娘・無邪気な子供・・・泣き叫び手を合わせる・・・こんな無残な遣り方は、生まれて初めてだ。アア、戦争は嫌だ」

 長男 「親父が夜中に涙を流す事が有って、眠れ無い夜が有るんですよ。それは想像ですけど、思い出したく無い体験が、睡眠中に目を覚まさせるんだろうと思って居ます」

 戦後の手記執筆 手記にまとめる

 手記の自費出版  戦後、一農村の平和な生活に戻った武さん。しかし、武さんは、戦場から持ち帰った心の重荷から解き放たれる事は無かった。武さんは、辛い記憶と正面から向き合い、自らの体験を手記にマトメ始めたのは、中国から帰還して、凡そ30年後だった。
 当時、武さんは60歳を過ぎて居た。残された時間が尽きる前に、自分が体験した凄惨な戦場の事実を記録に留め無ければ為ら無い。武さんは、死の間際迄手記を書き続けた。「一兵士の従軍記録」武さんの手記を読み、その経験を重く受け止めた息子達は、戦争の実態を広く伝える為自費出版に踏み切った。

 5男「如何に戦争と云うものが、残酷で家族を崩壊し自分を抹殺してしまうものなのかを、知って貰いたいと云う気持ち。それを、我が子へ孫へ伝えて置きたいと云う心境だったんだと思います」

 長男「何故、公表したのかですが、そう云う事実が在ったと云う事が積み上げられて、正しい戦争に対する認識が何処かで育つ時に、この公表が価値を持つだろうと云う考え方ですね」

 女孫「アノお爺さんが、そんな事が出来只ろうか。考えられません」

 男孫「お爺さんが経験した悲惨さは、我々には判ら無い事なので、実際経験した人達が、口を開いて記録に残して呉れる事が増えれば、もう少し、戦争観が変わって来る気がするんですけどね」


 「月日の経つのは早いもの、もう6月だ。今田植えの最中で有ろうと国元を思う。爽やかな初夏の風が心地好く頬を撫で、沿線の田畑では丁度麦刈りの真っ最中、時たま水田が在って田植えに勤しんで居る。1ヵ月半前行軍した時は、部落民は殆ど見えず増して田畑で働く者等一度も見掛け無かったのに、漸く戦火が収まると、早速、麦刈り・田植えに精を出す農民達。私も、農民である以上同じ仲間として同情もし、戦争の中で生き抜く彼等に、敬意と激励を与えたいと思う」

 日中戦争前夜から、太平洋戦争終結迄、述べ6年間に及んだ武さんの戦争体験・・・それは、兵士としての責務を担わされた一人の農民の心の葛藤の日々でもあった。武さんが、戦場で書き続けた日記、その中に、中国人と筆談をしたと思われる文章が記されて居る。
 戦争は、日中両国に執って、最も不幸な出来事である。今後は、中国と日本は、共に和し共に発展して行くべきである。武さんは晩年、長い戦争と正面から向き合い、記録に残そうとした。子や孫達は、その思いを夫々に受け止め、武さんの記録を心に刻んで居る。


 作成者所感 一人の兵士が、戦場の中で日記を書き記すと云うだけで驚くべき事だ。その日記の中に、善良な農民・市民だった者が、平気で人を殺す様に変わって行く実態が赤裸々に記されている。
 韓国の討論会で「ベトナム戦争中、韓国軍が残虐行為を行ったのではないか」との質問に対し、退役軍人は「ゲリラ戦争だから、民間人を謝って殺したかも知れないが、過っての日本軍の様に組織的な虐殺とは違う」と強調したと云う。考えてみれば、原爆一発で何人の一般市民が亡く為っただろうか。
 戦争に為れば、結局は、兵士も住民も無い殺し合いに為らざるを得無いのだ。歴史的に見ても、戦争とはそう云うものだと云う事を、老いも若きも改めて認識したい。戦火の収まった後の、武さんの日記の穏やかなこと。


                   以上


 【管理人のひとこと】

 戦記を読むのは、管理人の様な年寄りだけなのだろう。私は、戦記・・・特に一線の兵士の戦争の体験を知りたいと、昔より我ながら関心が高かった思いがする。そんな昔の事・そんな苦しく忌まわしい事に何故興味を惹かれたのか・・・恐らく紀元前より人類は戦争と共に歩んで来た・・・それが歴史なのであり、その中の幾らかの時間だけの平和な時間を人類は過ごしたに過ぎ無いと考えるからであろう。
 威勢の好い為政者や統率者が、武力で偉大な帝国を築いた・・・その様な輝かしい歴史も、常に勝つ事は不可能なのが歴史であり、幾ら強大な国・為政者でも何時かは滅び次の時代へとバトンタッチされ歴史が紡がれて行く。ローマに然りモンゴルに然りナポレオンに然りだ。その間隙には必ず争いである戦争が存在する。戦争とは、破壊と創造を繰り返す輪廻の様な・・・在っては為ら無い麻薬の様なものだろう。常に意識しないと人類は争いが始まり自然に戦争へ向かってしまう・・・そう云う性癖が在るのだと自覚しないと為ら無い。意識しても起こるものだから敢えて「戦争は駄目だ」と自分にも周りにも意識させ無くては為ら無い。下手な愛国者は直ぐに「国を守る」「国の為に戦う」とほざくが真の勇者・愛国者は「絶対に戦っては為ら無い」と声を張り上げる人だけに資格が有る。





















日中戦争 従軍奇談 編集 真道重明氏



 
  日中戦争 従軍奇談 編集 真道重明氏 2002年3月

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 最終回 復員船中での異常な事態(コレラで死亡者続出 兵により裁かれる部隊長)
 
 我々が母国の日本へ帰還の為戦地の広州を離れたのは1946年の4月、乗船の為黄埔(蒋介石軍の黄埔軍官学校の在った地)の港迄徒歩で移動し、3,000名を収容したリバティ型の復員船に乗り、母国日本に帰還が叶ったのは5月初旬。
 しかし、懐かしい日本の山河を目前にして居るにも拘わらず、コレラ検疫の為久里浜港の沖に約1ヵ月も留め置かれた。要約連合軍の上陸許可が出て復員式を済ませ、郷里の熊本に辿り着いたのは翌月の6月であった。

 広州を離れて黄埔迄の移動・黄埔での乗船・航海中の復員船の中での異常な雰囲気・久里浜での復員完結・召集解除・・・故郷へ辿り着く迄の車中の出来事ナドナド・・・僅か2ヵ月足らずの間に実に思いも依らぬ色々な事が起こった。

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 通訳官として約7ヵ月勤務した、中国軍司令部に留め置かれる事も無く原隊に戻る事が出来、原隊も全員が待ちに待った復員船で母国日本へ帰る事が確実に為った時は、マルで「これは夢では無く真実の事だ」と皆心に言い聞かせた。
 客観的に言えば「戦争俘虜本国送還」である。背中に大きくPOWと書かれた衣服を羽織って居た者も軍服に着替えて居た。多くの兵はPOWの意味も知らずに,中には「恰好好い」と思って着て居た者も在ったが、 Prisoner Of War・捕虜の略号である。

 日本軍キャンプは捕虜収容所で有るが、誰もその様な言葉を口にはし無かった。敗戦を終戦と云うのと同じだ。このPOWと書かれた衣服を着て居る者も居たし着て居ない者も居た。中国軍は全員に着せようとしたが数が足り無かったのか「着たい者は着ろ」と言ったのか、その辺は隊を離れて司令部に居た私には分から無い。

 広州から黄埔迄の移動する時は、勿論日本軍は銃等は持たず、銃を持つ中国軍の少数の護衛兵が同行して居た。恐らく中国軍は所謂「北伐」即ち、当時日本軍が八路軍と呼んで居た北方の共産党軍と戦う為続々と北上を始めて居り、中国は内戦に突入しつつ在ったから、日本軍は早く処理したかったのではないか?大部隊の日本軍捕虜等に構っては居られ無い。それ処では無かったのでは無いかとも思われる。
 徒歩で隊伍を組んで移動する日本軍を見に沿道には中国の民衆が居た。多くの者は只黙って眺めて居たが、中には「チャンコロ」と罵声を移動部隊に浴びせるものも居た。

 日本人が中国人を罵る時に「チャンコロ」と言うので「チャンコロ」は「馬鹿野郎や間抜け野郎」と言った只の罵声と思って居たのだろう。コレを聞いた日本兵は半ば呆れて「オイ、チャンコロが俺達にチャンコロと言って居る。何だコリャ―」と一斉に笑い出す。
 私達を罵った中国人は「罵られて笑う」とはどう言う訳だろうと理解出来ないで呆気に取られて居る。本来、チャンコロは「清国人」の中国音が日本で訛ったものだと言う説が多く、元来蔑称では無いとも言われるが、実際には中国人を指す蔑称として使われて来た。

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 女は強いとツクズク感じた。広州から黄埔迄はそれ程の距離では無い。徒歩移動部隊はその間に中国軍による所持品検査に3回引っ掛かった。移動部隊の中には従軍看護婦も居た。1回検査が有る毎に毛布や石鹸・衣類等日用品の余分なものは没収されてドンドン減って行く。
 背嚢は小さいので大型のリュックを背負って居た。男はそれだけだが、従軍看護婦は背負子の様な台枠の付いたものを背中に負い男の3倍の量の物資を抱え込んで居た。それだけでは無い、持ち切れ無い者は傍に居る兵に代わりに持って呉れと頼む。鼻の下の長い兵の内には引き受ける奴も居る。

 中国軍の検査係も、看護婦が微笑むと何も没収し無いで談笑して居る。男は何か渡して中国兵からタバコ等を受け取って居る。女は生活能力が有ると今更ながら思い知った。黄埔に着いた時には所持品の量の差は歴然として居た。
 検査係の中国兵は一つでも多く没収しようとしたが、此方が「コレは生活必需品だ」と抗議すると、中国軍の上官は「給他們用」(彼等に使用させよ、即ち没収するな)と係の兵に命じる場面が好く有った。戦争国際法での捕虜対応の規定がどう為って居るかは知ら無いが、この言葉は胸に残り感謝している。

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             従軍看護婦さんか・・・ご苦労様でした

 黄埔には3日〜4日ばかり居て復員船への乗船を待ったが、部隊内にコレラ患者が発生した。コレラの発生は南方では珍しい事では無く当時フィリピン等には年中在ったが、香港や広東省でも営外の一般社会では頻繁に見られた。
 日本軍では加熱しない食事等は絶対無かったし、外出しても「生まもの」の水・氷・アイスクリーム等を口にする事は厳禁されて居たので、軍に罹患者が出る等の話は聞いた事も無かった。しかし、黄埔での生活環境では衛生管理が不完全と言うより、空腹に耐え兼ねて「生もの」の食材を盗み食いする事が、コレラ患者発生の原因だった。

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 1〜2名のコレラ罹患者が確認されるや否や、軍医から緊急の厳しい指示があって、各隊の責任将校から全員に厳重な通告が為された。食糧貯蔵所の側を通り懸かった私は全く偶然にも、先程注意を呼び掛けた当の大尉その本人が生の馬鈴薯を噛って居る処を見掛けた。周りには誰も居なかった。将校・下士官・兵総て食事は同じものを同じ場所で食べる。彼も余程腹を空かして居たのだろう。昼過ぎに症状が出て翌朝死亡した。
 私は彼の名誉の為目撃した事は黙って居たが、内心ではその天罰?覿面(てきめん)さには驚いた。各人の健康状態は左程悪いとは見受けられ無かったが、栄養状態は食料不足の為多少悪かったのは事実である。それにしても彼の命は母国帰還を目前にして実に呆気無い結末を迎えた。

 コレラ蔓延で事態が急激に悪化したのは、復員船が久里浜沖に到着してからである。それ迄の罹患死亡者は三千人中に僅か十名足らずで在った。航海中の船中では鉄扉の食糧庫は施錠されて居たから問題は無かった。海水で顔を洗ったり歯を磨いても良かった。
 危機は久里浜沖に着いてからである。コレラ患者の人数が爆発的に増えた。軍医からの「絶対に海水で歯を磨くな」と云う警告を無視する者が増えたのである。
 飲料用の真水は最小限に抑えられて居たし、陸からの給水も無かったので歯磨きに使うだけの余裕は無い。海水は自由に使えたが手足や身体を拭くだけにしか使えず「歯は絶対に磨くな」の警告が出されて居た。顔を洗えず歯も磨け無い事は野戦では常にある。皆経験済みである。

 母国の山河を目の前に見て気が緩んだのだろうか?航海中に海水で歯を磨いて何でも無かったのに何故久里浜での洗顔・うがい・歯磨きが禁止されるのか?多分大した事は無い大丈夫だと思ったのだろう。
 コレラ菌は、海水には強く菌は増え無い迄も死な無い。南方から引き上げて来る船の殆どは、コレラ患者が居り、当時の久里浜の海はコレラ菌で充満して居たのである。私達の船も患者数は僅か数日の間に一挙に百名を超え、益々増え続けた。患者は発症後の僅か半日で死亡すると云う緊急事態と為った。

 コレラは余程悪性の菌でも普通は罹患者は2日位は生きて居る。半日で死亡するのは栄養状態が悪く、身体の抵抗力が無かったからだと言われて居る。蚕棚の様に為った所に荷物と共に一人一畳足らずの生活空間である。大佐だった部隊長も同じ環境で在る。患者と枕を並べて寝るのは実に不気味であった。
 患者数が多く、隔離室を設ける事はギュウギュウ詰の復員船では不可能で在った。2〜3回トイレに行き、後は脱水症状で横に為った限歩く力も無く為る。軍医や衛生兵が面倒を見るには人数が多過ぎる。12時間以内にはその患者はホボ確実に死亡する。

 内地から来た船員が患者の死体と荷物を運びに遣って来る物音に夜半目が覚める事も多かった。患者が私の位置から一人置いた隣りだったりすると、その不気味さは尚更である。平時であれば陸上の隔離伝染病棟に収容されるのだろうが、沖には十数隻の引き揚げ船や復員船が犇めき、何れも二千名から三千名の乗船者が乗って居る。
 占領軍の指示か日本政府の規則か知ら無いが、ワクチン注射と毎日の検便がある。全員の検便結果が陰性に為ら無いと上陸は許可され無い。後で聞いた話だがワクチンは栄養失調者には無意味で抗体が出来無いらしい。

 船から日本の民家や人々が歩く姿を毎日見ていながら、三千人近い全員が陰性に為る日を只待つだけの日々を船の中で約1ヵ月過ごした。一体何名がコレラで死亡したか分から無いが、死体を陸に運ぶボートが毎日数回は船と陸との間を往復して居たから、可成り多くの人数だった事は想像に難く無い。母国を目の前に死んだ人達はサゾ無念だったろうと思うと胸が痛く為る。

 下士官と兵ばかりで、将校が一人も乗船して居ない船が1隻ポツンと離れて沖に停泊して居た。もう久里浜沖に4ヵ月も留め置かれ上陸許可が出無いと言う。南方からの復員船である。将校全員は航海中に海に投げ込まれたと言う。コレラ騒ぎでは無い。
 占領軍は事態の異常さを重視し、取り調べが続いて居ると言う。この噂は毎日陸と連絡して居る舟艇の乗組員から聞かされた。私達には「何が有ったのか?」の見当は直ぐ付いた。その船の場合程過激では無かったが、似た様な事が航海中の私達の船でも起こって居たからである。

 黄埔を出航して数日目、大佐だった部隊長の行李(部隊長だけはどう言う理由か知ら無いが行李を所持して居た)の中味が私物であり、しかも、金製品や象牙の麻雀牌で有る事が分かった。これが切っ掛けと為って騒動が持ち上がった。
 召集解除で軍役を離れる迄一応の軍律は守られて来たとも言えるが、これは集団行動を維持する為の最小限の規律であって、上官侮辱罪等の考えは何処かに吹っ飛んでしまって居た。

 第一、全員が階級章を付けて居ないのである。良く「勝手な事をして部下を苛めた上官は、白兵戦で背後に居る部下から撃たれた」と言う話が有るが、将校・下士官を問わず威張って兵に勝手な私用の仕事を強制させたり、理由無く部下を苛めて憂さ晴らしをする様な人間は、この世の何処にでも居るものである。「何時か腹一杯殴って遣ろう」と内心では肚に据え兼ねて居る兵は沢山居た。
 下克上と言うか、人民裁判と云うか、部隊長の木製の箱である「行李を水葬礼にしろ」「俺達に毎日褌を洗わせた某中尉は俺達に謝れ」等と言い出す兵が続出し始めた。結局、東大法科出身の兵が裁判長と為って船内(人民)法廷が開かれる事と為り、大佐や中佐等が7〜8名が雛壇(被告席)に座らされる羽目と為った。

 「帽子を取れ」「頭の下げ方が足らん」等の兵の怒号の中で、土下座して謝罪の言葉を言わされた。告発文や判決文はナカナカ堂に入ったものであった。例の行李は甲板上の大勢の環視の中、数名の兵に依って儀式めいた仕草により海中に放り込まれた。
 勿論、部隊長はそれを見守る位置に立たされて居た。将校全員が海に投げ込まれたと言う上記の場合より遥かに温和な経緯では有ったが、集団の感情が激昂すると何が起こるか分から無い恐ろしさを感じた。

 マラリアの再発(召集解除で軍役を終り帰郷する車中での出来事) 

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 約1ヵ月経って遂に待ちに待った上陸許可が出た。上陸した岸壁から宿舎に為った兵舎迄は、各自の荷物と共にトラックで移動した。トラックが街角で急カーブを切った時、高く満載された荷物の上に乗った将兵が数名路上に振り落とされた。
 可成りの高さからの転落である。幸い誰も一つのカスリ傷も負わず「けろっ」としてその車に掻け登った。道端で眺めて居た町の人々は驚き「流石は兵隊さんだ」と驚いて居た。私もその一人だったから良く憶えて居る。

 宿舎ではクレゾール臭のぷんぷんする生温い風呂に入れられた。風呂と云うより隊列を組んで向こう側迄お湯の中をユックリと横断する様に歩かされた。石鹸で洗う暇等無い。終わると一人3分間位の間隔で次々とバリカンによる散髪が待って居た。
 船中で配られた数葉のハガキを家に出して居た私の場合、本籍地の役場から、ハガキで「一家は出征した時の住居から郷里に疎開し、その役場の近くに居る。連絡して置いた」との返事。宿舎では家からの手紙が届けられて居り「皆無事、帰宅を待っている」との返事を受け取って居た。中には連絡が付かずヤキモキして居る気の毒な人々も居た。

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 久里浜の宿舎には3〜4日居て、形ばかりの復員式と軍歴の書類作りが行われた。3ヵ月だか6ヵ月だか忘れたが、国鉄(当時は進駐軍の管理下にありRTOと呼ばれて居た)の汽車の乗車賃は免除される証明書が全員に渡され、当座の費用としての「涙金」が出た。
 宿舎から久里浜駅迄の道には多くの屋台が軒を連ね、煙草・おでん・飴玉・ラムネ等を売って居た。その風景はこの歳に為っても未だにハッキリ憶えて居る。米国の煙草を買おうとしたら「コレば煙草じゃ無い。シガレットと言うんだ」と売る小母さんに教えられた。「洋モク」と云う言葉はズッと後に為って知った。受け取った涙金は見る見る内に減って行った。

 船中での人民裁判の「シコリ」は未だ残って居た。私達が駅に着いた時、数名の南瓜の様な顔をした人が駅舎の隅に座って居た。彼等は昨夜兵からリンチを受け南瓜の顔は殴られてボコボコに為って居たのである。酷い話だが宿舎の責任者も事態を制御する事は出来無かった様だ。

 何処でどう乗り換えたかは記憶は今では定かでは無いが、兎に角私は東海道線に乗り郷里の熊本に向かった。旅客の8割は普通の人々で、将兵は2割位乗って居た様に記憶する。列車は総て超満員で、窓ガラスが無い処も多くベニヤ板で塞いであった。駅弁を買ったら海藻麺を塩辛い醤油で煮たものが入って居た。腰掛ける座席も無く立った侭喰った。
 静岡を過ぎた頃、私の体調が変に為った。マラリヤだと自分ではハッキリ分かって居た。顔が赤く為り42度位の発熱である。広州に居た将兵は殆どが罹患の経験を持って居る。熱帯に近い広東省は3日熱・4日熱・その混合型等数有るマラリア症状の中でも性が悪い。軍隊では塩酸キニーネや硫酸キニーネの錠剤は定期的に飲まされて居た。

 マラリアの発熱は体温が非常に高いが脳に来る事は無い。40度以上の発熱状態中でも将兵は馬に乗って行軍出来る。2〜3時間で発熱が引くと、恐ろしい寒気がして後、ケロッと治る。キニーネの錠剤を指示通り数日服用すると、次回の発熱は倍々と間隔が伸びる。私の場合は次回の発熱は3年後の筈であった。
 「間の悪い時に出たな」とは思ったが、こればかりはどうしようも無い。錠剤は病歴の有る者は沢山用意されて居て配給して貰って居たので、直ぐ服用し車内に立った侭我慢して居た。旅客の一人が私の顔が赤いのに気付き、手を私の額に当て42度の高温に驚き直ぐ3人が座席を譲って呉れ「横に為りなさい」と言って呉れた。「座らせて貰うだけで良いのです。マラリアですから」と答え座らせて貰った。皆の親切は嬉しかったが、マラリアを知ら無い人は「こんな高熱は只事では無い。死ぬのではないか?」と心配した様だ。

 郷里の家に着いたのは1946年6月下旬である。
 23 Nov. 1990 記 ( 完 )









 【管理人のひとこと】

 筆者は、直接の戦闘員では無かったので、色々な危機を潜り抜け病にも打ち勝って復員される事が出来た様です・・・心からご苦労様と申し上げたい。最後に赤痢とコレラの恐ろしさを知らせれました。そして、船内での感染が如何に凄まじいもので致死率が高く為るのも頷けます。そしてマラリアの後遺症も・・・全ては免疫を持たれたので対処が可能だったのでしょう。
 今回の新型コロナウィルスも「戦争状態」と形容する人が多く居ます。人類は過去に何度も未知の感染症で多大な犠牲を請けた歴史が有ります。人類は何度も苦難を生き残り現在まで生存し続けたのですが、未来も含め今後何時如何なるウィルスに遭遇するかは必然です。地震や台風と同じ災害ですが、目に見えぬ恐怖を克服するのは並大抵の努力では為されないものです・・・一日も早い回復を祈って居ります。
















 

日中戦争 従軍奇談 編集 真道重明氏  その5




 日中戦争 従軍奇談 編集 真道重明氏 2002年3月

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 北から南下して来た中国軍と広東語 北京語の1は広東語の2) 

 前項で市場での買い物の話が出たので思い出した逸話を述べよう。広大な中国には多くの方言がある。知ったか振りをして専門家に怒られそうだが、私の乏しい知識でも、特に長江(揚子江)以南は代表的な言葉だけでも、福建省南部のミンナン語(台湾人の多くもこの言葉を話す)・潮州(汕頭語)・広東語(香港人もこの言葉を話す)などがある。漢字で書けば同じ語句でも発音が全く違う。戦前の中国では北京人と広東人は英語で話し合うことが普通だったそうである。

 私が60年前に東京外語の専修科で習ったのは北京官話で、広東語は数回の概要説明を受講しただけである。後は現地の広州で耳から憶えた片言だけ。ミンナン語や潮州語は度々耳にする経験はあったが何のことだかサッパリ分からない。
 中国軍司令部で勤務中、面白かったのは数詞である。日本敗戦後に広州に入ってきた中国軍の多くは雲南省から南下してきた軍隊で中国北方の各省出身者が多かった。彼等は軍隊内では北京語を使う。北京語の1、2、3、・・・はご承知のように、イー・アル・サン、・・・である。
 広東語では、ヤッ、イー、サン、・・・である。問題はイーで、北京語では1を意味するが、広東語では2を意味する。厳密には広東語のイーは低く平らな声調であるが、実際の現場の会話ではそんなことはどうでも良い。少し訛っていようがいまいが「通じるかどうか」である。

 南下してきた兵隊が広州の店で「一つ呉れ」と「イーゴ」と言うと、店では二つと思って2個出す。「おい、一つだ」と「イーゴ」を繰り返す。店では「はい。2個」と言って出した二つを指差す。「解らんヤツだな」と言い争いになる。この言い争いの場面にはしばしば出会ったのでよく憶えている。
 北京語で2個の場合は「両個、リャンゴ」と言うし、広東語でも「リョンコ」と言うので、何となく分かる。1個の場合に揉めるのである。

 中華人民共和国が1949年末に成立してからは、普通話(プートンホワ、普く通ずる、言葉、すなわち共通語、北京語を基準に各方言を話す人々にも発音し易くした標準語)が普及したから英語で話す必要は無くなった。しかし、その前に日中戦争や引き続く内乱により他省の兵隊が各地を大移動したことも大きく言葉を統一するのに役だったのではないかと思っている。 

 私が目撃した銃殺刑と鞭打ちの刑(中国軍により処刑された便衣隊の末路)

 日本軍が戦闘を停止した時点では中国軍正規部隊はまだ雲南省から南下して広州に向かっている最中で、広州市には正規軍は居らず無政府状態であった。警察は機能せず、真っ先に乗りこんで来たのは、いわゆる、「便衣隊」(日中戦争時、平服を着て敵の占領地に潜入し、後方攪乱を行った中国人のグループ)である。便衣隊にはさまざまあって、中国軍の指示統制下に在る本物から、戦乱のどさくさに紛れて火事場泥棒的な「ごろつき」集団も多かった。

 広州市内に入ってきていきなり橋の袂に立て札を立て「渡橋税」を徴集する。四つ辻で「通行税」を取る。竹竿の天秤棒で野菜を市場に運んでいる農民で銭のない者からは野菜の「南瓜を3箇置いて行け」と命じる・・・と言った具合である。武器を持っているから逆らえない。日本兵に対しては丸腰で居るにも拘わらず、むしろ避けるように何もしない。戦勝に一時喜んだ市民もこれには困惑して居た。
 中国の正規軍が未だ到着しない間の無政府状態は私がこの眼で見た限りは略奪や暴行と言った事態はそれ程起こらなかった。もっとも私が知らないところでは何があったかは分からない。在留邦人などが暴行や略奪を受けたと言う噂は聞いたが、その現場を私が眼にしたことは無かった。ただし、ごろつき的な便衣隊の眼に余る行動はしばしばこの眼で見た。

 中国正規軍が入ってきてからは、民衆の告訴があったのであろう。これらの「ごろつき的便衣隊」の一斉捜索が行われ、数名が拘束され軍法会議で銃殺刑が宣告されたことを司令部で聞いた。「明日処刑される。見に行かないか?」と誘われた。
 野原に数本の身長よりやや高い杭が立てられ、黒い便衣の被告が目隠しをされて後ろ手を縛られ、十字架ではなくただ一本の杭に括り付けられていた。覚悟を決めているのか泣き叫ぶ様子など全く無かった。我々は200 m ぐらい離れた位置で中国軍司令部の同僚?達と眺めていた。見せしめの意図もあったのだろう、民衆多数も遠巻きに眺めていた。投石する者も居たが遠くて届かない。

 14名ばかりの中国軍の兵士が6〜7名の処刑者の前20 m ばかりの位置に「立ち撃ち」の構えで立っていた。「撃て」の命令一下、銃声が轟いた途端、処刑者は崩れ落ちると言うよりも、杭に括った紐が切れたのか、一斉に棒が倒れるように地面に横倒しになった。杭だけがその侭残って居た。総ては呆気なく終わった。

 鞭打ちの刑罰 日本軍には外出時の帰営時間に遅れるなど規則に違反した者には営倉や重営倉などの処罰規定があったが、「鞭打ちの刑」と言うのは無かった。鞭打ち刑は日本の江戸時代以前にはあったし、世界各国に今でも数多く存在する。人権を守る国際救援機構(Amnesty International)などではこの身体刑に強く反対しているのはご承知の通り。また、先年シンガポールの法廷で麻薬密売の罪で告発された米人の事件で、鞭打ち刑が言い渡され、「野蛮だ」と米国は反対したが同政府は無視し実行されたニュースは世界を駆け巡った。

 今はどうだか知らないが、英国の小学校の教室の背後の壁にはお尻を叩くための鞭がもっともらしく懸けてあったと聞くし、タイ国の田舎の民家には淡水エイのギザギザのある尻尾の鞭が飾ってあるのを見た。言うことを聞かない子供は親が「これで叩くぞ」という脅しである。実際に使われるところは見たことは無いと友人は笑っていた。

 話を本題に戻す。私は二階の部屋の窓から処刑現場を見下ろして居た。一枚の筵が拡げられ受刑者の兵は上半身裸で俯きに横たわるように命じられた。傍らには回数を数える役目の兵、鞭を持って叩く役目の兵が横たわった兵の足元に立った。
 始まると、勘定係が大声でゆっくりと回数を叫ぶ。立て続けに叩くのではなく時間間隔はかなり充分に間合いを取って行われる。叩かれる側の受刑者は一回毎にこれ亦大声で「ああー」と叫ぶ。苦痛に耐えきれず呻くようでもあり、逆に芝居か一種の儀式のようでもある。時間が無かったので私は最後まで見届けることは出来ず、窓辺から立ち去ったが、私以外に数名の司令部の将兵が見て居たが、その他には誰も見る者は居なかったように記憶している。 

 日本の軍服を着た中国兵 (日本人と中国人とは外見での区別は全く不可能)

 多くの日本人のなかには中国(韓国)人の写真や映像を見て「この手の顔つきは確かに中国(韓国)人だ」と言う人達が居る。これはその人が勝手にイメージを作り上げて居るのであって、私は中国(韓国)人と日本人を風貌から判別することは出来ないと常々思っていた。
 子供の頃、親戚の夫妻が当時日本の植民地だった朝鮮に旅行し、半ば冗談で記念として朝鮮の民族衣装を着て撮った写真が1枚自宅のアルバムに貼ってあった。夫妻を知らない他人に「誰かこの人を知っているか?」と尋ねると、勿論「知らない」と言う。「誰誰だ」と説明すると「その夫妻は揃って半島人(朝鮮人のことを指す)に似た顔つきだなー」と言う。写真を見る迄にそんなことを言う人は一人も居なかった。子供心に「馬子にも衣装」の一種だと思った。

 日本の敗戦により雲南省などから広東省の広州にやって来た時の中国軍兵士の服装は継ぎ剥ぎだらけ、中には軍靴の無い者も居たらしい。補給も侭ならぬ長途の徒歩行軍であり無理もない。日本軍の倉庫に未だ数年は戦える武器弾薬・被服など充分の備蓄があり、私達司令部での通訳勤務要員が立ち会った引き渡し交渉で余分な新品の大量の被服は中国軍に渡された。中国軍の兵士は早速この新品の日本兵の軍装に着替えた。此処からが問題である。
 戦闘を停止した日本軍のキャンプと移動して来た中国軍のキャンプとは、場所によっては簡単な柵を隔てて区切られている処も多かった。双方の出入り口には弾を込めた銃を持つ衛兵が立っている。日本軍の出入り口にも治安維持と自衛用の弾丸を装填した99式歩兵銃を持つ複哨が立っている。

 一夜にして日本軍のキャンプが幾つも増えた感じである。日本の軍服に着替えた中国軍の兵士は日本軍兵士とそっくりである。ただ異なる点は軍帽に付けた徽章だけ。これは小さいから遠目には分からない。言葉が通じないから柵を隔てて身振り手振りで話し合う光景は余り無かったが、用件があって柵を出てすれ違う場面はある。夜間は尚更区別が付かない。兵士同士が争うような事態は全くといってよい程なかったが、どちらだか区別できないのは双方とも困惑する。
 話し合いの末、色違いの腕章を着けて識別することになった。私が中国軍の兵士に尋ねたところでは、「話せば直ぐ分かるが、ただ見ただけではさっぱり区別できない」と言う。

北方の中国人は背が高く、南方の人は背が低く短気で、日本人により似ているとよく言われる。私もそんな気がしないでも無い。しかし、北方人にもせが低い人もあり、南方人にも背が高く短気で無い人もある。最近のDNA鑑定ではいざ知らず、個人を識別することは先ず絶対に不可能で有ることをまざまざと知らされた。


 最終回につづく














日中戦争 従軍従軍奇談 その4  



 
 
  日中戦争 従軍奇談 編集 真道重明氏 2002年3月

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 その4 敵軍だった司令部へ通訳官として転属(佐官待遇で迎えて呉れた中国軍)

 広州市に居た航空に関係して居た情報隊等に属する日本兵の中から私を含め5名が選ばれた。本来転属とは同じ指揮系統下に在る者の転勤である。指揮系統の異なる、増してや今迄敵軍だった処への転属命令は恐らく前例の無い異例の措置だとは思ったが、理屈を言って居る場合では無い。碌な指示も無いママ急遽中国空軍司令部に赴いた。

 司令部には門衛の中国兵が居たが、前以て指示が在ったのだろう。門は直ぐ通して呉れた。奥から現れた中国軍の上級将校に対し、正面玄関の前に整列して、申告(仁義を切ると言うか、兎に角挨拶)し無ければ為ら無い。一体どう言ったら好いのか、中国の軍隊用語等誰も分から無い。
 日本軍の転属の場合と同じ意味なら良かろう。「我們5個人奉日軍命令出差・・・・・・現在到達這裏了」と我が方の5人の中の年配者が言った様に記憶する。一人一人姓名を北京語で告げ「礼」と叫んで我等は挙手礼をした。

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                  日中両軍の兵士像

 これを聞いた空軍の上級将校は、挙手礼を返し笑顔で肯いて居たから意志は通じたのであろう。「労駕、労駕」(ご苦労さん)と言い、皆に部屋を用意して在るから、チョット休み為さいと付け加えた。
 此処の様に書くと何でも無い様だが、此方は丸腰相手は拳銃を腰に付けて居る。我々は心理的には極度に緊張して居た。兎に角今迄は敵軍だった司令部である。一体どの様な生活環境に置かれるのか?厠所(トイレ)の脇の小部屋にでも押し込まれるのだろうか?言葉はどの位通じるのだろうか?

 我々の目付きや顔色で先方も我々の緊張を察したのであろう。最後の「休息一下」(チョット休め)の一言に温情を感じ、先行きの局面を悪く悪く考えた場合の悪夢の様な状況には多分陥ら無いだろうとの期待感を持った。
 我々に与えられた部屋は寝室と詰め所で、他の司令部の人達と同じ食事も同じ、只食べるのは中国軍の将校の食堂では無く詰め所の部屋に兵が運んで来て呉れた。我々にはコノ方が楽だったし、先方も我々が居たのでは、多少言葉が分かるから用心したのかも知れ無い。

 今迄の日常生活と違うのは風呂が無かった事である。朝の起床時と夕刻の2回、所謂全身の冷水摩擦を実に念入りに行って居た。私達もそれに倣った。感心したのは洗面器3〜- 4杯の水で事を済ませる。風呂よりはズット少量の水で済み、身体は清潔に保たれて居た。
 中国に風呂が無い訳では無い。北京の精華園浴池等は数千年の歴史が有る浴場だと聞いた事があるし、多くの街で浴池(銭湯)と書いた看板は見掛けたが、どうも日本人は世界で一番風呂好き。しかも40度近い熱湯に入るのは日本人だけだろうと私は勝手に思って居る。野戦ではそうは風呂に入れ無い。この点中国軍は風呂に入る機会が無い事をそれ程苦にはして居ない。その代わり少量の水で身体を清める方法は実に巧みである。

 後年、私は浙江省の田舎の県の招待所(政府関係者の宿泊施設)で2週間ばかり生活する経験を数度したが、この時私には特別に大きな魔法瓶に4杯の熱湯を用意して呉れた。他の人々は1〜2杯で済ませて居た。湯上がり後にタオルで濡れた身体の水滴を拭き取るのでは無く、実に入念に摩擦する。環境の差による生活の知恵であろう。この事を私は中国軍から修得して居たので、風呂の無いのは苦には為ら無かった。

 閑話休題、話を戻す。司令部の家屋はスペイン様式に似た建物で広い中庭を取り巻く様に沢山の大きな部屋が配置されて居た。我々の部屋や詰め所はその一隅に在った。我々5名の内2名は中国で生れ育った経歴を持ち北京語は良く出来た。
 3名は学校で習ったが実践経験は無かった。但し一人は上海の東亜同文書院に在学中応召されたので上海方言も可成り出来た。私等が最も実力が無かった。

 寝ても覚めても中国語ばかり、日本人同士でも無意識に中国語で喋る事が多く為った。夢の中でも喋って居た。不思議と夢の中ではスラスラと行く。目が覚めた途端に苦難の連続である。今から考えると、コノ時が一番言葉が身に付き上達した様に思う。
 中国軍は北京語を話して居たが、出身地の訛りが有って最初の内は聴き取り難い人も多かった。しかし次第に何とは無く聞き取れる様に為った。

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           国民党軍は過去にドイツの軍事指導を受けて居た・・・

 司令部での私達の将兵としての階級であるが、これが又意外であった。彼等から見れば私達は敵軍だった者達である。精々臨時雇用の要員として処遇されれば良い方だと思って居た。「貴方達は停戦に為った今では敵では無い。中国軍司令部で勤務する以上、臨時措置として日本軍での地位と同等の立場で処遇する」と告げられた。
 当時の中国軍(国民党軍)では陸海空三軍の内で空軍だけは1ランク高い。名称は違うが、例えば空軍の少尉は陸海軍では少佐に該当する。空軍ではより高度な知識や技術が必要な為と考えられて居た為であろう。事実空軍将校の殆どは少なくも或る程度の初歩的な英会話位は出来る人達であった。
 従ってポツダム少尉の私は、中国陸軍の階級では少佐に当たる訳である。これは、しかし形式上の事で、私達は階級章を付ける訳でも無く軍帽の徽章も日本軍の侭である。靴も日本陸軍航空隊の短長靴を履いて居た。腕に「中国空軍司令部」と書いた腕章を着けて居るだけであった。

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               中国空軍 アメリカの援助で組織

 通訳の仕事の内容は千差万別、正に「何でも有り」だった。日本軍キャンプや在留邦人収容所等に関する中国軍との折衝・収容所内部で良く日本人同士の発砲事件が在った。中国軍の治安要員と共に直ぐ出向いて調査や解決の交渉に立ち会った。
 又中国軍人がマラリア等に罹患した場合、日本軍の軍医が技術・薬品等遥かに勝って居たから治療の要請があると、出掛けて行って立ち会う事に為る。

 時々はその日の仕事が終わると一緒に出向いた中国軍高級将校が司令部に戻る前に寄り道して彼女に会うのに付き合わされる。「花姑娘(娼妓)か?」と聞くと「嫌、友人の小姐(お嬢さん)だ」と言ってニヤニヤ笑って居る。或る時等3〜4人車に乗り込んで来て姦しい。「俺には米人の友人が5名居る」等と言って彼女等の気を引こうとする。彼女等は明らかに高級娼婦である。彼も人の子である。
 日本軍の収容キャンプの食糧買い出しの世話等は最も楽だった。日本が負ける迄は日本語で通じた市場も日本が負けたと為った途端に通じ無く為る。日本語の理解出来る市場の商人の姿を見掛ける事が少無く為ったし、理解してもワザと分から無い振りをする商人も居た。

 日本軍と親しい経歴が有ると戦勝国である中国軍から「漢奸」(敵に通じる者・裏切者・売国奴)の疑いを掛けられる事を怖れての事である。銭を持って居ても買い物すら儘為ら無い。負け戦はしたく無いものだとツクズク思った。
 拳銃は所持して居なかったが「中国軍司令部」と書いた腕章を私は付けて居たので、市場商人の私個人に対する態度は買い出しの日本兵とは全く違って居た。「安くして遣れ」と北京語で言うと、広東語で「系、系」(ハイ ・ハイ、広東語では偶然にも日本語の「はい」はハイと発音する。漢字は「系」と書く)と笑顔で答えて呉れる。

 中国軍から外出許可を取ってキャンプから食糧買い出しに来た日本の兵士は銭が無いから安価な豆腐の「おから」を良く買った。肥猪菜(豚が肥える餌)と書いて在った。豚は何匹飼って居るか?と聞かれ、日本兵は十匹と答え苦笑して居た。売り手は日本の兵隊が食う事を察して居て半ば揶揄して居るのだ。半ばと言うのは彼等広東人も「おから」は良く食べて居たのだから。
 負けた日本軍兵士ではあっても市場商人に捕っては顧客である。支払いの銭を渡すと「多謝(トウチェ・有難う。広東語)と言う。この辺は大らかで、日本仔(ヤップンチャイ・日本人を呼ぶ侮蔑語・広東語)と言う言葉を日本兵に投げ付ける者は居無かった。

 此処で日本軍の居たキャンプの事を少し述べたい。ハッキリ言って捕虜収容所である訳だが、実態は半ば軟禁状態と言った方が適切で、自己防衛に必要な銃器等は未だ当時の日本軍は所持して居た。ジュネーブ協定に基づく戦争国際法ではどう為って居るのか知ら無いが、日本軍は未だ可成りの戦闘能力を保持して居るにも拘わらず、天皇の命令に依って戦闘行為を停止したのであって、軍規も統率が良く取れて居た。
 雲南省から南下して来た中国軍は装備・被服・食糧等凡ゆる面で日本軍に較べ見劣りして居た。聯合国側に居たから戦勝国と為った訳で、その事は中国軍幹部も充分承知して居た。

 対処を一つ間違えば、恭順を示して居る日本軍が停戦命令を無視して暴発し抗戦に出る可能性は充分に在った。この様な状況下に在った為、取り敢えず日本軍には或る程度の自衛権とキャンプの生活には可成りの自治権を中国軍は認めて居たのだと思う。
 通訳勤務で一番緊張する仕事は日本軍の持って居た武器や被服等の「引き渡し」中国軍側から言えば「接収」の交渉に立ち会う時である。日本軍の倉庫には南支派遣軍は停戦時に、未だ3年位は戦える軍需物資を温存して居た。

 ジュネーブ協定の「戦争国際法」等私は知る由も無いが、日本側の高級将校も余り良くは知ら無い。交渉は兵舎で行われる事もあり、龍涎閣等と言う料理屋に席を設けて行われる場合も度々あった。マルで商談の様な雰囲気の場合もあり、双方が激高して喧嘩の様に為る事もあった。
 今でも印象に残って居る事が2つある。一つは通訳のコツである。発言通りに訳すと喧嘩に為ると思った時は適当に和らげた表現にする事、30秒の発言を訳すには1分掛ける事である。しかし、前者は基本的な点を和らげて仕舞うと後で辻褄が合わ無く為る。意味が理解されれば好いと簡単に訳すと「お前、翻訳に手抜きをしたな」と勘繰られる。長く喋ると「良く遣って呉れる」と感謝される。

 話が旨く合意出来ず、双方が言い張り激昂して来ると、通訳の私に向かって食って掛かる。日本側もそうだし中国側もそう為る。「チョット待って呉れ」「私が云って居るのでは無い。この人がそう言って居るのだ」と発言者を指差す。双方とも解って居るのだが、又話が縺れるとコレが繰り返される。
 こちらも頭が混乱して中国軍将校に日本語で、日本軍将校に中国語で説明し、相手がポカンとして居るのを見て気が付くと言う場面も屡々あった。

 もう一つは、通貨の極端なインフレである。3〜4人の一回の食事代を支払うのに一抱えする大きな鞄に一杯の紙幣が必要と為る。紙幣の価値が限り無く零に近付く。しかし、1枚の紙幣の紙の材料代で止まり、零には為ら無い訳である。数千万円でもピン札なら20銭位には為る事を知った。
 中国軍将校は拳銃を持ち、日本側は丸腰である。幾ら話が噛み合わず殴り合い寸前の様なムードに為っても、中国側が拳銃に手を掛ける事は全く無かった。もし逆だったらシンガポールの山下奉文とパーシバルの「イエスかノーか?」と問答無用式の場面も在ったのではないか?

 「負けて居る癖に何を云うか」と言う短気な日本人も居たのでは無いか?と思う瞬間も在った。戦勝国側に立つ寛容さも有ろうが、又無駄なトラブルを避けて事を運ぼうとする策略だったとも考えられるが、冷静でカッと為ら無い点には感心し、大人(たいじん)の国だと思った。
  おわり

 つぎは 北から南下して来た中国軍と広東語(北京語の1は広東語の2)へつづく

















日中戦争 従軍奇談 編集 真道重明氏  その2〜その3




 日中戦争 従軍奇談 編集 真道重明氏 2002年3月

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 その2 南方戦線から内地に逃げ戻る将官と沖縄特攻(肚に据えかねる話) 

 日本軍の戦況は日増しに不利に為りつつ在る1945年に入ると、南方戦線から内地に向かうベタ金(将官の肩章や襟章は縞が無く地が一面に黄金色で有る為「ベタ金」と俗称されて居た)が時々広州の飛行場に給油の為の中継地として立ち寄った。彼等は戦況報告と言う名目で内地に向かって居たのだろうが、我々には逃げ帰るとしか映ら無かった。

 勿論、そんな事を口に出すものは居ない。将官は我々に捕っては雲の上の存在である。上官侮辱罪と為るから口が裂けても言え無い。彼等は決まった様に小指を除く4本の指には分厚い金の指輪が見えた。台湾経由の航路の気象条件をパイロットに説明するのが私達の任務である。
 小型の戦闘機はエンジンを掛けた侭、搭乗者は将官一人、滑走路脇で説明を聞くパイロットの傍に立って「大丈夫か?、大丈夫か?」と何度も念を押す将官の態度には何か「俺は死にたく無い」と言う気持ちが伝わって来る。

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              @少将 A大将 階級章

 「これが日本軍の将官か」と唾を吐きたく為る気持ちを抑えながら、「一体部下の将兵は何人戦死して居るのか」と内心では言いたかった。明日の爆撃で死ぬかも知れない情況に有る私達に向かって「此処は無難で好い処だ」等と口走る始末。「一体何を考えて居るのだ」と呆れた。
 日本軍の将官が皆そうとは思わ無い。私が体験した数名は例外中の例外と思いたい。我々の仲間も後で「アノベタ金野郎」等と陰口を叩いて居たから、皆彼等に対してはそう思って居たにに違い無い。中には指輪だけで無く、ピカピカした腕輪迄したのも居たと言う話を仲間達はして居た。

 色々なハプニングが起こった。沖縄特攻が盛んに為った頃の或る日、整備兵の一人が突然単身で小型機に搭乗して飛び立った。「今飛んだのは誰だ」と騒ぎに為った。空中勤務の戦闘隊員を点呼したら皆地上に居る。誰が操縦して居るのか?その内整備兵の一人が居ない事が分かった。暫く経ってその飛行機は戻って来て主滑走路を少し外れた処で胴着(胴体着陸)し機体は壊れた。
 整備兵の彼は機体や操縦装置は良く知ってる。操縦桿を引けば主翼のフラップ(下翼)が下がり機首が上り機体が上空目掛けて飛び立つ事も勿論知って居る。只、実際の操縦経験が全く無いだけだ。

 飛び立つには燃料を補給し、始動車(当時は車で言えばセルモーターでエンジン起動出来るものは未だ無かった。始動車と云うプロペラを回転させる自動車を使ってエンジンを始動させて居た)が無いと飛行機は飛べ無い。少なくも数名の協力が必要な筈だ。この辺りどう為って居たのかは謎である。
 私が直接彼に聴いた訳では無いが「沖縄特攻の話を聞いて居ても立っても居られず沖縄に行く心算だった」と一機壊した彼は言ったそうだ。飛び上がるには上がったが、爆弾も装着して居ない油も足り無い、航空路の地図も持って居ない事に気付き引き返したと言う。離陸は簡単だが着陸は難しい。「良く旋回して飛行場に戻れたものだ」と空勤の連中は驚いて居た。

 飛行機の数が少無く為って貴重品だったその頃、コレを壊した罪は重い。本来なら軍法会議ものだが「その意気たるや良し」と言う事か、余り重い処罰には為ら無かったらしい。

 

 その3 洞窟の中で聞いた玉音放送(私達には敗戦は寝耳に水では無かった)

 私が太平洋戦争に従軍し、兵隊として「撃ち方止め」の命令に繋がった玉音放送をこの耳で聞いたのは、広東省広州市郊外の小高い丘にある洞窟の中であった。所属して居た部隊は気象隊と言う戦闘をする軍隊とは異なる特別の部隊である。
 最も重要な任務は気象観測結果の受発信と気象予報で、天気図を描き予報結果を航空戦闘隊に報告する事であった。平時で有れば気象台が行っている仕事と殆ど同じであるが、航空作戦に不可欠な気象情報は重要で敵味方共に戦時下では極秘事項であり軍隊自身が行って居た。

 気象情報の送受信の仕事の中枢はモールス信号による「放送局」と言えば大袈裟だが、数台の受信機と発信器・及び大きなアンテナが設置されて居るだけのもので、局を敵の爆撃から破壊されるのを防御する為、丘の中腹を掘り抜いた洞窟の奥に設置されて居た。常時10名ばかりの当直者が一日数交代でその勤務に当たって居た。

 1945年(昭和20年)8月15日(水曜日正午・日本時間)の昭和天皇による「終戦の詔書」所謂「玉音放送」を、偶々当直中だった私は聞く事が出来た。当時としては可成り高性能の受信機では有ったが、内地からのJOAKの電波はその時は雑音が多く、神主の祝詞の様な声の詔勅は意味が良く把握出来無かった。
 しかし、続くアナウンサーの解説の声は当時のマイクに合うプロの発声法で「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、此処に矛を収める」と言う内容である事が明瞭に聞き取れた。

 矛を収めると言うのは「撃ち方止め」「戦闘行為の停止」で在る。この時「頭が真っ白に為っただろう」と後で尋ねる人々が多かったが、実際は案外冷静で「トウトウその時が来たか」と思った。それと言うのも外国の情報を自由に受信出来る立場に我々は在ったし、又任務上日本軍の展開して居る全地域の気象情報の発信地点が、この1年、特にこの半年間には日増しに縮小されて来た事を知って居た。
 即ち北はアリューシャンから南は南太平洋や東南アジア迄の日本軍の活動地域がドンドン狭く為り、追い詰められた戦況に在る事を毎日の仕事を通じ身を以て感じて居たからである。

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 軍隊の情報伝達は徹底した上意下達システムで、海軍の主力がミッドウェイで失われて居る事すら、兵・下士官は勿論、尉官将校でも知ら無い者が多く、真偽の程は分から無い侭、只漠然と噂で感じる程度である。分かって居るのは悪名高い「大本営発表」だけで、それも前線の兵士には伝わら無い事も多い。
 不利な戦局の情報を兵に伝えれば「忽ち士気に影響」し戦争等出来る筈は無い。全体の戦局が不利に向かって居るのを任務を通じて実感出来る者は極めて特殊な者だけであった。気象隊はこの特殊な者の一つであった。

 街に出ると民衆の我々を見る目付きがこの数日間で一変して居るのを感じ、私は街頭で買った華字紙を貪る様に読んだ。そこには「勝利」の大きな活字が踊って居た。文章の調子が今迄のデマ宣伝とは異なり真実感が在った。この様な経緯から私だけで無く部隊の多くの者は「遂に来るべき時が来た」と受け止める心の準備は出来ていた。
 私達の部隊の多くの者は恐らく「華南や本土での地上決戦は間近いだろう」と感じて居た。残って居た数機が沖縄特攻に飛び立つのを送ったのもツイ先日である。沖縄が危ない事も皆が知っていた。観測情報が途絶えたと言う事は活動が麻痺状態か、部隊が壊滅したかである。
 次は北からの中国軍と上陸して来る南からの連合軍に挟み撃ちと為るか、若しくは、日本の派遣軍を無視して、直接日本本土の九州か関東平野の海岸で対決する事に為るだろうと内心では思って居た。

 放送を聞き終わると直ぐに洞窟を出て集会所に行った。丁度昼飯時で皆は食事を終わり掛けて居た。「日本がバンザイした」と言うと「馬鹿言え」と言う皆の言葉が返って来た。「今俺は下番して来た処だ。JOAKを聞いた」「それは敵のデマ電波だ」と言う少数の者も居たが、多くは「そうか」と思ったたのだろう、只押し黙って居た。
 私が遅い昼食を食べ終わるか終わら無い内に、突如部隊長の緊急全員集合の指示があり、華南派遣軍の司令部からの命令としての「撃ち方止め」が伝えられた。

 その時を振返ると皆は冷静で、内心ホットした気持ちだった様に思う。「生きて虜囚の辱めを受けず・・・」の戦陣訓は措くとしても、飛行場のピスト勤務では毎日が連続空爆に曝され一つ間違えば生死を分ける状況下に在ったから「ホットした」と言うのは「これで死なずに日本に帰られる」と言う様な楽観的安堵感では無く、毎朝目を覚ますと「今日も未だ生きて居る」とツクズク思う何とも言え無い心理状態から取り敢えず暫くは脱却出来る事への安堵である。

 数日か数週間か、それとも数ヶ月かは分から無いが、兎に角今日死ぬ事は先ず無いと言う聊やかな心理で「ホット」したのだ。「弱兵の言」かも知れ無いが、多くの人が体験記で同様の事を語って居る。
 それから数日間は命令により部隊の文書類や分厚い乱数表(暗号書)等の焼却に大童で在ったが、眼前に敵軍が居る訳では無い。最も便衣隊(日中戦争時、平服を着て敵の占領地に潜入し、後方攪乱をした中国人のグループ)等は街に入って来て居るらしいと聞いたが、日本軍の兵士に反抗するものは居無かったのだろう、姿も見なかった。

 便衣隊を見たのは可成り後に為ってからで、後で触れるが、破落戸(ごろつき)の集団で「治安を害し、民衆を迫害した」として中国正規軍から処刑される者が多かった。一般市民も日本軍兵士に刃向かうものは居らず、平穏な日々が数週間は続いた。
 部隊の在った丘の上から下の街路を見下すと、数台のトラックに機関銃・水・食糧を満載して多くの兵士が街を脱出して行くのが数日間続いて見えた。申し合わせた様に白衣の従軍看護婦が数名乗って居た。「撃ち方止め」に納得せず抗戦を続ける兵士達である。

 日本兵の人数比からみると、それらは極僅かな一部の兵で在ったとは思うが、歓声を上げて出て行く光景は私の脳裏に焼き付いた侭今でも残って居る。アノ人達はその後どう為ったのだろうか?後から聞いた噂では殆どが山賊と化して次第に社会から抹殺されたと言う事だが、恐らくそう為った可能性は高いのではないか。
 玉音放送から多分10日目位であったと思うが、午前10時頃従卒に白旗を持たせた中国軍(国民党軍)の将校の軍使が徒歩で部隊を訪れて来た。前以て上から「鄭重に対応せよ」との連絡があり、部隊長室で対談が始まった。言葉が通じ無いので漢字による筆談である。私は偶々そこに居合わせて居た。

 貴名?所属如何?毛筆による日本の学校で習った漢文による遣り取りである。通じ無い言葉も多く、ナカナカ捗ら無い。ヤッと昼前に為って将校は「我吃飯后・馬上再来」と書いた。部隊長は「了解」と答えを書いて握手を交わし、午前の話し合いは終わり、彼は部屋を出て丘を下って去った。
 部隊長は衛兵に「軍使が午後また来る。騎馬で来るから馬に注意せよ。徒歩で来るものは入れるな」と指示した。これは拙いと私は思い「彼は飯を食ったら、又直ぐに来ると言ったのです。馬上 (ma 3 shang 4)は「直ちに、直ぐに」の意味で、必ずしも騎馬で来るとは限りません」と思わず言ってしまった。

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                 終戦時の中国空軍

 「何だ。お前は支那語が解るのか?」私は「仕舞った、バレたか」と思ったが後の祭り。「ハイ、少々は・・・」と答えざるを得なかった。実は私は中国語を多少解する事を簸(ひ)た隠しに隠して居た。通訳係りにでも為ったら、敗戦の状況下で「双方からの板挟みに為ってどんなトラブルに巻き込まれてしまうかも知れず、扱き使われた揚げ句、結局は碌な結末には為ら無い」と思って居たからである。
 早速その翌日、私に対し「中国空軍第四方面軍司令部へ通訳として転属を命ず」と言う命令が出た。今迄敵だった軍隊の司令部で通訳の仕事をせよと言う訳である。

 負けた日本軍の将兵はズタズタに破壊された粤漢鉄路(エツ漢鉄道・広東省の広州から湖北省の武漢三鎮で知られた漢口に到る鉄道・粤は広東と広西一帯を指す古い地名)の修路に狩り出され、過っての苦力(クーリー、インド・中国の下層労働者の呼称)の様に働かされると言う噂が蔓延して居た。先行き我々はどう為るか誰にも解ら無い。成り行きに任せる外は無い。転属命令は諒承するもしないも無い。上官による軍の命令である。
 おわり

 つぎは 敵軍だった司令部へ通訳官として転属 (佐官待遇で迎えて呉れた中国軍)へつづく

















暫くの間、日中戦争の従軍記の掲載を続けたい・・・従軍奇談 編集 真道重明氏



 【管理人】暫くの間、日中戦争の従軍記の掲載を続けたい・・・先の大戦で、日本軍は広大な中国大陸に戦火を広げた事実が有る。70年以上も前の話だが、今でコソ大国中国の威容は世界の隅々まで轟いて居るが・・・当時の中国の状態は、アヘン戦争に敗北し欧米の先進各国の干渉を受け続け、更に清国が滅び国内同士で新たな大陸の覇権を狙う・・・様々な思惑が渦巻く不気味で暗黒な大陸だった訳だ。
 日本軍は、中国東北部の満州の地を占領し、資源と土地を求め傀儡国家「満州国」を設立し新たな植民地として支配を試みて居た。日本は、その地を守り日本人を保護する為「関東軍」を設置、南満州鉄道とその敷設地帯と各種産業施設・日本人を守る為の軍隊だった。それでは始めよう・・・



 従軍奇談 編集 真道重明氏 2002年3月

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 その1 工兵として応召、その後に航空気象連隊へ配属

  (初年兵教育は工兵、気象隊と云う特殊部隊に転属)

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 1943年(昭和18年)10月、世に言う「学徒総出陣」人差し指サインで学業半ばで翌々月の12月に現役兵として熊本の渡鹿に在る西部第22部隊(工兵第六連隊)に入隊、初年兵教育を受けた。
 蒲柳(ほりゅう)の質の私が何故「六師団の鬼の棲む様な工兵隊に招集されたか?「お前は水産の学校だな・・・それなら船の事を知って居る筈だ、船舶隊要員・・・船舶隊の兵科は工兵だ、良し工兵に決定」と言う訳。

 処が六師団の工兵には船舶隊は無い。一旦決まった兵科を変える事は出来ず、仕方無く工兵の架橋中隊と為った次第。船舶隊と云うのは「陸軍の中の海軍、陸戦隊と云うのは海軍の中の陸軍」と言われて居た。
 陸軍と海軍の縄張り争いが在ったとも聞く。当時陸軍の船舶隊は潜水艦(マル輸艇)を持ち、真偽の程は知ら無いが航空母艦まで持つ事迄考えて居たと聞く。本当なら無茶な話だ。

 初年兵教育では架橋だけで無く、土工・爆破・重材料運搬など工兵としての技術全般の外に「歩兵」の基礎も必須科目だった。娑婆(地方とも言った・軍隊外の社会のこと・塀の外)では大工や土方をして居た人達が多く「鬼の棲む・・・」は言葉通り。隣にあった野砲連隊などから一目置かれて居たが、虚弱な私には全くの場違いだった。
 初年兵教育が終わった翌年の晩春、連隊副官から呼ばれ、知識が活かせる航空隊気象連隊への転属を薦められ即座に諒承。満州(現中国東北部)の新京(現在の吉林省の省都・長春)に在る第2気象連隊に転属命令。同じ様な事情の他の部隊からの一人と私との二人旅。
 関釜連絡船で門司で乗船、海峡を越え釜山から汽車で鴨緑江の鉄橋を渡り満州(現在の中国東北部)に向かった。

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 その時の身分は*乙種幹部候補生である。甲種幹部候補生に為ら無かったのは、初年兵時代に射撃等はトップの成績で有ったが、架橋中隊で在り架橋の為の舟艇の錨が元来筋力の無い私には重くて持ち上げられ無い。工兵としては失格も甚だしかった。この時の同期の甲種の連中の多くは後にシベリア抑留で死亡したと聞いた。結果的には乙種だった事が命拾いをした事に為った。(*乙種幹部候補生・・・下士候補生)
 新京に辿り着く迄に四平街で物凄い超常現象の様な黄砂に見舞われた。日本語では霾(つちふる)と読み、黄塵万丈(こんじんじんばん)と形容される砂嵐である。その話は「つちふる」に詳しい。新京の駅にはヤッと辿り着いたが、サテ目指す部隊が何処に在るか分から無い。駅には案内所も無く日本兵の姿も無い。

         a3.jpg クリックで拡大可
 
 腹が減って居たので邦人の食堂に入って飯を食いながら尋ねた。教えて貰った場所に行くと「観象台」と書いた大きな表札が掛かって居る。満州国政府の気象台らしいと思い、門前の満州国軍の複哨の衛兵らしい者に尋ねたら言葉が通じない。
 学生時代に習った中国語で尋ねると、敬礼をして紙に略図を書いて教えて呉れた。邦人食堂の親爺は良く知ら無かった様で、可成り位置が違って居た。尋ねた観象台の衛兵が同業の気象関係だったので日本軍の気象隊を知って居たので助かった。正に幸運だった。

 ちなみに食堂で食べた飯は白米だったが、お菜は肉も魚も無く、只トコロテンに削り節を振り掛けたものだけで酢醤油をブッ掛けた物しか無かった。コンな些細な事を未だに憶えて居るのは何故だろう。兎に角無事に気の荒い関東軍の中に在る目的の部隊に着き到着の申告をした。
 「良く此処が分かったな」と言われた。もう少し私達二人に旅程の指示の仕様も有ったと思い、軍隊も好い加減なものだと言う気がした。

 気象連隊と言うのは第一連隊が日本領土・第二連隊が満州国・第三が中国・第四が南方(東南アジアや太平洋南部諸島)だった様に記憶して居るが定かでは無い。平時で有れば気象観測や予報の業務は官庁(明治以来、内務省・文部省・運輸通信省等に所属が変わったらしい)が管轄して居た。
 戦時には気象情報は航空隊の活動と密接に関係するので陸海軍が掌握し、航空機の活動に関連した情報は極秘扱いにされた。飛行機も当時はプロペラ機で今のジェット機に較べ天候に大きく左右されて居たから尚の事であった。

 気象隊の仕事は陸軍も海軍も仕事に性格上全く同じシステムとマニュアルに沿ったものである。教育は工兵に較べ私には遥かに楽であった。筋肉や体力を使うのでは無く、専ら機器を使う測定や観測であり、海洋観測の経験がある私は、少し聞けば後は大体の見当が付いた。
 只モールス信号による送受信の為のトンツーを短期間の特訓で憶え無ければ為らず、朝食時から就寝時迄内務班の中は引っ切り無しに「トツー・トツー」が響き渡って居た。

 合調音法・・・イを伊藤・ロを路上歩行・ハをハーモニカ・・・と文章にして覚える方法では無く、音像法・・・初めから毎分50〜80字の速度の信号を聞き、符号音を認識する方法であった。
 始めは大変だったが、次第に慣れて来ると人間の言葉の様に一連の音の意味が無意識に解る様に為るのは不思議である。銃は持って居たが、手にする事は殆ど無かった。

 基礎訓練が終わった1944年8月、早速第四気象連隊(南京)に転属命令が出た。新京(長春)から天津経由、南京・上海・香港を経て広東省の広州市に移動した。南京には半年位滞在した。重爆撃機で広州市に行く予定だったが、飛行機の都合が着かず上海から船で香港に向かった。
 私達の一つ前の輸送船は台湾の高雄港の「有名な大空襲」に遭遇し大半が沈没した。香港では午後の下船が何らかの都合で午前に変更され慌てた。しかし同日午後に敵の大空襲があり、午後迄船に居たら完全に撃沈される処であった。

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 午前に下船した数時間後、人差し指サイングラマンが港の船を襲ったのを目撃した。敵弾を受けた輸送船が一瞬にして逆立ちと為り、多くの人が胡麻か蟻の様に空中に舞い上がったり、甲板を滑り落ちるのを上陸した九龍の兵舎から目撃した。予定通り午後の下船だったら私は多分死んで居ただろう。些細な変更が生死を分けた。
 目撃した時、実は私は兵舎の厠で小便をして居た。突然大きな音と共に屋根を突き破って何かが目の前の小便の流れる溝に落ちて来て黄色い小便の飛沫を上げた。ビックリしたので私の尿意は自動的に即時停止した。敵のグラマン機の空襲が済んだ後でもう一度「何が落ちたのか?」と見に行った。

 棒の先で引き寄せ良く見ると高射砲の薬莢である。勿論金属で可成りの重さである。直ぐ裏の丘の上に在る日本軍の高射砲が港内の敵機目掛けて零角射撃をした時の弾の薬莢だった。もし運悪く頭を直撃して居たら私は多分イチコロだったろう。
 今も在る香港(九龍側)の啓徳(カイタック)飛行場の直ぐ近くであった。現在ではこの旧飛行場の跡地はビル街と為り飛行場は少し場所が変わって居る。戦後国際機関に11年勤務した私は、香港を屡々訪れ、又中継地として通過する途次も立ち寄ったが、今と違って当時の啓徳飛行場は規模も比較に為ら無い程小さかった。

 香港には数週間滞在。スター・フェリーで対岸の香港島へは何度か訪れた記憶がある。「東洋のモナコ」とか「百万ドルの夜景」等は考えられもしないい灯火管制下に在った。石炭が無く薪を焚いて走る汽車で九龍から最終目的地の広東省の広州市に向かった。
 広州には当時は「白雲」と「天河」と云う2つの飛行場が在った。白雲は現在「白雲国際空港」の名称で広州市の飛行場として、又中国の重要な民間空港の一つとして存在して居る。当時は現在よりズッと規模は小さかった。
 天河は今どう為って居るのか分から無い。これ等は戦中・戦後を通じて歌謡で有名なベンガル湾に散った加藤隼戦闘隊が東南アジアで奮戦する前一時駐屯したと聞かされた飛行場である。この2つの飛行場が私達の勤務地であった。

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 朝未だ暗い中、宿舎を出て毎日今で言うシャトル・バス(軍用トラック)で飛行場に向かい、分厚いコンクリートで作られた飛行場管理ビルの勤務室で仕事をした。隣りは情報隊が仕事をして居た。ミッドウエイ海戦で主力艦隊を失って以来、既に可成り経って居り、次第に追い詰められる戦況に在った時である。
 それでも私が広州の飛行場勤務の前半期は、大編隊は組め無いが未だ多少の戦闘機や足の速い偵察機(新司令部偵察機「新指偵」人差し指サインと呼ばれた)は維持して居た。

         a6.png 米軍製

 制空権では明らかに劣勢に立ち、飛行場は敵の爆撃機の編隊の主な攻撃目標で有ったから、連日の様に空爆に曝された。隣室の情報隊のラジオ・ロケーター人差し指サイン(今のレーダーの極初歩的な探知機、無数の真空管が使われて居た)のブラウン管の反応が大きいとオペレーターの報告する叫び声が筒抜けに聞こえて来る。
 ブラウン管が示す反応が大きい場合「未だ遠くに居る大編隊」かも知れないし「数機の小編隊だが至近距離に迫って居る」のかも知れ無い。そのドチラかで有るかの区別は当時の機器では出来なかった。「後10分で敵機上空」と判断されると直ちに仕事を辞め、ジュラルミン製のケースに乱数表等の分厚い本を詰め込み、コレを抱えて滑走路から可能な限り遠くに駆け足で退避するのが常であった。

 間に合わ無い場合は運を天に任せてその侭ジッと投下爆弾の直撃が逸れるのを祈る外無かった。分厚いコンクリートの建物でも大型爆弾の場合は3階を貫通して地階で破裂し、避難して逃げ込んで居た100名ばかりの兵や現地雇用者が被爆する事もママ在った。
 敵機が去ると直ぐ生存者を点検し、医療措置で助かる可能性の有る者と、無い者や死亡者を選別し、前者は病院に運び、後者はトラックで搬出した。数十人の呻き声、千切れた肢体が散乱する血の海、正に地獄図絵であるが、阿鼻叫喚図と呼ぶのは平和時の感覚であり、此処は戦場であり、異なった精神と心理状態下に有る。

 生々しい臭いは死臭では無い。乃木希典将軍の「金州城外作」と題する漢詩の最初の二節にある「山川草木転荒涼 ・ 十里風腥新戦場」の「腥し(ナマグサシ)の臭いである。生きの良いマグロを捌いた時の魚河岸の臭いにヤヤに似て居る。その空気に満ちた部屋の中に座って、水を飲み、握り飯を貪り食った。
おわり

 つぎは・・・南方戦線から内地に逃げ戻る将官と沖縄特攻(肚に据えかねる話)へつづく
 











     



 
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