2020年04月11日
日中戦争 従軍奇談 編集 真道重明氏 その2〜その3
日中戦争 従軍奇談 編集 真道重明氏☟ 2002年3月
その2 南方戦線から内地に逃げ戻る将官と沖縄特攻(肚に据えかねる話)
日本軍の戦況は日増しに不利に為りつつ在る1945年に入ると、南方戦線から内地に向かうベタ金(将官の肩章や襟章は縞が無く地が一面に黄金色で有る為「ベタ金」と俗称されて居た)が時々広州の飛行場に給油の為の中継地として立ち寄った。彼等は戦況報告と言う名目で内地に向かって居たのだろうが、我々には逃げ帰るとしか映ら無かった。
勿論、そんな事を口に出すものは居ない。将官は我々に捕っては雲の上の存在である。上官侮辱罪と為るから口が裂けても言え無い。彼等は決まった様に小指を除く4本の指には分厚い金の指輪が見えた。台湾経由の航路の気象条件をパイロットに説明するのが私達の任務である。
小型の戦闘機はエンジンを掛けた侭、搭乗者は将官一人、滑走路脇で説明を聞くパイロットの傍に立って「大丈夫か?、大丈夫か?」と何度も念を押す将官の態度には何か「俺は死にたく無い」と言う気持ちが伝わって来る。
@少将 A大将 階級章
「これが日本軍の将官か」と唾を吐きたく為る気持ちを抑えながら、「一体部下の将兵は何人戦死して居るのか」と内心では言いたかった。明日の爆撃で死ぬかも知れない情況に有る私達に向かって「此処は無難で好い処だ」等と口走る始末。「一体何を考えて居るのだ」と呆れた。
日本軍の将官が皆そうとは思わ無い。私が体験した数名は例外中の例外と思いたい。我々の仲間も後で「アノベタ金野郎」等と陰口を叩いて居たから、皆彼等に対してはそう思って居たにに違い無い。中には指輪だけで無く、ピカピカした腕輪迄したのも居たと言う話を仲間達はして居た。
色々なハプニングが起こった。沖縄特攻が盛んに為った頃の或る日、整備兵の一人が突然単身で小型機に搭乗して飛び立った。「今飛んだのは誰だ」と騒ぎに為った。空中勤務の戦闘隊員を点呼したら皆地上に居る。誰が操縦して居るのか?その内整備兵の一人が居ない事が分かった。暫く経ってその飛行機は戻って来て主滑走路を少し外れた処で胴着(胴体着陸)し機体は壊れた。
整備兵の彼は機体や操縦装置は良く知ってる。操縦桿を引けば主翼のフラップ(下翼)が下がり機首が上り機体が上空目掛けて飛び立つ事も勿論知って居る。只、実際の操縦経験が全く無いだけだ。
飛び立つには燃料を補給し、始動車(当時は車で言えばセルモーターでエンジン起動出来るものは未だ無かった。始動車と云うプロペラを回転させる自動車を使ってエンジンを始動させて居た)が無いと飛行機は飛べ無い。少なくも数名の協力が必要な筈だ。この辺りどう為って居たのかは謎である。
私が直接彼に聴いた訳では無いが「沖縄特攻の話を聞いて居ても立っても居られず沖縄に行く心算だった」と一機壊した彼は言ったそうだ。飛び上がるには上がったが、爆弾も装着して居ない油も足り無い、航空路の地図も持って居ない事に気付き引き返したと言う。離陸は簡単だが着陸は難しい。「良く旋回して飛行場に戻れたものだ」と空勤の連中は驚いて居た。
飛行機の数が少無く為って貴重品だったその頃、コレを壊した罪は重い。本来なら軍法会議ものだが「その意気たるや良し」と言う事か、余り重い処罰には為ら無かったらしい。
その3 洞窟の中で聞いた玉音放送(私達には敗戦は寝耳に水では無かった)
私が太平洋戦争に従軍し、兵隊として「撃ち方止め」の命令に繋がった玉音放送をこの耳で聞いたのは、広東省広州市郊外の小高い丘にある洞窟の中であった。所属して居た部隊は気象隊と言う戦闘をする軍隊とは異なる特別の部隊である。
最も重要な任務は気象観測結果の受発信と気象予報で、天気図を描き予報結果を航空戦闘隊に報告する事であった。平時で有れば気象台が行っている仕事と殆ど同じであるが、航空作戦に不可欠な気象情報は重要で敵味方共に戦時下では極秘事項であり軍隊自身が行って居た。
気象情報の送受信の仕事の中枢はモールス信号による「放送局」と言えば大袈裟だが、数台の受信機と発信器・及び大きなアンテナが設置されて居るだけのもので、局を敵の爆撃から破壊されるのを防御する為、丘の中腹を掘り抜いた洞窟の奥に設置されて居た。常時10名ばかりの当直者が一日数交代でその勤務に当たって居た。
1945年(昭和20年)8月15日(水曜日正午・日本時間)の昭和天皇による「終戦の詔書」所謂「玉音放送」を、偶々当直中だった私は聞く事が出来た。当時としては可成り高性能の受信機では有ったが、内地からのJOAKの電波はその時は雑音が多く、神主の祝詞の様な声の詔勅は意味が良く把握出来無かった。
しかし、続くアナウンサーの解説の声は当時のマイクに合うプロの発声法で「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、此処に矛を収める」と言う内容である事が明瞭に聞き取れた。
矛を収めると言うのは「撃ち方止め」「戦闘行為の停止」で在る。この時「頭が真っ白に為っただろう」と後で尋ねる人々が多かったが、実際は案外冷静で「トウトウその時が来たか」と思った。それと言うのも外国の情報を自由に受信出来る立場に我々は在ったし、又任務上日本軍の展開して居る全地域の気象情報の発信地点が、この1年、特にこの半年間には日増しに縮小されて来た事を知って居た。
即ち北はアリューシャンから南は南太平洋や東南アジア迄の日本軍の活動地域がドンドン狭く為り、追い詰められた戦況に在る事を毎日の仕事を通じ身を以て感じて居たからである。
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軍隊の情報伝達は徹底した上意下達システムで、海軍の主力がミッドウェイで失われて居る事すら、兵・下士官は勿論、尉官将校でも知ら無い者が多く、真偽の程は分から無い侭、只漠然と噂で感じる程度である。分かって居るのは悪名高い「大本営発表」だけで、それも前線の兵士には伝わら無い事も多い。
不利な戦局の情報を兵に伝えれば「忽ち士気に影響」し戦争等出来る筈は無い。全体の戦局が不利に向かって居るのを任務を通じて実感出来る者は極めて特殊な者だけであった。気象隊はこの特殊な者の一つであった。
街に出ると民衆の我々を見る目付きがこの数日間で一変して居るのを感じ、私は街頭で買った華字紙を貪る様に読んだ。そこには「勝利」の大きな活字が踊って居た。文章の調子が今迄のデマ宣伝とは異なり真実感が在った。この様な経緯から私だけで無く部隊の多くの者は「遂に来るべき時が来た」と受け止める心の準備は出来ていた。
私達の部隊の多くの者は恐らく「華南や本土での地上決戦は間近いだろう」と感じて居た。残って居た数機が沖縄特攻に飛び立つのを送ったのもツイ先日である。沖縄が危ない事も皆が知っていた。観測情報が途絶えたと言う事は活動が麻痺状態か、部隊が壊滅したかである。
次は北からの中国軍と上陸して来る南からの連合軍に挟み撃ちと為るか、若しくは、日本の派遣軍を無視して、直接日本本土の九州か関東平野の海岸で対決する事に為るだろうと内心では思って居た。
放送を聞き終わると直ぐに洞窟を出て集会所に行った。丁度昼飯時で皆は食事を終わり掛けて居た。「日本がバンザイした」と言うと「馬鹿言え」と言う皆の言葉が返って来た。「今俺は下番して来た処だ。JOAKを聞いた」「それは敵のデマ電波だ」と言う少数の者も居たが、多くは「そうか」と思ったたのだろう、只押し黙って居た。
私が遅い昼食を食べ終わるか終わら無い内に、突如部隊長の緊急全員集合の指示があり、華南派遣軍の司令部からの命令としての「撃ち方止め」が伝えられた。
その時を振返ると皆は冷静で、内心ホットした気持ちだった様に思う。「生きて虜囚の辱めを受けず・・・」の戦陣訓は措くとしても、飛行場のピスト勤務では毎日が連続空爆に曝され一つ間違えば生死を分ける状況下に在ったから「ホットした」と言うのは「これで死なずに日本に帰られる」と言う様な楽観的安堵感では無く、毎朝目を覚ますと「今日も未だ生きて居る」とツクズク思う何とも言え無い心理状態から取り敢えず暫くは脱却出来る事への安堵である。
数日か数週間か、それとも数ヶ月かは分から無いが、兎に角今日死ぬ事は先ず無いと言う聊やかな心理で「ホット」したのだ。「弱兵の言」かも知れ無いが、多くの人が体験記で同様の事を語って居る。
それから数日間は命令により部隊の文書類や分厚い乱数表(暗号書)等の焼却に大童で在ったが、眼前に敵軍が居る訳では無い。最も便衣隊(日中戦争時、平服を着て敵の占領地に潜入し、後方攪乱をした中国人のグループ)等は街に入って来て居るらしいと聞いたが、日本軍の兵士に反抗するものは居無かったのだろう、姿も見なかった。
便衣隊を見たのは可成り後に為ってからで、後で触れるが、破落戸(ごろつき)の集団で「治安を害し、民衆を迫害した」として中国正規軍から処刑される者が多かった。一般市民も日本軍兵士に刃向かうものは居らず、平穏な日々が数週間は続いた。
部隊の在った丘の上から下の街路を見下すと、数台のトラックに機関銃・水・食糧を満載して多くの兵士が街を脱出して行くのが数日間続いて見えた。申し合わせた様に白衣の従軍看護婦が数名乗って居た。「撃ち方止め」に納得せず抗戦を続ける兵士達である。
日本兵の人数比からみると、それらは極僅かな一部の兵で在ったとは思うが、歓声を上げて出て行く光景は私の脳裏に焼き付いた侭今でも残って居る。アノ人達はその後どう為ったのだろうか?後から聞いた噂では殆どが山賊と化して次第に社会から抹殺されたと言う事だが、恐らくそう為った可能性は高いのではないか。
玉音放送から多分10日目位であったと思うが、午前10時頃従卒に白旗を持たせた中国軍(国民党軍)の将校の軍使が徒歩で部隊を訪れて来た。前以て上から「鄭重に対応せよ」との連絡があり、部隊長室で対談が始まった。言葉が通じ無いので漢字による筆談である。私は偶々そこに居合わせて居た。
貴名?所属如何?毛筆による日本の学校で習った漢文による遣り取りである。通じ無い言葉も多く、ナカナカ捗ら無い。ヤッと昼前に為って将校は「我吃飯后・馬上再来」と書いた。部隊長は「了解」と答えを書いて握手を交わし、午前の話し合いは終わり、彼は部屋を出て丘を下って去った。
部隊長は衛兵に「軍使が午後また来る。騎馬で来るから馬に注意せよ。徒歩で来るものは入れるな」と指示した。これは拙いと私は思い「彼は飯を食ったら、又直ぐに来ると言ったのです。馬上 (ma 3 shang 4)は「直ちに、直ぐに」の意味で、必ずしも騎馬で来るとは限りません」と思わず言ってしまった。
終戦時の中国空軍
「何だ。お前は支那語が解るのか?」私は「仕舞った、バレたか」と思ったが後の祭り。「ハイ、少々は・・・」と答えざるを得なかった。実は私は中国語を多少解する事を簸(ひ)た隠しに隠して居た。通訳係りにでも為ったら、敗戦の状況下で「双方からの板挟みに為ってどんなトラブルに巻き込まれてしまうかも知れず、扱き使われた揚げ句、結局は碌な結末には為ら無い」と思って居たからである。
早速その翌日、私に対し「中国空軍第四方面軍司令部へ通訳として転属を命ず」と言う命令が出た。今迄敵だった軍隊の司令部で通訳の仕事をせよと言う訳である。
負けた日本軍の将兵はズタズタに破壊された粤漢鉄路(エツ漢鉄道・広東省の広州から湖北省の武漢三鎮で知られた漢口に到る鉄道・粤は広東と広西一帯を指す古い地名)の修路に狩り出され、過っての苦力(クーリー、インド・中国の下層労働者の呼称)の様に働かされると言う噂が蔓延して居た。先行き我々はどう為るか誰にも解ら無い。成り行きに任せる外は無い。転属命令は諒承するもしないも無い。上官による軍の命令である。 おわり
つぎは 敵軍だった司令部へ通訳官として転属 (佐官待遇で迎えて呉れた中国軍)へつづく
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