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2020年04月11日

日中戦争 従軍従軍奇談 その4  



 
 
  日中戦争 従軍奇談 編集 真道重明氏 2002年3月

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 その4 敵軍だった司令部へ通訳官として転属(佐官待遇で迎えて呉れた中国軍)

 広州市に居た航空に関係して居た情報隊等に属する日本兵の中から私を含め5名が選ばれた。本来転属とは同じ指揮系統下に在る者の転勤である。指揮系統の異なる、増してや今迄敵軍だった処への転属命令は恐らく前例の無い異例の措置だとは思ったが、理屈を言って居る場合では無い。碌な指示も無いママ急遽中国空軍司令部に赴いた。

 司令部には門衛の中国兵が居たが、前以て指示が在ったのだろう。門は直ぐ通して呉れた。奥から現れた中国軍の上級将校に対し、正面玄関の前に整列して、申告(仁義を切ると言うか、兎に角挨拶)し無ければ為ら無い。一体どう言ったら好いのか、中国の軍隊用語等誰も分から無い。
 日本軍の転属の場合と同じ意味なら良かろう。「我們5個人奉日軍命令出差・・・・・・現在到達這裏了」と我が方の5人の中の年配者が言った様に記憶する。一人一人姓名を北京語で告げ「礼」と叫んで我等は挙手礼をした。

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                  日中両軍の兵士像

 これを聞いた空軍の上級将校は、挙手礼を返し笑顔で肯いて居たから意志は通じたのであろう。「労駕、労駕」(ご苦労さん)と言い、皆に部屋を用意して在るから、チョット休み為さいと付け加えた。
 此処の様に書くと何でも無い様だが、此方は丸腰相手は拳銃を腰に付けて居る。我々は心理的には極度に緊張して居た。兎に角今迄は敵軍だった司令部である。一体どの様な生活環境に置かれるのか?厠所(トイレ)の脇の小部屋にでも押し込まれるのだろうか?言葉はどの位通じるのだろうか?

 我々の目付きや顔色で先方も我々の緊張を察したのであろう。最後の「休息一下」(チョット休め)の一言に温情を感じ、先行きの局面を悪く悪く考えた場合の悪夢の様な状況には多分陥ら無いだろうとの期待感を持った。
 我々に与えられた部屋は寝室と詰め所で、他の司令部の人達と同じ食事も同じ、只食べるのは中国軍の将校の食堂では無く詰め所の部屋に兵が運んで来て呉れた。我々にはコノ方が楽だったし、先方も我々が居たのでは、多少言葉が分かるから用心したのかも知れ無い。

 今迄の日常生活と違うのは風呂が無かった事である。朝の起床時と夕刻の2回、所謂全身の冷水摩擦を実に念入りに行って居た。私達もそれに倣った。感心したのは洗面器3〜- 4杯の水で事を済ませる。風呂よりはズット少量の水で済み、身体は清潔に保たれて居た。
 中国に風呂が無い訳では無い。北京の精華園浴池等は数千年の歴史が有る浴場だと聞いた事があるし、多くの街で浴池(銭湯)と書いた看板は見掛けたが、どうも日本人は世界で一番風呂好き。しかも40度近い熱湯に入るのは日本人だけだろうと私は勝手に思って居る。野戦ではそうは風呂に入れ無い。この点中国軍は風呂に入る機会が無い事をそれ程苦にはして居ない。その代わり少量の水で身体を清める方法は実に巧みである。

 後年、私は浙江省の田舎の県の招待所(政府関係者の宿泊施設)で2週間ばかり生活する経験を数度したが、この時私には特別に大きな魔法瓶に4杯の熱湯を用意して呉れた。他の人々は1〜2杯で済ませて居た。湯上がり後にタオルで濡れた身体の水滴を拭き取るのでは無く、実に入念に摩擦する。環境の差による生活の知恵であろう。この事を私は中国軍から修得して居たので、風呂の無いのは苦には為ら無かった。

 閑話休題、話を戻す。司令部の家屋はスペイン様式に似た建物で広い中庭を取り巻く様に沢山の大きな部屋が配置されて居た。我々の部屋や詰め所はその一隅に在った。我々5名の内2名は中国で生れ育った経歴を持ち北京語は良く出来た。
 3名は学校で習ったが実践経験は無かった。但し一人は上海の東亜同文書院に在学中応召されたので上海方言も可成り出来た。私等が最も実力が無かった。

 寝ても覚めても中国語ばかり、日本人同士でも無意識に中国語で喋る事が多く為った。夢の中でも喋って居た。不思議と夢の中ではスラスラと行く。目が覚めた途端に苦難の連続である。今から考えると、コノ時が一番言葉が身に付き上達した様に思う。
 中国軍は北京語を話して居たが、出身地の訛りが有って最初の内は聴き取り難い人も多かった。しかし次第に何とは無く聞き取れる様に為った。

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           国民党軍は過去にドイツの軍事指導を受けて居た・・・

 司令部での私達の将兵としての階級であるが、これが又意外であった。彼等から見れば私達は敵軍だった者達である。精々臨時雇用の要員として処遇されれば良い方だと思って居た。「貴方達は停戦に為った今では敵では無い。中国軍司令部で勤務する以上、臨時措置として日本軍での地位と同等の立場で処遇する」と告げられた。
 当時の中国軍(国民党軍)では陸海空三軍の内で空軍だけは1ランク高い。名称は違うが、例えば空軍の少尉は陸海軍では少佐に該当する。空軍ではより高度な知識や技術が必要な為と考えられて居た為であろう。事実空軍将校の殆どは少なくも或る程度の初歩的な英会話位は出来る人達であった。
 従ってポツダム少尉の私は、中国陸軍の階級では少佐に当たる訳である。これは、しかし形式上の事で、私達は階級章を付ける訳でも無く軍帽の徽章も日本軍の侭である。靴も日本陸軍航空隊の短長靴を履いて居た。腕に「中国空軍司令部」と書いた腕章を着けて居るだけであった。

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               中国空軍 アメリカの援助で組織

 通訳の仕事の内容は千差万別、正に「何でも有り」だった。日本軍キャンプや在留邦人収容所等に関する中国軍との折衝・収容所内部で良く日本人同士の発砲事件が在った。中国軍の治安要員と共に直ぐ出向いて調査や解決の交渉に立ち会った。
 又中国軍人がマラリア等に罹患した場合、日本軍の軍医が技術・薬品等遥かに勝って居たから治療の要請があると、出掛けて行って立ち会う事に為る。

 時々はその日の仕事が終わると一緒に出向いた中国軍高級将校が司令部に戻る前に寄り道して彼女に会うのに付き合わされる。「花姑娘(娼妓)か?」と聞くと「嫌、友人の小姐(お嬢さん)だ」と言ってニヤニヤ笑って居る。或る時等3〜4人車に乗り込んで来て姦しい。「俺には米人の友人が5名居る」等と言って彼女等の気を引こうとする。彼女等は明らかに高級娼婦である。彼も人の子である。
 日本軍の収容キャンプの食糧買い出しの世話等は最も楽だった。日本が負ける迄は日本語で通じた市場も日本が負けたと為った途端に通じ無く為る。日本語の理解出来る市場の商人の姿を見掛ける事が少無く為ったし、理解してもワザと分から無い振りをする商人も居た。

 日本軍と親しい経歴が有ると戦勝国である中国軍から「漢奸」(敵に通じる者・裏切者・売国奴)の疑いを掛けられる事を怖れての事である。銭を持って居ても買い物すら儘為ら無い。負け戦はしたく無いものだとツクズク思った。
 拳銃は所持して居なかったが「中国軍司令部」と書いた腕章を私は付けて居たので、市場商人の私個人に対する態度は買い出しの日本兵とは全く違って居た。「安くして遣れ」と北京語で言うと、広東語で「系、系」(ハイ ・ハイ、広東語では偶然にも日本語の「はい」はハイと発音する。漢字は「系」と書く)と笑顔で答えて呉れる。

 中国軍から外出許可を取ってキャンプから食糧買い出しに来た日本の兵士は銭が無いから安価な豆腐の「おから」を良く買った。肥猪菜(豚が肥える餌)と書いて在った。豚は何匹飼って居るか?と聞かれ、日本兵は十匹と答え苦笑して居た。売り手は日本の兵隊が食う事を察して居て半ば揶揄して居るのだ。半ばと言うのは彼等広東人も「おから」は良く食べて居たのだから。
 負けた日本軍兵士ではあっても市場商人に捕っては顧客である。支払いの銭を渡すと「多謝(トウチェ・有難う。広東語)と言う。この辺は大らかで、日本仔(ヤップンチャイ・日本人を呼ぶ侮蔑語・広東語)と言う言葉を日本兵に投げ付ける者は居無かった。

 此処で日本軍の居たキャンプの事を少し述べたい。ハッキリ言って捕虜収容所である訳だが、実態は半ば軟禁状態と言った方が適切で、自己防衛に必要な銃器等は未だ当時の日本軍は所持して居た。ジュネーブ協定に基づく戦争国際法ではどう為って居るのか知ら無いが、日本軍は未だ可成りの戦闘能力を保持して居るにも拘わらず、天皇の命令に依って戦闘行為を停止したのであって、軍規も統率が良く取れて居た。
 雲南省から南下して来た中国軍は装備・被服・食糧等凡ゆる面で日本軍に較べ見劣りして居た。聯合国側に居たから戦勝国と為った訳で、その事は中国軍幹部も充分承知して居た。

 対処を一つ間違えば、恭順を示して居る日本軍が停戦命令を無視して暴発し抗戦に出る可能性は充分に在った。この様な状況下に在った為、取り敢えず日本軍には或る程度の自衛権とキャンプの生活には可成りの自治権を中国軍は認めて居たのだと思う。
 通訳勤務で一番緊張する仕事は日本軍の持って居た武器や被服等の「引き渡し」中国軍側から言えば「接収」の交渉に立ち会う時である。日本軍の倉庫には南支派遣軍は停戦時に、未だ3年位は戦える軍需物資を温存して居た。

 ジュネーブ協定の「戦争国際法」等私は知る由も無いが、日本側の高級将校も余り良くは知ら無い。交渉は兵舎で行われる事もあり、龍涎閣等と言う料理屋に席を設けて行われる場合も度々あった。マルで商談の様な雰囲気の場合もあり、双方が激高して喧嘩の様に為る事もあった。
 今でも印象に残って居る事が2つある。一つは通訳のコツである。発言通りに訳すと喧嘩に為ると思った時は適当に和らげた表現にする事、30秒の発言を訳すには1分掛ける事である。しかし、前者は基本的な点を和らげて仕舞うと後で辻褄が合わ無く為る。意味が理解されれば好いと簡単に訳すと「お前、翻訳に手抜きをしたな」と勘繰られる。長く喋ると「良く遣って呉れる」と感謝される。

 話が旨く合意出来ず、双方が言い張り激昂して来ると、通訳の私に向かって食って掛かる。日本側もそうだし中国側もそう為る。「チョット待って呉れ」「私が云って居るのでは無い。この人がそう言って居るのだ」と発言者を指差す。双方とも解って居るのだが、又話が縺れるとコレが繰り返される。
 こちらも頭が混乱して中国軍将校に日本語で、日本軍将校に中国語で説明し、相手がポカンとして居るのを見て気が付くと言う場面も屡々あった。

 もう一つは、通貨の極端なインフレである。3〜4人の一回の食事代を支払うのに一抱えする大きな鞄に一杯の紙幣が必要と為る。紙幣の価値が限り無く零に近付く。しかし、1枚の紙幣の紙の材料代で止まり、零には為ら無い訳である。数千万円でもピン札なら20銭位には為る事を知った。
 中国軍将校は拳銃を持ち、日本側は丸腰である。幾ら話が噛み合わず殴り合い寸前の様なムードに為っても、中国側が拳銃に手を掛ける事は全く無かった。もし逆だったらシンガポールの山下奉文とパーシバルの「イエスかノーか?」と問答無用式の場面も在ったのではないか?

 「負けて居る癖に何を云うか」と言う短気な日本人も居たのでは無いか?と思う瞬間も在った。戦勝国側に立つ寛容さも有ろうが、又無駄なトラブルを避けて事を運ぼうとする策略だったとも考えられるが、冷静でカッと為ら無い点には感心し、大人(たいじん)の国だと思った。
  おわり

 つぎは 北から南下して来た中国軍と広東語(北京語の1は広東語の2)へつづく

















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