2020年04月11日
暫くの間、日中戦争の従軍記の掲載を続けたい・・・従軍奇談 編集 真道重明氏
【管理人】暫くの間、日中戦争の従軍記の掲載を続けたい・・・先の大戦で、日本軍は広大な中国大陸に戦火を広げた事実が有る。70年以上も前の話だが、今でコソ大国中国の威容は世界の隅々まで轟いて居るが・・・当時の中国の状態は、アヘン戦争に敗北し欧米の先進各国の干渉を受け続け、更に清国が滅び国内同士で新たな大陸の覇権を狙う・・・様々な思惑が渦巻く不気味で暗黒な大陸だった訳だ。
日本軍は、中国東北部の満州の地を占領し、資源と土地を求め傀儡国家「満州国」を設立し新たな植民地として支配を試みて居た。日本は、その地を守り日本人を保護する為「関東軍」を設置、南満州鉄道とその敷設地帯と各種産業施設・日本人を守る為の軍隊だった。それでは始めよう・・・
従軍奇談 編集 真道重明氏☟ 2002年3月
その1 工兵として応召、その後に航空気象連隊へ配属
(初年兵教育は工兵、気象隊と云う特殊部隊に転属)
1943年(昭和18年)10月、世に言う「学徒総出陣」で学業半ばで翌々月の12月に現役兵として熊本の渡鹿に在る西部第22部隊(工兵第六連隊)に入隊、初年兵教育を受けた。
蒲柳(ほりゅう)の質の私が何故「六師団の鬼の棲む様な工兵隊に招集されたか?「お前は水産の学校だな・・・それなら船の事を知って居る筈だ、船舶隊要員・・・船舶隊の兵科は工兵だ、良し工兵に決定」と言う訳。
処が六師団の工兵には船舶隊は無い。一旦決まった兵科を変える事は出来ず、仕方無く工兵の架橋中隊と為った次第。船舶隊と云うのは「陸軍の中の海軍、陸戦隊と云うのは海軍の中の陸軍」と言われて居た。
陸軍と海軍の縄張り争いが在ったとも聞く。当時陸軍の船舶隊は潜水艦(マル輸艇)を持ち、真偽の程は知ら無いが航空母艦まで持つ事迄考えて居たと聞く。本当なら無茶な話だ。
初年兵教育では架橋だけで無く、土工・爆破・重材料運搬など工兵としての技術全般の外に「歩兵」の基礎も必須科目だった。娑婆(地方とも言った・軍隊外の社会のこと・塀の外)では大工や土方をして居た人達が多く「鬼の棲む・・・」は言葉通り。隣にあった野砲連隊などから一目置かれて居たが、虚弱な私には全くの場違いだった。
初年兵教育が終わった翌年の晩春、連隊副官から呼ばれ、知識が活かせる航空隊気象連隊への転属を薦められ即座に諒承。満州(現中国東北部)の新京(現在の吉林省の省都・長春)に在る第2気象連隊に転属命令。同じ様な事情の他の部隊からの一人と私との二人旅。
関釜連絡船☟で門司で乗船、海峡を越え釜山から汽車で鴨緑江の鉄橋を渡り満州(現在の中国東北部)に向かった。
その時の身分は*乙種幹部候補生である。甲種幹部候補生に為ら無かったのは、初年兵時代に射撃等はトップの成績で有ったが、架橋中隊で在り架橋の為の舟艇の錨が元来筋力の無い私には重くて持ち上げられ無い。工兵としては失格も甚だしかった。この時の同期の甲種の連中の多くは後にシベリア抑留で死亡したと聞いた。結果的には乙種だった事が命拾いをした事に為った。(*乙種幹部候補生・・・下士候補生)
新京に辿り着く迄に四平街で物凄い超常現象の様な黄砂に見舞われた。日本語では霾(つちふる)と読み、黄塵万丈(こんじんじんばん)と形容される砂嵐である。その話は「つちふる」に詳しい。新京の駅にはヤッと辿り着いたが、サテ目指す部隊が何処に在るか分から無い。駅には案内所も無く日本兵の姿も無い。
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腹が減って居たので邦人の食堂に入って飯を食いながら尋ねた。教えて貰った場所に行くと「観象台」と書いた大きな表札が掛かって居る。満州国政府の気象台らしいと思い、門前の満州国軍の複哨の衛兵らしい者に尋ねたら言葉が通じない。
学生時代に習った中国語で尋ねると、敬礼をして紙に略図を書いて教えて呉れた。邦人食堂の親爺は良く知ら無かった様で、可成り位置が違って居た。尋ねた観象台の衛兵が同業の気象関係だったので日本軍の気象隊を知って居たので助かった。正に幸運だった。
ちなみに食堂で食べた飯は白米だったが、お菜は肉も魚も無く、只トコロテンに削り節を振り掛けたものだけで酢醤油をブッ掛けた物しか無かった。コンな些細な事を未だに憶えて居るのは何故だろう。兎に角無事に気の荒い関東軍の中に在る目的の部隊に着き到着の申告をした。
「良く此処が分かったな」と言われた。もう少し私達二人に旅程の指示の仕様も有ったと思い、軍隊も好い加減なものだと言う気がした。
気象連隊と言うのは第一連隊が日本領土・第二連隊が満州国・第三が中国・第四が南方(東南アジアや太平洋南部諸島)だった様に記憶して居るが定かでは無い。平時で有れば気象観測や予報の業務は官庁(明治以来、内務省・文部省・運輸通信省等に所属が変わったらしい)が管轄して居た。
戦時には気象情報は航空隊の活動と密接に関係するので陸海軍が掌握し、航空機の活動に関連した情報は極秘扱いにされた。飛行機も当時はプロペラ機で今のジェット機に較べ天候に大きく左右されて居たから尚の事であった。
気象隊の仕事は陸軍も海軍も仕事に性格上全く同じシステムとマニュアルに沿ったものである。教育は工兵に較べ私には遥かに楽であった。筋肉や体力を使うのでは無く、専ら機器を使う測定や観測であり、海洋観測の経験がある私は、少し聞けば後は大体の見当が付いた。
只モールス信号による送受信の為のトンツーを短期間の特訓で憶え無ければ為らず、朝食時から就寝時迄内務班の中は引っ切り無しに「トツー・トツー」が響き渡って居た。
合調音法・・・イを伊藤・ロを路上歩行・ハをハーモニカ・・・と文章にして覚える方法では無く、音像法・・・初めから毎分50〜80字の速度の信号を聞き、符号音を認識する方法であった。
始めは大変だったが、次第に慣れて来ると人間の言葉の様に一連の音の意味が無意識に解る様に為るのは不思議である。銃は持って居たが、手にする事は殆ど無かった。
基礎訓練が終わった1944年8月、早速第四気象連隊(南京)に転属命令が出た。新京(長春)から天津経由、南京・上海・香港を経て広東省の広州市に移動した。南京には半年位滞在した。重爆撃機で広州市に行く予定だったが、飛行機の都合が着かず上海から船で香港に向かった。
私達の一つ前の輸送船は台湾の高雄港の「有名な大空襲」に遭遇し大半が沈没した。香港では午後の下船が何らかの都合で午前に変更され慌てた。しかし同日午後に敵の大空襲があり、午後迄船に居たら完全に撃沈される処であった。
午前に下船した数時間後、グラマンが港の船を襲ったのを目撃した。敵弾を受けた輸送船が一瞬にして逆立ちと為り、多くの人が胡麻か蟻の様に空中に舞い上がったり、甲板を滑り落ちるのを上陸した九龍の兵舎から目撃した。予定通り午後の下船だったら私は多分死んで居ただろう。些細な変更が生死を分けた。
目撃した時、実は私は兵舎の厠で小便をして居た。突然大きな音と共に屋根を突き破って何かが目の前の小便の流れる溝に落ちて来て黄色い小便の飛沫を上げた。ビックリしたので私の尿意は自動的に即時停止した。敵のグラマン機の空襲が済んだ後でもう一度「何が落ちたのか?」と見に行った。
棒の先で引き寄せ良く見ると高射砲の薬莢である。勿論金属で可成りの重さである。直ぐ裏の丘の上に在る日本軍の高射砲が港内の敵機目掛けて零角射撃をした時の弾の薬莢だった。もし運悪く頭を直撃して居たら私は多分イチコロだったろう。
今も在る香港(九龍側)の啓徳(カイタック)飛行場の直ぐ近くであった。現在ではこの旧飛行場の跡地はビル街と為り飛行場は少し場所が変わって居る。戦後国際機関に11年勤務した私は、香港を屡々訪れ、又中継地として通過する途次も立ち寄ったが、今と違って当時の啓徳飛行場は規模も比較に為ら無い程小さかった。
香港には数週間滞在。スター・フェリーで対岸の香港島へは何度か訪れた記憶がある。「東洋のモナコ」とか「百万ドルの夜景」等は考えられもしないい灯火管制下に在った。石炭が無く薪を焚いて走る汽車で九龍から最終目的地の広東省の広州市に向かった。
広州には当時は「白雲」と「天河」と云う2つの飛行場が在った。白雲は現在「白雲国際空港」の名称で広州市の飛行場として、又中国の重要な民間空港の一つとして存在して居る。当時は現在よりズッと規模は小さかった。
天河は今どう為って居るのか分から無い。これ等は戦中・戦後を通じて歌謡で有名なベンガル湾に散った加藤隼戦闘隊が東南アジアで奮戦する前一時駐屯したと聞かされた飛行場である。この2つの飛行場が私達の勤務地であった。
朝未だ暗い中、宿舎を出て毎日今で言うシャトル・バス(軍用トラック)で飛行場に向かい、分厚いコンクリートで作られた飛行場管理ビルの勤務室で仕事をした。隣りは情報隊が仕事をして居た。ミッドウエイ海戦で主力艦隊を失って以来、既に可成り経って居り、次第に追い詰められる戦況に在った時である。
それでも私が広州の飛行場勤務の前半期は、大編隊は組め無いが未だ多少の戦闘機や足の速い偵察機(新司令部偵察機「新指偵」と呼ばれた)は維持して居た。
米軍製
制空権では明らかに劣勢に立ち、飛行場は敵の爆撃機の編隊の主な攻撃目標で有ったから、連日の様に空爆に曝された。隣室の情報隊のラジオ・ロケーター(今のレーダーの極初歩的な探知機、無数の真空管が使われて居た)のブラウン管の反応が大きいとオペレーターの報告する叫び声が筒抜けに聞こえて来る。
ブラウン管が示す反応が大きい場合「未だ遠くに居る大編隊」かも知れないし「数機の小編隊だが至近距離に迫って居る」のかも知れ無い。そのドチラかで有るかの区別は当時の機器では出来なかった。「後10分で敵機上空」と判断されると直ちに仕事を辞め、ジュラルミン製のケースに乱数表等の分厚い本を詰め込み、コレを抱えて滑走路から可能な限り遠くに駆け足で退避するのが常であった。
間に合わ無い場合は運を天に任せてその侭ジッと投下爆弾の直撃が逸れるのを祈る外無かった。分厚いコンクリートの建物でも大型爆弾の場合は3階を貫通して地階で破裂し、避難して逃げ込んで居た100名ばかりの兵や現地雇用者が被爆する事もママ在った。
敵機が去ると直ぐ生存者を点検し、医療措置で助かる可能性の有る者と、無い者や死亡者を選別し、前者は病院に運び、後者はトラックで搬出した。数十人の呻き声、千切れた肢体が散乱する血の海、正に地獄図絵であるが、阿鼻叫喚図と呼ぶのは平和時の感覚であり、此処は戦場であり、異なった精神と心理状態下に有る。
生々しい臭いは死臭では無い。乃木希典将軍の「金州城外作」と題する漢詩の最初の二節にある「山川草木転荒涼 ・ 十里風腥新戦場」の「腥し(ナマグサシ)の臭いである。生きの良いマグロを捌いた時の魚河岸の臭いにヤヤに似て居る。その空気に満ちた部屋の中に座って、水を飲み、握り飯を貪り食った。おわり
つぎは・・・南方戦線から内地に逃げ戻る将官と沖縄特攻(肚に据えかねる話)へつづく
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