2020年04月11日
日中戦争 一兵士の従軍記録 〜祖父の戦争を知る〜
日中戦争 従軍記
一兵士の従軍記録 〜祖父の戦争を知る〜
〜一人の兵士が、戦場で書き記した日記が残されて居る。昭和9年から昭和20年迄、日中戦争から太平洋戦争迄の期間の内、3度に渉り従軍した述べ6年間の出来事が綴られて居る。
そこには、激しい戦闘・厳しい軍隊での生活・兵士達の揺れる心等が克明に記録されて居る。日記を書いたのは山本武さん。ソコからは、一人の善良な農民が苛烈な戦場の中で、平然と人を殺せる兵士に変わって行く姿が浮かび上がって来る。
武さんは、戦場でどの様な体験をし、戦後、その記録とどう向き合ったのか、そして、子や孫達は、その思いをどの様に受け止め様としたのだろうか〜
戦友と・・・中央が武さん
武さん2度目の招集
昭和12年、1937年7月7日 北京郊外の盧溝橋で起きた日中両軍の衝突を切っ掛けに、日本と中国は全面戦争に突入して行った。戦場は、ヤガテ中国全土へと拡大して行く。
日本から、健康な男子が次々と兵士として招集されて行った。武さんが2度目に招集されたのは、昭和12年9月 当時24歳だった武さんは、町の青年会長を勤め、地域の若者のリーダー的存在だった。
武さんの日記 「9月10日早朝、遂に私にも来た。所謂赤紙・召集令状である。この日の有る事を、早くから期して居る者に執って特別な感激も無く、悲惨な覚悟とても湧かない。全く淡々とした気持ちで、午前中は親子3人で稲刈りに出る。午後は辞めにして、予てから動員が降りたら、直ぐ知らせるからとの約束も有り、許婚のはるえの家を訪ねる」
武さんは、陸軍歩兵36連隊に入隊した。武さんは、短期間の訓練を受けた後、凡そ1,000人の兵士達と共に中国を目指して出発した。
苦戦する上海の戦況
大阪から船に乗った36連隊の目的地は、日中が激しい戦闘を繰り返して居た上海だった。当時上海の日本軍は、中国の精鋭部隊に苦戦を強いられて居た。抗日の機運が高まる中で中国軍の兵士達の士気は旺盛だった。強固な陣地と日本軍を遥かに上回る兵力・中国軍の頑強な抵抗の前に戦線は膠着して居た。36連隊は、そうした戦況を打開する為の増援部隊として送り込まれたのだ。武さんは、上陸直後から戦争の厳しさに直面する。
クリークに浮かぶ死体 砲弾の恐ろしさを書く日記 「9月30日、上海に上陸するや、落雷の如き砲弾の炸裂する轟音に先ず肝を冷やされる。重い背嚢を負い、汗と埃に塗れ乍ら行軍する。水筒の水は瞬く間に飲み干して、喉は渇き口中は粘る。左側のクリーク内至る所に、腐乱した敵兵が浮かんで居て、悪臭が鼻を突く。クリークの水は飲んではいけ無いとの再三の命令、構わず飲もうと思うが、死骸の浮いて居るのを見ると矢張り手が出無い」
上海に上陸してから10日後、武さんは、初めて本格的な戦争を体験する。手記には、次々と戦死して行く戦友達の姿、どうする事も出来無い武さんの悲痛な思いが記されて居る。
「10月9日、余りの事に驚き、茫然自失、冷水を浴びたる様な寒気を覚え、藪は重症危篤・川合は頭部を貫通され、ドンブリとヒックリ返る。鼻や耳から鮮血が迸り、脳みそも食み出て即死で有る。アア、何と悲惨なことであろうか。目前に数10名が亡く為り、或いは傷着いて倒れて居るが、収容する術が無く只悔し涙に咽ぶのみである」
次々と死んで行く戦友達、武さんの心の中には、ヤガテ中国兵に対する怒りや憎しみが渦巻く様に為って行く。上海上陸から約2週間、激しい戦闘の後の束の間のひと時、武さんは故郷に思いを馳せる事があった。
「10月13日、丁度1ヶ月前、はるえと二人で映画を見に行き、話し合った思い出の日である。狭い壕の中で、遥かな彼女の事を思ったり故郷の家族の顔を忍んだり、今頃は稲刈りでドンなに忙しい事だろう等と思いながら寝転んで居る。夜に入って、又迫撃砲の集中砲火を受ける」
中国兵への憎しみの戦争実態
一休みする日本軍・泥濘を歩き続ける・激化する市街戦・憎みても余り有る・・・武さんの部隊は、多くの戦死者を出しながらも、中国軍の陣地を一つズツ攻略して行った。武さんは、徐々に日常の感覚を失って行く。
「10月14日、朝早く裏のクリークに飯盒炊さんに行く。クリークはドンより濁って青みガカッタ汚水であり、そこに段々腐乱して行く敵兵の屍が浮いて居り、それを向こう側に押し遣って水を汲み米を研ぐ。向こう側の兵は、その屍を、又コチラへ押し遣ると云った状態であり、内地では想像も出来無い事」
武さんの部隊は、中国軍の防御の頼みとする河川やクリークを突破し、占領地域を広げて行った。それに伴い、捕虜と為る中国兵の数が多く為って行く。武さんは或る日、上官が捕虜を殺害する様子を目撃する。
「11月1日午後8時過ぎ、部落に入り歩哨を立て一夜を明かす。夜半、中国軍正規兵1名を捕まえる。朝、小隊長が軍刀の試し切りをすると竹藪の中に連れて行き、白刃一閃閃き敵の首は斬り落ちるかと見て居たのに、手元が狂ったのか腕が拙いのか、刀は敵兵の頭に当たり血が出ただけで首は跳ば無い。慌てた小隊長殿は、刀を振るって滅多打ちにしヤッと殺す事が出来て、見て居た我々もホッとする。ヤガテ、冷たい雨がショボショボ振り出し、濡れた体には寒さが応える」
「12月11日、地下室に、8名の敵兵が武装した姿で集まって居る。我々を見、銃剣を向けられるや、何ら抵抗せず両手を上げて降伏する」
直ちに死刑執行 死刑執行で飯も美味しく
「調べてみると、この兵達は、田中分隊長を狙撃した奴等と判る。相談の結果、直ちに殺す事に決め、田中分隊長他の墓標の前に連れて行き死刑執行する。気持ち好い。夕食の時、皆に話した。俺は元来、極めて内気な恥ずかしがり屋で小心者だ。子供の頃、カエルや蛇1匹殺す事はしなかった。それが、誠に平気に出来るし、これで亡き戦友も浮かばれると思うと、後味が悪い処か返って気持ちが好く、飯も美味しく頂けるんだから、戦争とは、ドンなものをも悪魔にしてしまうんだナア」
長男「親父は、とても優しい人でした。子煩悩で孫達も可愛がるし、近所にも、敵が出来る様な人ではありませんでした。一方、戦争では、人が遣っては為ら無い事も、遣ら無ければ行けない。人間とは、変わるものだな・・・或る意味ではショックでしたね」
その後、武さんの部隊は、南京を攻略、徐州作戦に参加する。此処に中国軍の主力が終結して居ると察知して、日本軍は、これを包囲殲滅しようとした。日本軍は、民衆の支援を受けた中国軍のゲリラ戦に悩まされる。
「5月16日、落伍者を残したママ、午前2時前進を開始する。半里も行かぬ内、平穏だと思って居た町は、砲弾の音で戦いが始まったらしい。敵兵が一斉蜂起して襲撃を始め、我が軍は悲惨な状態に或ると云う。この付近の一般の住民は、良民の様な姿をして居るが、家の中に銃を隠し持ち手榴弾も在るから、ヨクヨク注意する様伝えられる」
武さんは、徐州作戦で体験した話を、晩年に至る迄、胸に秘めて居た。それは、兵士と民衆の見分けが着か無い為の、混乱した戦場で起きた悲劇だった。戦後30年以上経って武さんが話す事を躊躇した・・・戦場での最も苦い記憶。体験は日記の中に示されて居る・・・昭和13年5月20日、徐州郊外での出来事である。
「午前8時頃、僅か3時間の睡眠で出発、山を越えて東方に向かう。途中、部落に火を放ち、敵の拠点と為るのを防ぐ。更に中隊長命により、農村と云えども女も子供も片っ端から突き殺す。残酷の極みなり。一度に、50人・60人・・・可愛い娘・無邪気な子供・・・泣き叫び手を合わせる・・・こんな無残な遣り方は、生まれて初めてだ。アア、戦争は嫌だ」
長男 「親父が夜中に涙を流す事が有って、眠れ無い夜が有るんですよ。それは想像ですけど、思い出したく無い体験が、睡眠中に目を覚まさせるんだろうと思って居ます」
戦後の手記執筆 手記にまとめる
手記の自費出版 戦後、一農村の平和な生活に戻った武さん。しかし、武さんは、戦場から持ち帰った心の重荷から解き放たれる事は無かった。武さんは、辛い記憶と正面から向き合い、自らの体験を手記にマトメ始めたのは、中国から帰還して、凡そ30年後だった。
当時、武さんは60歳を過ぎて居た。残された時間が尽きる前に、自分が体験した凄惨な戦場の事実を記録に留め無ければ為ら無い。武さんは、死の間際迄手記を書き続けた。「一兵士の従軍記録」武さんの手記を読み、その経験を重く受け止めた息子達は、戦争の実態を広く伝える為自費出版に踏み切った。
5男「如何に戦争と云うものが、残酷で家族を崩壊し自分を抹殺してしまうものなのかを、知って貰いたいと云う気持ち。それを、我が子へ孫へ伝えて置きたいと云う心境だったんだと思います」
長男「何故、公表したのかですが、そう云う事実が在ったと云う事が積み上げられて、正しい戦争に対する認識が何処かで育つ時に、この公表が価値を持つだろうと云う考え方ですね」
女孫「アノお爺さんが、そんな事が出来只ろうか。考えられません」
男孫「お爺さんが経験した悲惨さは、我々には判ら無い事なので、実際経験した人達が、口を開いて記録に残して呉れる事が増えれば、もう少し、戦争観が変わって来る気がするんですけどね」
「月日の経つのは早いもの、もう6月だ。今田植えの最中で有ろうと国元を思う。爽やかな初夏の風が心地好く頬を撫で、沿線の田畑では丁度麦刈りの真っ最中、時たま水田が在って田植えに勤しんで居る。1ヵ月半前行軍した時は、部落民は殆ど見えず増して田畑で働く者等一度も見掛け無かったのに、漸く戦火が収まると、早速、麦刈り・田植えに精を出す農民達。私も、農民である以上同じ仲間として同情もし、戦争の中で生き抜く彼等に、敬意と激励を与えたいと思う」
日中戦争前夜から、太平洋戦争終結迄、述べ6年間に及んだ武さんの戦争体験・・・それは、兵士としての責務を担わされた一人の農民の心の葛藤の日々でもあった。武さんが、戦場で書き続けた日記、その中に、中国人と筆談をしたと思われる文章が記されて居る。
戦争は、日中両国に執って、最も不幸な出来事である。今後は、中国と日本は、共に和し共に発展して行くべきである。武さんは晩年、長い戦争と正面から向き合い、記録に残そうとした。子や孫達は、その思いを夫々に受け止め、武さんの記録を心に刻んで居る。
作成者所感 一人の兵士が、戦場の中で日記を書き記すと云うだけで驚くべき事だ。その日記の中に、善良な農民・市民だった者が、平気で人を殺す様に変わって行く実態が赤裸々に記されている。
韓国の討論会で「ベトナム戦争中、韓国軍が残虐行為を行ったのではないか」との質問に対し、退役軍人は「ゲリラ戦争だから、民間人を謝って殺したかも知れないが、過っての日本軍の様に組織的な虐殺とは違う」と強調したと云う。考えてみれば、原爆一発で何人の一般市民が亡く為っただろうか。
戦争に為れば、結局は、兵士も住民も無い殺し合いに為らざるを得無いのだ。歴史的に見ても、戦争とはそう云うものだと云う事を、老いも若きも改めて認識したい。戦火の収まった後の、武さんの日記の穏やかなこと。
以上
【管理人のひとこと】
戦記を読むのは、管理人の様な年寄りだけなのだろう。私は、戦記・・・特に一線の兵士の戦争の体験を知りたいと、昔より我ながら関心が高かった思いがする。そんな昔の事・そんな苦しく忌まわしい事に何故興味を惹かれたのか・・・恐らく紀元前より人類は戦争と共に歩んで来た・・・それが歴史なのであり、その中の幾らかの時間だけの平和な時間を人類は過ごしたに過ぎ無いと考えるからであろう。
威勢の好い為政者や統率者が、武力で偉大な帝国を築いた・・・その様な輝かしい歴史も、常に勝つ事は不可能なのが歴史であり、幾ら強大な国・為政者でも何時かは滅び次の時代へとバトンタッチされ歴史が紡がれて行く。ローマに然りモンゴルに然りナポレオンに然りだ。その間隙には必ず争いである戦争が存在する。戦争とは、破壊と創造を繰り返す輪廻の様な・・・在っては為ら無い麻薬の様なものだろう。常に意識しないと人類は争いが始まり自然に戦争へ向かってしまう・・・そう云う性癖が在るのだと自覚しないと為ら無い。意識しても起こるものだから敢えて「戦争は駄目だ」と自分にも周りにも意識させ無くては為ら無い。下手な愛国者は直ぐに「国を守る」「国の為に戦う」とほざくが真の勇者・愛国者は「絶対に戦っては為ら無い」と声を張り上げる人だけに資格が有る。
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