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2019年12月04日
〜現代日本人が見過ごし勝ちな真実〜 その1 江戸幕府は何故「鎖国」したのか
〜現代日本人が見過ごし勝ちな真実〜
その1 江戸幕府は何故「鎖国」したのか
それは一つの宗教戦争だった
〜コラムニスト 堀井 憲一郎〜
諸悪の根源は「鎖国」にアリ!?
「鎖国」と云う言葉が日本史の教科書から消えるかも知れ無い、と云うニュースがあった。新学習指導要領で、聖徳太子と鎖国等の歴史用語を「厩戸王」「幕府の対外政策」とする改訂案が出されて少し話題に為って居た。
只、3月末に出た文部科学大臣の告示によれば、聖徳太子も鎖国も、取り敢えず消え無い様に決まった様だ。
確かに「幕府の対外政策」と云う言葉では何だか弱々しい。当時の徳川政府が維持した政策は可なりの力伎だったと思うのだけれど、そう云うニュアンスが落ちて居る。より正確に記そうとして、今時らしい決断し無い姿勢が出てしまって居る。
改めて「鎖国」と云う言葉は、実際に国が鎖ざされて居た時代では無く、鎖国の後、開国してから意味を持って居た言葉なのだなと思い至る。
哲学者・和辻哲郎はその著書『鎖国−日本の悲劇−』の中で、鎖国政策を批判して、17世紀初頭の日本に付いて、この様に記して居る。
「侵略の意図等恐れずに、ヨーロッパ文明を全面的に受け入れれば好かったのである。・・・未だ左程酷く後れて居なかった当時としては、近世の世界の仲間入りは困難では無かったのである。それを成し得無かったのは、スペイン人程の冒険的精神が無かった故であろう。そうしてその欠如は視界の狭小に基づくであろう」
和辻は、とても悔しがって居る。これが書かれたのは昭和25年(1950年)日本は世界戦争に大敗北して5年、未だ占領下に在った。明治22年生まれの和辻は当時61歳である。鎖国した事に依って、16世紀の日本は世界のトップレベルから落ちて行った、アノ時に道を間違え無ければ、かくの如き惨めな敗戦国に至る事は無かったのでは無いか・・・そう悔しがって居るのだ。
第二次世界大戦に於ける敗北は、そして日本史上初めて他国に依って全土が支配されると云う惨状は、秀吉・家康ラインから始まった「鎖国」に原因があると憤って居るのだ。
鎖国さえして居なければ、当時の為政者にもっと広い視野さえあれば、日本史にもう一度ヤリ直しが効く為らば、人生が二度あれば・・・高名なる知識人が本気で悔しがって居る。敗戦後の昭和日本では、鎖国がとても憎まれて居た。「鎖国」と云う言葉は、そう云う歴史用語である。
徳川時代の歴史を表した言葉ではあるが、その言葉が意味を持って使われて居たのは、開国された後なのだ。明治・大正・昭和の時代の言葉である。「西洋列強と争わ無ければいけ無い時に、出遅れてしまった原因」として「鎖国」と云う否定的な言葉が使われた。
明治政府によるネガティブ・キャンペーン
明治政権は、異様な程に前政権の施政を否定的に喧伝して居た。徳川政権の遣って居た事は全て前近代的で、封建的で、全くダメなもので、それを明治政権がキチンと近代化した、と云う物語を広めて居た。昭和の後半に為っても、皆それを信じて居た。徳川時代もそんなに悪く無かったのではないか、と言われ出すのは、それコソ平成に入ってからである。鎖国は、そう云う明治政府による前政権の否定の一材料として、頻りに使われて居た。
徳川時代の次に位置付けられる一区切りとして「明治・大正・昭和時代1868-1989」と云う歴史区分があって好いなと今おもい付いたのだが、明大昭時代、乃至はMTS時代との表記は如何でしょう。
その「明大昭時代」の用語として「鎖国」と云う言葉に意味があったのだ。明大昭時代の思想を考える時に「鎖国」と云う言葉はキーワードの一つなのである。確かに、徳川時代を通して、隙間無くピッタリと国を鎖ざして居た訳では無い。長崎と薩摩と対馬と蝦夷の四つの口は開けて居た。しかし逆に言うとその四つしか開けて居なかった訳で、その前の時代や、後の時代と比べて、随分と狭いのも確かである。
その口の狭さが、又徳川時代を形作って居たのだから「幕府の対外政策」と云う助詞の入った言葉では無く、何かしらの一言で表して貰った方が便利である。
「海禁」なら「海禁」で好いと思う。その辺は一般人の常識的な日常用語なのだから、余り真剣に学者の意見を聞いても仕方が無い。プロの野球戦法を、アマチュア草野球で取り入れた処で、殆ど意味を為さないのと同じだからだ。
「西洋文化に対する強いコンプレックスを持って居た時代」の空気として「鎖国」と云う言葉には強い存在感があった。逆に言えば、鎖国と云う言葉を使わ無くても好いんじゃないかと云う考えは、私達の西洋コンプレックスが可なり薄まって来たからだと云う事に為る。和辻哲郎が書いた様な、焼ける程の西洋コンプレックスは、確かに今の日本人には無い。
私の個人的な風景から思い出すと、1989年頃、日本企業がニューヨークのロックフェラーセンターやコロンビア映画会社を買収した頃に、ヤッと鎖国の出遅れから(第二次大戦の敗戦コンプレックスから)抜け出せた様に思う。
それからもう30年である。確かに可なり薄まって来て居ると思う。それは悪い事では無いだろう。余りに国粋的な動きに為るのは(反っくり返り過ぎなので)どうかと思うが。
キリスト教布教の異常な熱情
ソモソモ、鎖国と言える状態に為った理由を、皆余り真剣に捉えて無い。17世紀に、江戸の中央政府は「国を鎖ざす」と云う宣言はして居ない。世界と没交渉に為ってこの国だけに閉じ籠もりたいと云う政策を打ち出した訳でも無い。只只管、キリスト教を日本国内から排除しただけである。
日本にキリスト教徒を存在させ無い為だけに国を鎖じた。その辺の宗教的な事情が余り理解されて居ないとも思う。恐らく、現在のフランス・ドイツ・イギリス人・スペイン人等を思い浮かべ、彼等の多くはキリスト教徒だと思われるが、何等かの脅威を感じる事は無く、他宗教教徒だと強く意識させられる事も余り無い。
その感覚を基に、16世紀から17世紀を眺めて居るからだろう。そこからは何も判ら無い。16世紀の宗教にまつわる熱情は、今から見れば只管に異常である。ルターによる宗教改革が16世紀の前半に始まり、新教と旧教の対立が先鋭化して行くのが16世紀の風景である。その対立が、遠い彼方の日本国迄遣って来た。フラシスコ・ザビエルは命を捨てる覚悟で遣って来た。
和辻哲郎も、彼等イエズス会士の事を「中世的戒律を守り、自己及び同胞の魂を救う為に身命を捧げて戦う軍隊であった。従ってそれは内面化された十字軍であると云う事も出来る」と記して居る。
彼等は、日本人達を神の国へ導くのだと云う強い決意と共に遣って来て居る。キチンと命を賭けて居る。その熱意は、当時の日本人に伝わったのだろう。日本人のキリスト信徒はドンドン増えて行った。
それは或る種の「宗教戦争」だった
羽柴秀吉や徳川家康は、キリスト教が広まる未来を想像して、敢然、排除へと向かった。恐らく、キリスト教が広まる事によって、彼等の考える日本の平和は成し遂げられ無いと思ったからだろう。暴力的な時代は、その対処も暴力的に為らざるを得ない。しかし時間は掛かった。
1587年の秀吉の伴天連追放令から、1639年の所謂鎖国令の完成迄50年掛かって居る。50年の年月を掛けて、キリスト教徒を完全に排除して行った。これ又凄い作業である。一時、数十万人居たとされるキリスト教徒を、日本国内から一人残らず排除したのだ。
私はこれを「キリスト布教しようとする勢力と日本国の或る種の宗教戦争であった」、と見て好いと思って居る。その緒戦と云うか、戦いが始まる前に、秀吉・家康ラインが敵を徹底的に叩いた迄である。詰まり、鎖国は宗教戦争の結末である。実際に戦端を開か無い為の知恵だったのだ。
秀吉の時代にはフランスでユグノー戦争が起こり、その少し後(三代将軍徳川家光が鎖国を完成させる時代)にドイツでは三十年戦争が展開して居る。宗教戦争である。
キリスト教徒同士でも、信じるものが違って居れば敵と見なして、殺し続けて居る時代であった。偶々、その軍隊の本拠地が日本から遠かった為に、本格的な戦争に至ら無かっただけ、と考えた方が好いのではないか。
昭和25年に、和辻哲郎は「侵略の意図等恐れずに、ヨーロッパ文明を全面的に受け入れれば好かったのである」と書いたが、これも又暴論である。侵略の意図は恐れた方が好いに決まって居る。
ポルトガル軍やスペイン軍と誰も戦いたく等無い。勝った処で、こちらは何かを得る訳では無い。戦国の武将は、恐らく専守防衛を余り好きでは無かった筈だ。
しかし昭和25年の日本人が住んで居たのは、独立国の日本では無い。アメリカに占領された場所に住んで居た。戦争に負けた後、日本の力で西洋文明に対抗しようとするのは、ソモソモ無理だったんだよ、と云う気分が国中を覆って居た。
20世紀にアメリカ占領エリアに為る位なら、16世紀に少し位危険を犯しても、西洋国と一緒に近代を歩むべきだったと言いたく為る気持ちは判る。そう云う思潮は、昭和の後半をズッと覆って居た。
鎖国と云う否定的なニュアンスを持つ言葉は、明治・大正・昭和時代にとても力を持って居たのである。その事は、頭のドッか片隅に置いて置いて居た方が好い。今現在も又、そう云う流れと同じ処に我々は立ち続けて居るのだから。
以上
2019年08月27日
これからの再エネとして期待される風力発電 その2
これからの再エネとして期待される風力発電 その2
【インタビュー】「将来はヨーロッパで最大の電源に〜拡大する風力発電」加藤仁 氏(前編)
日本風力発電協会代表理事の加藤仁氏
再生可能エネルギー(再エネ)のひとつ、風力発電。国によっては電源(電気をつくる方法)の内可なりの割合を占める様に為りつつあります。日本風力発電協会代表理事の加藤仁氏に、風力発電先進国であるヨーロッパの現状や、日本の風力発電に残されている課題を伺い、風力発電の将来像を探ります。前後編の2回に分けてお届けします。
ヨーロッパで風力発電が普及した要因とは
・・・日本では再エネの主流は太陽光で、風力はマダマダ遅れを取って居ます。一方、ヨーロッパでは風力発電が普及して居り、近年更に増えて居ると聞きます。普及の要因には何があるとお考えですか。
加藤 最近のニュースでは、ヨーロッパの風力発電は、2027年におけるkWhをベースにした各電源の比較において、最大の電源に為ると云う予測が報じられて居ます。我々の予測でも、同様の数字が出て居ます。風力発電は、ヨーロッパにおいて、それだけの存在感を持つ電源と為って居ると云う事です。
その要因として、先ず、ヨーロッパは、「風況が良い」所謂発電に良い風が吹いて居て、風力発電に打って付けの環境があります。風が強い方が沢山発電出来る訳ですから、風力発電に取って「風況が良い」とは「強い風が吹いている」と云う事です。
どの様な風か?と云うと、風力発電では、年間を通しての平均風速を目安としています。ヨーロッパでは冬場など季節によって非常に強い風が吹く事があり、平均風速はおおよそ9〜10m/s前後です。
元々ヨーロッパには、風車を動力として利用する文化が古くから根付いて居ました。風車メーカーもヨーロッパから始まりましたから、長年にわたる技術的な蓄積があります。ヨーロッパにおける風力発電の普及の背景には、その様な積み重ねた高度な技術力を活かし、信頼性の高い風車を作る事が出来るメーカーがあると云う事が、先ず前提としてあります。
風力発電と云うのは、数百万円程の部品が故障した場合、その部品を交換・修理するのにクレーンが必要に為ってしまう事から、結果的には数千万円もの修理費が掛かってしまう事があります。洋上風力発電に為ると、修理に必要なSEP(Self Elevating Platform)と云う大型船の費用が相当に高い為、更に膨大な費用が必要に為ります。ですから、精度が高く信頼性も高い製品が作る事が出来ると云う要素は、風力発電の普及の為には必須なのです。
・・・先ず、その様な下地があったと云う事ですね。
加藤 その上で、この5年程の間に起こった変化とは、陸上の風力発電に加えて、洋上風力発電が増えたことです。ヨーロッパでは、陸上風車の技術を改良しながら、洋上風車の建設をこの20年程の間に少しずつ進めて来ました。
5年ほど前に8MW(0.8万kW)クラスの洋上専用の風車が開発されると、これ迄の倍以上の電気を作り出す事が出来る様に為り、その為kW当たりの発電コストが下がりました。発電コストが下がる事で風力発電導入費用も下がり、風力発電の普及がドンドン進むと云う相乗効果が現れて居ます。
リルグルンド風力発電(デンマークとスウェーデン国境付近バルト海上)
・・洋上風力発電が、ヨーロッパの風力発電の成長を更に拡大して居るのですね。
加藤 そうですね。洋上風力発電に付いては、ヨーロッパは北海油田の開発を進めて来た歴史がある為、海洋エネルギー利用に元々積極的でした。実は、過つて北海油田のプラットフォームで作業をして居た人達が、今、洋上風力発電に携わって居ます。
北海油田が下火に為った為に、その雇用の受け皿として洋上風力発電に力を入れて居ると云う経緯もあります。
洋上に於ける風車の建設は、プロレスラーの様な屈強な海の男無しでは無し得ません。彼等は、10kg程の重さのハーネス(安全帯)を着けて海上で作業をします。又、洋上風車建設の作業工程を担うには特別な資格も必要なのですが、その資格を取得する為の訓練場ではヘリコプターのコックピット毎プールに沈められてそこから脱出する等、凄まじい訓練を積んでいます。
そうした訓練を経て資格を取得した海の男が、洋上風車の建設やメンテナンスに携わる事が出来るのです。北海油田の作業経験者を起用する事が出来たという事も、ヨーロッパで洋上風力発電が拡大する要因の一つと為った訳です。
洋上風力発電の建設を促進した再エネ政策
加藤 この様な風力発電の増加には、ヨーロッパが再エネ推進へと政策を転じた事も影響して居ます。この再エネ転換政策は、CO2排出を削減して行くと云う課題が世界の高い関心事に為った事から始まって居ます。
政策を国の方針にしたり、EU全体として取り組んだりして居る事から影響が大きく、特に規模が大きい洋上風力発電に関して言えば、その影響は絶大です。
・・・風力発電に付いて、ヨーロッパではどの様な政策が行われて居るのでしょうか。
加藤 先ず、国が洋上風力の明確な導入目標をコミットして居ます。そして国が中心と為って、洋上風力発電に利用する海域のゾーニングを行って居ます。海域の利用について洋上風力発電と利害が対立する事もある漁業者との交渉等も、基本的に国が主導して行って居ます。
イギリスでは、国が一定の海域を洋上風力発電の場所に指定しており、その海域を割り当てられた各事業者が、地盤や風況を調べて洋上風力発電に取り組むと云う流れに為って居ます。
一方で、事業者が発電事業以外に煩わされる事の無い様、国が主導して事業環境を整えて居る処もあります。その中で最も徹底して居るのがオランダで、国が風力発電に利用する海域を決めて環境アセスメントを行い、風況データの採取や地盤の状況の調査も行います。
又洋上の風力発電所と陸上を結ぶ海底の送電線設置等も国が実施します。その様な準備を国が行った上で、「後は発電所を建設するだけですが、幾らで出来ますか」と入札させるのです。これが、オランダのセントラル方式と呼ばれて居るものです。
・・・国として風力発電事業者をサポートすることが、結果的に風力発電由来の電力コスト減に繋がって居るのですね。
加藤 エネルギー政策の転換が起こった事で、電力会社も、これ迄と異なる方針へと転換して居ます。例えば、これ迄原子力発電に携わって居たドイツのRWE社やE.ON社と云ったヨーロッパの電力会社の業績は一時赤字に為りましたが、その後再エネに舵を切り、今や100万kWクラスの洋上風力発電を手がける迄に為って居ます。
只、そもそものマーケットが存在しなくては、風車を製造する機会が得られず、技術的な蓄積も出来無かったでしょう。米国やヨーロッパでは、陸上風力発電のマーケットが、以前から形成されて居ました。更に、洋上風力発電が推進されたお蔭で、マーケットはより一層拡大して居ます。日本で風力発電が普及して来なかったのは、日本国内にマーケットが無かった事も大きな原因です。ホームマーケットが無い処には、企業は育ちませんから。
日本の自然条件は風力発電に適して居るのか
・・・対して、日本の風力発電に関する状況は今どの様に為って居るのでしょうか。そもそも、日本の自然条件は風力発電に取ってどうなのですか。
加藤 日本の平均風速はおおよそ6〜7m/s程で、場所によっては8m/sの所もありますが、平均風速ではヨーロッパには及びません。只、日本の風況は「風力発電が出来無い」と云う事ではありません。平均風速からおおよその年間発電量を割り出すと、ヨーロッパに比べて発電コストがヤヤ高く為ってしまうと云うだけのことです。
風況に関して云えば、日本には台風が襲来するリスクがあります。しかし、その様な強風に対しては、羽の強度を上げる、風を逃す様に作動させる等、現在の技術で対応する事が出来ます。又、ここ数年は台湾等で洋上風力発電の導入が進んで来た事から、風車にも、東南アジア特有の台風等の自然条件を勘案した「クラスT」と云う強度の国際基準が新設されました。
過去数十年の風況のデータを基にして強度を設定して居り、台風の強風にも耐え得る風車が設計され始めて居ます。
・・・日本の海は、陸地から比較的近い海域で水深が深く為って居ますが、洋上風力発電の建設は出来るのでしょうか。
加藤 その疑問は当然あるでしょう。日本風力発電協会では、10万kW以上の着床式の洋上風力発電所を設置する事が出来る場所の条件を「年間の平均風速7m/s以上の風が吹く場所で、20km2のまとまった面積を確保出来る場所、かつ水深40mまで」と定義して居ます。
我々は、こうした条件の場所が、日本周辺の海域にどれ程あるかと云う事を調査しました。それによると、理論上では、日本周辺の洋上で合計9,100万kW分の発電所が建設出来ると云う結果が得られました。船の航路や経済的活動をして居るエリアを除いても、1割程度の1,000万kW程は実現可能だと考えて、2030年の洋上風力発電の導入目標を10GW(1,000万kW)とする様に政府に提言して居ます。
他にも、日本特有の自然条件として地震が挙げられますが、これは大きな揺れに余裕を以て耐えられる基礎を如何に作るかと云う問題で、建物や橋等の構造物と同様です。対処出来無い課題と云う訳ではありません。我々としては、風力発電における日本特有の自然環境に対する不安や課題は、克服する事が十分可能であると考えて居ます。
・・・自然条件で見れば、日本も決して風力発電に向いていない訳では無いと云う事ですね。後編出はさらに、日本に於ける風力発電の将来に付いて伺います。
プロフィール 加藤 仁(かとう じん) 1953年生まれ。1977年、三菱重工業株式会社入社。2008年にエネルギー・環境統括戦略室長、2013年に執行役員原動機事業本部副事業本部長 兼 風車事業部長。2014年、MHI Vestas Offshore Wind A/SのCo-CEO。2017年、日本風力開発株式会社副会長。2018年から一般社団法人 日本風力発電協会代表理事に就任。
【ゼビオカード】
これからの再エネとして期待される風力発電 その1
これからの再エネとして期待される風力発電 その1
三重県にある青山高原の風力発電
風力発電は、既にヨーロッパ等では可なりの比率を占める様に為って居ます。今後、日本でも有力な発電方法に為ると考えられて居る風力の現状と、導入を進めて行く為の課題を見て行きましょう。
世界で進む風力発電のコスト低減
「再エネのコストを考える」で触れた様に、世界的に再エネの導入とコストの低減が進んで居ます。ドイツを初めとしたヨーロッパ諸国では、発電電力量の内30〜40%を再エネが占める国も珍しくはありません。そのヨーロッパで、再エネの主力と為って居るのが風力発電です。
1980〜90年代に掛けて、発電設備の大型化や市場の拡大により、風力の発電コストは大幅に低減しました。その後、原材料費の高騰等によって風車の価格が値上がりし、2000年前後か等暫くコストの低減は鈍化したものの、2010年頃から、更なる大型化等が実現して再びコストの低減が進みました。現在も、世界では発電コストの急速な低下が進んで居ます。
世界の風力発電の発電コスト推移
(出典)Bloomberg new energy finance ※為替レート:日本銀行基準外国為替相場及び裁定外国為替相場 (2017年5月中において適用:1ドル=113円、1ユーロ=121円)
こうした中で、中南米を中心に陸上風力事業を拡大し、世界での成長を実現したスペインのイベルドローラ社や、オイルカンパニーから洋上風力に大きく舵を切り、洋上風力のリーディングカンパニーと為ったデンマークのオーステッド社等、風力によって大きく成長したエネルギー企業もあります。
日本での風力発電の状況
日本では、2030年のエネルギーの姿を示した「エネルギーミックス」で「電源構成」(電力を発電する方法の組み合わせ)の内1.7%程度を風力発電とする事を目指して居ます。しかし、2017年3月時点で、太陽光発電は2030年見通しに対して約61%の導入が進んで居るのに対し、風力発電は約34%程しか導入が進んで居ません。
実は、固定価格買取制度(FIT)のスタート以来、FIT制度の対象として認定を受けた風力発電は、2030年のエネルギーミックスの見通しである「1000万kW」にホボ近づいて居ます。処が、実際に稼働している風力発電と云う事で見ると、導入量はマダマダ少ないのが現状なのです。
風力を競争力のあるエネルギー源に
風力発電の稼働を進め、今後競争力のある発電方法とする為には、幾つか解決すべき課題があります。
先ず、発電コストを下げる事です。現行の日本の風力発電コストは13.9円/kWhで、世界平均の8.8円/kWhの約1.6倍です。新型風車の開発や、開発から運営まで担う事の出来る「総合産業」としての風車メーカーの育成等を行う事で、強い風車産業を作る事が必要です。
又、メンテナンスの効率化や、保守運用を行う人材の育成を進め、効率的で安定的な発電システムを確立する事も求められます。
次に、環境影響評価(所謂環境アセスメント)の手続きに、通常3〜4年掛かるとされて居る事も課題です。その解決の為、環境影響調査を他の手続きと並行して行う事で、期間の短縮を目指す実証実験が行われて居ます。その7割で期間を短縮出来ると云う効果が確認出来ており、2018年度には「発電所の設置に係る環境影響評価の手引」等にその手法を反映する予定です。
洋上風力発電の可能性
3つめは、風力発電に適した立地条件です。陸上の風力発電の開発が進み、適地が減少して来て居る事から、海域を利用した洋上風力発電が注目されて居ます。これは、周囲を海に囲まれた日本では期待される発電方法です。
洋上風力は海域を長期間にわたって占用する事に為り、設備の維持管理も必要と為る為、占用者の選定基準や手続きの明確化が大切に為ります。その為港湾区域については「洋上風力発電の占用公募制度」を創設し、既に運用を始めており、事業予定者が決定済みのエリアもあります。
港湾区域以外の一般海域に付いてはどうでしょう。こちらは海域利用に付いての統一されたルールが存在せず、各都道府県が条例で運用して居ます。しかし、占用許可は3〜5年と短期間で、中長期的な見通しが立て難い事が、洋上風力発電導入の妨げと為って居ます。
又、海運や漁業者等、他の海域利用者との調整を図る事も必要です。そこで、2017年12月、政府は一般海域利用について検討チームを立ち上げ、具体策の検討を始めて居ます。
2017年12月8日に開催された「エネルギー情勢懇談会」第4回にゲストとして出席した、洋上風力発電事業の世界最大手であるオーステッド社のアジア太平洋州担当者は、日本の風力発電市場に付いて「ルール整備等により、今後、日本もヨーロッパ並みへのコスト低減を図る事が可能」と述べて居ます。日本にも何れ、ヨーロッパ並みに風力発電が普及する時代が遣って来るかも知れません。
つづく
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2019年08月25日
悪名高き『アメリカの禁酒法』 何故こんな法律が施行されたのか? 悪名高き『アメリカの禁酒法』何故こんな法律が施行されたのか?
アメリカの暗黒史の中で一際際立つのは「禁酒法」の時代です。何故この様な理不尽な法律が文明国で罷り通ったのでしょうか。人が酒を飲もうが飲む無いが国家権力が勝手に決めるのって・・・しかし、イスラムの世界はアルコールはご法度でした。
詰まり、その時代のアメリカは、イスラム社会と似た様な宗教国家だったのでしょう。何故アメリカは当時、そんなに宗教色が強かったのか・・・次の文章をご参照ください。
悪名高き『アメリカの禁酒法』 何故こんな法律が施行されたのか?
1920(大正九年)の1月16日は、アメリカで禁酒法が施行された日です。天下の悪法として有名ですが、そもそも何でこんな法律を作ったのでしょうか。
酒は悪魔が齎した最低な飲み物!
元々アメリカ合衆国とは、ピューリタンが作ったと言っても過言ではありません。ここにアメリカの歴史の始まり・・・
メイフラワー号の艱難辛苦終わる!?
「行きはヨイヨイ帰りは怖い」は某神様へのお参りですが、お参りに限らず旅や遠出と云うもの葉大体そうではないでしょうか。登山ナンかはマサに行きより帰りの方が危無いですしね。現代でもそうですから、もっと昔は旅そのものが危険なものでした。
それで居て未知の領域や遥か遠い国に憧れや欲望を抱いて、人々は道を着け船を漕ぎ出し、地図の空白が埋められ世界の姿が明らかに為って行ったのです。時代が下るに従ってロマンよりも欲望の割合が増して行くのが人間の業を感じさせる処ですけども、当然全てが上手く行った訳では無く、無事に済んだ例の方が珍しいでしょう。今回はその一例のお話です。
深刻なビタミン不足 狭い船室で病気が蔓延
1620年(日本では江戸時代の元和六年、秀忠の時代)の9月16日、イギリスの植民船メイフラワー号がプリマス港からアメリカへ向けて出航しました。
プリマスは昔から軍港だった所で、エリザベス女王の時代にはアルマダの海戦で勝利を齎したフランシス・ドレークが市長を務めた事もあります。それだけに船の整備や船員の質は高かったと思われますが、それだけで航海が上手く行くとは限りません。沈没事故で有名なタイタニック号だって、船長の評判は可なり高かった様ですからね。
しかも17世紀は地球全体が小氷期レベルの寒冷な時代でしたから、新鮮な食料を供給出来ず多くの人間が狭い船室で生活する船旅と云うのは、病気が蔓延するのに絶好の条件を備えてしまって居ました。
特に深刻だったのは、各種のビタミン欠乏症だったと言われて居ます。ビタミンC不足は壊血病、ビタミンB1不足は脚気と云った重篤な病気を引き起こしますが、そもそもビタミンと云う存在が知られて居なかった時代です。又、肺炎や結核等の感染症が流行る事もママあり、メイフラワー号に限らず船旅ではこう云った病気による死者が絶えませんでした。
ここからアメリカの歴史が始まった!?
同年11月に要約アメリカへ上陸しても、そこは厳寒の荒野。二ヶ月以上の航海を終え疲弊し切った乗員乗客が楽に過ごせる場所ではありません。しかも原住民とのトラブルを起こしてしまった為に陸で生活することが出来ず、船内の不衛生な環境で一冬越さざるを得ませんでした。この為、130人程居た乗員乗客の半分近くの人が亡く為ったそうです。
当初は二隻で行く予定だったのが一隻に為ってしまった為、充分な荷物を積み込め無かったと云うのも栄養不足を加速させたと思われます。それでも生存者達は春にはナンとか上陸して生活基盤を築く事が出来、イギリスからの最初の永久移民と為りました。ここからアメリカの歴史が始まったと見る事も出来るでしょう。
何故彼等はこんな旅に? because清教徒だったから!
しかし彼等は何故、こんな文字通り命懸けの旅に出たのでしょうか?気候や病気のリスクは船旅に着きものですから、当然その事は知って居た筈です。そこには、当時のイギリスにおける宗教事情も絡んで居ました。
乗客102人の内約1/3、詰まり30人程はどうしてもアメリカに渡ら無くてはいけ無い理由がありました。イギリス国教会が迫害して居た清教徒(ピューリタン)だったからです。
又キリスト教のヤヤコシイ話に為るのですが、物凄くテキトーに言うと・・・イギリス国教会「ウチの王様は宗教的にも偉いんだぞ!王様バンザイ!」、ピューリタン「嫌々それ可笑しいでしょ。チャンと遣ら無いと罰当たるから何とかしないと」と云う感じです。
そしてピューリタンの中にも「俺等は頑張って出世して、内側から教会を変えて行こう」とする人々(長老派)と「アイツ等もうダメだから、何処か居心地の好い処に引っ越そう」と見限った人々(分離派)が居ました。メイフラワー号に乗って居たのは後者で、だからコソ危険な航海にも耐える心積もりで居たのです。ピューリタン(Puritan)と云う言葉がソモソモ「糞真面目な人」と云う意味ですので、その意思は頑強だった事でしょう。
マゼランも自身は世界一周して居りませんし
結果は上記の通りですが、一方で航海中に出産した人も二人居り(ピューリタンだったかは不明)、母は強しと云うか生命の神秘を感じさせて呉れます。植民地へ行く事は、欧米列強が武器を振り翳して乱暴を働く様なイメージが強いですが、行く側も行く側で命懸けだったんですね。
もう少し前の大航海時代では色々な人が「ドコソコを発見しました」と云う話が好く出て来ますが、本人は兎も角船員の多くが亡く為ったらしき記録は珍しくありませんし。世界一周した事で有名なマゼランナンて、本人はフィリピンに上陸した際原住民との戦いでブッコロされて居ます。正確に言えば、世界一周したのは彼の船と船員達であって、マゼラン自身では無いんですね。
これは後世から見て居るからこそ言える事ですけども、この位の時代が或る意味ヨーロッパとその他の国が一番公平だった時期なのかも知れません。
此処にアメリカの歴史始まり メイフラワー号の艱難辛苦終わる!?
ピューリタンとは、物凄く大雑把に言うと、プロテスタントの中でもとても潔癖な人々です。更に後の時代に為ってメソジストと呼ばれ、より潔癖と云うか几帳面と云うか、心底マジメな人々が現れます。どちらも大元は英国国教会なので、カテゴリの大きい順にまとめるとこんな感じですかね。キリスト教⇒カトリック⇒プロテスタント⇒英国国教会⇒ピューリタン・メソジスト。テキストだけでまとめ様とすると無理がありますね(´・ω・`)
マアそれは兎も角、メソジストは「規則正しい」事をとても重要視する為、お酒に酔った状態の人が見苦し過ぎると考えて居ました。そしてその中には「酒は悪魔が齎した最低な飲み物!この世に存在するべきでは無い!!」と考える人が居たのです。今も居るかも知れませんが、当時どの位の人数が居て、どの程度世の中に影響力があるのか迄はスイマセン調べ切れませんでした。
鉞(まさかり)担いで夜のバーで酒瓶壊しまくる(尾崎豊かいな)
兎も角20世紀の前半にはこう云う人々が無視出来無い程の勢力を持って居り、遂に法的に動いたと云う訳です。最も強烈なエピソードを持って居るのはキャリー・ネイションと云う女性で、まさかり(斧)を持ってバーに押し入り、酒瓶を粉砕した事があったとか……アレ、赤ワインってキリストが「これは私の血」って言ってませんでしたっけ?
まあキャリーはキャリーで、旦那さんが重度のアル中だったので酒を毛嫌いするのも判ら無くはありませんが。にしても鉞(まさかり)ってアンタ金太郎かよ。
当然、これは大多数の酒好きな人々に取っては大迷惑な法律でした。それだけで無く、お酒を出す飲食店に取っても死活問題です。食が進みますし、お摘みやら口直しと思いながらショッパイものと甘いものを交互に食べて、お会計がドンドン嵩んで行ったりしますから……何にせよ、只の酒好きだけでは無くお酒の関係する業種全てで売り上げが落ちる事は確実ですよね。
製造・販売は禁止 サレド手元にある分はOK
画して導入された禁酒法は、その内容からしてナカナカ徹底されませんでした。と云うのも【製造・販売・輸送はNG】但し【既に手元に有るお酒を飲むのはおk】と云うザルにも程があるものだったのです。何故、誰も予測し無かった。
これは施行前に知られて居り、1月16日間際にはアラユル酒を買い込む人々が沢山居たそうです。飲ま無い方や苦手な方からするとバカバカしいと思われるかも知れませんが、嗜好品ですからネエ。偶に無性に「今日はアレが飲みたい!」って為るものなんですよ(´・ω・`)
「どうしても甘いものが欲しい!」とか「今日はトンカツ食べたい!!」って云うのと殆ど感覚的には同じだと思います。個人的な印象ですが。マアそれはさて置き、結局この法律はその後幾つかの緩和を経てから、13年後の1933年に廃止されました。
酒の密造や密輸入が絶えず、寧ろ治安が悪化するわ、テキトーに作られた酒を飲んで健康を害する人が増えるわ、と散々な状態に為ってしまったからです。中には酒を違法に取り扱うギャングと警察で銃撃戦が起き、市民を含めて数百人〜数千人も死者が出たナンて話もあります。
同時代のマフィアを描いた映画『アンタッチャブル』でも、物騒なシーンが続いて居りました(飽く迄演出だったようですが…)こう為ると、アル中の方が迷惑掛ける人数が少無い分未だマシじゃ無いでしょうか。直接の原因を取り除いて上手く行くのはアレルギーだけって事ですかね。
酒好きには喜ばしい副産物も生まれた
しかし、この流れの中で唯一良かった……かも知れない事もありました。現在シャレオツな飲み物として何千種類も存在すると言われている、カクテルの原型がこの時生まれたと云う説があるのです。(他にもカクテルの起源は色々な説があります)と云うのも、密造酒の多くはアルコール度数を上げる事に気を取られ、味がサイテーだったからです。それを何とかして飲もうとジュース等を混ぜて飲める様にしたのがカクテルの始まり、と云う話ですね。
禁酒法以前に考えられたカクテルもあるので、全てがそうと云う訳では無いのですが、何種類かのカクテルはそんな経緯で生まれたと言われて居ます。稀に「カクテルナンて拙い酒の味を誤魔化してるんだろwww」ナンて言う人が居ますが、現在はキチンと製造されたお酒で作って居るのでそんな事はありません。銘柄によって味の良し悪しと云うか合う合わ無いはありますけども。
時代は違いますが、老若男女問わず大っピラに酒合戦(関連記事:かたや薩摩ではチェストー!の時代に、江戸では酒の飲み比べ大会)がおkだった日本は呑気ですねえ。呑み助の一人としては、心の底からこの時代のアメリカに生まれ無くて良かったと思います。お酒を飲む方も止める方もホドホドに。
以上
アメリカの闇 暗黒史を知る・・・映画の紹介
アメリカの暗黒史を調べて行く上で、キリスト教・ユダヤ教を含めた所謂、宗教問題に黒人差別や出身地に依る人種差別・・・麻薬や銃の問題等、図り知れぬ程の闇を抱えた国家、詰まり現在のアメリカの闇である暗黒史の一端は、そのままアメリカ映画に一つのジャンルを得て居ます。
自らそれを公表し映画化し赤裸々に批判出来る素地も持って居る訳で、そこがアメリカと云う懐の広く深い文化だとも言えるでしょう・・・次のレポートをご紹介します・・・
クライム・アクション映画から知る 暗黒のアメリカ犯罪史
〜suppy841ライター 2018/03/05〜
〜世界の映画と音楽と言語を愛でる アラフォー主婦 特にアクション映画とヘビメタ音楽を好む・・・投稿者が書いた記事を読む〜
アメリカにギャングが誕生した当時を描いた『ギャング・オブ・ニューヨーク(2002年)』や、西部劇に登場する実在のアウトロー達を追った『明日に向って撃て!(1970年)』等、ハリウッド映画では実話に基づいたクライム映画が数多く製作されて来ました。今回は魅力的なアウトローを主人公にしたクライム・アクション作品を紹介します。
更に、これ等の実在の人物や事件にフォーカスした作品から、アメリカの犯罪史の変遷を考察して行きたいと思います。アメリカと云う国を形成して来た裏の顔を映画から知るのも又面白いかも知れません!
ギャング・オブ・ニューヨーク【2002年】
あらすじ 1864年のニューヨークのファイブ・ポインツ地区では住民集団の支配権争いが続いて居ました。アメリカ生まれの集団「ネイティブ・アメリカンズ」に対抗する為、アイルランド系移民は「デッド・ラビッツ」を結成します。
リーダー同士の決闘で父親を殺されたアムステルダム(レオナルド・ディカプリオ)は、仇のビル・ザ・ブッチャー(ダニエル・デイ=ルイス)に復讐を誓い「ネイティブ・アメリカンズ」に潜入。しかしそこでビルの元情婦ジェニー(キャメロン・ディアス)と恋に落ちてしまいます。
見所 マーティン・スコセッシ監督が長年温めて来た念願の企画が、19世紀のニューヨークに生きた移民達の物語『ギャング・オブ・ニューヨーク』。発想の元と為ったのはハーバート・アズベリーの同名著書で、100年に渉ってニューヨークのギャング社会に付いて綴られたノンフィクションです。
ギャング団の誕生 ネイティブ・アメリカンズはプロテスタント、デッド・ラビッツはカトリックを信仰して居り、民族・宗教的対立が先住民と移民の抗争を生んで居た事が判ります。そしてこれがギャング団の誕生に繋がって行くのです。
マンハッタン島に先に住み着いたイギリス系移民がWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)でありネイティブ・アメリカンズです。詰まり先住して居た移民達が現在のニューヨークの街と白人至上主義を、後から来た移民達が多民族国家アメリカを形成して云った事をこの作品から知る事が出来ます。
明日に向かって撃て!【1970年】
あらすじ 開拓時代も終わろうとして居た1890年代の西部で、銀行や列車強盗を続けて居たブッチ・キャシディ(ポール・ニューマン)とサンダンス・キッド(ロバート・レッドフォード)。ブッチには資源豊富なボリビアへ渡る夢があり、スペイン語が話せる教師エッタ・プレイス(キャサリン・ロス)と3人で南米を目指します。
見どころ 『明日に向かって撃て!』は原題を『Butch Cassidy and the Sundance Kid』と言い、実在した列車銀行強盗犯ブッチ・キャシディとサンダンス・キッドを主人公にして居ます。西部開拓時代から現代史への転換期に活動したアウトローとして有名な2人組です。
西部開拓時代の終焉 ブッチは元々は無法者集団「ワイルド・バンチ」のリーダーで、サンダンスを途中で加入させました。ロッキー山脈に在った「壁の穴」と呼ばれた隠れ家から銀行や列車を襲撃したと言われて居ます。ボリビアに渡ったのは20世紀初頭。結局彼等はそこでも強盗を続け、警察との銃撃戦で物語は幕を閉じます。
伝説と為った2人には生存説もありますが、銃撃によって死亡したのは1908年とされています。ブッチとサンダンスは西部開拓時代の終わりを告げるアウトローであり、1914年の第一次世界大戦突入と共にアメリカのフロンティア精神は新時代を迎える事に為ります。
アンタッチャブル【1987年】
あらすじ 禁酒法が制定されて10年を経た1930年、アル・カポネ(ロバート・デ・ニーロ)は禁酒法を悪用した酒の密造と密輸でギャングのボスに伸し上がり、シカゴを牛耳って居ました。政府から派遣された財務省のエリオット・ネス(ケビン・コスナー)は、シカゴ市警と協力して密造酒摘発で動き出します。
見どころ 1920年代のシカゴを牛耳って居たアル・カポネ。警察や裁判所さえも買収するギャングのボスを脱税の容疑で逮捕したのが、財務省の特別捜査官エリオット・ネスでした。本作は、この実在の捜査官が率いたチーム「アンタッチャブル」とカポネとの闘いを描いています。
禁酒法とギャングの台頭 禁酒法とは1920年から1933年に施行された国の法律で、消費の為の酒類製造や販売、輸送を禁止するものです。政治や宗教的な観点から広まった禁酒運動によって制定に漕ぎ着けましたが、逆に違法酒場やカポネの様なギャングの密造密輸を増やし「世紀の悪法」とも揶揄されました。
アル・カポネはニューヨーク生まれのイタリア系アメリカ人で、1920年にシカゴへ拠点を移して居ます。瞬く間にシカゴギャングの中でも出世頭と為ったカポネは、1926年には組織のトップに立ち、酒の密売と権力の買収で街を実質支配して「暗黒街の顔役」と為って好きました。
禁酒法とそれに伴うギャングの抗争で、シカゴでも多くの警察官やギャング、そして市民までもが犠牲に為ったと言います。ロバート・デ・ニーロ演じるアル・カポネの不敵な態度も実に印象的で、ギャングに支配されたシカゴ市民達の戦々恐々とした様子が描かれて居ます。
俺たちに明日はない【1968年】
あらすじ 刑務所帰りのクライド・バロウ(ウォーレン・ベイティ)は、盗む車を物色して居た処でボニー・パーカー(フェイ・ダナウェイ)と出会います。直ぐに惹かれ合った2人は車を盗んで銀行強盗を働く様に。そして仲間も加わり「バロウ・ギャング」強盗団として新聞に報道され有名に為って行きます。
見どころ 原題の『Bonnie and Clyde』が示す通り、1930年代初頭にテキサス州を荒らした実在の銀行強盗犯ボニー&クライドが主人公。2人の出会いから衝撃的な死を描いたアメリカン・ニューシネマの傑作です。
大恐慌時代の闇 30年代は世界恐慌による不景気で荒んだ時代。底辺の生活を余儀無くされた人々は、権力に抗う義賊的なアウトローとして彼等を歓迎した風潮もあった様です。実際作中には、銀行に押し入ったクライドが市民の金には手を着け無いと云った場面や、銃撃で負傷したボニー達の車を取り巻いて心配そうに様子を伺う人々も登場して居ます。
逃走するバロウ・ギャング達と警察とのカーチェイスでは、30年代のクラシック・カーの数々を見る事が出来ます。特に2人が逃走の為盗み、最期を遂げたフォードV8は当時最新最速の大衆車。フォードが心血注いで開発した庶民の為の車が、その加速力で犯罪者の逃走に役立って居たと云うもの皮肉な話です。
1934年5月23日、ルイジアナ州警察とテキサス・レンジャーによって待ち伏せを受けたクライドとボニーは、機関銃の連射を浴びて絶命。ボニーとクライドの物語は、ボニーが創作して新聞社に送った詩の様に後世に残る語り草と為ったのです。
パブリック・エネミーズ【2009年】
あらすじ 1930年代初頭の大恐慌時代、ジョン・デリンジャー(ジョニー・デップ)は権力を嘲笑う様に大胆な手口で銀行強盗と脱獄を繰り返し、遂にFBIに「社会の敵No.1」として指名手配されます。そんな中、デリンジャーはビリー・フレシェット(マリオン・コティヤール)と云う恋人を得ますが、捜査の手は確実に迫って居ました。
見どころ 丁度ボニーとクライドがルイジアナ州で銃撃を受けた2ヶ月後、同じく当時、義賊と民衆に持て囃された犯罪王ジョン・デリンジャーがFBI捜査官に射殺されました。『パブリック・エネミーズ』はデリンジャー・ギャングとFBIとの戦いを描いて居ます。
ダークヒーローとしてのギャング デリンジャーを全国指名手配したのは、FBI初代長官のジョン・エドガー・フーヴァー。デリンジャーが州を跨いで逃亡した事から、複数の州に渡る広域犯罪に対処する為にFBIの前身機関が改革され、現在のFBI組織が新創設されたばかりでした。
こう考えると皮肉な事に、大衆が味方した犯罪王を倒した事でFBIの権威を引き上げることに為った訳です。しかしブッチとサンダンス、ボニーとクライド同様、デリンジャーも又権力と戦ったアウトローとして伝説に為って居ます。義賊的な犯罪者に憧れを抱く風潮があるのも、アメリカの国民性の特徴かも知れません。
L.A.ギャングストーリー【2013年】
あらすじ 舞台は1949年のロサンゼルス。ミッキー・コーエン(ショーン・ペン)は、麻薬・銃器取引や賭博・売春で名を挙げ、政治家や警察を買収して街を実質的に支配して居ました。そんなコーエンの帝国を根底から破壊する任務に就いたのが、オマラ巡査部長(ジョシュ・ブローリン)が選んだ極秘チーム「ギャングスター・スクワッド」。
ウーターズ巡査部長(ライアン・ゴズリング)を筆頭にロス市警の逸れ者ばかりで結成された部隊は、ギャングさながらのゲリラ戦でコーエンを追い詰めて行きます。
見どころ 邦題を見るとロスの街を支配した実在のギャングであるミッキー・コーエンが主人公の様に感じますが、この作品は原題の『Gangster Squad』が示す通り、コーエンと戦ったロス市警「ギャング部隊」の物語です。
大都市を蝕むギャングと権力の癒着 原作と為ったのは1940〜50年当時のロサンゼルスの街を描いたノンフィクション作品で、映画化に当たり「ロサンゼルス・タイムズ」の連載記事をまとめたものです。未だ第二次世界大戦後間も無い時代で、オマラも兵士として戦地で戦った事を劇中語っています。
「"天使の街"ロスで平穏に暮らす為に戦地で戦った、そして今はギャングから守る為に戦う」と。
ミッキー・コーエンはニューヨーク生まれロサンゼルス育ちのユダヤ系ギャングで、10代の頃はプロボクサーを目指して居ました。ギャングの世界に入ったのはシカゴで、アル・カポネに憧れを抱いて居た様です。ロスに戻りバグジー・シーゲルの下で働く様に為ります。映画とは違い、実際はカポネ同様脱税の罪で実刑判決を受けて居ます。
ニューヨークで発生したギャング集団は、20年代の禁酒法時代や30年代の恐慌時代、40年代の大戦時代を経て、シカゴやロス等の都市部に根を張り、50年代にも為ると政治や警察との癒着を持って悪徳栄える街を形成して行ったのです。
逃亡者【1993年】
あらすじ シカゴ記念病院に勤める外科医リチャード・キンブル(ハリソン・フォード)は、或る日突然、妻ヘレン(セーラ・ウォード)の殺人容疑で逮捕されてしまいます。裁判でも無実を証明することは出来ず、死刑判決を受けるのでした。
しかし刑務所へ護送される途中、他の囚人の逃亡に乗じて逃走。連邦保安官補ジェラード(トミー・リー・ジョーンズ)の執念の追跡の中、真犯人を追う覚悟を決めます。
見どころ 1993年公開の映画『逃亡者』は、1960年代に人気を博したテレビドラマ『逃亡者』を元にリメイクした作品です。妻殺しの冤罪を晴らす為、逃亡しながら真犯人を探すと云うクライム・サスペンスの要素も持って居ます。
全米が注目した冤罪事件 ドラマ版『逃亡者』の元に為って居る冤罪事件が、1954年に起きた「サム・シェパード事件」です。サム・シェパードは、自宅で妻マリリンを殺されたオハイオ州の医師。しかし警察はサムを容疑者として逮捕し、裁判では終身刑の宣告を受けました。
ドラマや映画の様に逃亡して真犯人を探す事はありませんでしたが、再審中に脚色して放送されたドラマにより、事件は世間の注目を集めました。そして1966年の再審でサムは無罪を勝ち取って居ます。アメリカ現代史に存在する冤罪事件の中でも有名であり、警察組織やマスコミ・世論の闇を感じられる事件です。杜撰な捜査と無責任な世論で有罪と為り、又興味本位な世論により無罪と為った訳です。
ブラック・スキャンダル【2016年】
あらすじ 1970年代のサウスボストン。その一帯で地元アイルランド系ギャングとしてイタリア系マフィアと抗争を繰り広げて居たジェームズ・"ホワイティ"・バルジャー(ジョニー・デップ)は、互いの利害が一致するFBI捜査官ジョン・コノリー(ジョエル・エドガートン)から密約を持ち掛けられます。それはFBIに敵の情報を売る事。FBIの後ろ盾を持ったバルジャーは、弟で政治家のビリー(ベネディクト・カンバーバッチ)共手を組んで街を思うママに操る様に為ります。
見どころ 『ブラック・スキャンダル』はFBI史上最悪の汚職事件とも言われる、FBIとギャングと政治家の癒着を告発した実録クライム映画です。「ボストン・グローブ」紙の記者ディック・レイアとジェラード・オニールがスクープした記事によって驚愕の事実が明らかに為りました。原作はその記事をまとめた著書「密告者のゲーム−FBIとマフィア、禁断の密約」です。
暴走する裏社会と権力者 バルジャー兄弟とジョン・コノリーの3人はサウスボストン出身の幼馴染み。3人の癒着は、バルジャーをボストン一の犯罪王、ビリーをマサチューセッツ州議会上院議長に迄押し上げて行きました。サウスボストン、通称「サウシー」は善悪の境界が曖昧な街として知られ、警官とギャングの兄弟等珍しく無いと言います。
フィクション作品だと、イタリアン・マフィアの成り立ちに付いては『ゴッドファーザー(1972年)』も参考に為りますが、特に『ディパーテッド(2007年)』はサウシーを舞台にした潜入捜査官の物語で、バルジャーをモデルにしたギャングのボスも登場して居ます。
FBIはそれ迄公式にマフィアの存在を認めて居なかったものの、FBIの初代長官ジョン・エドガー・フーヴァーが去った後、イタリアン・マフィアの台頭が問題化して居ました。『ブラック・スキャンダル』は、70年代に入ってFBIが本腰を入れてマフィア浄化に乗り出した頃の状況を描いて居るのです。
フェイク【1997年】
あらすじ ニューヨークのイタリアンマフィア5大ファミリーの一大勢力であるボナンノ・ファミリーへの潜入を命じられたジョー・ピストーネ(ジョニー・デップ)。彼は宝石窃盗のドニー・ブラスコと名乗り、階級の末端に居たレフティ・ルギエーロ(アル・パチーノ)と接触します。
そしてレフティと組んで着実にファミリー内でもFBI内でも仕事を熟して行くピストーネ。しかしそんな偽りの二重生活に疲れ、苦悩する様に為ります。
見どころ ジェームズ・"ホワイティ"・バルジャーがFBIとつるみ始めた1970年代中頃、FBI捜査官ジョー・ピストーネがドニー・ブラスコと名を変え、イタリアン・マフィアに潜入しました。その潜入捜査の回想録を「フェイク−マフィアを嵌めた男」として出版、映画『フェイク』はこれを原作としたクライム・アクション作品です。
曖昧で脆い善悪の境界線 FBIがニューヨークのイタリアンマフィアの麻薬販売ルート摘発に力を入れ始めた70年代と、ファミリー同士の抗争の様子を窺い知れる作品です。又、マフィア潜入捜査と云う厳しい任務を全うしたピストーネの実話から、善悪の境界は脆く、表裏一体だと実感します。
1969年にFBI潜入捜査官と為ったピストーネは、その後ボナンノ・ファミリー潜入に志願したと言います。ファミリー同士の抗争が激化した為、1981年に6年間に及ぶ潜入捜査から撤退しました。FBI退職後は映画・テレビのプロデューサーやコンサルタントをして居るそうです。好く元犯罪者がその道のコンサルタントに為って成功する話もありますが、こう言った二面性を有効活用すると云う点では、つくづくアメリカの懐の深さに驚かされます。
バリー・シール アメリカを嵌めた男【2017年】
あらすじ 民間航空会社に勤めるバリー・シール(トム・クルーズ)は天才的な操縦技術を持ったパイロット。
しかし或る日CIAからスカウトされ、中南米への偵察機パイロットとして極秘作戦に加わる事に為ります。その一方で密かにコロンビアの麻薬カルテルとも取り引きし、大量のコカイン密輸も請け負って居ました。CIAの黙認も追い風と為り、大金を手にしたシールは暴走して行きます。
見どころ 嘘みたいな本当の話『バリー・シール アメリカをはめた男』は、1970年代中期からの10年間、麻薬と銃器の密輸を行ったバリー・シールの破天荒な人生に迫ったクライム・アクションです。ブッ飛び過ぎてコメディの要素が無いと付いて行け無い程、飛んでも無い実話なのです。
銃と麻薬の国アメリカ? その当時のレーガン政権はコカイン撲滅を目指して居ましたが、皮肉な事にシールがセッセと国内に大量のコカインを運び込んで居た訳です。80年代はアメリカ国内でコカイン中毒が問題視され始めた時期です。シールはその原因の一端を担って居たという事に為ります。
又レーガンは強硬な外交政策を打ち出し、共産主義化が進むニカラグアを危険視して「イラン・コントラ事件」を起こします。当時敵対して居たイランに武器を売り、その代金でニカラグアの親米反共ゲリラ「コントラ」を援助して居たと云う政治スキャンダルです。実はこの事件に一枚噛んで居たのもシール!アメリカ政府の依頼でコントラに銃器を密輸して居たのです。
この作品は現代のアメリカの闇を凝縮した様な1本です。政府が密かに国家的な犯罪を指示し、矛盾に満ちた政治が行われ、麻薬が蔓延する国内では中毒者が増加。共産主義を叩く為には銃器密輸も厭わ無い!大統領が変わっても、基本的には現在もこのスタンスは変わって居ないのでは?
多くの犠牲と闇を抱えて来たアメリカ裏社会
ニューヨークの覇権争いから西部のフロンティア精神、そして世紀の悪法「禁酒法」と世界大恐慌の時代を経て、現代に続くアメリカを形成し支えて来た最底辺の土台は、紛れも無く裏社会で暗躍して来たアウトローや犯罪者達。
ギャングの抗争や警察組織の汚職と癒着、銃器売買や麻薬ビジネス等切っても切れ無い悪の連鎖があるのも又事実。多くの犠牲を払って、闇を抱えたママ生きて来た裏社会の人々が居たと云う事も、これ等の作品で知る事が出来ました。アメリカでは何故銃に対する信仰が根強いのか、そして何故麻薬が無く為ら無いのか、その答えがここにある様な気がします。
最後に
クエンティン・タランティーノ監督が、1969年に起こった「シャロン・テート殺害事件」を題材にした作品を手がける用ですが、これも又アメリカ社会の暗部を教えて呉れるクライム・アクション映画に為るのではないでしょうか?今後も機会があれば、是非90年代以降の社会を描いたクライム映画にも触れて行きたいと思います。
以上
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2019年06月25日
新シリーズ 部落問題を精査する その7 同和運動について
新シリーズ 部落問題を精査する
その7 同和運動について(最終回)
戦後、部落解放運動は「同和問題」として立ち現れて来て居る。戦後の憲法秩序に沿う形で特殊部落の一般市民化が要請される事に為り、これを「同和」と称した。その後、大衆社会の出現と共に「同和」は可なり進んで居るが、その認識を廻って、部落差別問題は日共系の「急速に解消論」と解放同盟系の「根強く残存論」の二派の見解が対立して居る。
日共系は次の様に述べて居る。
「部落解放の課題とは、封建的身分差別からの解放と云う本来的にはブルジョア民主主義の課題であり、資本主義的な搾取・収奪からの解放ではありません。従って、独占資本の横暴な専制的支配に対し、自由と民主主義を守り発展させる運動を拡大・強化させて行く為らば、部落問題の解決は資本主義の枠内でも実現させる事が出来ます」
内閣同和対策審議会答申は次の様に述べて居る。
「所謂同和問題とは、日本社会の歴史的発展の過程に於いて形成された身分階層構造に基づく差別により、日本国民の一部の集団が経済的・社会的・文化的に低位の状態に置かれ、現代社会に於いても、尚著しく基本的人権を侵害され、特に、近代社会の原理として何人にも保障されて居る市民的権利と自由とを完全に保障されて居ないと云う、最も深刻にして重大な社会問題である」
又、答申の前文では次の様に、部落問題解決の責任が国にあり、国民的課題である事が高らかに歌われて居ます。
「云う迄も無く同和問題は人類普遍の原理である人間の自由と平等に関する問題であり、日本国憲法によって保障された基本的人権に関わる課題である。従って、審議会はこれを未解決に放置する事は断じて許され無い事であり、その早急な解決こそ国の責務であるとの認識に立って対策の探求に努力した」
更に、答申第3部の「同和対策の具体案」の中では、同和行政は、部落問題が解決される迄総合的・抜本的に実施され無ければ為ら無い事を、以下の様に明確に指摘して居ます。
「けれども現時点における同和対策は、日本国憲法に基づいて行なわれるものであって、より積極的な意義を持つものである。その点では、同和行政は、基本的には国の責任に於いて当然行うべき行政であって、過渡的な特殊行政でも無ければ、行政外の行政でも無い。部落差別が現存する限りこの行政は積極的に推進されなければ為ら無い。
従って、同和対策は、生活環境の改善、社会福祉の充実、産業職業の安定、教育文化の向上及び基本的人権の擁護等を内容とする総合対策出なければ為らないのである」
特殊部落の現況
特殊部落の現況は次の通り。「被差別部落(未解放部落)」「同和地区」「対象地域」或は単に「部落」と言われる事もある。総務庁の1993(平成6)年調査によると、全国に6000地区が確認され、その内法的施策の対象である同和地区数は4603、世帯数・人口を把握しえた部落の数は4443地区で、同和関係世帯数は約30万世帯(地区全体は約74万世帯)、同和関係人口は約89万人(地区全体は約216万人)と為って居る。
部落の数は特に近畿、中国等の西日本に多く、内訳は、中国23.1% 近畿21.9% 四国14.8% 関東13.7%中部7.5%。関西では大都市の中の大型部落。関東では少数散在型。現在は混在が進みつつある。
部落の居住環境や生活実態は、旧身分の残りものとも関わって極めて劣悪な状態に置かれて居たが、1969(昭和44)年以来、同和対策事業特別措置法、地域改善対策特別措置法及び地域改善財特法に基づいて行政上の特別措置が執られ、同和行政が以前とは比較に為ら無い程前進して居る。
以上 シリーズおわり
【管理人のひとこと】
長い間お付き合い頂きありがとうございます。何の知識も経験も無いのに、この問題に触れるのは誠に失礼なのですが、触れずには置かれ無い「目に見えぬ」何かか存在する事は、過去10年以上の大阪での生活で深く実感したことでした。
北海道の山奥に育ち旭川市へ転居し高校時代迄を過ごした管理人は、大阪の学校へ入った頃より「何?どうしてこんな事が」と未知識のこの問題に触れたのです。
大阪では普通に「エタみたい汚いヤッチャ!」「アイツは四つや!」「チョン公!」等、誰かを汚く罵る時に使う言葉なので、何の意味か全く理解出来無かったのです。学校を卒業し社会人として働く中で、その疑問は「未知の問題」として益々心に引っ掛かり、或る知識人との何度もの問答で、これは、人間が意図的に作り出した「歴史」的な問題だと理解したのです。
それは、感情的にも経済的にも社会政治的にも必要とされた、物凄く意図的に作り出されたものだった・・・との理解です。
その知識人とは、教育大を卒業した人で30歳前後の方で、ボーイスカウト運動や他の社会奉仕活動を熱心に行う中小企業の跡取りで、朗らかで円満な人格を持つ方でした。管理人はその人の温厚な人格が好きで尊敬し、何でも相談したり判らぬ事を質問したり・・・奥様も加わり一緒に為って考えて呉れたりしたものでした。私の疑問に、何でも一緒に考え調べ、何かの回答を得られる為に努力しても呉れたのです。
その人には、仕事の上でも何かと世話を受けたのですが、管理人は少しの暇があるとその人の元に出掛け「暖かい雑談」に時間を潰しました。
差別は、人間の生まれながら持つ業(ごう)である・・・と彼は結論したのですが、恐らく差別・階級は男女の性別を初めにして、自然発生的に必要とされ作られて来た歴史なのだと。恐らく文明の進歩とは無縁な、時空を超えて存在する人間の本性であり性(さが)でもあるだろう。差別する心は、自然発生的に存在する一種の自己防衛本能の一つでは無かろうか。
これは、苛(いじ)めにも何処かで共通する。虐める側に建つ事で自分を守り、虐められ無い様な立場に身に置く事で自己防衛するのです。その為には、為るべく目立たぬ様に皆から嫌われ無い様に心掛けるのが優先される・・・今流行りの忖度(そんたく)ですね。何とも情け無いのですが、恐らく多くの人がそうでしょう。だから幾ら社会問題と為っても差別と苛めはこの世から無く為ら無いのです。
部落の発生には色々な学説が混在します。古来からの原住民や部族間の闘争・戦争の敗北者や経済的難民、渡来民族に戦争捕虜・・・そして、平安時代からは宗教による「ケガレ」の思想が差別の影響を強くさせます。宗教とは鼻から万民を救済する思想では無かったのですね。
我が国では為政者が社会を統治する道具として用いたのですが、それが鎌倉時代に大きな改革を生み沢山の宗教家を生み出したものと考えらるのです。でも又直ぐに政治的に利用され、為政者の保護と監視を受け乍ら今まで生き永らえた「不思議な」社会現象なのです。
新シリーズ 部落問題を精査する その6 戦後部落解放運動の歩み
新シリーズ 部落問題を精査する
その6 戦後部落解放運動の歩み
敗戦後、米欧型民主主義が導入され、戦後憲法の策定・明治期に作られた華族制度の廃止が為され、部落差別は法的に解消された。新憲法には、戦争放棄の宣言と共に「全て国民は、法の下に平等であって、 人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において差別され無い」(第14条)と唄われて居た。
又第11条では基本的人権、第25条では最低生活権を有する事も明文化されて居た。 しかし、これを実効的にさせる為の諸施策に付き行政当局が自ら進んで為す事は無かった。これを促すのが戦後の部落解放運動の主潮と為る。1946(昭和21).2.1日、旧水平社を中心に部落解放全国委員会が結成される。
部落差別の起源について
一般に職業起源説から把握されて居るが、「歴史的事実にも合わ無い誤った俗説」として否定する見解もある。意図的に社会政策的に作り出されたとする「政治起源説」もあるが、具体的にどう云う判断に基づいて居たのかと為るとハッキリしない。「身分は社会発展の一定の段階で生み出され、これを封建権力が制度化した」と言い換えても同じである。
部落差別の定義
以上を受けて以下「部落差別の定義」をして置こうと思う。次の様に云えるのでは無かろうか。
「人種や民族の違い、出身や職業の違い、性の違い等の違いを理由に、基本的人権である権利を奪い、政治、経済、文化等の生活全般に渉って、社会的に不利益な扱いをする事が差別であり、取り分け、被差別部落(同和地区)の出身である事を理由に行なわれる差別が部落差別と云う」
「部落民とは、近世の封建的身分制の士農工商秩序の下で、これ等の身分とは分離させられ最下位に置かれた賎民で、その主要な部分を占めて居たエタ身分に属して居た階層を云う。この階層は集団的に閉じ込められた事により特殊部落を形成する事に為った。
衣・職・住等生活のあらゆる面で厳しい規制を受け排外された。更に、その下位に特殊部落とは又異なる非人層も存在した。明治維新後、士農工商秩序は解体されたがこの特殊部落は残存され、引き続き経済的・社会的・文化的に低位な生活を余儀無くされた」
「戦後の新憲法の発布と共に法的には解体されたが、社会生活上根強く残存され部落解放運動が要請される所以と為った。1965年に出された内閣同和対策審議会答申では『同和問題とは、人類普遍の原理である人間の自由と平等に関する問題であり、日本国憲法によって保障された基本的人権に関わる課題である』」事を明らかにして居る 」
「ケガレ意識」に纏(まつ)わる部落差別
封建時代の斃牛馬処理との関連から生み出されたものであるが「差別観念を生み支える感性的諸条件」に「貴賎意識・ケガレ・ヨゴレ意識」がある。(部落に対する蝕穢しょくえ思想)
この差別感は現在急速に薄れて来ている。戦後社会の民主化と経済発展、技術革新により、環境が衛生化した事により、物質的基礎が改善された事による。
同族意識
本家・分家等の家系譜を同じくする同族団の間に於ける祖先伝来の家産の共同所有や管理、生活や農業の相互扶助、祖先の共同祭祀等に基づく集団結合の意識と、その内部における本家・分家間の上下関係の意識のことです。
歴史的には前近代的な性格を持つ社会結合の原理です。明治維新後も、農村を中心に同族的な結合や意識が根強く残されて居ましたが、第二次世界大戦後は、家父長制的家族制度の解体とも相まって急速に弱まりました。しかし、長い差別の歴史の中で居住の自由を実質的に制限され「部落外」との通婚を妨げられて来た部落に於いては、都市・農村を問わず今日に於いても尚一部に、同族的な結合や意識が相対的に強く残存しており、部落民を地区に縛り付け、地区内の民主化を妨げる要因と為って居るだけで無く、部落排外主義的な考え方を生み出し易い温床とも為って居ます。
その6 おわり 次は同和運動について・・・
新シリーズ 部落問題を精査する その5 近代部落解放運動の歩み
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その5 近代部落解放運動の歩み
1877年(明治10)代の自由民権期に入ると、部落の中には板垣退助指導の自由党に加入したりして部落解放運動を始めたり、中江兆民の様な自由民権論者の中に部落解放を唱える人物も出て来た。
明治中期に為って、福本日南(ふくもとひなみ)の『樊噌夢(まがきそゆめ)物語』(1886刊)や柳瀬勁介(やなせつよすけ)の『社会外の社会穢多非人』(1901刊)の様に、部落民を日本の海外発展の市場獲得の先兵にし様と云う論も出て来た。島崎藤村の『破戒』(1906刊)の主人公・瀬川丑松(せがわうしまつ)が部落差別に耐え切れずアメリカのテキサスに旅立つのも、こうした時代環境に在ったからであろう。
政府の無策によって、部落の有力者は自主的な部落改善運動を起こした。1893年(明治26)の和歌山県の青年進徳会(せいねんしんとくかい)、翌々年の大阪での中野三憲等の勤倹貯蓄会(きんけんちょちくかい)、その翌年,岡山県での三好伊平次等の修身会・青年会等がそれであり、1902年(明治35)の岡山県の三好伊平次等の備作平民会(びさくへいみんかい)、又その翌年,全国的規模の大日本同胞融和会(だいにっぽんどうほうゆうわかい)、1912年(大正1)の奈良県を中心とした同志会(どうしかい)、その翌々年の帝国公道会等、部落改善運動(部落の自粛じしゅくを特に強調)が勃興し、融和運動(ゆうわうんどう)を主張して来た。
大正期に為ると、折からの大正デモクラシーの高揚に伴い、1913年に民俗学者柳田国男の「所謂特殊部落の種類」(国家学会雑誌)1919年(大正8)喜田貞吉『民族と歴史』(特殊部落研究号)等に部落問題が学者等に注目される様に為った。
1910年(明治43)、所謂大逆事件が起こったが、この頃から政府も部落対策を講じて来た。しかし治安維持と救貧策の見地からの慈善的恩恵的(じぜんてきおんけいてき)な行政施策であった。更に部落の自主的な改善運動が起こって来たが、政府は十分に改善施策を助成し促進する事をしなかった。
1917(大正6)年、奈良県橿原市の畝傍(うねび)山の麓にあった洞(ほら)部落が神武天皇陵を見下ろして居るから恐れ多いと云う事で、強制的に移転させられて居る。戦前の軍国主義時代、解放運動の父・松本治一郎が叫んだ「貴族あれば賤族あり」と云う言葉は見事にこの事を示して居る。
1918年(大正7)夏、米騒動が勃発して、部落民の蜂起が激しかった事が判って、政府は部落問題の重要性を認識した。次いで1920年(大正9)奈良県南葛城郡掖上村(ならけんみなみかつらぎぐんぬきかみむら)柏原(かしわばら)での燕会(つばめかい)の創設から、1922年3月京都岡崎公会堂で全国水平社が創立された。
全国水平社は政府の融和事業を排撃(はいげき)し、人間の尊重を基礎とし、団結して自らの行動によって絶対の解放を期し、以て人の世に熱と光を与える事を目的とした。
水平社運動の初期の段階は、差別した者に対する徹底した糾弾闘争(きゅうだんとうそう)で、1923年の奈良県都村に於ける水平社対国粋会との流血事件、群馬県世良田村の自警団との事件、26年の福岡連隊事件等と続いた。
しかし運動の激化に伴い、闘争の在り方に内部分裂が起こり、折からの*アナ・ボルの対立が水平社運動にも波及し、政治的な労農闘争と連携して行く運動と為った。
*アナ・ボルの対立 第1次世界大戦後,日本の社会運動内部に生まれたアナルコ・サンディカリスムとボリシェビズムの2潮流による思想上や運動上の対立。
大戦後労働運動が高揚し,その中に1920年頃から大杉栄等のアナルコ・サンディカリスムの思想が強い影響力を持つ様に為った。一方1917年に起こったロシア革命の研究が山川均らによって進められ,ボリシェビキの影響も見られる様に為った。21年4月のロシア共産党第10回大会でアナーキスト排除が決定され,それを機に日本でもアナ派とボル派が対立した。以上
これに対して1928年(昭和3)の三・一五事件、翌年の四・一六事件と言った共産党弾圧事件に水平社幹部も多く検挙され、折からの昭和恐慌の荒波にあって水平社運動も沈滞した。
1933年(昭和8),水平社は勤労大衆の階級的連携を強化すると共に部落委員会活動を起こし、不況の中で部落大衆の経済的・文化的要求を組織を通して行政に要望して行こうと云う運動に転じた。これが折からの高松地方裁判所の差別判決閾争と重なり水平社運動を盛り上げた。
水平社は政府が1936年(昭和11)から始めた「融和事業完成10カ年計画」に批判的であったが、太平洋戦争の勃発で、次第に国策順応(こくさくじゅんのう)に傾斜して行った。
こうして、融和運動は水平社運動へ結実して行ったものの、その水平社運動もジグザグし、所謂「絶対主義的天皇制・寄生地主制・家父長制的家族制度」の中で、部落の差別的な実態や一般住民との断絶状態はそのままに温存された。大きな解決の条件は第二次世界大戦後を待た無ければ為ら無かった。
その5 おわり 次は戦後部落解放運動の歩み・・・
新シリーズ 部落問題を精査する その4 幕藩体制下での部落民の抵抗と幕府の対応史
新シリーズ 部落問題を精査する
その4 幕藩体制下での部落民の抵抗と幕府の対応史
「エタ」身分の人達は、こうした差別と貧困に泣き寝入りして居た訳では無い。1856(安政3)年の渋染一揆(しぶぞめいっき)に代表される様に、幕末に近付くに連れて「えた」身分の人々も、差別と貧困に抵抗して立ち上がり、身分差別撤廃の戦いを展開して行った。幕末期にはこうした闘いの火の手が次々と挙がって居り、次第に幕藩権力に抵抗する運動へと激化した。
1749(寛延2)年の姫路藩の全藩一揆、1782年(天明2)年の和泉北部54カ村の千原騒動、1823(文政6)年の紀州北部280カ村7万人の百姓一揆等の時には部落民が一般百姓一揆に加わって幕藩権力を脅かして居る。
1804(文化11)年から1855年(安政3)年に掛けて丹波篠山藩に於いて本村の隷属下にあった皮多村が、分村独立運動を50年間に渉って闘い願意を貫いた闘争もある。1806年(文化3)年豊後杵築藩での部落民に「浅黄半襟(あさぎはんえり)」を強要した事に対し、成功し無かったものの、領外に2カ月も立ち退いての闘争もある。1837(天保8)年の「大塩平八郎の乱」の時、この決起に部落民も参加して居る。
渋染一揆はその貴重な史実である。時に、1855(安政2)12月、池田藩(現在の岡山)は財政改善の為29条に渉る倹約令を出したが、最後の5カ条の「別段御触書」の内容が「部落の者は無紋にして渋染(しぶぞめ)の衣服以外は着ては為ら無い」と云うものであり、被差別部落民はこの差別法令の撤回を要求して立ち上がった。
1856(安政3)1月から6月中旬迄の間、53ヶ村の代表が何回も会合を開き相談をし、その過程では村によって考え方に微妙な相違が見られたにも関わらず最終的には約1500名の部落民が強訴(ごうそ)して居る。
6.13日に集結し、15日に嘆願書を池田藩筆頭家老・伊木若狭(いぎわかさ)に渡し、再吟味するとの約束を勝ち取った。8月に、別段御触書は取り下げさせる事に成功して居るが、調印だけはする様にとの事に為った。
この闘いの代償も又大きかった。1857(安政4)5月判決が出され、12名が投獄された。内6名が病死、2年後に残りの6名が釈放された。投獄中、厳しい拷問を受けて居る。全ての部落民に14日間の外出禁止が課せられても居る。
1866年(慶応2)の長州再征の時等に、幕府・長州藩とも脱賤(だつせん)を切望する部落民に対し、平民にしようと云う条件で部落民に動員を掛け事実上協力を取り付けて居る。長州では、幕末に民衆による軍隊が作られ、その中に部落の人々からなる「維新団」「一新組」が組織され、幕府による2回目の「長州征伐」の時には、芸州口(げいしゅうぐち)の戦い等で奮闘して居る。こうした解放への胎動が「解放令」を生み出す原動力と為る。
イヨイヨ幕末動乱期に為ると、幕藩体制否定の反封建思想が高揚すると共に、外国からの平等権的(びょうどうけんてき)啓蒙(けいもう)思想(天賦人権説・てんぷじんけんせつ)が広まった。又識者の中には社会政策の上からも、部落解放策を唱える者が出て来た。1868(慶応4・明治1)年、幕府は江戸浅草のエタ頭弾左衛門(だんさえもん)とその手下60人余を平民にして居る。
明治維新による新秩序
明治維新は、封建社会から資本主義社会へ移行する近代日本の出発点と為った。明治政府は近代的中央集権国家体制を目指し、政治・経済・教育のあらゆる分野の制度改革を進めた。これを俗に「文明開化政策」と云う。明治維新によって「四民平等」が唱えられ、近世身分制は廃止される事に為った。
明治新政府は、徳川幕藩体制の桎梏的(しっこくてき)な諸制限を廃止して行った。1871(明治4)年に太政官布告で「賎民解放令(せんみんかいほうれい)」が出され「エタ・非人」制度を法的には廃止し、法律や制度の上での身分差別は無く為った。「解放令」は、四民平等の近代社会を建設して行く事を宣明して居り、差別的な呼称の廃止、職業の自由を認めたと云う点では画期的な意義を持って居た。
「解放令」の発令によって、部落大衆は長年に渉る差別から解放されると期待して狂喜したが、一般国民は、自分等は部落民と同じ社会身分に落とされ、結婚を初め社会慣習・生活様式等全て同格にされると恐れて、解放政策反対の大規模な一揆を起こした。中国・四国・近畿・北九州地域に勃発し、政府はこの鎮圧に苦慮した。
しかし、翌1872(明治5)年我が国で最初の近代的な戸籍と言われる「壬申戸籍(じんしんこせき)」が作られた。この戸籍には、旧身分(きゅうみぶん)や職業、壇那寺(だんなてら)に犯罪歴や病歴等の他、家柄を示す族称欄(ぞくしょうらん)が設けられて居た。部落の人々に付いて「旧えた」とか「新平民」とか付記されて居た。
戸籍法では、従前戸籍(じゅうぜんこせき)の公開が原則とされて居たので、この「壬申戸籍」は1968年(昭和43年)包装封印される迄、他人の戸籍簿を閲覧したり戸籍謄(抄)本を取ったりする事が出来た。こうした事から判明する様に「賎民解放令」は宣言にのみ留まった。「エタ・非人」の生活環境諸条件は相変わらずそのママであったので何ら実効性を伴わ無かった。
他方で、天皇を中心とする専制的な政治を強めて行き、天皇制国家秩序の中での新身分秩序として「皇族・
華族・士族・平民・新平民」制を定めたので、身分差別構造が形を変えて続いて行く事に為った。出目や家柄を尊重し、それによって人々を差別する前近代的な価値観や慣習も根強く残存し「エタ・非人」制は近代社会の仕組みの中で特殊部落として差別されて行く事に為った。
明治政府のこの二面的政策により賎民身分に対する差別は無く為ら無かった。これを「半ば封建的な政治、経済、社会の遺制的(いせいてき)仕組み」と理解すべきか、明治維新後の「資本制社会の新たな差別の仕組み」と見為すかで議論が分かれて居る。
分析すべきは、近代資本主義の発展の中で、部落差別が強化されたのか緩和されたのか、新たな差別構造として存続したのか漸次解消方向へ向かったのか等々であるが、左程精査されて居無い。「部落住民の困窮をより一層強める事に為った」と云う見方もある。
何れにせよ、富国強兵政策遂行上、低賃金労働力の供給元として部落差別が再生産された事は疑い無い。その構造は、第一に、民衆に経済的・政治的・文化的な低さを我慢させ、低い生活を維持させる為に必要でした。これが部落差別の経済的存在意義である。
第二に、民衆の不満の捌け口を部落民に向けさせ、民衆同士を分裂させる役割を果たした。これが部落差別の政治的存在意義である、と云われて居る。
その4おわり 次は近代部落解放運動の歩み・・・
新シリーズ 部落問題を精査する その3 幕藩体制における部落差別の構造
新シリーズ 部落問題を精査する
その3 幕藩体制における部落差別の構造
江戸時代に入ると近世身分制が確立された。徳川幕藩体制は、武士階級が百姓を中心とする民衆から、苛酷な租税を絞り取る事によって成り立って居た。200万の武士が2800万人の民衆を支配する為に「士・農・工・商・えた・ひにん」と云う身分序列を設けた。
この時、夫々の身分が更に細かな身分に分けられ、且つ中世賎民の一部が把握され直され、賎民身分として近世身分制の最下層に置かれた。
農本経済を基調にして居た事もあり、農民は武士の次の身分に位置付けられて居た。その下に職人・商人を置き、更にその下に「えた」「ひにん」身分を作った。「えた」と「ひにん」の身分差も巧妙にされて居た。「えた」は、親子代々「えた」から抜けられず「ひにん」は或る一定の条件の下では「足洗い」をして、農・工・商の何れかの身分に戻れると云う仕組みにして居た。
その為「えた」は身分が上挌だと言って「ひにん」を蔑み「ひにん」は何時でも農・工・商に戻れるから自分達の方が上だと考えて「えた」を蔑んだ。互いに他人を蔑み合い「自分達の方が未だマシだ」と思わせると云う巧妙な制度であった。
尚、身分によって居住区が分けられ、武士は「城下町の武家地」町人は「町方(まちかた・城下町の町人屋敷地」百姓は「村・在方(ざいかた・農漁村の意味)」「穢多」は「村・在方の特殊部落」「非人」は「河原、その類(たぐい)」「その他の雑賎民」は無宿人として相応の所と云う風に制限される事に為った。
この封建的身分制の下では、社会的地位や職業・財産等は原則として父系親族体系に基づいて相続・世襲される事から、人々は生まれ乍らにして出自と家柄によって社会的身分が決定された。そればかりでは無く、居住区域・家屋様式・髪形・服装・職業・言語様式・教育等全ての生活様式や文化に渉っても、厳しい身分による差異が設けられた。
これ等の生活様式や文化の差異は、日常の社会関係に於いて身分の違いを目に見える形で表示し識別し得る標識として、身分制の維持の為に重要な意味を持って居た。又身分社会に於いては、親族体系が地位の相続や世襲に関して重要な意味を持つ為に、結婚に付いても異なる身分間の通婚は規制された。
近世の封建制度下の身分制の最底辺に置かれた「穢多(えた)」は集団的に閉じ込められ、賎民(せんみん)職業として主として畜産食肉業や皮革職業に従事した。ケモノを殺したり皮を剥ぎ、それを加工したりするので「皮多(かわた)」とも云われた。
領主に皮革を納める代わりに、死んだ牛や馬を引き取り処理する特権(斃牛馬へいぎゅうば処理権)を認められた他、皮革業を行なう為の作業場として屋敷地を与えられたり年貢を免除されたりする事も多かった。
しかしこれ等は何れも、賎民としての身分と結び着いた権利であり、日常生活の上では賎民身分として様々な厳しい差別を受けた。しかも特権を持って居た者は一部に限られて居り、多くの人は農業、皮革加工業、日雇い賃稼ぎ等雑多な仕事で生計を建てて居た。
領主によっては「エタ」身分の者を罪科人の処刑や牢番、役人の下で警備や犯罪者の逮捕等警察組織の手先として使い、分裂支配の手段として利用した処もあり「長吏(おさり)」とも呼ばれた。通説として、幕府の分断統治・反目政策と見做されて居る。
中世の社会は未だ流動的で、賎民でもその身分から逃れる事も不可能では無かったし、近世封建制の下で新たに「えた」身分に落とされた者も少無くは無かった。
徳川幕府時代の封建的身分秩序は「士農工商、エタ非人」制に貫かれて居た。徳川中期には賎民身分に対する差別は益々厳しく為り、風俗規制や「穢多狩り」と言って原住地を離れ都市に流れ込んだ者を捕らえる事さえも行なわれた。穢多・非人が領主の賎民支配の中核に為った。
その他にも雑多な賎民が存在して居た。加賀藩の藤内、山陰の「はちや」等は地域的な特色があるが、茶筅・さいく・夙の者・「はちたたき」等が広範に存在して居た。
その3おわり 次回は幕藩体制下での部落民の抵抗と幕府の対応史・・・