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2020年04月11日

日中戦争 従軍奇談 編集 真道重明氏



 
  日中戦争 従軍奇談 編集 真道重明氏 2002年3月

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 最終回 復員船中での異常な事態(コレラで死亡者続出 兵により裁かれる部隊長)
 
 我々が母国の日本へ帰還の為戦地の広州を離れたのは1946年の4月、乗船の為黄埔(蒋介石軍の黄埔軍官学校の在った地)の港迄徒歩で移動し、3,000名を収容したリバティ型の復員船に乗り、母国日本に帰還が叶ったのは5月初旬。
 しかし、懐かしい日本の山河を目前にして居るにも拘わらず、コレラ検疫の為久里浜港の沖に約1ヵ月も留め置かれた。要約連合軍の上陸許可が出て復員式を済ませ、郷里の熊本に辿り着いたのは翌月の6月であった。

 広州を離れて黄埔迄の移動・黄埔での乗船・航海中の復員船の中での異常な雰囲気・久里浜での復員完結・召集解除・・・故郷へ辿り着く迄の車中の出来事ナドナド・・・僅か2ヵ月足らずの間に実に思いも依らぬ色々な事が起こった。

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 通訳官として約7ヵ月勤務した、中国軍司令部に留め置かれる事も無く原隊に戻る事が出来、原隊も全員が待ちに待った復員船で母国日本へ帰る事が確実に為った時は、マルで「これは夢では無く真実の事だ」と皆心に言い聞かせた。
 客観的に言えば「戦争俘虜本国送還」である。背中に大きくPOWと書かれた衣服を羽織って居た者も軍服に着替えて居た。多くの兵はPOWの意味も知らずに,中には「恰好好い」と思って着て居た者も在ったが、 Prisoner Of War・捕虜の略号である。

 日本軍キャンプは捕虜収容所で有るが、誰もその様な言葉を口にはし無かった。敗戦を終戦と云うのと同じだ。このPOWと書かれた衣服を着て居る者も居たし着て居ない者も居た。中国軍は全員に着せようとしたが数が足り無かったのか「着たい者は着ろ」と言ったのか、その辺は隊を離れて司令部に居た私には分から無い。

 広州から黄埔迄の移動する時は、勿論日本軍は銃等は持たず、銃を持つ中国軍の少数の護衛兵が同行して居た。恐らく中国軍は所謂「北伐」即ち、当時日本軍が八路軍と呼んで居た北方の共産党軍と戦う為続々と北上を始めて居り、中国は内戦に突入しつつ在ったから、日本軍は早く処理したかったのではないか?大部隊の日本軍捕虜等に構っては居られ無い。それ処では無かったのでは無いかとも思われる。
 徒歩で隊伍を組んで移動する日本軍を見に沿道には中国の民衆が居た。多くの者は只黙って眺めて居たが、中には「チャンコロ」と罵声を移動部隊に浴びせるものも居た。

 日本人が中国人を罵る時に「チャンコロ」と言うので「チャンコロ」は「馬鹿野郎や間抜け野郎」と言った只の罵声と思って居たのだろう。コレを聞いた日本兵は半ば呆れて「オイ、チャンコロが俺達にチャンコロと言って居る。何だコリャ―」と一斉に笑い出す。
 私達を罵った中国人は「罵られて笑う」とはどう言う訳だろうと理解出来ないで呆気に取られて居る。本来、チャンコロは「清国人」の中国音が日本で訛ったものだと言う説が多く、元来蔑称では無いとも言われるが、実際には中国人を指す蔑称として使われて来た。

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 女は強いとツクズク感じた。広州から黄埔迄はそれ程の距離では無い。徒歩移動部隊はその間に中国軍による所持品検査に3回引っ掛かった。移動部隊の中には従軍看護婦も居た。1回検査が有る毎に毛布や石鹸・衣類等日用品の余分なものは没収されてドンドン減って行く。
 背嚢は小さいので大型のリュックを背負って居た。男はそれだけだが、従軍看護婦は背負子の様な台枠の付いたものを背中に負い男の3倍の量の物資を抱え込んで居た。それだけでは無い、持ち切れ無い者は傍に居る兵に代わりに持って呉れと頼む。鼻の下の長い兵の内には引き受ける奴も居る。

 中国軍の検査係も、看護婦が微笑むと何も没収し無いで談笑して居る。男は何か渡して中国兵からタバコ等を受け取って居る。女は生活能力が有ると今更ながら思い知った。黄埔に着いた時には所持品の量の差は歴然として居た。
 検査係の中国兵は一つでも多く没収しようとしたが、此方が「コレは生活必需品だ」と抗議すると、中国軍の上官は「給他們用」(彼等に使用させよ、即ち没収するな)と係の兵に命じる場面が好く有った。戦争国際法での捕虜対応の規定がどう為って居るかは知ら無いが、この言葉は胸に残り感謝している。

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             従軍看護婦さんか・・・ご苦労様でした

 黄埔には3日〜4日ばかり居て復員船への乗船を待ったが、部隊内にコレラ患者が発生した。コレラの発生は南方では珍しい事では無く当時フィリピン等には年中在ったが、香港や広東省でも営外の一般社会では頻繁に見られた。
 日本軍では加熱しない食事等は絶対無かったし、外出しても「生まもの」の水・氷・アイスクリーム等を口にする事は厳禁されて居たので、軍に罹患者が出る等の話は聞いた事も無かった。しかし、黄埔での生活環境では衛生管理が不完全と言うより、空腹に耐え兼ねて「生もの」の食材を盗み食いする事が、コレラ患者発生の原因だった。

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 1〜2名のコレラ罹患者が確認されるや否や、軍医から緊急の厳しい指示があって、各隊の責任将校から全員に厳重な通告が為された。食糧貯蔵所の側を通り懸かった私は全く偶然にも、先程注意を呼び掛けた当の大尉その本人が生の馬鈴薯を噛って居る処を見掛けた。周りには誰も居なかった。将校・下士官・兵総て食事は同じものを同じ場所で食べる。彼も余程腹を空かして居たのだろう。昼過ぎに症状が出て翌朝死亡した。
 私は彼の名誉の為目撃した事は黙って居たが、内心ではその天罰?覿面(てきめん)さには驚いた。各人の健康状態は左程悪いとは見受けられ無かったが、栄養状態は食料不足の為多少悪かったのは事実である。それにしても彼の命は母国帰還を目前にして実に呆気無い結末を迎えた。

 コレラ蔓延で事態が急激に悪化したのは、復員船が久里浜沖に到着してからである。それ迄の罹患死亡者は三千人中に僅か十名足らずで在った。航海中の船中では鉄扉の食糧庫は施錠されて居たから問題は無かった。海水で顔を洗ったり歯を磨いても良かった。
 危機は久里浜沖に着いてからである。コレラ患者の人数が爆発的に増えた。軍医からの「絶対に海水で歯を磨くな」と云う警告を無視する者が増えたのである。
 飲料用の真水は最小限に抑えられて居たし、陸からの給水も無かったので歯磨きに使うだけの余裕は無い。海水は自由に使えたが手足や身体を拭くだけにしか使えず「歯は絶対に磨くな」の警告が出されて居た。顔を洗えず歯も磨け無い事は野戦では常にある。皆経験済みである。

 母国の山河を目の前に見て気が緩んだのだろうか?航海中に海水で歯を磨いて何でも無かったのに何故久里浜での洗顔・うがい・歯磨きが禁止されるのか?多分大した事は無い大丈夫だと思ったのだろう。
 コレラ菌は、海水には強く菌は増え無い迄も死な無い。南方から引き上げて来る船の殆どは、コレラ患者が居り、当時の久里浜の海はコレラ菌で充満して居たのである。私達の船も患者数は僅か数日の間に一挙に百名を超え、益々増え続けた。患者は発症後の僅か半日で死亡すると云う緊急事態と為った。

 コレラは余程悪性の菌でも普通は罹患者は2日位は生きて居る。半日で死亡するのは栄養状態が悪く、身体の抵抗力が無かったからだと言われて居る。蚕棚の様に為った所に荷物と共に一人一畳足らずの生活空間である。大佐だった部隊長も同じ環境で在る。患者と枕を並べて寝るのは実に不気味であった。
 患者数が多く、隔離室を設ける事はギュウギュウ詰の復員船では不可能で在った。2〜3回トイレに行き、後は脱水症状で横に為った限歩く力も無く為る。軍医や衛生兵が面倒を見るには人数が多過ぎる。12時間以内にはその患者はホボ確実に死亡する。

 内地から来た船員が患者の死体と荷物を運びに遣って来る物音に夜半目が覚める事も多かった。患者が私の位置から一人置いた隣りだったりすると、その不気味さは尚更である。平時であれば陸上の隔離伝染病棟に収容されるのだろうが、沖には十数隻の引き揚げ船や復員船が犇めき、何れも二千名から三千名の乗船者が乗って居る。
 占領軍の指示か日本政府の規則か知ら無いが、ワクチン注射と毎日の検便がある。全員の検便結果が陰性に為ら無いと上陸は許可され無い。後で聞いた話だがワクチンは栄養失調者には無意味で抗体が出来無いらしい。

 船から日本の民家や人々が歩く姿を毎日見ていながら、三千人近い全員が陰性に為る日を只待つだけの日々を船の中で約1ヵ月過ごした。一体何名がコレラで死亡したか分から無いが、死体を陸に運ぶボートが毎日数回は船と陸との間を往復して居たから、可成り多くの人数だった事は想像に難く無い。母国を目の前に死んだ人達はサゾ無念だったろうと思うと胸が痛く為る。

 下士官と兵ばかりで、将校が一人も乗船して居ない船が1隻ポツンと離れて沖に停泊して居た。もう久里浜沖に4ヵ月も留め置かれ上陸許可が出無いと言う。南方からの復員船である。将校全員は航海中に海に投げ込まれたと言う。コレラ騒ぎでは無い。
 占領軍は事態の異常さを重視し、取り調べが続いて居ると言う。この噂は毎日陸と連絡して居る舟艇の乗組員から聞かされた。私達には「何が有ったのか?」の見当は直ぐ付いた。その船の場合程過激では無かったが、似た様な事が航海中の私達の船でも起こって居たからである。

 黄埔を出航して数日目、大佐だった部隊長の行李(部隊長だけはどう言う理由か知ら無いが行李を所持して居た)の中味が私物であり、しかも、金製品や象牙の麻雀牌で有る事が分かった。これが切っ掛けと為って騒動が持ち上がった。
 召集解除で軍役を離れる迄一応の軍律は守られて来たとも言えるが、これは集団行動を維持する為の最小限の規律であって、上官侮辱罪等の考えは何処かに吹っ飛んでしまって居た。

 第一、全員が階級章を付けて居ないのである。良く「勝手な事をして部下を苛めた上官は、白兵戦で背後に居る部下から撃たれた」と言う話が有るが、将校・下士官を問わず威張って兵に勝手な私用の仕事を強制させたり、理由無く部下を苛めて憂さ晴らしをする様な人間は、この世の何処にでも居るものである。「何時か腹一杯殴って遣ろう」と内心では肚に据え兼ねて居る兵は沢山居た。
 下克上と言うか、人民裁判と云うか、部隊長の木製の箱である「行李を水葬礼にしろ」「俺達に毎日褌を洗わせた某中尉は俺達に謝れ」等と言い出す兵が続出し始めた。結局、東大法科出身の兵が裁判長と為って船内(人民)法廷が開かれる事と為り、大佐や中佐等が7〜8名が雛壇(被告席)に座らされる羽目と為った。

 「帽子を取れ」「頭の下げ方が足らん」等の兵の怒号の中で、土下座して謝罪の言葉を言わされた。告発文や判決文はナカナカ堂に入ったものであった。例の行李は甲板上の大勢の環視の中、数名の兵に依って儀式めいた仕草により海中に放り込まれた。
 勿論、部隊長はそれを見守る位置に立たされて居た。将校全員が海に投げ込まれたと言う上記の場合より遥かに温和な経緯では有ったが、集団の感情が激昂すると何が起こるか分から無い恐ろしさを感じた。

 マラリアの再発(召集解除で軍役を終り帰郷する車中での出来事) 

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 約1ヵ月経って遂に待ちに待った上陸許可が出た。上陸した岸壁から宿舎に為った兵舎迄は、各自の荷物と共にトラックで移動した。トラックが街角で急カーブを切った時、高く満載された荷物の上に乗った将兵が数名路上に振り落とされた。
 可成りの高さからの転落である。幸い誰も一つのカスリ傷も負わず「けろっ」としてその車に掻け登った。道端で眺めて居た町の人々は驚き「流石は兵隊さんだ」と驚いて居た。私もその一人だったから良く憶えて居る。

 宿舎ではクレゾール臭のぷんぷんする生温い風呂に入れられた。風呂と云うより隊列を組んで向こう側迄お湯の中をユックリと横断する様に歩かされた。石鹸で洗う暇等無い。終わると一人3分間位の間隔で次々とバリカンによる散髪が待って居た。
 船中で配られた数葉のハガキを家に出して居た私の場合、本籍地の役場から、ハガキで「一家は出征した時の住居から郷里に疎開し、その役場の近くに居る。連絡して置いた」との返事。宿舎では家からの手紙が届けられて居り「皆無事、帰宅を待っている」との返事を受け取って居た。中には連絡が付かずヤキモキして居る気の毒な人々も居た。

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 久里浜の宿舎には3〜4日居て、形ばかりの復員式と軍歴の書類作りが行われた。3ヵ月だか6ヵ月だか忘れたが、国鉄(当時は進駐軍の管理下にありRTOと呼ばれて居た)の汽車の乗車賃は免除される証明書が全員に渡され、当座の費用としての「涙金」が出た。
 宿舎から久里浜駅迄の道には多くの屋台が軒を連ね、煙草・おでん・飴玉・ラムネ等を売って居た。その風景はこの歳に為っても未だにハッキリ憶えて居る。米国の煙草を買おうとしたら「コレば煙草じゃ無い。シガレットと言うんだ」と売る小母さんに教えられた。「洋モク」と云う言葉はズッと後に為って知った。受け取った涙金は見る見る内に減って行った。

 船中での人民裁判の「シコリ」は未だ残って居た。私達が駅に着いた時、数名の南瓜の様な顔をした人が駅舎の隅に座って居た。彼等は昨夜兵からリンチを受け南瓜の顔は殴られてボコボコに為って居たのである。酷い話だが宿舎の責任者も事態を制御する事は出来無かった様だ。

 何処でどう乗り換えたかは記憶は今では定かでは無いが、兎に角私は東海道線に乗り郷里の熊本に向かった。旅客の8割は普通の人々で、将兵は2割位乗って居た様に記憶する。列車は総て超満員で、窓ガラスが無い処も多くベニヤ板で塞いであった。駅弁を買ったら海藻麺を塩辛い醤油で煮たものが入って居た。腰掛ける座席も無く立った侭喰った。
 静岡を過ぎた頃、私の体調が変に為った。マラリヤだと自分ではハッキリ分かって居た。顔が赤く為り42度位の発熱である。広州に居た将兵は殆どが罹患の経験を持って居る。熱帯に近い広東省は3日熱・4日熱・その混合型等数有るマラリア症状の中でも性が悪い。軍隊では塩酸キニーネや硫酸キニーネの錠剤は定期的に飲まされて居た。

 マラリアの発熱は体温が非常に高いが脳に来る事は無い。40度以上の発熱状態中でも将兵は馬に乗って行軍出来る。2〜3時間で発熱が引くと、恐ろしい寒気がして後、ケロッと治る。キニーネの錠剤を指示通り数日服用すると、次回の発熱は倍々と間隔が伸びる。私の場合は次回の発熱は3年後の筈であった。
 「間の悪い時に出たな」とは思ったが、こればかりはどうしようも無い。錠剤は病歴の有る者は沢山用意されて居て配給して貰って居たので、直ぐ服用し車内に立った侭我慢して居た。旅客の一人が私の顔が赤いのに気付き、手を私の額に当て42度の高温に驚き直ぐ3人が座席を譲って呉れ「横に為りなさい」と言って呉れた。「座らせて貰うだけで良いのです。マラリアですから」と答え座らせて貰った。皆の親切は嬉しかったが、マラリアを知ら無い人は「こんな高熱は只事では無い。死ぬのではないか?」と心配した様だ。

 郷里の家に着いたのは1946年6月下旬である。
 23 Nov. 1990 記 ( 完 )









 【管理人のひとこと】

 筆者は、直接の戦闘員では無かったので、色々な危機を潜り抜け病にも打ち勝って復員される事が出来た様です・・・心からご苦労様と申し上げたい。最後に赤痢とコレラの恐ろしさを知らせれました。そして、船内での感染が如何に凄まじいもので致死率が高く為るのも頷けます。そしてマラリアの後遺症も・・・全ては免疫を持たれたので対処が可能だったのでしょう。
 今回の新型コロナウィルスも「戦争状態」と形容する人が多く居ます。人類は過去に何度も未知の感染症で多大な犠牲を請けた歴史が有ります。人類は何度も苦難を生き残り現在まで生存し続けたのですが、未来も含め今後何時如何なるウィルスに遭遇するかは必然です。地震や台風と同じ災害ですが、目に見えぬ恐怖を克服するのは並大抵の努力では為されないものです・・・一日も早い回復を祈って居ります。
















 
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