2020年04月13日
日中戦争・太平洋戦争従軍の証言 赤池 光夫さん(兵士・男性) その1
日中戦争・太平洋戦争従軍の証言
赤池 光夫さん(兵士・男性)
その1 入営し南支へ
私は徴兵検査で甲種合格と為り、昭和13年12月1日 近衛歩兵第4連隊へ現役兵として入営し、皇居のご守護や大宮(青山)御所の警護の重任に当たって居た。恰も日中戦争の真っ只中、我が近衛師団にも動員令が降下、昭和15年6月29日、軍旗を先頭に東京・芝浦港から征途に就いた。
約1か月の長い船旅を終え、深夜、南支の小さな漁港に錨(いかり)を下ろした。此処は既に皇軍の占領下に在り治安も好く、膨大な軍需物資の揚陸作業も順調に進み翌早朝に終了した。輸送船から用意して来た朝食もソコソコに、直ちに目的地に向かい行軍が始まった。
真夏の南支は酷暑、それとも炎暑と表現した方が適切なのか。兎に角全身が燃える様に暑い。兵も軍馬もこの暑さと戦いながら、黙々と只管行軍を続けて居た。出発の時に用意して来た水筒もカラッポだ。止めど無く溢れ出る汗に喉はカラカラ。
田にはボーフラが泳いで居る。ボーフラが居る田は毒を撒いて居ない証拠だ。ソンな勝手の良い解釈をして、兵も軍馬も皆、田水で渇きを癒やして居た。しかし、その内に腹痛が始まり猛烈な下痢が続き、体が嫌に怠い。
溜り兼ねて衛生兵に薬をお願いした処、正露丸を足った5粒呉れた。私は責めて3日分位欲しかったので再度要請したら、腹痛を訴えて居るのはホボ全員の将兵で、前線には限られた量だけの薬しか無い「生水は決して飲むな」と注意され断られた。
如何に妙薬でも足った5粒。一度だけの服用で治療する事は不可能だと思いながらも、どうする事も出来無かった。ヤガテ、体調不良を訴え野戦病院に収容される将兵が続出。軍馬も何頭かが熱中症や下痢を起こし、数頭が斃死すると言う最悪な事態に為り、それからは昼は木陰で休養を取り夜の行軍に切り替え、目的地「南寧」を目指した。戦争は弾丸の下だけでは無い、全く想定外の自然との厳しいもう一つの戦いが在る事を初めて知った。
大陸の夏は暑く、戦野は途轍も無く広くその果てを知ら無い。皇軍はこの広大な戦野に敵を求め昼夜を問わず行軍を続ける。軍馬は重機関銃や重い弾薬を背負って兵と行動を共にする。日本の軍馬は暑さに想像以上に弱い。
オーラ、オーラと優しい言葉を掛けながらの進軍、全身汗ビッショリの軍馬の手綱を引っ張っても、お尻を押して遣っても動こうとし無い、もう動け無いのだ軍馬も暑さに負けたのだ。重い荷物を下ろし、鞍を外し汗を拭って遣る。塩を舐めさせる水を飲ませる。疲れた身体で懸命に馬の介抱をする。戦争は「酷」の連続だ。
将兵も軍馬も長途の行軍で疲れ果てた頃、敵と遭遇し激しい戦いが始まる。ヤガテ敵が敗退し、赫赫(かっかく)たる武勲と戦果を土産に前線基地へ戻る。多大な戦果は、我が軍にも掛け替えの無い尊い戦友の命との引き換えの上に成り立って居ると思うと、無念の涙が頬を伝わる。誠に悲しい限りである。
南支の奥地「南寧」に前線基地を置いた我が軍は、幾度かの転戦・転進を繰り返しながら、何時しか広州市周辺に部隊を展開して居た。或る時「珠江」上流数10kmの「浮垾」の町に敵が兵力を増強しつつ有るとの情報を入手。この敵をせん滅すべく、我が部隊は深夜、隠密裡に敵地を目指し遡航して居た。
2時間程経った頃、船団が突然停止した。干潮の為減水し航行不能に陥ったのだ。止む無く、潮の満ちる迄待つ事に為った。この間、日本軍が「浮垾」を目指し遡行中との情報が敵司令部に入手されて居るとは日本軍は知る由も無かった。潮が満ちて、再び遡航が始まったのは午前10時頃だった。
黎明(れいめい)攻撃の予定が大幅に遅れ、敵地到着は正午の予定、それ迄に昼食を取る様命令が出た。飯盒を取り出し二口目を口に運ぼうとした時、突然敵の攻撃を受けた。
私の乗っていた船は「建寧丸」と言い、水上1階・水面下2階の大型木造船で現地調達の物で、この船の、水上1階の窓際に乗って居た。窓を開けると敵の機関銃が火を吐いて居る。直ちに応戦、3発目を撃とうとしたら、轟音と共に船が傾き足が濡れて来た。
撃ち方を辞め振り向くと船内は真っ赤な血の海、多数の将兵が入り混り、悶え苦しみ正に地獄絵そのままだった。これは大変だ危ないと、銃を船内に押し込み泳ぎ出した。振り向くとマストが水中に没する処で、この間僅か2〜3秒の出来事だった。
フト見ると、前方に丸木舟が浮いて居て日本兵が乗って居る。私はこの舟を目指し泳ぎ着き助けられた。舟には櫓(ろ)も櫂(かい)も無く、素手で力を合わせ必死に漕ぎ続けた。「建寧丸」を沈めた敵は、私達の丸木舟に銃口を向け撃ち続ける。
ボチャ、ボチャと敵弾が近くの水面で音を立てて居る。しかし、ユラユラ揺れ続けながら流れに乗って逃げる丸木舟は、幸いに被弾する事も無く無事対岸へ上陸する事が出来た。
上流を眺めると、遥か彼方に黒煙が空を覆って居る。アノ下が「浮垾」だ。私達はその煙を目指した。5人は誰も武器を持って居ない。人目を避ける為、ワザと川岸の雑草を押し倒しながら歩き続けた。
要約友軍と合流した時は、戦いが終わり夕食中だった。私達は居合わせた戦友から分けて貰い空腹を凌いだ。夜10時頃全員集合、戦果を部隊長に報告する時が来た。私は本隊と合流後、部下の所在を確認の為各中隊を訪ね必死に探し回った。しかし、無事の部下とは残念ながら出会え無かった。
「第6分隊、総員5名現在員1名、4名は行方不明、終わり」
部隊長は頷き、私の前を通り過ぎた。ヤガテ訓示が終わり解散と為り、背嚢を枕に横に為ったら一気に疲れが出て深い眠りに入り、戦友に起こされ目が覚めた。間も無く広州から「建寧丸」引き揚げの為、潜水夫や増援の兵士等が到着した。
中隊長も急を聞き駆け付けて来た。私は戦闘経過を報告し、部下を失った事を陳謝した処、中隊長は、無言のママ肩を叩き「ご苦労であった」と労われ恐縮した。
引き揚げ作業は干潮時で水面が下がって居た為、順調に収容・検体が進み、部下全員の遺体を引き取ったのは午後3時頃だった。私は応援に来た戦友の力を借り、部下を荼毘(だび)に付した。火勢が弱いと灰に為る。少しでも多くの骨を拾う為には強火で無ければ為ら無い。目を真っ赤に腫らしながら、不眠不休で翌早朝、焼き終え骨を拾い、広州の中隊に着いたのは作戦出発3日後の夕刻だった。
「貴様何を考えているんだ」「元気を出せ、元気を」
同僚の励ましの言葉も私の耳は聞き入れて呉れない。イッソあの時、部下と運命を共にすれば良かった。私だけが生き残った。自分が如何にも女々しく卑怯に思えて情け無かった。そんな沈んだ日々が続く或る夜、「何時までも悲しんで居たら散華した部下は浮かばれ無い。気を持ち直し元気を出せ、頑張れ」と誰かが励まして呉れて居る。目が覚めたら夢だった。私はこの夢を機に、再び元気を取り戻す事が出来た。
昭和16年7月29日、宮部隊は南部仏印に進駐した。間も無く「サイゴン」の港には日本から貨物船が連日到着する様に為り、将兵は膨大な量の軍需物資の揚陸作業に毎日汗を流して居た。
この頃「サイゴン」の町は日本の兵士で溢れ、郊外のゴム林の中にはドラム缶の夥しい列が並び、軍需物資の梱包(こんぽう)は山と積まれる等、異様な雰囲気が漂って居た。
近い内に何かが起こる・・・そんな噂が兵隊仲間で囁かれて居た。間も無くその噂は現実と為り、12月2日深夜、屯営を出発。密かにメコン河を渡り、軍用トラックで昼夜を分かたずカンボジア平野を走り続け、5日に「タイ」との国境の町「プノンペン」に到着、6日は何事も無く宿舎で長旅の疲れを癒やして居た。
その2へつづく
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