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2020年12月11日

私按二、日向國と熊襲國 その2

隼人族と熊襲國                           
今奈良朝初期の形勢を按ずるに、大隅、薩摩の両國地方には、當時異族として認められたりし隼人族ここに占據したるの事實あり。
養老年中に薩摩、大隅二國の隼人亂を為し、皇軍の大征討を要するに至れるなり。
後人或は此の際の叛亂を以て、日向、大隅二國の隼人の所為なりきと云ひ、當時なほ我が日向にも、隼人族として認められたりし民族の住居せしことを傳へたり。
更に遡りては景行天皇及び日本武尊の熊襲御征討が、主として日向の域内に於て行はれたりしが如く傳へらるるあり。
されば其の日向の域を以て、大隅、薩摩と共に嘗って異民族占據の堺なりとし、隼人即ち熊襲なりとの見解のもとに、之を以て熊襲國と稱したりとなさんは、頗る其の理由あるに似たり。
タグ:薩摩 大隅
posted by うさぎ at 14:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 熊襲国

私按二、日向國と熊襲國 その1

筑紫四面の疑問
筑紫四面の事は古事記及び舊事本紀に見ゆ。
古事記諸本異同あり。
所謂筑紫等の四面を解して、前記の如く、或は筑紫、豊、肥、日向、熊襲の五國となすものあり。
未だ其の是非を詳にせず。
而も四面にして五國ありと謂ふは、其の孰れかに於て誤謬あるを承認せざるべからず。
ここに於てか本居宣長は、古訓古事記を著はして四國説を採用し、平田篤胤は五國説に従ひて、古史成文に「面五つ」と改めたり。
古訓本の四國説によれば、日向の北部半國ばかりは、もとは肥の國の中なりしを、やや後に分れて一國となれるなりと解し、其の南半を以て大隅及び薩摩と共に、もと熊襲の一部を成したりとするものの如し。
然れども、肥前、肥後と共に、日向の北部を通じて筑紫島の一面とせんは、もとより地理の實際に副はざるなり。
又古史成文の五國説に従ふも、日向の南半と薩、隅二國とを以て熊襲國となし、後の日向の北半のみを以て、日向の一國なりきと解するなり。
而も日向を二分することの、地理自然の状態に副はざるは前説と同一なるのみならず、古へ熊襲族居住の地と傳へられたりし境域が、必ずしも後の日向南部以南に限られざることに於て、此の兩説ともに妥當なりと謂ふべからず。
固より國土産成の事如きは、其の説幽玄にして、強ひて人事を以て論ずるを要せず。
ただ古事記が成りし奈良朝初に於て、我等の先祖が語部(かたりべ)の傳へによりて、なほ斯くの如きの説を有したりしを信ずるを以て満足せんのみ。
posted by うさぎ at 08:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 筑紫
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