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2021年02月28日

天孫降臨の經路 その13

高千穂への徑路
かくて更に南行筑後川の流域に出で、上流に向って豊後に入り、更に阿蘇より五箇瀬川(ごかせがわ)上流なる、今の高千穂地方に着き給ひしものと解すべきが如し。
ここに於て三代~都の地たりきと稱せらるる日向の海岸地方より之を觀れば、天孫は實に五箇瀬川上流の山地より、東南に向って平地に降り給ひしものとなる。
其の西北隅なる高千穂の山地に降臨の傳説を止むる、洵に故なきにあらざるなり。
而して其の經由する所、九住山あり、祖母山あり。
ここに於て天孫既に天より降り給へりとの傳説を口にするに於ては、各自其の地に於て最も天に近き高峯を求め、豊後方面の人々は其の山を九住卽ち槵觸(くしふる)の峯なりと傳へ、日向方面にありては之を祖母卽ち添(そほり)の山なりと唱ふるに至りしものならんか。
更に又之を霧島山なりとする説に就いて見れば、筑後より南下して球磨川の流域に出で、内地に進みて我が日向に入り給ひしものと解する、亦以て通ずべきなり。

2021年02月27日

天孫降臨の經路 その12

西路
又崇~天皇の末年に任那王子蘇那曷叱智(そなかしち)の我に來るや、始め穴門國(あなどのくに)に到りしに、國人伊都比古(いとつひこ)之を欺きて抑留せんとせしかば、去りて北海より出雲を經て、越前敦賀に着せりといふ。
ここに穴門とは海峡の義にして、其の國人を伊都都比古(いとつひこ)と稱するによれば、蓋し漢史に見ゆる伊都國、卽ち古へ云ふ伊覩縣(いとのあがた)にして、筑前怡土(いと)郡なるべし、此の地志摩郡との間にもと海峽を通じ、所謂穴門の國をなす。
後に兩者連續して、今日糸島郡と稱するなり。
然らば則ち蘇那曷叱智の來れる、其の西路によりしものなるべし。
~功皇后の征韓亦實に此の路に由り給ふ。
魏志に朝鮮なる帯方郡より、我が九州なる倭人國に通ずる順路を記するを見るに、狗邪韓(くやかん)國卽ち加羅國より、對馬に渡り、更に壹岐を經て、末廬(まつら)國卽ち肥前松浦に着し、それより伊都國、卽ち筑前怡土郡、奴國、卽ち古へに所謂儺縣(なのあがた)等に到るとなす。
亦西路なり。
天孫の群~を率ゐて大擧渡來し給ひしもの、其の如何なる路に由り給ひしか、固より今にして忖度すべき限りにあらねど、恐らくは亦西路によりて、肥前又は筑前の北岸に着し給ひきと信ぜられたりしものか。

2021年02月26日

天孫降臨の經路 その11

東路
而して其の宇佐島とは、古へに所謂于山國(うさんこく)にして、今の鬱陵島なるべく、卽ち東路の船懸りの島なり。
隠岐に知夫里島あり。
道觸の義にして、海路を守る道觸(ちぶり)~を祭れるより此の名を得たり。
此の隠岐より鬱陵島に航する、舟人の難事とせざるところ。
隠岐の島人は今も扁舟によりて、容易に此の島に往復するなり。
以て古代航海の狀を察すべし。
而も又一方に於て、其の市寸島姫命は筑前沖の島なる奥津宮(おきつみや)に鎭座し、田心姫命は大島なる中津宮に鎭座し、湍津姫命は海濱なる邊津宮に鎭座し、通じて宗像の~と呼ばれて、西路の道中を守護するの~として崇祭せらる。
(以上日本紀一書に依る。古事記には多紀理毘賣命(たきりびめのみこと)は胸形の奥津宮に座し、市寸(いちき)島比賣命は胸形の中津宮に座し、田寸津比賣命は胸形の邊津宮に座しますとあり。何れか是なるを知らず。)
蓋し東路、西路、共に道中の~として此の三女~を祭りしものなるべし。
日本紀に素戔鳴尊が出雲より韓國に入り給へりといひ、又其の御子五十猛(いたける)~等の諸~が韓國より我に渡り給へりといふは、其の東路により給へりと傳へらるるものなり。

2021年02月25日

天孫降臨の經路 その10

朝鮮交通の兩路
按ずるに太古朝鮮半島より我に往來するに當りて、普通に經由せし道筋に、凡そ東西兩路ありしものの如し。
東路は則ち鬱陵島、隠岐島等を經るものにして、山陰、北陸方面に到り、西路は則ち對馬島、壹岐島、若しくは越前沖の島等を經るものにして、九州北部に達すべし。

海北道中
朝鮮半島古へ我に於て之を海北と稱す。
日本紀引く所の一書に、天照大~其の生み給へる市杵島姫(いちきしまひめ)命、田心姫(たごりひめ)命の湍津姫(たぎつひめ)命の三女~を以て、筑紫洲(つくしのくに)に天降らしめ、「汝三~道中に降り居まして、天孫を助け奉り、天孫の爲に祭られよ」と教へたまひきとあり。
或は曰く、「三女~を以て葦原ノ中ツ國の宇佐島に降り居(す)ましむ、今海北道中に在り、號して道主貴(みちぬしのむち)といふ」と。
海北道中とは卽ち朝鮮への交通の航路にして、前説に道中とあるもの亦是に同じ。
蓋し是等の三女~は、其の海北との航路を守り給ふが故に、道主貴(みちぬしのむち)の名はあるなり。


2021年02月24日

天孫降臨の經路 その10

風俗習俗の類似 その2
ひとり言語、傳説、土俗の類似あるのみならず、我が古代の文献の上に於ても、朝鮮地方との關係を説けるもの亦少からざりしが如し。
素戔鳴尊及び其の御子~達の、彼の地に往來し給ひしことを云へるが如きは、蓋し其の傳説の一部分の、たまたま存するものなり。
而も中頃我と朝鮮と、政治上の關係中斷せしより、邦人其の關係を言ふを好まず、隨って記、紀亦多く之に及ばず、桓武天皇の御代に至りて、悉く是等の書類を焼かしめたりと傳へらる。
従って今其の徴證を古書の上に求むべきものは多からずとするも、太古彼此の間に深き因縁のありしことは、到底之を蔽ふべからざるものなるべし。
されば今暫く天孫降臨に關する古傳説を以て、古代の人士が我が天孫民族渡來の事實を語れるものなりと假定して、所謂高千穂の古傳説地の所在に基づき、其の我に來りし經路を地理上に考察せんに、ほぼ古人の思考せし所を推測するに足るものあるが如し。

2021年02月23日

天孫降臨の經路 その9

風俗習俗の類似 その1
又馬韓の俗、「瓔珠を以て財寶となし、或は以て衣を綴りて飾となし、或は以て首に懸け、耳に垂れ、金銀錦繍を以て珍となさず、五月種を下し訖るを以て鬼~を祭り、群聚歌舞飲酒して晝夜休むなく、其の舞は數十人俱に起ち、相隨ひて地を踏み、手足を低ミして、節奏に相應す。
鐸舞に似たるあり。
十月農功畢らば亦復かくの如し。
鬼~を信じ、國邑各一人を立てて主として天~を祭る。
之を天君と名づく。
又諸國各々別邑あり、之を名づけて蘇塗となす。
大木を立てて鈴皷を懸け、鬼~に事ふ」とあり。
是れ魏志に見ゆるところにして、亦頗る我が古代の俗に類するものあるを覺ゆ。
而して斯くの如きもの、必ずしも悉く暗合とのみ見るべからず。
是れ蓋し我が古俗に類するものが彼の地にも存して、朧氣ながら彼是相因縁するところあるを示すに似たり。
蓋し我が天孫民族と比較的關係深き民族が、古く朝鮮、滿洲等にも存在して、斯くも類似の言語、傳説、土俗等を傳へたるものなるべし。

2021年02月22日

天孫降臨の經路 その8

降臨地名の類似
天孫の降臨給ひし高千穂峯は、一に之を槵觸(くしふる)峯と稱す。
是が類似を朝鮮の開闢説に求むるに、六伽耶國祖の降れる地之を龜旨(きし)峯といふ。
龜旨は卽ちクシにして、フルは韓語村落の義なれば、龜旨(くしぶる)村卽ち加羅國祖降臨の傳説を有する地は、我が槵觸と類似の地名なりとすべし。
高千穂峯又一に添峯(そほりのたけ)ともいふ。
これ亦類似を朝鮮に於て見るを得るなり。
古事記に、素戔鳴尊の御子~なる大年~の子に韓~(からのかみ)、曾富理~(そほりのかみ)あるを云ふ。
百濟の國都泗沘を、亦一に所夫里(そほり)といふ。
共に「そほり」の名に縁あるが如し。
又新羅の都之を徐羅伐(そらぶる)とも、蘇伐(そぶる)ともいふ。
蘇伐は發音ソホリといふに近く、後世訛りて京城をソールといふ。
其の義蓋し王都を意味するなり。
果して然らば我が「そほり」の峯、亦王都の義にてもあるべし。
而して其の斯くの如きは、必ずしも我が古傳説の朝鮮半島に存すといふにあらざるべきも、彼に於て傳ふる所が、我が太古の傳説と相因縁する所あることは、之を認むるに難からざるなり。

2021年02月21日

天孫降臨の經路 その7

東亞民族の祖先に關する古傳説の類似
高句麗、百濟は共に扶餘族の國なり。
其の高句麗の英主好太王の碑に曰く、「惟昔鄒牟王之創基也、出自北夫餘。
天帝之子、母河伯女郎」と。
我が桓武天皇の御生母高野氏は百濟王家の出なり。
而して續日本紀に之を傳して曰く、「其遠祖都慕王者河伯之女感日精而所生」と。
ここに都慕(つも)王とは、好太王碑に所謂鄒牟王なり。
かくて其の鄒牟王の父が天帝なりといひ、日精なりといふもの、實に我が皇室が日~卽ち天照大~を以て御先祖なりと仰ぎ奉るに類し、彼に其の母を河伯の女なりといふは、我に海~の女なりといふと極めてよく相類せり。
ただ彼は大陸國なるが故に河伯となし、我は海洋國なるが故に海~と爲すの差あるのみ。
而して斯くの如きの傳説は、ひとり高句麗と百濟とのみならず、廣く傍近の諸國の諸民族間にも行はれたりしものの如し。
タグ:高句麗 百済

2021年02月20日

天孫降臨の經路 その6

銅鐸の發見と漢族の渡來 その2
或は素戔鳴尊の御子~等が、韓ク(からくに)の島より我が大八洲國に渡來し給ひきと傳へ、延喜式に韓國(からくに)の~を祭れる古社の少からず見ゆるが如きも、太古朝鮮より我に來りし民族の、各地に其の蹟を止めし事蹟を反映するものと解すべし。
ともかくも我が古代に於て、朝鮮半島より、又は朝鮮半島を經由して我に來れる民族の、其の數頗る多かりしことは、到底之を認めざるべからず。
而して天孫民族の渡來、亦實に是等と類似の經路を取りしものにはあらざるか。
これ啻に傍例を以て類推すべしと謂ふのみにあらず。
既に言へる如く、我が國語の系統が、朝鮮半島を經て滿洲方面の諸民族と同系の關係を有するが上に、更に其の祖先に關する傳説に於て、又風俗、習慣等に於て、相互の間に少からざる類似の點あるを認め得るによりてなり。

2021年02月19日

天孫降臨の經路 その5

銅鐸の發見と漢族の渡來 その1
之を遺物遺蹟に徴するに、本邦往々にして銅鐸と稱する一種の銅器を土中より發見する事あり。
其の埋藏の範圍は、近畿を中心として殆ど其の左右數國の域に限られ、其の器は志那三代文化の影響を受けたるものと解すべく、其の製作意匠等、本邦に於て發見せらるる他の古代遺物と殆ど何等の關係を認むるを得ざるものなり。
蓋し太古志那の文化を享得せし一種の民族が、恐らく朝鮮半島より南下して、近畿を中心とせる四近の地方に蕃延し、此の銅器を造りて之を遺留せしものなりと解せざるべからず。
而して其の民族の蕃延の頗る盛なりし事は、銅鐸の發見數の意外に多きによりて察することを得べし。
之を我が古記に徴するに、新羅王子天日槍渡來の傳説あり。
事恐らく~代に屬し、當時未だ新羅國あるなし。
蓋し秦韓人の渡來を意味するものなるべし。
日槍の傳説亦近畿を中心として、其の四邊の地方に存す。
是れ或は古く渡來せる漢族の事蹟を傳ふる片鱗の遺れるものにして、先秦文明の影響を有すると認めらるる銅鐸の如きも、亦是等秦韓渡來の民族によりて、製作せられたるものなりと解せらるるなり。
タグ:銅鐸
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