2021年02月27日
天孫降臨の經路 その12
西路
又崇神天皇の末年に任那王子蘇那曷叱智(そなかしち)の我に來るや、始め穴門國(あなどのくに)に到りしに、國人伊都比古(いとつひこ)之を欺きて抑留せんとせしかば、去りて北海より出雲を經て、越前敦賀に着せりといふ。
ここに穴門とは海峡の義にして、其の國人を伊都都比古(いとつひこ)と稱するによれば、蓋し漢史に見ゆる伊都國、卽ち古へ云ふ伊覩縣(いとのあがた)にして、筑前怡土(いと)郡なるべし、此の地志摩郡との間にもと海峽を通じ、所謂穴門の國をなす。
後に兩者連續して、今日糸島郡と稱するなり。
然らば則ち蘇那曷叱智の來れる、其の西路によりしものなるべし。
神功皇后の征韓亦實に此の路に由り給ふ。
魏志に朝鮮なる帯方郡より、我が九州なる倭人國に通ずる順路を記するを見るに、狗邪韓(くやかん)國卽ち加羅國より、對馬に渡り、更に壹岐を經て、末廬(まつら)國卽ち肥前松浦に着し、それより伊都國、卽ち筑前怡土郡、奴國、卽ち古へに所謂儺縣(なのあがた)等に到るとなす。
亦西路なり。
天孫の群神を率ゐて大擧渡來し給ひしもの、其の如何なる路に由り給ひしか、固より今にして忖度すべき限りにあらねど、恐らくは亦西路によりて、肥前又は筑前の北岸に着し給ひきと信ぜられたりしものか。
又崇神天皇の末年に任那王子蘇那曷叱智(そなかしち)の我に來るや、始め穴門國(あなどのくに)に到りしに、國人伊都比古(いとつひこ)之を欺きて抑留せんとせしかば、去りて北海より出雲を經て、越前敦賀に着せりといふ。
ここに穴門とは海峡の義にして、其の國人を伊都都比古(いとつひこ)と稱するによれば、蓋し漢史に見ゆる伊都國、卽ち古へ云ふ伊覩縣(いとのあがた)にして、筑前怡土(いと)郡なるべし、此の地志摩郡との間にもと海峽を通じ、所謂穴門の國をなす。
後に兩者連續して、今日糸島郡と稱するなり。
然らば則ち蘇那曷叱智の來れる、其の西路によりしものなるべし。
神功皇后の征韓亦實に此の路に由り給ふ。
魏志に朝鮮なる帯方郡より、我が九州なる倭人國に通ずる順路を記するを見るに、狗邪韓(くやかん)國卽ち加羅國より、對馬に渡り、更に壹岐を經て、末廬(まつら)國卽ち肥前松浦に着し、それより伊都國、卽ち筑前怡土郡、奴國、卽ち古へに所謂儺縣(なのあがた)等に到るとなす。
亦西路なり。
天孫の群神を率ゐて大擧渡來し給ひしもの、其の如何なる路に由り給ひしか、固より今にして忖度すべき限りにあらねど、恐らくは亦西路によりて、肥前又は筑前の北岸に着し給ひきと信ぜられたりしものか。
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