アフィリエイト広告を利用しています

2023年09月02日

どんな占い師も霊能力者も完ぺきではないんだなぁと思ったという話

この人はここができていなくて、この知識が足りず
この知識があるこの人はしかし、ここが頭固くてだめで
こっちの人は分析能力が高い長所はあって偉そうだけど、お前もそれできてないやろ

というのがほぼ常時で(ブログなどの話)
そのことが私はとても残念で失望しててがっかりだったんですけれども
それってつまり「一人からすべてを得よう」とするのが間違いで
「この人のココが正しく」「しかしここはおかしいので聞かないように心の距離を置こう」「間違った知識で洗脳されないように信じすぎないようにしなければ」

「そもそも洗脳されそうなほど一人の人を絶対的に信用したいというのが、依存だし自己の放棄では」

ということが分かった最近です。
友達とかならそういうバランス取れるんですけど、能力者というものに対して過信があったなぁと思ったのです。
助けを求めていて、その答えをこの人なら教えてくれるのではないか、という期待があったのだと思うんですけど

世の偉そうなことを言っている人たち、自分はすごいと実際に思っているだろうし、結果だって出している人たち。
その人たちもしかし、その自信ほどには完ぺきではないんですね。
そもそも人間に完璧を求めているのがおかしいんですけども、偉そうだから完璧なんだろうって錯覚してしまう。そのせいで失望してしまっていたのですが

分かりました、どう考えればいいのか。

学校と同じなんですね。
彼ら、彼女らは「この教科には詳しいけど、あっちの教科は微妙。もしくはダメダメ」
「研究はできるけど人間性はいかん」
みたいな、そういう人たちなんですね。偉そうだし、能力も人間性もトップであるように「見せかけている」けれどもそれは勘違いの錯覚なんですね。

私もこのブログで偉そうで錯覚させているかもしれませんが
私もまだまだ手探りで人生を歩んでいるものですし、ここで書いたことはその手探りの一環として発見した知識の共有なので、その知識を完璧に使いこなしているという意味ではなく「その知識にやっとたどり着いた」人なのですよね。
立ち位置はその知識を見て、読んで理解した人と、大きくは変わらないのかもしれないなとも。
まぁ自力でたどり着いて身についているのと聞いただけでまだ骨身には沁みていないのとでは差はあると思いますが、それは私を完璧だと錯覚していいほどの差ではないという。

かといってじゃあ自信を持ってはいけないのかというと、そうでもなくて
生きていくには自信は必要なんですよ。幸せを感じる必須条件です。それを学ぶのが大事ではある。

でも自信がついたからって、自分の無知の知を忘れてはいけないな。ということなのではないかと思いました。

あの人たちに欠けているのは無知の知に対する謙虚さに思います。
しかしじゃあ、無知の知があれば完璧に謙虚でいられるのかというと、やはり人間なので「はぁああ!?」って切れる場面ってあると思うし、そういうキレる場面っていうのは自分の価値観がごりごりに出てくる場面でもあるので、その価値観が間違っている人の場合は的外れなことを言ったりすると思うんですね。

でもそれを言うこと、出すことによってそれを自覚して、やっと反省をする一歩になる可能性がある。それが
「人間の成長の人生」というものだと思いますので。

要するに、どんなに偉そうな先生ぶってる人でも、しょせんは悟れていない人間なんだな。

という視点が大事なのだな。と思いました。
なお私が「頭固すぎだろここが分かってないよ」と思った人は自らを悟り開いたと公言しているので、公言の悟りは信用に値しません!笑

でもこの人は本当に悟り開いてそうだなぁっていうブログも何個かみつけたことあったのですが、みなさんあっというまに更新やめちゃってるので、悟った人ってのはやはり自己主張をしにくい生き物なのだと思います。したとしても本当にこう、お役目としてやってるんだろうって分かる感じなのではないかな。

しかし、お役目でやってると言いやがってる能力者もいっぱいいますが、それは悟っている自称が正解とイコールでもないです。やはり、そのつもりの人が多い。
お役目でやってる悟った人は、それをお役目でやってるともいわずにやっていると思います。
そしてお役目というものは完璧な人間性、悟りがイコール必要というわけでもないです。

たとえばこのネット社会を補強強化したスティーブジョブスは人間性がアレなので有名ですが、そのお役目は計り知れないものを世界にもたらしたと思いますよね。

お役目をなすのに、悟った人である必要はないのです。
個人的には冷蔵庫だの洗濯機だのお風呂の自動ストップ機能だの作った人だって神がかりにお役目をなした、すごいすごいありがたい存在だと思います。名も知らぬ方々ですが。
その方々みんなが悟っていたとは思いにくい。だから悟った人であるということは、絶対必要なものではないのでしょう。
人間性向上は幸せへの道なので、やったらいいですけどね。

彼らは悟った人ではないので、その一言一句にイエスマンにならなくていいのです。

偉そうな能力者のブログや本はさも「私が認めるような人間じゃないとだめ」みたいな雰囲気を醸し出していますが「そいつ自身がお前が認めるような人間性してないぞ」という現実があったりしますので

要するに、偉そうだからって「自分で言うほど偉いわけではない」という意識をもって読むこと、関わることが大事だなと思いました。

そしてそれは完ぺきではないことへの失望ではなくて
「学校の先生みたいに担当教科があるってことなのね」
「人間性くそなくせに偉そうだけど教えるのは確かにうまい先生みたいなものなのね」

という価値観を持つことが大事なんだなぁって思いました。

私は失望をしまくってましたけど、やっとそんな気持ちになれるようになったのです。
ちょっと期待値が高すぎたんですね私。ざんねん。

完璧を求めてしまってた。
それは自分自身に対してもそうで、過去のやらかしをいつまでも自分で責めてしまうところがありました。
しかしよくよく考えて、迷惑かけてごめんなさいではなく、深く深く頭を下げて「ありがとうございました」と相手がどう思うかではなく私自身がただただ頭を下げる気持ちでいることが大事なのかなって思いました。

許されることを願うのでもなく、ただただ自分の気持ちに折り合いをつけるために、そしてそれが相手に対する自分にできる誠意であり、この世を生きるために必要な犠牲に対する礼儀なのかなと。

実るほど頭を垂れる稲穂かな。
これは、偉ぶるなっていう意味だと思っていましたけれど、
今は「私のやりたいことをやるために従業員あなた方の人生をお貸しくださりありがとうございます。あなた方に絶対に完璧な報酬をあげられるとは言い切れませんがそうあろうとは思っています。しかし絶対とは言えません、それでも協力してくださっていることに深くお礼申し上げます」
という感覚なのかなと。
少なくとも私はそんな風に頭を下げれば「他人の人生に影響を与えてしまう」ということへのプレッシャーを乗り越えられる気がしました。

こんなブログ書いてるので、人への影響は少なからずあるとは思いますが。
しかしこのブログは超有名って程でもないですからね、その程度なら必要な人に必要な情報がとどいたんだなぁって他人事でいられるんですけど
仕事ってなると特に誰かへの影響が大きく、どんどん大きくなっていくので、その影響力、自分の干渉力に恐れをなしていたところがありました。

でもそれは怖がることではなくて、私の助けを喜んでくれて「ありがとうございました」と思えばいいのかなと。
助けられた方からすると、なんでお礼を?wってなると思いますけども、私は他人に干渉することも人生を変えることも助けることも、したいけど怖いとも思っていたのです。

自分が世界を変えていいのだろうかと。
でもその変化を「喜ぶ」人がいる。だから、いいんだなと思える。

私が洗濯機を喜ぶように
誰かが私のしたことを喜んで世界が少し良くなるのなら、それはとても素敵なことであって悪いことではないんだなと。

世の中には他人のなすことをなんでも馬鹿にして責める人がいますね。
私はきっとそういう人の悪意に侵されて、自信を無くしていたのかもしれないし、干渉を恐れていたのだとも思います。そういう人たちに見つかって責められるのも怖い。このブログのコメントにも以前来ましたので、そのデメリットを負ってまで開放するほどコメントほしいとは思わないかなと思って閉じています。
コメントなど下さらずとも、役に立って喜んでくださるなら。心の中で感謝くださるのなら、それでうれしいし、それでいいのです。

私はその感謝がありがたい。
この世を改善したい、人を助けたいと思っても、どんなに心を尽くしても、相手が「助かりたいと思っていない」と助けを出した手ははねのけられることを何度も経験してきましたし、感謝すらない人も多いということにがっかりして傷ついてもきました。

だから感謝してくれることは私にとってありがたいことです。
だから「ありがとうございます」と、頭を下げて、心の栄養にして自信に変えて生きていこうと思うのです。
そして例えば悪人を罰したとしても、そいつがたとえ罵り私を否定したとしても、そいつが罰せられることで世界は確実に改善する。たとえそいつの心が苦しかろうが。
そいつの幸せも願ってしまう心としては哀しいけれども、犠牲になることに「ありがとうございました」と頭を下げていきたいのです。
そうすることが私にとっての気持ちの整理なんです。

この世は弱肉強食の理の中にある。ゆえに、犠牲になってくれて「ありがとうございました」なのです。その対象がどんなものだとしても。
犠牲なくば成り立たない。そういう世界なのですね。それを許容するためには私には頭を下げることが必要だったということですね。
普通そんなことで悩まないのかもしれませんが、私は悩んで病んでたので、そこまで考えてやっと清濁併せ吞んで立てました。

話がそれましたけど
人は完ぺきではなく、偉そうな能力者も完ぺきではないので
あちこちの偉そうなサイトの言葉を100%真に受けることのないよう気を付けてください。

偉そうな雰囲気にのまれないで
別のサイトや本の知識を組み合わせて、自分でよく考えていきましょう。
もし信じてる能力者に違和感があって、でもそう思うのって失礼なことなのではと迷っている方は、その違和感にまずはしたがって、他で情報集めるのもいいと思いますよ。
その能力者はその違和感の部分に関しては素人なのかもしれません。

ありがとうございました。
お力になれたらうれしいです。
posted by uranaiuranau at 11:18 | TrackBack(0) | その他
検索
最新記事
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ