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2023年11月07日

明智光秀


光秀.JPG


7/9に【明智熙子】と題し先に奥方から投稿している。
とかく歴史上の人物、特に戦国時代に於いては信長、秀吉、家康の3人に絞られて語られるが、ふくらましてもこの3人に関係する人たちが多くあげられる。
それ程この3人は日本史上に於いて、欠かせね人である。
浅学な私は3人に関してはそこそこ本を読んだが、関連する人たちについては通り一片の知識しかなかった。

信長が本能寺の変で亡くならねば、この国はどうなっていたのであろうか。
アメリカに替わり世界の警察官となっていたかもしれない。
何しろ世界で最初に鉄鋼船(木造船に鉄板で火攻めに対抗)を作り、ヨーロッパの30年戦争の100年前に鉄砲を主要武器として戦争の仕組みを替えた事など、人と同じ事をすることを嫌い、常に独創的な事を考え、市政など多くの事に独創的な世界を展開していたと言われている。
それ程の先見性等を始め他を圧する存在感はどれ程のものであったか、うかがい知れない程の物を感じる。
そんな信長が光秀に殺されたとはいえ、どれ程彼(光秀)を登用していたか余り知られていない。

信長は戦いを起こす前の事前調査(敵の戦力、戦略などあらゆる事)を綿密に計り、戦いを始めた時には必ず勝つという確信の元に戦端が開かれた。
敵に対し利害力量の計算に長けており、戦力が相手を上回るまでは決して行動を起こさなかったとの事だが、寡兵を以て大群に向かったのはあの【桶狭間の戦い】と石山本暗寺との天王寺砦の戦いが史実として語られている。
この時、砦に籠る光秀軍2500が15,000の一向勢に囲まれ死地に陥りかけた時、遠望していた信長は発狂したかのように「十兵衛(光秀)が死ぬる、死ぬるぞよ」と僅か3000の兵を率い自身が太腿に銃弾を受けても、ひるまず砦に突入し、光秀を救い出したのだった。
この二つの戦いだけが、信長の生涯で寡兵を以て大群に立ち向かった戦いである事からして、信長が如何に光秀を大事にしていたかという事が伺われるのであった。

この話は信長が利害のみに動く人否人でなく、必要であれば自分の命を懸けてでも部下を救い出そうとした人間であったという事を証明しているのであった。
信長に殴る蹴るの虐待にあい恨んでいたとか、秀吉の陰謀があったのではとか、内裏の勅命が出ていたのではないかなどとか諸説あるが、歴史の正当性は常に勝者によって語り継がれ、敗者は歴史の中で沈黙するのみであろう。
死人に口なしか。
しかし、諸説いろいろあろうとも、光秀当人にその気がなければ決行されることはなかったであろう。


30年戦争(1618〜1648)ドイツを中心にヨーロッパで宗教、市政戦争
長篠(設楽原)の戦いは天正3年1575年だから実際は75年前後か?
いずれにしろ格段に速く鉄砲に目を向け主道具として使い、戦争体系を買えたのは事実である。
posted by 小豆洗い at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 好み
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