2017年12月05日
悪魔の詩訳者殺人事件
1991年7月11日、筑波大学助教授の五十嵐一助教授(当時44歳)が、筑波キャンパス人文・社会学系A棟7階のエレベーターホールで刺殺され、翌日7月12日に発見された。現場からO型の血痕(被害者の血液型ではないため、犯人の血液型とされた)や犯人が残したとみられる中国製カンフーシューズの足跡(サイズ27.5cm)が見つかった。第一発見者は早朝出勤したばかりの清掃員の女性である。五十嵐助教授は7階のエレベータホールで首を切断寸前までかき切られ、あたり一面を血の海にして倒れていた。所持していた鞄にもいくつか傷痕があった。
事件が日本だけに限らず世界にも衝撃を与えたのは五十嵐助教授がイスラム社会から禁書とされていた小説「悪魔の詩」の翻訳者だったからである。悪魔の詩はインド系イギリス人の作家サルマン・ラシュディによって1989年1月に発売されたものだが、その内容にイスラム教を冒涜するものがあるとしてイスラム圏では焚書が相次いだ。問題となったのは主人公が見る夢の中で預言者ムハマンドが神の言葉を記したコーランに悪魔の言葉が混じっていたということ。この言葉が悪魔の詩というわけである。そしてムハマンドの12人の妻の名前と同じ12人の売春婦が登場するなど、全体的にイスラム教を揶揄するような内容が含まれていたからである。
発売から一ヶ月後、イランの最高指揮者ホメニイ師は著書のラシュディ氏と出版に関わった者に対し死刑を宣告した。イスラムでは宗教指導者による布告をファトワといい、法律と同様に扱われる。ホメイニ師の出したファトワによって、作者処刑の実行者には、280万ドル当時のレートで約3億6000万円もの賞金があたえられることとなった。しかも同年の6月にホメイニ師が死去したため、布告した本人にしか取り消せないファトワは撤回することができなくなっていた。
悪魔の詩・日本語版は90年に出版された。同時に訳者となった五十嵐助教授は著作「イスラーム・ラディカリズム 私はなぜ悪魔の詩を訳したか」の中で、悪魔の詩は優れた文学作品で、イスラムを冒涜するものではないとして翻訳に踏み切ったことを記している。自分自身が処刑の対象になっていることを自覚しながら「ホメイニ師の死刑宣言は勇み足であった」「イスラムこそ元来もっと大きくて健康的な宗教ではなかったのか」とファトワを批判している。そして作者のラシュディ氏が警察の保護下で潜伏生活を強いられたのに対し五十嵐教授は周囲を警戒することなく平穏な日々をすごしていた。自分は翻訳したにすぎず、遠い日本にまで処刑の手は及ばないだろうという気の緩みがあったのかもしれない。一方でそれは長年イスラム文化と親しんできた助教授なりのイスラム教への信頼であったのだと言える。ところがイスラム系の新聞は、五十嵐助教授殺害のニュースをイスラム教徒にとっての朗報と伝えている。また、イランの反体制派組織「ムジャヒディン・ハルク」が犯行声明を発表。イスラムを愛した日本人の死が歓迎されたのである。
タグ:不気味
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posted by T.O.P..Class at 09:48| 未解決事件