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2020年02月01日

オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 坂下宿〜関宿)




 坂下宿から関宿は約一里二四丁(6.79km)の距離です。



 坂下宿の東の出口、河原谷橋を出発1km程で沓掛集落に差し掛かります。沓掛とは、馬や牛のわらじを沓と言い、ここでわらじを取り替え旅の安全を祈り沓を木などに掛けた所と言う事です。
 沓掛から国道1号に出て、暫く行くと西の追分に到着します。沓掛・西の追分間にはあまりこれと言った見どころは無い様です。
 西の追分は当然関宿の西の入り口にあたります。関宿は昔から交通の要衝で、奈良時代には「鈴鹿の関」が置かれ、関宿も此処から来ているそうです。
2016-08-05_Tokaido_Seki_Juku_Kameyama_City_Mie,東海道五十三次_関宿_DSCF6799.jpg

 江戸時代になると、西の追分で大和街道、東の追分で伊勢街道分岐することから、多くの旅人賑っていた様です。更に、東西の追分の間は、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、旧建設省の日本の道100選にも選ばれています。



 東西の追分の中で見どころは十分にあるようです。
 観音院と言うお寺は、関宿の守り神で嵯峨天皇の時代に開創されたお寺です。その先に地蔵院と言うお寺があり、日本最古の地蔵菩薩を本尊とするお寺です、741年の開創で本堂、愛染堂、鐘楼が国の重要文化財だそうです。
 観音院から地蔵院の間にも、嘉永年間建築の旧家などが軒を並べています。地蔵院の側の会津屋は、元は関宿有数の大旅籠だった所で現在は食事処となっています。この先、東の追分までにも見どころは結構あるようです。
 東の追分まで来ると、伊勢への分岐点と言う事もあり、伊勢神宮一の鳥居と常夜燈などが残っています。
800px-東海道関宿東の追分の鳥居.jpg

 関宿に入ると、徒歩で散策するのが良いのかな?と感じます。
 さて、関宿で美味しいものは?と、調べると、幾つかありました。まずは、会津屋ですね、山菜お強が名物だそうです。他には、JR関駅の側に、道の駅関宿が有ります。そこで有るのが、みそ焼きうどん。他に亀山ラーメンなどが有ります。宿場内には、和菓子処も多く有るようです。
 次は、亀山宿を目指す妄想です。



2020年01月31日

オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 土山宿〜坂下宿)




 土山宿から坂下宿間は、約二里半あります。



 道の駅土山から出発します。街道をゆくと海道橋に差し掛かります。これは、木造の橋で2005年に竣工された物で当時の板橋を再現しているそうです。車で渡る事は出来ない様なので、車の場合は国道1号に迂回しないといけません。
 国道1号に出て鈴鹿方面に進むと、途中国道から少しそれた所に、蟹塚があります。蟹ヶ坂飴の伝説が残る処です。古戦場にもなっていたようです。
 蟹塚から少し行くと、猪鼻交差点には、あいの土山公園がありますが、調べてみても何も分かりません。この辺りに立場が有ったのではないか?と思います。猪鼻は、休憩場所として栄え、草餅や強飯が名物だったそうです。
 猪鼻から少し行くと、山中一里公園地に着きます。此処は、国道1号、旧東海道、第二名神高速が交差する場所です。程なくして鈴鹿馬子唄の碑が有ります。
 馬子唄の碑から、暫く国道1号を進むと鈴鹿トンネルの手前に万人講常夜燈が立っています。万人講常夜燈は、江戸時代金毘羅参りをする人々が、道中の安全を祈願して建立された物です。トンネル工事の際に現在の場所に移設されたということで、土山側からの峠の入り口の役割を負っているのかもしれません。
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 トンネルを出て少し行くと、鈴鹿峠関宿側登りと、石碑があるのではないか?と思うのですが国道1号を反れて、山道を行かなければならない様で、車も使えそうにありません。実際、そこへ行くことが可能かどうかですね!元は、この辺りが坂下宿の中心だったそうです。



 トンネルを抜けると、三重県に入ります。国道とは言え、九折の急なカーブが続きます。鈴鹿峠の坂下側は、八町二十七曲と言われるほど急な曲道の続く険しい道だったと言われます。
 トンネルを通らず旧東海道を行くと、芭蕉の句碑もあるようですが。行ける様な処なのかどうか?分りません、多分、車は行けないのではないでしょうか?
 鈴鹿川に沿って、国道1号を進み、途中国道を反れ、街道に入ります。いよいよ坂下宿です。
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 坂下宿は、江戸から見ると鈴鹿峠を控えた宿場町として賑い、鈴鹿馬子唄では「坂の下では大竹小竹 宿がとりたや小竹屋に」と唄われていました。大竹やとは、本陣の1つで、小竹屋は脇本陣だそうで、小竹屋には庶民も止まっていたそうです。
 次回は、関宿を目指します。



2020年01月30日

オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 水口宿〜土山宿)




 水口宿〜土山宿、二里半(12.1km)を進みます。



 水口宿を出て、野洲川沿いを進んで行きます。ほどなく、今郷一里塚があります。このまま街道をゆくと、茅葺家などが見ることも出来るそうです。
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 このまま街道を進むと野洲川に架かる屋根のある歌声橋があり、橋を渡って、街道を離れると旧松尾川の渡しがあります。松尾川は江戸時代の野洲川の呼び方だったようです。船で川を渡っていたと言う事は、ここも交通の要所だったのでしょう。



 街道に戻り土山宿を目指すと、大黒屋本陣跡に到着です。大黒屋本陣は甲賀武士の末裔土山氏と土山の豪商大黒屋が勤めていた本陣であると、言う事です。近くには土山家本陣跡もあります。
 土山家本陣跡から少し行くと、来見橋に差し掛かります。此処が土山宿の東の入り口らしいです。しかし、その後も土山一里塚や上島鬼貫の句碑などもあります。
 ならば、西の入り口は?どうやら、大黒屋本陣跡の辺りが西の入り口らしいです。
 土山宿は、平安時代より伊勢参宮道が旧東海道筋を通る為、鈴鹿峠を越えなければならず、難所を控える宿駅として発展しました。鎌倉時代東西の交通が更に重要視され、武士、商人、庶民の通行も盛んになりました。更に、土山宿は雨の多い所でもあり、鈴鹿馬子唄では、「坂は照るてる 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」と唄われています。坂は坂下宿、鈴鹿は鈴鹿峠、土山は土山宿で、坂下宿は晴でも、鈴鹿峠で曇り、土山宿では雨が降っているという意味です。
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 土山宿での、美味しいものを調べてみました。道の駅あいの土山の抹茶ソフトの盛り放題というのが有りました、一日100個限定らしいです。次に日本一たい焼き国道1号沿いに有り、行列のお店だそうです。そして、蟹ヶ坂飴、麦芽水飴を煮詰め丸く成型した飴です、この飴の発祥には蟹の言い伝えが在ります。この飴は土山宿でしか手に入らないのでは?
 次は鈴鹿越えの坂下宿を目指します。



2020年01月29日

オッサンの ブラリ一人旅(日吉ダム)




 これは、2016年3月に他サイトで公開したものです。



 茅葺の里の帰り道、このまま帰るのも…と思いながら。そうだ!日吉ダムへ行こう!!そんなわけで、やってきました。日吉ダム。
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 日吉ダムは、平成10年、淀川水系桂川中流部に完成した近畿最大級を誇る、多目的ダムです。その、水の供給先は京都だけに留まらず、大阪や、阪神間にも及んでいます。と、言う事はよく滋賀県の人が京都府民に対して言う琵琶湖の水を止めてやる!と言うのはあまり効果が無いのかも知れませんね。
 周辺には、こんな施設もありました。残念ながら休館でした。
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 ビジターとビジターセンターからの景色です。
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 隣接する道の駅、スプリングス日吉は敷地内にバーベキューガーデンもあり家族連れなどで賑わっています。館内にはこんな物も売られています用意するのは食材だけ!
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 ここは、ダム建設に伴い1998年に開業し、年間36万人が訪れる観光施設でした。2011年に道の駅に登録され現在では年間80万人が訪れる観光スポットになっています。施設の奥には温泉施設もあります。更に駐車場の隅には電気自動車用のスタンドも、まだ使用されていません。
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 温泉施設の奥へ進むと、ビジターセンターの対岸にやってきます。ダム湖は「天若湖」と言うそうです。
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 こちらからは、ダムの上を歩く事が出来ます。ダムの上からの景色です、
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 美山町、日吉ダムと廻ってのんびりした一日でした。しかし、帰れば鍋釜と食器洗いが待っています。一気に現実に引き戻されます(T_T)


2020年01月28日

オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 石部宿〜水口宿)




 石部宿から水口宿を目指します。



 石部宿を出て直ぐに、落合川に差し掛かります。川を過ぎて暫く行くと、由良川隧道があります。この隧道は、野洲川支流の由良川が頭の上を流れています。天井川と言うものです。隧道の手前に碑があるようです。隧道を抜けると夏見立場新田道道標があります。
 少し行くと、夏見一里塚跡があり、それを過ぎて暫く行くと、野洲川支流の大沙川に差し掛かります。大沙川も由良川同様天井川で、大沙川隧道となっています。隧道の上には弘法大師が植えたとされる大杉があります。隧道を抜けると碑があるようです。
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 野洲川の手前、街道を反れて、JR草津線沿いに天保の義民碑が建っています。天保一揆犠牲の犠牲者を慰霊するために建立された物です。
 街道に戻り、野洲川を渡り国道1号に出て直ぐに、県道535号へ入ります。野洲川沿いを少し行くと、横田の渡しです。横田の渡しは東海道一三渡しの一つで、交通の要所だったこの辺りは、横田川と言われ、幕府の政策で橋が架けられず、難所だったそうです。辺りにはその常夜灯も立っています。
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 ここで県道535号から反れると東海道です。少し行くと泉一里塚跡がありますが、新しく復元された物らしいです。
 泉一里塚から暫く進むと、松並木が続きその先に北脇繩手の碑が有ります。此処は曲がりくねった道を直線状に整備されたものです。
 少し行くと、林口一里塚跡です。この辺りが、水口宿の西見附に当たります。近くには水口城跡もあります。そのまま、近江鉄道を過ぎると、東へ三筋に分れた道が有り、城への侵入を防ぐ迷路の様な役割を果たしていたそうです。
 三筋を過ぎると、本陣跡です。足利将軍の伊勢参り時休憩場所となった場所でもあり、水口宿には本陣と脇本陣が置かれていました。東見附は江戸口と呼ばれています。
 水口宿は、都から伊勢に通じる要地として早くから開け、徳川家光の時代に、水口城が築かれ甲賀地域の中心としての地位を固めて行きました。



 水口宿の美味しいものを調べると、スヤキと言うものがあるようです。麺を葱、もやしと一緒にラードで炒めた焼きそばの様なものらしいです。味付けは各自でする様です。
 次は、土山宿に向かいます。



2020年01月26日

オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 草津宿〜石部宿)




 草津宿から石部宿へは、県道116号から県道12号に入ります。



 交通の要であった草津宿を出てすぐに、牛馬養生所跡があります。老牛馬が余生をおくる施設らしいのですが、生類憐みの令が発令されるきっかけとなったという説があるようです。
 牛馬養生所跡から1kmほどの所に、目川の一里塚があり、広重の絵にも、描かれている田楽茶屋があったところです。その田楽茶屋が再現されているそうです。その、県道116号と117号の分岐点に東海道と中部街道の石碑があります。
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 暫く行くと、足利義尚公鈎陣所の碑が有ります。本陣跡は200mほど西の永正寺だそうです。程なく進むと稲荷神社が有りますが街道との縁の程は分かりません。
 稲荷神社から1km程行くと、六地蔵一里塚跡の石碑があります。その数百m先に、旧和中散本舗の石碑があります。和中散は、家康がこの辺りに滞在した際に腹痛を起こし、この薬を飲んだところ治まり、この薬を和中散と名付けたという言い伝えがあるようです。すぐ近くには六地蔵尊があり、国宝となっているようです。近くには、東海道から少しそれますが、新善行寺があります。長野に行けない人々の為に建立されたそうです。



 東海道に戻って石部宿を目指します。名神高速、国道1号を越えると街道とは縁は無いものの本殿は京都の上加茂神社を移築したものらしいです。街道からは少しそれています。
 街道に戻り直ぐに、小島本陣跡があります。明治天皇が止まった事のある豪華な本陣だったようです。
 いよいよ石部宿です。その手前に、東見附跡があります。番人が通行人を見張る事から見附と言ったそうです。宿場の出入り口にも有ったそうで、石部宿の場合東西2か所に有りました。
 石部宿は、京都から3番目、江戸からは51番目の宿場として栄え、伊勢参宮街道の分岐点でもありました。京都からは丁度、一日の行程であった事から「京立ち、石部泊まり」という言葉が有ったそうです。宿場内には二軒の本陣、旅籠32軒など458軒が街道に立並び1.6kmに渡っていました。その中央には問屋場や高札馬が有ったそうです。
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 草津宿石部宿間は、二里二五丁(11.7km)の距離です。
 さて、石部宿で美味しいものは?と調べてみたのですが、一ついもつぶしと言うのが有りましたが、湖南市で食べられるお店を探すのは難しそうです。
 次の、宿場は水口宿です。



2020年01月25日

オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 大津宿〜草津宿)




 今回は、大津宿からのスタートです。
 実際に、旅をした場合の所要時間が全く分かりません。取り敢えずは大津宿で宿泊すると仮定して進めて行きたいと思います。



 さて、大津宿を出発して草津宿へ向かいます。草津宿を目指すには県道104号から県道2号を走ります。この道が東海道となっています。
 大津宿を出発してすぐに、平野神社が有ります。祭神は精大明神、蹴鞠の祖神ということです。しばらく行くと北惣門跡と南惣門跡があり、共に家康の命によって築かれた膳所城への城門だったようです。膳所城は東海道から少しそれた琵琶湖湖岸道路沿いにあります。
 膳所城を離れ、暫く行くと、瀬田川に来ます。やはり、膳所城と共に外せないスポットでしょう。瀬田の唐橋です。この橋は、日本三名橋の一つで近江八景の一つにも挙げられています。
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 草津市に入る手前に、一里塚跡、草津市に入って野路の玉川跡、一里塚公園と続きます。一里塚は街道の側に一里毎に設置されていた塚です。この辺りには。一里山と言う地名が有るそうで、一里塚が有ったようです。
 草津市に入ると街道に関係者する名所が結構あります。姥ケ餅屋跡は旅人を矢橋の渡し場へ案内するもので歌川広重の絵にも描かれています。
 草津宿に近づくにつれ、問屋場跡や追分があります。問屋場は荷物の中継地点と言ったところでしょうか。追分は東海道と中山道の分岐点に建てられた追分道標で、右東海道いせみち、左中山道美のぢ、と刻まれています。追分のすぐそばには、草津宿本陣があります。
 いよいよ、草津宿です。
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 草津宿は古くから交通の要衝でした。室町時代は京都と伊勢の中継地点として発達し、戦国時代には「瀬田橋を制する者は天下を制する」という言葉もあり、織田信長も交通政策に力を注いだそうです。関ヶ原の戦い以降、家康により東海道の整備と宿場が設置され、草津宿も誕生しました。
 大津宿と草津宿の距離は三里二四丁(14,5km)有ります。



 今回も草津宿で宿泊するとしての行程にします。となるとこの辺りの美味しいものも探さなければなりません。やはり大津宿、草津宿となると、鮒鮨、近江牛ですが、他にも鰻丼に厚焼き玉子を乗せた、きんし丼や志じみめしなどが有ります。
 その宿場でしか頂けない様な名物グルメも取り上げたいと思います。
 次の宿場は石部です。




2020年01月24日

オッサンのブラリ一人旅(美山町、 茅葺の郷 和井八幡神社)




 これは、2016年3月に他サイトで公開したものです。



 「茅葺の里」で車を止めるところを探していて、一度通り過ぎたところ、気になるものを発見しました。ちょうど集落に隣接する場所なので、集落の散策ついでに寄ってみる事に…
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 和井八幡神社は、創祀が1071年の神社で、御祭神は応神天皇・諏訪明神・和井一宮明神でした。同じく南村の上宮山に祀られていた八幡太郎明神が1567年洪水で流され、1570年一宮大明神境内に遷移され、諏訪明神とともに三社を合祀され、現在の場所に八幡神社として再建されました。茅葺の里に鎮座するこの神社は、1767年に改築され、京都府指定登録文化財に指定され、境内も京都府文化財環境保全地区に指定されています。ほかにも甲賀三郎の大鹿退治の伝説が残されているようです。
 本当は今年が250年ではないか?と思うのですが、来年、大祭を催されるようです。本殿と、参道です
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 今回も、お賽銭は無しで、写真だけ取るという罰当たりな事を相も変わらずやっています。


2020年01月23日

オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 三条大橋〜大津宿)




 さて、妄想の中で三条大橋を出発します。



 出発前に三条大橋を出発したことを証明しないといけません。三条大橋の西詰には弥次喜多像が有り、これをカメラに納めると証明になるでしょう。
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 三条大橋は東海道五十三次の起点で、鴨川に架かり秀吉の時代に本格的な橋が掛けられたそうです。
 三条大橋から大津宿を目指すには、三条通り(府道143)から、国道1号に合流し琵琶湖を目指します。
 道中には、峠の改修にあたった「木食上人」が道路管理と、休憩を兼ねた亀梅香庵(亀水不動)跡、や旧道入り口、が在ります。更に、1号線を進むと三井寺道標、髭茶屋追分の道標が有ります。髭茶屋追分は東海道五十七次と合流している場所です。



 滋賀県に入ると最初に差し掛かるのが大阪の関跡、ここは、東海道と中山道が通る交通の要となる関です。百人一首では「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 大阪の関」と読まれています。
 途中、国道1号から県道558に入り走ると大津本陣跡に差し掛かります。本陣跡近くには、蝉丸神社の上社、下社が在り、先の歌の読み手蝉丸を祀っています。
 いよいよ大津宿です。その手前に、大津事件碑があります、1891年来日中のロシア皇太子が警備の巡査に斬りつけられる事件があった場所です。この事件から三権分立の意識を広めた事件であったそうです。
 そして、大津宿に到着です。
 大津宿は、天智天皇が大津京を開き、壬申の乱の舞台となった土地ですが、琵琶湖湖岸に開けた商業地として発展した土地です。更に東海道、中山道、北陸道の宿駅でもあります。
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 三条大橋と大津宿の間は、三里(12km)の距離があります。観光しながら移動するとして、どのくらいの時間が掛かるのか見当が付きません。車で移動を考えていますが、そうなると、駐車場所があるのか?それとも徒歩で移動するのか?路線バスを使って移動すべきなのか?悩むところです。
 取り敢えずは、一宿場ずつ紹介をして、実際にこの旅を実行するときに考えたいと思います。



2020年01月22日

オッサンのブラリ一人旅(美山町、茅葺の里)




 これは、2016年3月に他サイトで公開したものです。



 茅葺の里にやってきました。実は、ここは初めてではなく3度目になりなす。最初は、元嫁と訪れ、2度目は、嫁と別れた翌年、当時、今後お付き合いをするかも知れない女性と訪れたことがあります。残念ながらお付き合いには至らず、その後も何人かお付き合いするかも?という女性が現れましたが、結局お付き合いに至らず、現在に至っております。今回、ひとりで訪れるのは初めてです。
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 茅葺の里は中世、丹波国弓削荘に属し林業を主産業としていました。集落は鯖街道沿いにあり京都と若狭の中間点に位置し多くの旅人が行き来していたそうです。近世には笹山藩に属し、近隣の村と「和井九ヶ村」と呼ばれていたそうです。1993年には重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
 街道沿いには由良川の清流も流れています。源流も近いのでしょう。集落の入り口には茅を干していました、この光景は集落の中でたびたび見かけます。
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 建物は、色んな使われ方をしています。住居・カフェ、資料館、民宿など様々です。生活の臭いのするものも…
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 中にはこんな建物も、空き家のようです。たぶん何かに生まれ変わるのでしょうか?
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 歩いていると、時間がゆっくりと流れていきます。集落のベーカリーです。面倒なので、今日の夕飯はこれにします。左からチーズ・枝豆チーズ・下オニオン・ポテトサラダです。この一週間、ずっと空腹感を感じることが無かったので、昼食を取らずに晩御飯迄我慢をしてようやく空腹を感じました。
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 入り口付近まで戻ってくると、昭和の村のよろずやともいうべきお店です。まだ商売は続けられているようです。引き戸には「せやねん!」ステッカーが…
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 観光バスが無かったので、外国人観光客はいないのかなと思っていたのですが、集落の中は結構いました。バス停の方に目をやると、外国人の集団が、迎えのバスを待っているんだと思ったのですが…どうやら路線バスで移動されたようです。
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 随分、のんびりしたなと時計を見るとまだ、一時間も経っていません。時間の流れがゆっくりです。僅か一時間足らずなのに癒された時間です。


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