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2020年02月16日
オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 桑名宿〜宮宿)
2月13日のちちんぷいぷい、昔の人は偉かったでは日坂宿から掛川宿を歩いていました。お寺の名前は忘れたのですが、日本一大きな獅子舞が有るそうです。
桑名宿から宮宿を目指します。七里の渡しでは七里と言う事ですが、陸路でも20Km程は有りそうです。
桑名宿から宮宿へは、佐屋街道と言う別ルートも有ったようです。その間には佐屋宿、神守宿、万場宿、岩塚宿と四つの宿場が存在していました。その、佐屋宿と桑名宿の間にも三里の渡しが有りました。
七里の渡しが一旦海に出て、宮宿へ行くのに対し、三里の渡しは川を行きかっていました。陸路と合わせると九里にもなり船賃も七里の渡しの倍以上でしたが、女人や子供には迂廻路として利用されていました。桑名宿側の船着き場はしてと同じ処の様で、佐屋宿側は、愛知県津島市にある様です。
桑名宿と宮宿を結ぶ佐屋街道ですが、史跡や見どころも沢山有ります。
佐屋宿では、水鶏塚1735年建立された芭蕉の句碑、浄法寺、代官所跡、などが有ります。
隣の神守宿は佐屋街道で唯一現存する一里塚があり、他にも本陣跡、神守代官所跡が・・・。
万場宿で、覚王院、国玉神社、秋葉社、光円寺など。
岩塚宿では、八幡神社には本陣がこの辺りに在ったとされます。遍慶寺は岩塚城の城址石碑があり、七所社は日本武尊が腰掛けたという岩や、岩塚の由来となった古墳も有ります。七所社の道標は高札場が有ったところです。
宮宿に行くには、陸路で向かうのですが佐屋街道がどのルートか?は又調べなければなりません。現段階では桑名宿から国道1号に出て宮宿に向かう事になります。
宮宿は江戸から41番目の宿場で、中山道に繋がる美濃路や佐屋街道の分岐点で、東海道最大の宿場町です。同時に、熱田神宮の門前町でもあり、幕府や尾張藩の文書では宮宿ではなく、熱田宿と記されているそうです。
宮宿の史跡や見どころとしては、当然宮宿側の七里の渡し跡です。現在公園として整備され、熱田湊常夜燈や時の鐘があります。また、桑名宿と宮宿を結ぶ七里の渡しですが、宮宿から四日市宿へ行く十里の渡しと言うものも有ったそうです。
他には、都々逸発祥の裁断橋、東海道と美濃路の文書にあるほうろく地蔵、脇本陣格の旅籠丹羽家住宅、ひつまぶしの老舗蓬莱軒などが有ります。
当然熱田神宮もお参りしないといけません。熱田神宮は尾張国三宮で神社本庁の別表神社に定められています。主祭神は熱田大神で神紋は五七桐竹紋です。
さて、宮宿で美味しいものは?調べましたが、どうしても名古屋市の美味しいものとして一括りにされています。やはりここはひつまぶしとなるでしょう。蓬莱軒にこだわらずに探してみるのも良いでしょう。
次は鳴海宿への妄想をします。鳴海宿へは約一里半(7.3Km)の道のりです。
2020年02月15日
オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 四日市宿〜桑名宿)
四日市宿から桑名宿を目指します。三里八丁(14.5Km)の道のりです。
四日市宿からから間もなく、三ツ谷の一里塚に差し掛かり、それを過ぎて暫く行くと力石があり、近くには羽津城跡があります。羽津城は15世紀後半、田原(藤原)盛宗により築城されました。盛宗はムカデ退治で有名な藤原秀郷の子孫だそうです。
力石の先には富田の一里塚があります。江戸日本橋から98番目の一里塚です。この辺りは富田の立場だった所で賑っていたそうです。近くの、冨田駅の東側に冨田城が有ったそうですが、今は富田幼稚園に名残として銀杏の古木が残っているそうです
富田の一里塚から暫く行けば、幕末の国学者橘守部の誕生地の遺跡があります。そこから少し行けば、伊勢朝日町駅の側に縄生の一里塚があり、近くには資料館なども有るそうです。
朝日町駅からさらに進むと、町屋川に差し掛かり川を渡ると、伊勢両宮常夜燈があります。文政年間桑名や岐阜の材木商たちが寄進したものと言う事です。この辺りは舟遊びの船着き場もあり賑っていたそうです。
少し行くと、矢田立場に突き当たりますが、途中の道は江場松原と言い松並木が続いていたらしいです。火の見櫓が復元されている矢田立場は旅人の休憩所として賑っていました。この辺りは戦災を免れたと言う事で昔ながらの家並みが見ることが出来るそうです。この辺りから街道は曲がり角が多くなりそうです。
そのまま、進むと吉津屋見附跡があります。曲がり角が多い事から七曲の見附跡と言われているようです。吉津見附が京都からの入り口なのでしょうか?
四日市宿と桑名宿間には他にも多くの神社仏閣、名所旧跡、史跡が点在しています。特に浄泉坊と言う浄土真宗本願寺派のお寺は、徳川家に縁のある、桑名藩主の正室の菩提寺だったこともあり参勤交代の折、大名たちはかごを降り黙礼したと言う事です。他にも、桑名市博物館や、安永餅店跡などがあります。
桑名宿は江戸から42番目の宿場町で、宮宿に渡る七里の渡しを控えて大きく賑った宿です。同時に松平家の城下町でもあり、桑名城は、九華公園になっています。
桑名宿内にも史跡や見どころが、七里の渡し跡は勿論、大塚本陣跡(船津屋)、脇本陣跡(駿河屋)、通り井跡、柿安本店、桑名宗社(春日神社)、海蔵寺(薩摩義士墓所)、佛眼院(喚鐘、桑名藩藩士墓所)他神社仏閣なども数多く有ります。
さて、桑名宿で美味しいものと言えば、「その手は桑名の焼き蛤」?の蛤ですよね。色んな店で提供しているようです。店先でも販売している処もあり立ち食いも可能な様です。柿安本店は文明開化初期に開業した牛鍋屋由来の老舗の食品メーカーで外食事業でも老舗のお店です。他には、安永餅があります、これは四日市宿笹井屋のなが餅と同じもので、呼び名が違うだけの様です。只、四日市宿と桑名宿の間でしか食べられない感じがします。
次は、宮宿に向かいます。約七里と言う事ですが、陸上を移動する場合でも20Kmほどはあるようです。
2020年02月14日
オッサンのブラリ一人旅(法道仙人の足跡を行く 法華山一乗寺U)
これは、2019年3月に他サイトで公開したものです。
いよいよ本堂です。
一乗寺は天台宗のお寺で、西国三十三所26番の札所でもあります。本尊は聖観音菩薩です。650年孝徳天皇の勅願によって創建されました。開基は勿論法道仙人。春の桜、秋の紅葉の名所としても知られています。
法道仙人は天竺から紫の雲に乗ってやって来たとされ、架空の人物であろうと考えられています。鉄の宝鉢を持っていた事から空鉢(くはつ、からははち)仙人とも呼ばれています。6世紀から7世紀に日本に来たとされ、播州地方を中心として、一帯の山岳等に数多くの寺院を開基しています。主に加古川流域の地域に縁の寺院が多く有るようですが、丹波地方や、但馬地方、神戸市内、県外にも法道仙人が開基したとされる寺院が有ります。関東地方でも法道仙人由来の地名があるそうです。
残念ながら本堂内部は撮影出来ませんでした。御朱印は、頂きましたが・・・
中で、法道仙人が開基した他の寺院は、判らないのか尋ねてみたのですが、正確な事は判らないとの事、中には自称、法道開基の寺院と言うのも在るようです。自分で調べるしか無い様です。
本堂の内部は撮影出来ませんでしたが、本堂からの鐘楼や三重塔は見る角度が変わりなかなかなものでした。
本堂を後に、五輪堂迄降りてきました。五輪堂の横から別ルートには、奥の院、賽の河原となっています。そちらの石段を下りると、少し広いところに多数の石仏が、賽の河原?と、思ったのですが未だ奥に参道が続いています。
更に奥に進むとようやく、奥の院へ着きました。
奥の院開山堂です。此処に法道仙人が祀られていますが、直接それを視ることは出来ません。
開山堂の左に賽の河原へと続く道が有りましたが、上を見るとダムの様な感じがしたので、ここが賽の河原だと勘違いしてしまいました。しかし更に奥へ行こうとするには山を歩く装備が必要かと思います。
開山堂から引き返し、帰路に付くと、放生池にやって来ました。池の周りにも数々の石仏が並んでいます。
池の真ん中に祠の様なものが有ります。憶測ですが、弁財天を祀っている様です。
放生池を過ぎると、鳥居が見えます。確か看板には稲荷社が祀られているようですが・・・。
鳥居を潜っていくと、薄暗い石段の奥に何やらお社が見えます。
お社迄行ってみると、見子神社となっています。
どうやら、この神社には、「石童丸」伝説と言うものが有るそうです。石童丸は説教節「刈萱」という物語の主人公の名前で、架空のじんぶつとされています。
それでは、稲荷社は何処にあるのか?見子神社の横にひっそりと有りました。その横には、名も知れぬ祠が幾つか並んでいます。
法道仙人縁の寺院の中には、それとは知らずに、ブログに投稿した物もありました。
一乗寺を後にして奥山寺に向かいます。
2020年02月13日
オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 石薬師宿〜四日市宿)
2月6日のちちんぷいぷい、昔の人は偉かったは金屋宿から日坂宿を歩いていたそうですが、番組を視ることが出来ませんでした。
今回は、石薬師宿から四日市宿を目指す妄想の旅です。石薬師宿と四日市宿間は約二里二七丁(11.2Km)の道のりです。
石薬師宿を出て暫く行くと、杖衝坂に差し掛かります。日本武尊が剣を杖にして登ったといわれる坂です。側には芭蕉の句碑が有るそうで、この坂で落馬した時に読んだ季語の無い句だそうです「歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな」と読まれています。坂の手前には、日本武尊御血塚社があり、三重県の県名の由来となる言葉を残したといわれています。
少し行くと、内部川には東海道にちなんだポケットパークが有るらしいです。
内部川を渡り暫く行くと、日永の追分に着きます。随分、伊勢街道との分岐点と言う言葉が出て来ましたが、ここで本当に分岐するのだろうと思います。周辺には伊勢神宮遥拝鳥居や常夜燈もあり、更に追分鳥居の水と言う湧水があるそうで、水質検査もクリアーしているそうです。少し行くと、日永神社が有ります。追分と神社の間には、東海道名残の一本松や日永の一里塚の碑などが有ります。日永の一里塚は江戸日本橋から丁度百里目の一里塚と言う事です。日永の追分辺りには、松並木が続いていたそうです。
日永神社から少し進むと、古い町並みが残っており、その中には、嘉永年間に建てられた鈴木薬局も有ります。鈴木薬局は300年近く続く旧家で、4代目が長崎で漢方を伝授されたそうです。現在は、製造されていないそうですがいろんな薬が作られていました。
更に進むと、戦後活躍した小説家丹羽文雄の生家があります。奥には崇顕寺と言うお寺があり丹羽文雄は其処の長男として生まれました。
丹羽文雄生家から少し行くと、諏訪神社が有ります。どうやらこの辺りから四日市宿の様です。
四日市宿は四の付く日に市が立っていた事からその名が付いたそうです。古くから港町、宿場町として発展し、東海道、伊勢参りの旅人が集まっていました。宿場内には歌川広重が描いた三滝川、なが餅を販売している笹井屋、東海道四日市資料館、諏訪神社などの史跡や見どころがあります。三滝川の上流には湯の山温泉が有るそうです。
さて、四日市宿の美味しいものを探してみました。四日市宿でなくても食べる事の出来るものも有りますが、四日市宿でないといけない物がトンテキ丼、店によって違いはありますが豚肩ロースをニンニクと濃いめのソースで焼いた物の丼です。もう一つやはり笹井屋のなが餅は、餡を包み細長く薄く炙ったもので、日永の地名にちなんで永餅と名付けられたそうです。
次は四日市宿から桑名宿を妄想で旅します。距離は約三里八丁(14.5Km)の旅です。
2020年02月11日
オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 庄野宿〜石薬師宿)
庄野宿から石薬師宿を目指します。距離にして一里(3.9km)も無い道のりです。
庄野宿から国道1号に出て暫く進むと再び東海道に入ります。程なく、石薬師の一里塚があります。江戸日本橋から数えると102番目の1里塚です。此処が石薬師宿の入り口となるらしいです。
少し行って、街道から逸れると、石薬師寺の蒲桜があり、ヤマザクラの一種と言う事です。石薬師寺自体は少し離れた所にあります。
石薬師寺は、真言宗東寺派のお寺で、元は高富山西福寺瑠璃光院と称されていたそうですが、江戸時代に高富山瑠璃光院石薬師寺となったらしいです。本尊は薬師如来です。
蒲桜と石薬師寺の間に、蒲冠者範頼之社と言う源頼朝の弟、源範頼を祀った神社が有ります。願望成就の神様として祀られている様です。
石薬師寺から少し行くと、佐佐木信綱記念館があり、側には生家もあります。佐佐木信綱は武将の佐々木信綱、音楽家の佐々木信綱、歌人の佐佐木信綱といますが、石薬師宿では、歌人佐佐木信綱を言います。有名なのは、唱歌「夏は来ぬ」の歌詞を書いた歌人として知られています。
佐佐木信綱記念館から直ぐに、小澤本陣跡に差し掛かります。これは、小沢家が勤めたため小澤本陣と呼ばれているようです。建物は、明治時代に建て替えられ現在は資料館となっています。
資料館感から少し行くと、北町の地蔵堂があります。どうやら、此処が石薬師宿の江戸側の入り口の様です。
石薬師宿は、宿場町と同時に、石薬師寺の門前町として栄えましたが、関宿と四日市宿に挟まれた場所で宿場としては、大きくなりませんでしたが、門前町としては賑っていたそうです。
さて、石薬師宿の美味しいものですが、庄野宿同様これと言ったものはありませんでした。美味しそうなお店はあるようですが、石薬師宿でなければ頂けない様なものではなさそうです。
次は、四日市宿、三里八丁(11.2km)を目指します。
2020年02月10日
オッサンのブラリ一人旅(法道仙人の足跡を行く 法華山一乗寺)
これは、2019年3月に他サイトで公開したものです。
一昨年の秋、大國寺と文保寺に紅葉見物に訪ねたおり、法道仙人に興味を持ちました。そこで、その、法道仙人縁の寺院を訪ねてみようと、思い立ちました。
先ず、訪ねたのが加西市の法華山一乗寺です。
一乗寺に行く前に、少し道草です。立ち寄ったのが北条鉄道法華口駅です。
北条鉄道は一度、乗ってみたいと思う鉄道です。
法華口駅は1915年開業の無人駅で1日の利用客が39人と言う小さな無人駅です。一乗寺の入り口と言う意味から法華口と言う駅名になったそうです。その事からか駅にはミニチュアの三重塔が建っています。ホームの反対側には桜が有り、春には見事な花が咲きます。
法華口駅から国道372を南下し、三口西交差点から県道209に入り3K程走った所に一乗寺が有ります。
駐車場に車を停めまず目に入ったのが、粟嶋堂です。堂内には歓喜天、十一面観世音菩薩、不動明王、粟嶋天尊、毘沙門天、吉祥天、弁財天と七つの神様が祀られています。
駐車場から少し歩くと一乗寺に到着です。
入山料を払って参道を進みます。
目の前には。急で長い石段が有ります。
石段の途中に在るのが常行堂です。このお堂は聖武天皇の勅願により建立されたものと言う事です。今までに2度焼失し、現在のお堂は1868年に再建されたものです。
常行堂は、天台宗で常行三昧の行をするために建てられたものだそうです。
更に石段を登っていくと、三重塔に到着です。
一乗寺の三重塔は、1171年の建立で、建立年代の明らかな塔としては、数少ないものです。国宝にも指定されています。
三重塔とその向かいにある五輪堂です。
いよいよ、最後の石段です。
石段を登りきったところにあるのが、鐘楼です。県指定の文化財で、1629年本堂再建の折に建立されたものです。
本堂の向にも石段があり、行ってみると護法堂が有ります。毘沙門天を祀り、鎌倉時代の建立です。
少し離れた場所にも、弁天堂と妙見堂があり共に室町時代のものです。その隣には、行者堂が在りこの建物は1999年解体修理された物です。
この後本堂に入ります。
2020年02月09日
オッサンのブラリ一人旅(闘龍灘)
これは、2016年3月に他サイトで公開したものです。
五百羅漢を。後にして、何処か立ち寄る処は無いか?と考え闘龍灘が思いつきました。
闘龍灘は中国自動車道を下車して、すぐの処にあります。
入り口には、公園が整備されていました。こんな石碑も、フットワーク発祥の地らしいです。
闘龍灘は数百?メートルの僅かな区間に川床いっぱいに奇岩怪石が起伏し激しい流れを起こしています。穏やかな清流といったイメージの加古川ですが、ここだけは違います。その様を、巨大な龍に見立てて、闘龍灘と呼ばれたともいわれます。川の西側はまさに男性的な激流です。
対岸迄、岩が続いています。歩いて、対岸に行けるようです。下流は少し流れが緩やかになっています。
西側の流れと、東側の流れが若干違うようです。西側に比べると東側は川幅が狭いのですが、西側に比べると、少し緩やかです。
岩場を過ぎると、信じられないくらい穏やかな清流が流れます。
公園にはこんな像も、阿江与助という人物です。加古川の舟運を開発した人物だそうです。
穏やかな日の闘龍灘ですが、荒れた日はどんな顔を見せるのでしょう?そう言えば、むかし闘龍という相撲取りがいたのを覚えています。確か姫路出身ではなかったでしょうか?
2020年02月08日
オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 亀山宿〜庄野宿)
亀山宿から庄野宿、約二里(7.7Km)の旅になります。
亀山宿(露心庵跡)を出発し、暫く行くと、亀山市和田地区に入り、和田1里塚が有ります。この、一里塚は復元された物の様ですが、道路が拡幅されるまでは、塚の一分が残っていたそうです。側には、和田の道標もあり、市内に残存する最古のものらしいです。
和田の道標から直ぐに、法悦供養塔が立っています。この辺りは過って刑場だったらしく、その供養に建てられたそうです。
途中、街道を反れて県道641号に入り、県道639号から安楽川を渡ったところに能褒野御墓が有ります。此処は日本武尊の墓とされていて、前方後円墳になっています。側には能褒野神社も有るそうです。
街道に戻って、もう一度安楽川を渡ると、川俣神社が有ります。川俣神社は鈴鹿川沿いに6社有るそうです。鈴鹿川と安楽川が合流する所に点在しているのではないでしょうか?
少し行くと、中富田一里塚が有りその裏にも川俣神社が有ります。そこから、もう少し行くと、女人堤防塚に差し掛かります。この辺りは、亀山藩と神戸藩の境、鈴鹿川と安楽川の合流地点で水害に悩まされていた処でもあります。それを女だけで堤防を築いたらしいと言う事です。
その先に本陣跡があります。どうやら、そこが西の入口の様です。その手前にも川俣神社があるようです。
庄野宿は、東海道で最後に設置された宿場です。関宿や四日市宿の間にある庄野宿は宿泊客が少なく、規模もかなり小さかった様です。現在宿場内には、庄野宿資料館(旧小林家住宅)、問屋場跡、本陣跡、高札馬跡、脇本陣跡などの史跡や見どころがあります。
庄野宿には、これと言った美味しいものは見当たりませんでした。宿場の規模が小さいのもあるようです。庄野宿で無いと頂く事の出来ない様なものは、残念ながらありません。
次は、石薬師宿を目指します。距離にして、僅か二七丁(3.9Km)の道のりです。
2020年02月07日
オッサンのブラリ一人旅(加西市 北榮山羅漢寺 五百羅漢)
これは、2016年3月に他サイトで公開したものです。
職業訓練が終わって、何だか穴が開いた気持になっていました。これは、いかん!何とかしなければと、どうせ、ブログのネタも尽きかけていたので、お出掛け2
ということで、宛も無く車に乗り込んで、そうだ!五百羅漢なら行った事は無いけど、地図が無くても行くことができる!
やってきました。加西市の五百羅漢です。
五百羅漢は、加西市北条の北榮山羅漢寺の中にあります。境内の一番奥にあり約450体が鎮座しています。制作者や制作年などは不明ですが慶長年間ではないか?とのことです。技巧的にはそんなに高くはないのですが、一体一体表情に個性があり、親や知人、自分に似た顔が見つかる、とのことです。一説には帰化人をモデルにしたともいわれています。
途中にはこんな仏像も鎮座していました。
最奥の五百羅漢です。
中央部からの画像です。調べていたら、関西のモアイ像?とのコメントがありました。
足元には、こんな物も???この物体は?駒…?分からん。
本堂です御本尊は薬師如来像。
隣接する、幼稚園が見学に来ていて賑やかになりました。平日にお寺などを回ると誰も居ないことが多いのですが、Off-seasonの平日にも関わらず見物に訪れる人がちらほらいました。
2020年02月02日
オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 関宿〜亀山宿)
関宿から亀山宿約一里半(6.9Km)の妄想の旅です。
関宿、東の追分を出発して直ぐ、お万のもたれ松と言うものがあります。親の仇を討つ為武道に励んでいた女性で、この松に身を隠したという言い伝えがあり、関宿内にお万の墓もあります。
そのまま、少し、進むと大岡寺畷と呼ばれる地区に掛かります。鈴鹿川沿いを通る道です、過っては松並木が植わっていましたが、現在は桜が植えられているそうです。
大岡寺畷から暫く行くと、野村一里塚が有ります。この一里塚は三重県で唯一の現存する一里塚です。側には樹齢400年高さ33mの巨大椋が植わっています。100mほど先には一里塚の休憩所も・・・
野村一里塚から少し行くと、いよいよ亀山宿の入り口と言える、京口門跡です。当時はかなり立派な門だったようで、「亀山に過ぎたるものの二つあり 伊勢屋蘇鉄に京口御門」と謳われたそうです。
亀山宿は、宿場町と同時に、城下町でもあります。1264年平実忠の築城から始まります。藩領内に幕府徳川幕府直轄の宿場が置かれていた為大名たちは亀山宿にとまる事を遠慮したといわれ、宿場の規模はそれほど大きくはならなかったということです。
亀山宿の範囲は、京口門辺りから露心庵跡辺りと思われます。露心庵は1584年神戸正武による亀山城襲撃で命を落とした戦死者を葬った供養塚だったようです。
関宿と同様、宿場内には見どころが多く有ります。亀山城跡は亀山公園の一部として整備されています。他に、江戸口門跡があり江戸口門と京口門の間が城下町とされていたそうです。更に大手門跡や、西町問屋場跡などが有り、古い街並みも楽しめそうです。
亀山宿での美味しいものは?やはり、亀山と言えば、亀山ラーメン、牛骨味噌スープのラーメンです。関宿でも取り上げた、みそ焼きうどんもいろんな店で提供されているようです。
次は、庄野宿をめざします。