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2020年02月28日
オッサンのDream Journey(桜前線を追いかける)
先日、何度目かの桜開花予報が発表されました。
実は、オッサンのDreamJourneyでは(昔の人はエライ!)の他に、挑戦してみたい旅が有ります。
その一つが、南から北へ桜前線と共に、北上しながら桜を観て回る旅です。残念ながら沖縄は、早すぎてもう終わってしまっています。
ルールとしては、沖縄を除く都道府県格1ヶ所以上桜の名所を訪ね、桜を観る事だけです。
桜前線と言う事で、鹿児島から北海道を目指せば良いのか?と、思いきや、そんなにイメージ通りにはいかない様です。開花日、満開日が一番早いのは東京と言う事です。鹿児島はかなり遅い時期になるようです。
各地の満開予想日です
3月23日 東京
3月26日 岐阜、高知
3月27日 甲府、前橋
3月28日 名古屋、京都、熊谷
3月29日 広島、福岡、熊本、静岡、佐賀、横浜、鳥取、岡山、宇都宮、津
3月30日 神戸、和歌山、大阪、奈良
3月31日 松山、高松、松江、水戸、富山、福井
4月 1日 下関、徳島、銚子
4月 2日 大分、長崎、彦根、金沢
4月 3日 宮崎
4月 5日 福島
4月 6日 新潟
4月 7日 仙台
4月 9日 長野
4月11日 鹿児島
4月13日 山形
4月17日 秋田
4月20日 盛岡
4月29日 青森
5月 2日 函館
5月 4日 札幌
5月 8日 室蘭
東北の日本海側と、北海道はイメージ通りの満開予想ですが、他の地域は全くバラバラです。特に、3月26日から4月2日に掛けては、数も多く更に、移動距離もかなり有ります。出来るだけ満開日に近い日に廻れるように、プランを立てていきたいと思います。
交通手段は、普通の旅行と同じ条件ならいいか?と思います。それでも、本当にこんな計画は可能でしょうか?他に同じような事を考えるアホは居るのでしょうか・・・?
少しの間、昔の人はエライ!は休みます。
2020年02月27日
オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 赤坂宿〜御油宿)
赤坂宿から御油宿へ向かいます。僅か一六丁(1.7Km)の道のりです。
御油宿の、京都側の入り口は、本陣跡だと思われます。
赤坂宿と御油宿本陣跡の間には、関川神社、御油の松並木、東林寺などの史跡が有ります。
関川神社は、赤坂宿の、江戸側入り口である東見附跡の直ぐ側にあります。境内には、樹齢800年高さ25mの楠と芭蕉の句碑が有ります。句は「夏の月御油より出でて赤坂や」と読まれています。
出発して、御油宿を目指すと途中松並木が有ります。この松並木は家康の命で赤坂御位の真ん中に造った事で赤坂宿と御油宿の二つの宿に別れました。この事から、江戸に向かう際は赤坂宿、京に向かう時は御油宿に泊まると言うルールが存在しました。
松並木を過ぎると街道の左に東林寺が有ります。白蓮院招賢山東林寺は、御油町の中心寺院だったそうでなかなか由緒のあるお寺の様です。墓地には、宿場時代の、遊女たちの墓が並んでいます。間もなく西の入口本宿です。
御油宿は、江戸から35番目の宿場です。本陣が少ない時でも2軒あり、宿場の大きさより、賑っていた様です。隣の吉田宿や赤坂宿と共に、飯盛女を多く抱えており「御油や赤坂、吉田がなけりゃ、何のよしみで江戸通い」と言われるほどだったという事です。
宿場内には、本陣跡、松並木資料館、高札場跡、ベルツ花夫人ゆかりの地、などが有ります。
本陣跡の碑が有る場所は、鈴木半左衛門が営んでいた本陣だったという事です。
本陣跡から直ぐの所に、松並木資料館が有ります。国の天然記念物である御油の松並木と御油宿に関する資料、御油の復元模型、広重の浮世絵版画などが展示されています。拝観は無料との事です。
松並木資料館の先に、高札場跡があります。看板だけの様です。
高札場跡の斜め向かいに、ベルツ花夫人の看板が有るそうです。ベルツ花夫人(本名、荒井花子 東京生まれ)は、明治政府がドイツから招いた医師ベルツ博士の夫人で、博士の任期終了後ドイツに渡りましたが、博士没後帰国日本で亡くなりました。父親の生家が此処だったという事です。
御油宿の美味しいものですが、やはり、同じ豊川市内と言う事も有り、赤坂宿と同じように稲荷ものとなるでしょう。
次の妄想は、吉田宿、二里22丁(12.7Km)の道のりです。
2020年02月25日
オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 藤川宿〜赤坂宿)
今回の妄想は、藤川宿から赤坂宿二里九丁(10.3Km)を目指します。
実は、藤川宿と赤坂宿の間にはもう一つ、本宿が有ります。赤坂が宿場になる前に宿場だった所だそうです。
赤坂宿の京側の入り口は、西の見附になります。藤川宿と赤坂宿西の見附の間の史跡は、山中立場、本宿、磯丸歌碑、長沢一里塚、西の見附と有ります。
藤川宿を出て暫く行くと、名電山中駅を少し過ぎた辺りが山中立場となります。山中立場も本宿並みに賑っていたそうです。歌川広重は、付近の風景を藤川として描いています。
電車で1区間程度の先に本宿です。丁度駅前に本宿一里塚が有り、ここが、本宿の入り口と考えて良いでしょう。街道には本陣跡や味噌工場など、古い町並みが残っているようです。街道から少し離れると法蔵寺が有ります。法蔵寺は、二村山法蔵寺と言い浄土宗西山深草派のお寺で、本尊は阿弥陀如来です。徳川家の始祖松平親氏が伽藍を建立したことから、松平家の菩提寺となっているそうで、徳川家康が幼少の頃このお寺で読み書きなどを習ったという事で、その遺品も残っているとの事です。他にも法蔵寺には日本武尊東征の故事が伝わる硯水や、新撰組組長近藤勇の首塚などが有ります。
本宿を出て、名鉄長沢駅の手前に、観音堂跡があり磯丸(みほとけ)歌碑が有ります。長沢駅を過ぎると、長沢一里塚が有ります。その先に、八幡神社が有り、そのあたりに見附跡の標識があるようです。
江戸から36番目の赤坂宿は、隣の御油宿と合わせ「赤坂御位」と言う一つの宿場町でした。江戸時代家康の命により2つの宿場に分けられたという事です。その為赤坂宿と御油宿の間は一六丁しか離れていません。
赤坂宿内の街道沿いには、高札場跡、大橋屋、尾崎屋、浄泉寺、問屋場跡などの史跡が有ります。
高札場跡の近くには、陣屋跡の説明看板もあるそうで、廃藩置県の折には三河県の役所になっていたらしいです。
大橋屋は1649年創業の旅籠で、広重の、絵のモデルにもなっています。2015年に旅籠としての営業を終了されました。近くの尾崎屋は曲げ物製造卸問屋です。
浄泉寺は浄土宗のお寺で、境内の観音堂には百観音が安置されているという事です。本堂前のソテツは広重の絵で有名だそうです。
問屋場跡は説明看板のみですが、向の本陣跡は資料館になっているようです。
さて、赤坂宿での美味しいものを調べてみると、隣の御油宿に日本3大稲荷の豊川稲荷が有ります。そうなると、やはり稲荷寿司他の稲荷物ですね。稲荷ずしは勿論、いなりバーガーやいなりうどん、などお店によって、様々な物が提供されているようです。赤坂宿か御油宿で食べたいですね!
次は、御油宿へと向かいます。僅か一六丁(1.7Km)の距離です。
2020年02月24日
オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 岡崎宿〜藤川宿)
今回は、岡崎宿から藤川宿一里二五丁(7.3Km)へ妄想を馳せます。
藤川宿の西の入り口は、西棒鼻と言う事です。
岡崎宿と西棒鼻の、間に有る史跡等は大平一里塚、大岡越前守陣屋跡、吉良道々標、藤川一里塚、十王堂、藤川西棒鼻跡と続きます。
岡崎宿を出発して、暫く行くと大岡越前守陣屋跡に着きます。江戸町奉行の大岡越前が一万石の大名になってから明治まで大岡家が西大平藩主として陣屋をおいていました。手前には、大平一里塚が有ります。
大岡越前守陣屋跡から、かなりの距離を行くと、吉良道と分岐する吉良道々標に差し掛かります。吉良道は三河湾から海産物などが運ばれた重要な街道だったそうです。此処の吉良と言うのは、忠臣蔵の吉良上野介が領主を務めた所です。芝居では悪人ですが、実際は名君だった説も有ります。
吉良道々標から少し進むと、西の入口、藤川西棒鼻に到着です。藤川宿では、西棒鼻、東棒鼻共に復元されているそうです。大名が通るときは本陣、問屋が出迎え口上を述べていたらしいです。
その手前には、十王堂が有り、境内には芭蕉の句碑が有るそうで、脇には藤川一里塚も有ります。十王堂は冥土で死者を裁く、閻魔大王を元とする十人の仏様を祀ったお寺です。
西棒鼻を過ぎると、藤川一里塚です。宿場には、藤川宿脇本陣跡、本陣跡、問屋場跡、高札場跡、などの史跡が有ります。
脇本陣は藤川宿資料館となっており、当時の歴史を無料で学べる様です。門だけが当時のものだそうです。
本陣、問屋場、高札場は碑が有るだけの様です。
藤川宿の美味しいものです。探してみました、藤川宿ではむらさき麦が名産品の様です。道の駅藤川宿でむらさき麦を使ったメニューが提供されているそうです。
次は、赤坂宿を目指します。距離にして二里九丁(10.3Km)の道のりです。
2020年02月23日
オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 池鯉鮒宿〜岡崎宿)
池鯉鮒宿から岡崎宿への妄想をします。距離にして約三里三十丁(15.3Km)の道のりです。
池鯉鮒宿を出ても、岡崎宿へ向かう道沿いには、池鯉鮒宿に関わる史跡が幾つか有ります。
池鯉鮒宿、岡崎宿間には、来迎寺、松並木、尾崎の一里塚、明治用水碑、八丁味噌蔵、岡崎城下二七曲道標板屋町角などの史跡があります。岡崎宿の西の入り口としては、岡崎宿西本陣跡だとは考えるのですが、かなり東の方へ来てしまいますので、岡崎城下二七曲道標板屋町角を西の入り口とすることにしました。
池鯉鮒宿を出発し、暫く行くと来迎寺に到着です。来迎寺は、臨済宗のお寺です。お寺の前には来迎寺一里塚が有り、街道の両側に現存しています。
来迎寺から2Km程進むと明治用水碑に差し掛かります。明治用水は西三河一帯に灌漑する用水路でした。現在は記念碑が残っているようです。その周辺には松並木が続いています。知立の松並木、安城の松並木、尾崎の松並木と有るとの事ですが、調べてみると、知立の松並木も安城の松並木も明治用水の辺りがそれらしいとの事です。どうやら同じものなのかもしれません。尾崎の松並木もさほど離れていない様です。
ここから、少し距離は有ります、岡宿の手前まで進みます。矢作川を渡り街道を行くと、味噌工場が立ち並ぶ地域に来ます。八丁味噌の蔵屋敷です。ほどなく、岡崎城下二七曲道標板屋町角に、東海道五十三次です。取り敢えずここを、西の入り口にしておきます。
岡崎宿は、岡崎城の城下町でもあり、徳川家康生誕の地でもあります。又、駿河国駿府宿に次いでの規模を誇る宿場町でした。
岡崎宿の史跡には、岡崎城、東惣門跡、岡崎信用金庫資料館、岡崎宿西本陣跡、岡崎二七曲碑などが有ります。
二七曲碑は、防衛の意味で城下の道が屈折しているのが常で、岡崎宿の二七曲はその典型の様です。曲がり角ごとにその碑があると言う事ですが、見つからない物もあるそうです。
岡崎城は戦国時代から松平氏の持城で徳川家康の生地でもあり、別名龍城とも言われます。お城は、整備された岡崎公園の中にあり、多くの史跡があります。
岡崎信用金庫資料館は、1917年に建てられました。ルネッサンス様式の建物は大正時代に流行っていた幾何学的な意匠も織り交ぜられています。
岡崎宿西本陣は、当初本陣が二軒有ったそうですが、後に本陣が三軒、脇本陣が三軒と言う規模になった様です。
さて、岡崎宿の美味しいものですが、地域が岡崎市のご当地グルメを売り出そうとかなり力を入れられているようです。その中で、これは?と言うものが有りました。
岡崎まぜ麺は、店によって和洋中、創作と有ります。八丁味噌蔵群のキャラクターのどら焼き、八丁味噌のソフトクリーム、八丁味噌の田楽など何を食べるか?迷う感じです。
次の妄想は、藤川宿一里二五丁(7.3Km)への旅です。
2020年02月22日
オッサンのブラリ一人旅(伊根海岸)
これは、2019年2月に他サイトで公開したものです。
浦島神社を出た後、海岸線を走ってみようと海を目指します。
「オッサンのブラリ一人旅」が最近、神社,仏閣にばかり行っています。少しはいい景色を観ないと、と思ったのですが、そうは言ってもオッサンが一人で徘徊する訳です。家族連れやカップルが多い所に行っても浮いてしまいます。どうしても、神社や仏閣が多くなってしまいます。
それでも、いい景色が見られることを期待して車を走らせます。
本庄海水浴場を過ぎて、峠道に入ると、山の間から若狭湾が広がります。夏の海も良いのですが、冬の海も趣が有ります。
この後、暫く車を走らせると、棚田が広がって来ました。
ここが新井の棚田?かと思ったのですがどうやら違っていました。
観光名所としては、少し物足りないかな?とは思いました。しかし、十分に良い風景を楽しむことが出来ました。
この近くには奥伊根温泉も有るそうです。
その後も、宮津方面へ進んでいると、道の真ん中に猿がいました。
まさか、こういう場面に出くわすとは思いも因りませんでした。
泊漁港にやって来ました。すぐ側には海水浴場も有ります。
泊漁港にも、舟屋の原型とも言える舟屋が幾つか有るそうです。隣村の津母地区には、平安時代の製塩遺跡が出土されたということです。
このまま、伊根漁港まで進もうと思っていたのですが、泊漁港を過ぎてすぐに通行止めに成っていました。仕方なく、国道178号に出て伊根湾を目指します。
2020年02月21日
オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 鳴海宿〜池鯉鮒宿)
2月16日の所さんお届けモノです!では、チャンカワイさんが東海道見付宿から袋井宿、掛川宿、日坂宿、金屋宿と歩いていました。これで、ちちんぷいぷいの昔の人は偉かったと出会った事になります。
鳴海宿から池鯉鮒宿二里三十丁(12.2Km)の妄想です。地鯉鮒宿は知立宿とも表示することがあるようです。
池鯉鮒宿の京都側の入り口は、知立古城址を過ぎた辺りが入り口にあたります。
鳴海宿から池鯉鮒宿の間には岡家住宅、有松・鳴海絞会館、桶狭間古戦場、高徳院、阿野一里塚、洞隣寺、総持寺、知立神社、知立城跡などの史跡や見どころがあります。
鳴海宿を出て、程なく有松・鳴海絞会館が有り、絞作業の見学や展示販売されているそうです。その周辺は重要伝統建造物群保存地区になっており、岡家住宅他、有松の街並みを視ることが出来るようです。
絞会館から少し行くと、桶狭間古戦場です。勿論、織田信長が兵力2万5千の今川軍を三千の兵で破った桶狭間の戦いの舞台になった場所です。現在は公園になっていて、今川義元の墓なども有ります。
古戦場の近くにある、高徳院は高野山真言宗のお寺です。今川義元は桶狭間の戦いの為に本陣をここに置いたと言う事です。古戦場、高徳院共に今川義元に纏わる史跡が多く有ります。又、近くには中京競馬場が有り、競馬開催日と重なった場合はそちらで1発勝負?
古戦場の先に阿野一里塚が有り、江戸から86番目の一里塚です。街道の両脇に現存する一里塚は国の指定史跡だという事です。この一里塚を離れ境川を渡ると、尾張国から三河国に入ります。
三河国に入り少し行くと、洞隣寺です。曹洞宗のお寺で開基は徳川家康の叔父で刈谷城主の水野忠重と言う事です。刈谷城は西へ数キロ離れた所で亀城公園として整備されています。
洞隣寺から少し行き、逢妻川を渡ります。すぐに総持寺と知立神社が有ります。
総持寺は、天台宗のお寺で、家康の側室於万の方生誕の地とされています。知立神社の境内に総持寺が有る様な感じです。
知立神社は三河国二宮で江戸時代には東海道三社の一つに数えられたそうです。境内には多宝塔がありますが、これは12月に紹介した柏原八幡神社の三重塔と同じように塔から本尊を省き文庫にすることにより、神仏分離令から逃れた様です。本尊は総持寺に有るとの事です。
総持寺の数百メートル先には、知立城跡が有ります。知立城は知立神社の神主の築城とされており、その居館が城の始まりとされているそうです。現在は公園になっていて石碑と案内板があるだけと言う事です。
知立城跡を過ぎた辺りが、池鯉鮒宿の入り口と言う事です。
池鯉鮒宿は、江戸から39番目、京都からは15番目の宿場です。池鯉鮒は歴史的仮名遣いで(ちりふ)と読まれます。中世には鎌倉街道の要衝として江戸時代は東海道の宿場町として栄えた所です。池鯉鮒の地名は、近くに鯉や鮒の多く住む池があった事ではないか?と言う事です。
宿場内には、池鯉鮒宿本陣跡、問屋場跡、慈眼寺の史跡があります。本陣跡、問屋場跡は跡碑のみとなっています。
慈眼寺は、福聚山慈眼寺と言い阿弥陀如来を本尊とする曹洞宗のお寺です。お寺の東側は馬の集積地で馬市も開かれていたそうで、馬の供養の為馬頭観音が祀られたという事です。
鳴海宿から池鯉鮒宿間のルートプランは有松・鳴海絞会館―桶狭間古戦場―高徳院―阿野一里塚―洞隣寺―総持寺―知立神社―知立城跡と言った計画になります。
宿場内の計画は、本陣跡―問屋場跡―慈眼寺となります。
さて、池鯉鮒宿での美味しいものは、いもかわうどんと言うのが有ります。平打ちのうどんできしめんのルーツとも言われている物です。明治時代に途絶えていましたが、2007年に復活したそうです。鳴海宿から池鯉鮒宿の間で食べなければいけない物だと思います。
次回は岡崎宿へと妄想の旅をします。距離は約三里三十丁(15.3Km)となります。
2020年02月20日
オッサンのブラリ一人旅(丹後LEGEND of sevens Princess 浦島神社)
これは、2019年2月に他サイトで公開したものです。
丹後LEGEND of sevens Princess(丹後七姫伝説)は、4年前の夏から秋にかけてSeesaa ブログで公開していたものです。
七姫縁の場所を回ってひと段落と言った感じだったのですが、最近、伊根の浦島神社が紹介され、行かねばなるまいと思い立ち、立春後の最強寒波の中尋ねました。
天橋立から伊根へ向かう海岸線、至る処で工事が行われており信号待ちの間に宮津湾の景色を納めてみました。
工事区間を終えて国道178をしばらく走ると、浦島神社の手前に、駐車スペースが有ります。そこから見えるのは伊根の、布引の滝です。こちらも最近テレビなどで紹介されています。
この滝は、落差が100mもある滝で、その水流の様は見事で布を垂らしたように美しい事から布引の滝と呼ばれているのですが、山の山頂にあるため雪解けの時期か降雨時にしか水が落ちるところを見ることが出来ないため幻の滝と呼ばれています。今回も残念ながら水は流れていませんでした。
布引の滝は各地に有ります。ネットで検索しても、なかなか伊根の滝にはヒットしません。布引の滝の前に伊根を入れるとヒットしやすい様です。
布引の滝から直ぐに、浦島公園が有ります。公園の横が、浦島神社への参道となっています。
浦島神社は、宇良神社とも呼ばれ浦島伝説が伝わる神社です。創祀年代は平安時代とされています。
祭神は浦島子とされ、浦島子とは浦島太郎の事になります。その浦島子を筒川大明神本殿として祀っています。
拝殿と本殿です。残念ながら工事中の様で、シートに覆われていました。
境内社が、この規模の神社にしては少ないように思われます、蓬山(とこよ)の庭にもお社は有ってのですが、庭に入るのが憚られました。
蓬山(とこよ)と言うのは、竜宮城の事であろうと思われます。伝説では浦島子が神女に誘われ海の彼方蓬山(とこよ)に渡りおよそ350年後に帰って来たと伝えられます。
その蓬山(とこよ)の庭ともう一つの摂末社です。
伊根には、浦島伝説にまつわる、神社や旧跡が他にも結構あるようですが。一度に回り切れるものではありません。幾度も足を運ぶことになるのでしょう。
Seesaa で以前公開した、丹後LEGEND of sevens Princess(丹後七姫伝説)を随時、投稿してゆきたいと思っています。
2020年02月18日
オッサンのDream Journey(昔の人はエライ! 東海道五十三次 宮宿〜鳴海宿)
宮宿から鳴海宿に向かいます。距離にして約一里半(7.3Km)の道のりです。
鳴海宿の京都側の入り口、丹下町常夜燈迄の間には、熊野三社、笠寺観音、笠寺一里塚、千句塚公園、千鳥塚、などの史跡があります。
熊野三社は勿論、熊野三山を総本山とする神社です。永禄年間に山崎城城主佐久間信盛が守護神とする1627年氏神としてこの地に移されました。この神社は、熊野三社松巨島(くまのさんしゃまつこじま)とも呼ばれています、熱田の方から見るとこの辺りが松の大きな島に見えた事から来ているそうです。山崎城は、神社の手前にある安泰寺の境内がお城だったと言う事ですが案内板などは内容です。
笠寺観音は本来天林山笠覆寺と言います。十一面観音を本尊とする真言宗智山派のお寺で尾張四観音の一つです。尾張四観音とは尾張国の代表的な四つの観音寺で、笠覆寺他に荒子観音、甚目次観音、龍泉寺観音があり、いずれも開基から1000年以上のお寺との事です。笠寺観音の先には、笠寺一里塚があり名古屋市内で現存する唯一の一里塚です。
千句塚公園は松尾芭蕉が自ら築いた句碑が有る公園です。句碑には「星崎の闇を見よとや啼く千鳥」とあります。千鳥塚も公園内にあり、他に稲荷神社も有ります。またデートスポットとしても知られており名古屋港などの夜景が楽しめるそうです。
千句塚公園から少し行くと、丹下町常夜燈に差し掛かります。此処が、西の入り口になります。その手前には、成海神社が有ります、日本武尊を主祭神とする神社です。
鳴海宿は、江戸から40番目、京都からは14番目の宿場です。成海宿とも呼ばれ、昔は海に面した宿場でしたが土砂の堆積で海から離れています。江戸時代から始まった鳴海絞は、今も伝統産業として続いています。
その鳴海宿には、丹下町常夜燈、成海神社、鳴海城址、鳴海宿本陣跡、瑞泉寺、平部町常夜燈、宿場から少し離れますが大高城址などが有ります。
鳴海城は、別名根古屋城とも言われ、室町時代に安原宗範の地区と言う事です。しかし宗範没後1次は廃城になりました。しかし、戦国時代今川軍の武将が桶狭間の戦いで織田信長軍と戦い城は信長の手に渡り、天正年間廃城となりました。現在は公園になっていますが、向の神社に城跡碑と説明看板が有るだけだそうです。
近くには鳴海宿本陣跡があります。江戸時代「鳴海の本陣はここにあり」と言われたようで、かなりの規模だった様です。予備の脇本陣も二軒有ったそうです。
瑞泉寺は、鳴海城主安原宗範の創建で大徹禅師を開山とする曹洞宗のお寺です。鳴海宿は寺町でもあり「鳴海寺詣り歌」と言う宿場の寺社を歌ったわらべ歌が有ります。歌の歌詞をなぞって、お寺参りと言うのも良いかも知れません。
平部町常夜燈は東の入り口にあたります。1806年に設置された常夜燈は大きく華麗で道中有数のものです。
大高城址は宿場から西へ2Km程離れた所にあります。桶狭間ので、松平元康(徳川家光)が兵糧入れをした城と言われています。江戸時代に廃城となりましたが、尾張藩は東の押さえとして万石級の家老を領主としました。
宮宿〜鳴海宿のルートプランが熊野三社―笠寺観音―笠寺一里塚―千句塚公園―丹下町常夜燈となりました。どのくらい、周れるかわかりませんが、東海道を旅している証になる画像を撮れればいいと思います。
宿場内は、丹下町常夜燈―成海神社―鳴海城址―鳴海宿本陣跡―瑞泉寺―平部町常夜燈―大高城址と言う計画です。
さて、鳴海宿での美味しいものは?やはり、鳴海宿で食べなければいけない物と言うのは有りませんでした。名古屋市内ですので、名古屋飯として一括りにされてしまうのでしょうね。
この後は、知立宿(地鯉鮒宿)二里三十丁(12.2Km)への妄想を膨らませます。
2020年02月17日
オッサンのブラリ一人旅(法道仙人の足跡を行く 青嶺山奥山寺)
これは、2019年3月に他サイトで公開したものです。
一乗寺の後、立ち寄ったのが青嶺山奥山寺です。
奥山寺がある場所は、加西市の北東に位置します。丁度一乗寺の反対側に在るという訳です。
参道の入り口には仁王門が有ります。しかし、格子が施されていて写真はおろか肉眼でも仁王像を見ることが出来ませんでした。
参道の途中まで車で行くことが出来ます。その突当りは急な石段が続きます。石段の横にはこんな石碑も。
石段を登っていくと、途中に経蔵らしき建物が有ります、その隣のお堂は何なのか?看板も何もないので不明です。反対側の平地には地蔵堂らしきお堂が在りますが今にも朽ち果てそうなお堂です。
お堂の周りには、多くの石仏が鎮座しています。
残りの石段を登りきると本堂です。
本堂まで来ても誰にも出会いません。人一人見かけません。寺務所らしき物も見当たりません。
本堂の更に奥から老夫婦らしき方が下りてこられました。どうやら近所の方の様で、ウオーキングの為にここまで登ってこられたようです。声を掛けて御朱印は何処で頂けるのか?訪ねた所、下の地蔵院で頂けるとの事でした。しかし、この日はご住職が不在だった為頂く事が出来ませんでした。
奥山寺は、勿論法道仙人の開基です。651年孝徳天皇の勅願で創建された高野山真言宗のお寺で、本尊は千手観音菩薩です。
創建以来、2度の火災に合いましたが、1607年再建され、1687年修理が行われました。現在の本堂はその時に建て替えられたそうです。
本堂の周りには地蔵尊が建立されています。
本堂の裏の石段を更に登ると多宝塔が建っています。
この多宝塔は、比較的新しく江戸時代中期1709年に建てられたものです。内部には四天柱、來迎壁が有り、金剛型界五仏が安置されています。
多宝塔の隣にも石段が有りその先には、祠が有りますが何を祀っているのか?不明です。
秋には紅葉の名所として知られる奥山寺だそうですが、紅葉の季節以外は閑散としているようです。折角の由緒あるお寺ですのでもう少し整備をし、せめて説明看板を増やし、お堂などがどのような物なのか?分かるようにしてほしかったです。貴重な文化財です、管理される方にもう少し頑張って戴きたいと感じました。
数少ない看板もこの様な有様です。
帰りは石段の横の、坂みちを使い下山しました。車を停めている処まで戻ると梅が咲いています。近くに梅林でもあればとは思っていたのですが、何とか梅もカメラに収めることが出来ました。
ここでは、御朱印を頂くことは出来ませんでしたが、戴ける時に戴けば良いのではないかと思っています。