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2019年01月23日

ヒロシと寿司屋のマスターの話

昨日はさすがに飲み疲れもあり家でゆっくり。
久しぶりに超音波治療器を使った。まずは気になる右のモモ裏からふくらはぎ。普通の感覚であれば、治療器を押し当てた部分は深層部に“熱さ”を感じるのだが、痺れている足にはその感覚がない。
これくらいで熱く感じるだろうというタイミングであてる部位を移動する。

右脚が終われば両肩。特に痛みは感じていなかったが、ケアとして。肩は熱さを感じる部分がある。
超音波治療器を使う時はジェルを使うので裸にならないといけない。いつもより熱い湯に浸かってゆっくりした。

大学時代に家庭教師をしていた。ダイエーのバイトで知り合ったパートの方にお願いされたのだ。
それを頼まれたのが高校受験の10日ほど前だったと思う。
ヒロシはやんちゃな子だった。でも素直だった。家庭教師といっても何から始めていいかいいかわからなかった。まずは学力。

ヒロシは中学の3年間を全く勉強していなかった。勉強に関しては手が付けられなかった。
中一程度の学力だ。理科や社会、英語など中学校で学んで知識になるべきモノが全くなかった。どうしようもない、中一の教科書を順番に進めていった。

卒業式の時にいつまでたっても帰ってこない。待っていたら酒を飲んで帰ってきた。
もう勉強を教えるのは諦めた。本人も望んでいない。
それ以降、2時間は色んな話をして過ごした。当然、全て受験した学校は落ちた。
結局、専門学校のような学校に入学が決まった。

入学が決まって、お役御免と思っていたらお母さんから「続けてやってほしい」と言われた。
ヒロシの家は商売をしている。一人っ子だ。
教えた後に夕食を頂くのだが、お母さんとヒロシとテレビを見ながら一緒に団らんする。当時、ザ・ベストテンを見ながらお母さんが「郷ひろみは年を取りませんねぇ」と出るたびに言っていたことを思い出す。家庭教師の継続は兄貴として必要と思ってもらったのだろうか。

ヒロシの専門学校もちゃんと中間試験・期末試験はある。商業系だから僕が教えられない簿記もあった。
僕は商学部で簿記1を履修していた。教科書すら持っていないし、授業だけは出席があったので出た。
出席していれば単位をもらえた時代だ。全く簿記を知らないのに単位を取った。

試験の前でない時は簿記を教えた。ヒロシの教科書を一緒に見ながら教える。もちろん自分にとっても初めての知識だ。でも先に教科書を見ながら教えられた。
試験前は試験に出る問題を教えてくれる学校だった。先生が黒板に書くという。
ヒロシはそれさえノートに書かない。試験前、友達に電話させて聞かせたりした。それを暗記させるのが授業だった。

ヒロシの部屋で二人。教えているとヒロシはよく居眠りをした。飽きてくるのだ。その度に勉強を止めて色んな話をした。他のバイトの話など。ヒロシはバイクに乗りたかったようだ。バイクの運転の仕方、クラッチや変速など教えた。

教えている時に休憩を挟むが、僕は勝手にタバコを吸っていた。今では考えられない話だ。
タバコを切らしている時、ヒロシがタバコを差し出してくれたこともある。僕自体も高校から吸っていた、兄としてもOKだ。
家庭教師は1年くらい続いたか。何で終わったのかは覚えていない。お母さんから「もう良い」といわれたのだったか。悪い関係で終わったのではないことは確かだ。

家庭教師が無くなって半年くらいしてからだろうか。
当時は携帯電話やスマホはない。ヒロシを気にかけながらも、わざわざ電話する用事もなかった。
ある時、大学の正門前でよく行く喫茶店があった。学校は当時で週に3回くらいしか行かなかったか。
僕の行っていた大学は関西でも大規模な大学だ。正門まで続く道は学生で溢れている。

授業が終わり、友達とその喫茶店に入ろうと正門を出た時に声がする。
「せんせーい」穴の開いたマフラーのバイクの爆音とともに。
ヒロシだ。髪は金髪に染めている。何でここに居るのだろう。

ヒロシは僕に逢いたくて、おそらく何度も大学に来て・何時間も探していたのだろう。バイクの爆音を鳴らしながら。よく掃き捨てるような多さの人の中で見つけたものだと思う。
その時に何を話したかは覚えていない。それ以降、ヒロシには会っていない。1983年くらいの話だ。

卒業しても、たまたま会社の寮は大学の一つ前の駅だった。ヒロシの家との中間。
ヒロシの家も知っている。なのに何で訪ねなかったのだろう。
それから札幌へ転勤や、会社を辞めたりして色々と住むところは変わった。

2000年に大阪に勤務することになった。学生時代を過ごした街へも近い。
毎晩近くのお好み焼き屋で飲んでいた。ブログにも書いた、年に2回くらい電話をくれるママだ。そこが閉店すると、商店街にある寿司屋で飲むようになった。
2003年に東京に来るまで、1年近くはその寿司屋に週3で行っていた。
そこで知り合ったマリリンの話もあるが、それは後日。
その寿司屋のマスターは雇われだった。気のいい旭川出身の人。

東京に転勤になってからその店が閉店し、マスターは違う店に移ったと聞いた。2004年ころか。
出張の時に2度ほど行ったか。ヒロシの家の近くだ。
マスターに言った。「昔、このすぐ近くの○○屋さんに家庭教師に行っていたんだよ」
それを聞いていたパートの人が言った。「ヒロシさん?ウチにも何度か来てますよ」

驚いた。この店に来たら会えるかもしれない。大人になって家を継いだヒロシはどんな様子だろう。
2005年の2月に結婚した。兵庫で式を上げ、そのまま大阪に泊まって新婚旅行の予定。
夜はその寿司屋に飲みに行くことになっていた。だが、前日にはしゃぎ過ぎたのか風邪を引いた。
翌日からの旅行を考えたら安静にしなければいけない状態だった。

その日はその店に行けなかった。マスターから「○○さんの大好きな物を用意していたんだけど」と言われた。申し訳なかった。

その店にはそれから行く機会がなかった。マスターにはたまに電話していたが、「実は癌になって」と言われた。店は辞めたようだった。
その後、電話をしたら旭川に戻ったと聞いた。札幌出張の時に旭川に行こうと思ったが行動できなかった。その後、電話は解約されていた。なんで行かなかったか自分を責めた。

ヒロシの話から色んな話になってしまった。
昨日、寝つきが悪くて色々考えた。Yマスターと常連客mちゃんと飲みに行ったのも人の縁なのだろうなと。
これまで人の縁を大事にしてきたのか?・お前はお前のことを思ってくれた人にちゃんと答えられたのか?自問自答した。これまで人を裏切りはしたことないが、人の気持ちに応えられていない自分を思った。

頸髄損傷・リハビリに全く関係のない話でした。
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posted by shigenon at 09:46| Comment(0) | TrackBack(0) | リハビリ
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2014年クリスマスイブのプレゼントは最悪でした。 「頸髄損傷」というケガなのか病気なのか・・その症状との戦いの記録と現在の日々をアップします。 (2018年4月追加) 不全の頸髄損傷は「健常な人」に見えます。“ふつうに見える”様に努力をしています。が、反面、「もう良くなったんだ」と思われがち。 骨折とは違い、中枢神経の損傷は完全回復はしないという現実。 「健常に見える」「もっと良くなるよう努力する」「もう治っているんでしょ」の狭間で何とか毎日を過ごしています。
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