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チカラノカタチ

 誰かを助けるために差し伸べる手。

 気持ち的には助けたい救いたいという部分に偽りはないと思う。情という存在や
本能に近いところが突き動かすのだろう。以前にも書いたっけ。

 中には困難に直面していることに気づかず素通りする人もいる。見て見ぬふりを
する人もいる。気づかないのは仕方が無いし、知ったところで力になれない場合も
あるので薄情だとはいえない。そうせざるを得なかった本人が一番苦しいと思う。

 困難に直面している側は乗り越えたいと考える。誰だって助かりたいのだ。

 藁にもすがると言うように、少しの可能性に賭けてでも現状を打破したいので
差し伸べられた手があれば躊躇無く掴むと思う。ありがたいことだからね。

 
 さて、差し伸べた手。如何ほどの覚悟で差し伸べたのだろうか? 
 
 
 相手が誰かによっても違うだろうし、追ってくる厄介の規模や種類にもよると
思う。何も知らずに手を差し伸べたりはしないと思うけれど、実際に関わって
みると聞いた話と違っていたり、状況が悪化して手に負えなくなるパターンは
存在する。

 その場合、助けたい相手の関係によって負えるリスクが異なる。身内か同等の
間柄であれば身を削り、大きなリスクを背負うことも承知で手を差し伸べること
はできる。損得ではなく、守るという信念、救い出す覚悟による力強い手。

 道で助けを求めたら自衛隊や警察が駆けつけたようなものだ。結果はさておき
安堵できる存在である。何とかしてくれるのではないかと希望を抱ける。

  逆に軽い気持ちで首突っ込んでみたら助けるどころか我が身にも厄介が及んで
はいかんと差し出した手をあっさり引っ込めてしまう人もいる。その手にすがる
つもりでいたもんだから、残された人は大ピンチである。期待していた分だけ
困難への対処が遅れていたりとか何とか。

 余程の人間関係でない限り、余裕の中での力添えになるので許容を超えれば
お手上げなのである。恨むべからず。

 道で助けを求める人がいるからと、車のスピードを緩めて接近したら周りに
猛獣がいることに気づいてアクセル全開で走り去る。残された人の僅かな希望が
絶望に変わる瞬間である。

 まあ、力及ばずとも間接的に助けになったり、別の形でサポートできたりは
するので微力ながら何とかしようという人は多いように思う。やさしいのだ。

 差し伸べられた側も、何でもかんでも掴むのではなく、自分で最大限の努力を
して引き上げる側の負担を軽減したいし、感謝の気持ちを忘れたくはないですね。

 助けられるのが当然というわけではないし、助かることは幸運だと思う。

 ここまでの話に該当しない立派な人もいる。誰だろうが、どんな困難だろうが
身を削って立ち向かう、遠く及ばない真の勇者。

 私は誰かに手を差し伸べて救えたことがあっただろうか?わからない。

 でも救われたことは間違いなくある。家族だったり友人だったり。一生忘れる
ことはないし、感謝している。

 何気ない一言が大きな救いになることだってある。力の形って色々あるね。


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プロフィール

寺池マカロニ
 冬は寒いから苦手だけど恩恵もある。
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