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インドを知って日本を知る!2

 1の続き、、

 この戦いで敵方として戦った、イギリス軍東南アジア総司令部司令官マウントバッテン大将は回想記の中で、こう記しています。「かつて不敗を誇った日本軍も半年の死闘に衣服や靴もボロボロとなり、支えるものは不屈の精神力だけであった。日本軍はインパールにおいて、ついに敗れたが、そこには何かが残った。それは歴史学の権威トインビーが、いみじくも喝破した通りである。すなわち『もし、日本について、神が使命を与えたものだったら、それは強権を我がもの顔の西欧人を、アジアのその地位から追い落とす事にあったのだ』」
(ルイス・マウントバッテン『ビルマ戦線の大逆襲』より)

 「何かが残った…」その「何か」については、インドの民衆たちが1番よく知っています。

 インパール手前15キロのロトパチンという村では、村民たちが自主的に作った日本兵の慰霊塔があり、現在も毎年、日本兵の供養が続けられています。ロトパチン村の村長は「日本兵は飢餓の中でも勇敢に戦い、この村で壮烈な戦死を遂げていきました。この勇ましい行動は皆インド独立の為になりました。私達はいつまでもこの壮烈な記憶を若い世代に伝えて行こうと思っています。そのため、ここに日本兵へのお礼と供養のため、慰霊祈念碑を建てて、独立インドのシンボルとしたのです。」と語っています。

 また、激戦地となったコヒマに住むナガ族は、そこに咲く可憐な花に「日本兵の花(ジャパニーズ・ソルジャーズ・フラワー)」という名を付けています。この花は非常に生命力が強くて、少々のことでは枯れることがなく、しかも群生して仲良く一斉に咲き始める野草です。このような花の性質が、死闘の中、弾薬も尽き、ボロボロになりながらも、皆で力を合わせて、敵に立ち向かっていく、そんな日本兵の姿に重ね合わせられ、名付けられたのだというのです。コヒマの人々は、花に名を刻み、日本兵が倒したイギリス軍の戦車を今も勇気のシンボルとして大事に保存しています。

 インパール作戦は決して無駄ではありませんでした。確かに、あまりに多くの犠牲を払いはしましたが、「何か」、つまりインドの独立という大きな歴史を残したのです。このように遠く離れた地で、今でも日本人に感謝してくれている人々がいるということは、祖先が僕達に残してくれた大きな財産だといえるでしょう。

 このあと、賭けた勝負にも敗れた日本軍は更なる撤退を続け、ついに1945(昭和20年)8月15日に連合軍に対して降伏をしてしまいます。

 日本の敗戦後も、起死回生の望みを賭けた、チャンドラ・ボースは、寺内寿一南方総軍司令官の計らいで、ソ連に亡命する途中、不運な飛行機事故に遭い、とうとう伝説の人となってしまいました。享年48歳、最後まで、インドの独立に命を懸けた生涯でした。

 その後、ボースの下で共に独立を目指して戦ってきた、インド国民軍(INA)兵士達には、過酷な運命が待っていました。勝者イギリスが、ボースの指導したインド国民軍の将兵1万9500名を、イギリス国王に対する忠誠に背き、敵に通謀し、利敵行為を行ったという「反逆罪」で軍事裁判にかける事になったのです。イギリスはこの「反乱」を、セポイの反乱(1857)以来の大不祥事と考え、これを厳罰に処し、見せしめにすることによって、これから先のインド統治を揺るぎないものにしようとしたのでした。イギリスは決して、植民地支配を止めようとは思っていなかったのです。しかし、この愛国者であるインド国民軍を「反乱軍」として裁くといった措置に、インド全土では2年に渡り、大規模な反乱が続きます。イギリスも軍隊を派遣し、徹底的な弾圧に努めるなど、流血の惨事がインド各地で起こりました。更に、イギリス軍によって、拘留されていた国民軍兵士たちの監獄からは、ボースの決めた国民軍の合言葉「チェロ・デリー!チェロ・デリー!」の声が、毎日響き渡りました。インド民衆も「愛国の英雄を救え!」「INA全員を即時釈放せよ!」と叫びながら、警戒厳重な監獄にデモ行進をし、監獄の内と外で「チェロ・デリー!」の大合唱が起きました。ついに1947年5月、イギリスは軍事裁判の中止をやむなく決定、8月にはインドの独立を認めざるを得なくなりました。

 こうして、インドが200年もの長きにわたるイギリスの植民地支配を脱したのは、この日を夢見たチャンドラ・ボースの死後、2年目の夏のことでした。

 その後も、インドは、敗戦に打ちひしがれた日本に対して、厚い友情を示してくれました。

 敗戦国を裁く極東軍事裁判では、連合国側が日本を弾劾し続けるなか、ただ1人、インド代表のパール判事だけが日本の無罪を訴えたことはあまりにも有名です。

パール判事

 また、インドはサンフランシスコ講和会議への参加を拒否しました。それは、勝者=連合国側の、日本に対する懲罰的な条約に反対してのことであり、日本に対する賠償も放棄しています。それどころか、インド独立運動家で、戦後、国会議員になったマハンドラ・プラタップ氏は「日本に対してこそ賠償を払うべきだ」という「逆賠償論」を主張しました。

 いかがでしょうか?こうしたアジアの声をもっと聞いてみたいとは思いませんか?先入観を拭い去り、歴史の事実を掘り起こせば、彼らの声はもっと聞こえてくるでしょう。

 僕達の祖先が、命を懸けて築いてくれた友好と信頼という財産を、大切に受け継ぐ為には、こうした政治的に作られたのではない、歴史認識を持つことが必要なのです。

インド


 では!のちほど祝日

 星もっと詳しく知りたい人への推薦図書

 『世界から見た大東亜戦争』名越二荒之助編/展転社
 『アジアから見た大東亜戦争』ASEANセンター編/展転社
 『アジア独立への道』田中正明/展転社
 『パール博士の日本無罪論』田中正明/慧文社
 『F機関』/藤原岩市原書房
 『印度洋にかかる虹』国塚一乗/光文社



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ミャンマーを知って日本を知る!

ミャンマー国旗

 「アジア人の前衛たる日本人は、自らの社会経済的進歩と教育発達のみを求めて闘ったのではない。インド・ビルマ・チャイナ・フィリピン・スマトラ等で、政治的・経済的に足枷をはめられて抑圧されていた人々のために闘ったのだ。」
(ビルマ独立義勇軍)

“♪守るも攻むるも鋼鉄の 浮かべる城ぞ頼みなる
浮かべるその城日の本の 皇国の四方を守るべし
まがねのその艦日の本に 仇なす国を攻めよかし♪”

 この歌を知っている方はいますか?歌詞は知らなくってもメロディーを聴けば誰でも分かる歌。実はこれ、軍艦マーチなんです。パチンコ屋で威勢良くかかっている曲と言えば分かって貰えるかもしれません。

 残念なことに、このような説明をしなくてはならなくなってしまったこの曲は、日本が戦争に負けるまでは、海軍の誇りであった名曲でした。しかし、今ではパチンコのイメージとなってしまい、なんだか情けない役割にされています。ところが驚くなかれ、この曲が今でも誇りと共に演奏される名誉ある存在でいられるのは、遠くミャンマー(旧ビルマ)※の“国軍記念日”という晴れ舞台なのです笑い拍手
※旧ビルマは、1989年に国名をミャンマーに変更。それ以前を記す場合はビルマと表記しています。

 ミャンマーでは、3月27日の国軍記念日になると、全国のミャンマー国軍が、首都ヤンゴンに集まり、盛大なパレードを繰り広げるのですが、なんとびっくりこのパレードは、いきなり日本のこの“軍艦マーチ”から演奏し始めるのです。続いてミャンマー軍楽隊は“歩兵の本領”“愛馬進軍歌”等、昔の日本の歌を次々と演奏して、パレードを続けていきます。これは一体、どういうことでしょう?

 実は、ミャンマーは「日本人より日本を愛する国」と言われる程の親日国家です。何故かというと、ミャンマーでは政府高官からジャーナリストに至るまで、皆こう言います。「ミャンマーが今日あるのは、日本のおかげです。日本のおかげで、英国の圧制を逃れ、独立する事が出来た。我々は、深く日本に感謝しているのです。」

 ビルマは19世紀、3度に渡ってイギリスの攻撃を受け、ついに1886年イギリスの植民地になりました。その時、既にイギリス領であったインドの1州に組み込まれ、ビルマの国王夫妻はイギリス領スリランカに流刑され、その地で死亡。王子は処刑され、王女はイギリス軍の士官の従卒に与えられてしまいます。

 その後の悲劇を、バー・モウ元首相はこう書いています。「外国人による搾取は上層から下層まで、あらゆる方面で暴虐さを加えていた。巨大イギリス企業は上等の部分を全て独占し、インド人と中国人の商人達がそれに続いて中級の部分を殆ど手に入れてしまっていた」
(バー・モウ『ビルマの夜明け』より)

 そしてビルマ人は、チーク材の切り出し等の重労働にこき使われました。現在もミャンマーでは先端の尖っていない鎌や包丁が売られていますが、これは植民地時代、イギリス人に抵抗する武器にならないようにした名残だといいます。こんな悲惨な状況を一転させたのが、日本軍の進攻と、日本によるビルマ独立志士達の育成でした。

 話は今から約100年前の明治時代。膨張を続けて南下を推し進めるロシアを相手に、日本は国を挙げて戦いました。これが、日露戦争(1904〜05)です。

 当時は、アジアの国々の殆どが、ヨーロッパの白人諸国の支配下に置かれ、植民地とされていました。先に紹介したように、ビルマも例外ではありません。誰もが、アジアの小国、日本の敗戦を予想していましたが、それを裏切って世界最強の軍事大国ロシアに陸と海で勝利を収めました。有色人種であるアジアの国が、白人をやっつけたという知らせを聞いた、他の有色人種達は歓喜し、こぞって日本に学び始めます。

 その中の1人に、ビルマの僧オッタマがいました。オッタマ僧正は抗英独立運動を行って投獄されたこともある人物で、日本にやってきたのは1907年でした。彼は3年間日本に滞在して、取材した内容を『日本』という本にまとめ、ビルマで発刊しています。その中で「日本の興隆と戦勝の原因は、明治天皇を中心にして、青年が団結して起ったからである。我々も仏陀の教えを中心に、青年が団結、決起すれば、必ず独立を勝ち取ることが出来る。」「長年のイギリスの桎梏から逃れるには、日本に頼る以外に道はない。」と主張したのです。その後もオッタマは、ビルマの完全自治を要求する運動を起こし、イギリス政府によって投獄される等、何度も投獄、出獄を繰り返し、ついに1939年に獄死してしまいます。残念ながら日本と協力して立ち上がった、ビルマ青年の活躍を彼は見ることが出来ませんでしたが、その反イギリス精神は独立の志士たちに受け継がれていきました。

 この若き志士達こそ、後に「ビルマ建国の父」と呼ばれる、オン・サン達、タキン党の青年達でした。オン・サンとは当時の表記ですが、現在ミャンマーで活躍している、アウン・サン・ス−・チー女史のお父さんです。

 そして1930年代後半に、彼らタキン党を中心に、反イギリス運動は国民的盛り上がりを見せますが、イギリスは独立運動の大弾圧を始め、志士たちの多くが逮捕、投獄されてしまいます。これを逃れたオン・サンは独立蜂起の為、日本への亡命を決意するのです。

 一方、同じ頃イギリス・アメリカは日本への敵視政策を取り、日本と敵対関係にあった蒋介石(しょうかいせき)軍に、莫大な軍用物資の援助を行っていました。それを運ぶ道程が、イギリス領ビルマを通って中国に入る「ビルマルート」、いわゆる「援蒋(えんしょう)ルート」でした。早く蒋介石との戦争状態を終わらせたい日本にとっては、このビルマルートを遮断することが不可欠の問題となってきたのです。

 そこで日本は、ビルマ青年達を支援し、イギリス勢力を追放する為、ビルマ独立を達成しようとしたのです。

 1940年、日本陸軍は鈴木敬司大佐をビルマに派遣、オン・サンらを救出し、大佐の故郷である浜松に亡命させます。そして、鈴木敬司大佐を機関長としたビルマ独立の為の「南機関※」が誕生するのです。
※南機関(みなみきかん)は、1941年から1942年にかけて存在した日本軍の特務機関の1つ。
 「南機関」の活動計画は、独立運動の中核となるビルマ人志士30人を、ひそかに日本に脱出させ、彼らに武装蜂起に必要な軍事教育をすること。その教育訓練の終わったビルマ人志士を、再びビルマに潜入させ、反イギリス運動を起こし、ビルマ独立政府の樹立を宣言する事と、蒋介石を支援するビルマルートを遮断する事にありました。

 この時の彼らこそ、後にビルマの独立と建国の英雄として仰がれる「ビルマ30人志士」です。

 1941(昭和16)年、大東亜戦争の開戦と同時に、タイのバンコクで30人の志士を中心に「ビルマ独立義勇軍」が結成されました。日本軍による厳しい訓練を受けた青年達は、独立ビルマを象徴する孔雀の旗を掲げて、ビルマ独立を誓い合ったのです。

 義勇軍の司令官には青年達が心から慕う、鈴木敬司大佐が就任し、オン・サンの提案で鈴木大佐は純白のビルマの民族服=ロンジー姿で白馬にまたがり、ビルマ民衆の前に登場します。これはビルマの伝説で「イギリスに滅ぼされたアラウンパヤー王朝最後の王子が、いつか必ずボモージョ(雷帝のこと)となって、白馬にまたがり、東の方角からやってくる。そしてイギリスの支配からビルマを解放してくれる」という、ボモージョ伝説を演出したものでした。
 ビルマ民衆は歓喜して彼ら義勇軍を迎え、その協力もあって3ヶ月で首都ラングーンを陥落させ、イギリス軍を追い払いました。そして日本の軍政を経た後の1943年8月1日、ビルマはついに独立を宣言したのです笑いv

 その時、外相に就任した、ウー・ヌーは次のように演説しました。
 
 「歴史は、高い理想主義と、目的の高潔さに動かされたある国が、抑圧された民衆の解放と福祉の為にのみ、生命と財産を犠牲にした例をひとつくらい見るべきだ。そして日本は人類の歴史上、初めてこの歴史的役割を果たすべく運命づけられているかに見える。」

 しかし日本と同盟を結んで米・英に宣戦布告したビルマにも、日本の敗戦が色濃くなってきた頃、「日本と離れてイギリスと結ぶべきだ」との声が高まってきます。日本と一緒に敗戦国になって、再びイギリスに占領されるのを怖れたのです。それまで日本と共に闘ってきた30人の志士達も動揺します。バー・モウやボー・ヤン・ナインは日本を裏切らず、ミン・オンという青年にいたっては日本を裏切ることは恩義に欠けるとして自決してしまいました。

 しかし、オン・サンは「反日に立つのは、ビルマを生き残らせる為の、唯一の方法」であると、バー・モウに手紙を書き、1945年(昭和20年)3月、ついに日本に反旗を翻すのです。この決断によって、日本軍はビルマから撤退し、代わりにイギリス軍が戻ってきました。

 再び植民地支配を目指すイギリスに対し、オン・サンは日本軍に育てられた10万人の義勇軍を率いて、イギリスと独立交渉をします。

 そしてついに1948年1月4日、イギリスのアトリー内閣が独立を承認し、ビルマはようやく独立を達成したのです。しかしこの席にオン・サンはいませんでした。この5ヶ月前に政敵の銃弾に倒れていたからです。

 その20年の後、バー・モウは『ビルマの夜明け』と言う著書を発表し、この本がイギリスでも出版される事になりました。この時「ロンドンタイムズ図書週報」1968年5月23日号では、この本について次のように紹介しています。

 「ビルマを長い植民地支配から解放した者は誰か。それは、イギリスでは1948年の、アトリー首相の労働党内閣ということになっている。しかし、バー・モウ博士はこの本の中で、全く別の、真の歴史事実として、日本が第2次世界大戦で果たした役割を公平に評価している」とし、序文の一部を引用しています。

 それは「真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマ解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった。」というバー・モウの歴史観を現した一文でした。

 日本では決して語られる事のない歴史が、ここミャンマーではしっかりと語り継がれています。彼らが植民地支配を脱する契機となった国軍記念日のパレードが、日本の“軍艦マーチ”で始まるなんて、感動ですね笑いv

ミャンマー(旧ビルマ)

 では!のちほど祝日

 星もっと詳しく知りたい人への推薦図書
・『最新東洋事情(1995年版)』深田祐介/文芸春秋
・『アジア独立への道』田中正明/展転社



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マレーシアを知って日本を知る!

マレーシア国旗

 平成3年(1991年)12月、マレーシアのコタバルを首都とする、ケランタン州政府は、日本軍の上陸50周年を記念して、特別式典を開催。更に、戦争博物館を設立されました。その戦争博物館の館長である、ロザリー・イソハック(ケランタン州副知事)は次のように語っています。

 「1991年、私達は日本のコタバル上陸50周年を祝いました。これが「ケランタン」つまり、当時のマラヤにとって意義ある出来事であったからです。ここ、コタバルは、最初の日本軍上陸地です。私は、戦争博物館の館長として記念行事を担当しましたが、多くの人々にこの重要な出来事を、永く記憶に留めて戴きたいと願っています。」

 マレーシアの人々が祝う1991年から50年前といえば、昭和16年(1941年)の12月。 戦後世代の日本人にとって、昭和16年12月8日というのは「日本が戦争を始めた日」として「マイナス・イメージ」を持っている人が多いと思います。また、そこで語られるのは、日本のアジア侵略や、現地住民の虐殺といった「嘘と捏造」に洗脳された自虐討論ばかりです。そんな日本人をよそに、当のマレーシアでは日本軍の上陸を祝って記念式典が行われているのです。

 昭和16年(1941年)12月、日本軍は真珠湾のアメリカ軍艦隊を攻撃すると同時に、マレーシアに上陸。その後、マレー沖のイギリス東洋艦隊に攻撃を仕掛けました。イギリスが誇る、世界最新鋭の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と、「レパルス」という2隻を、航空機爆撃で撃沈したことは、世界戦史上、前例のないことでした。この衝撃的な知らせを受けた、当時のイギリス首相チャーチルは「戦争の全期間(第2次世界大戦)を通じて、私はこれ以上の打撃を受けたことはなかった。いかに多くの努力と希望と計画が、この2隻の軍艦と共に沈んでしまったか。ベッドのなかで寝返りを打ち、身もだえする私の心にこのニュースの持つ恐ろしさが沁みこんできた。」(チャーチル『第二次大戦回顧録』)と記しています。

 日本軍上陸まで、150年以上に及び、イギリスの植民地支配に苦しめられていたマレー人は、半島を進撃する日本軍を心から歓迎し、食糧の提供やジャングルの地理案内、軍需物資の運搬まで手伝いました。当時16歳だった、マレーシアのラジャー・ダト・ノンチック元上院議員は、当時を振り返りこう言います。

 「私達は、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声を上げました。敗れて逃げてゆくイギリス軍を見た時に、今まで感じた事のない興奮を覚えました。日本軍は永い間、アジア各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い払い、とても白人には勝てないと諦めていたアジアの民族に、驚異の感動と自信を与えてくれました。」
 
 日本軍はこのような現地の人々の支援もあって、60日間の激戦の末、イギリス軍のアジア最大の要塞、シンガポールを攻略します。
 
 昭和17年(1942年)2月15日、ついにイギリス軍は降伏し、150年以上に及んだイギリスのマレー支配は終わりを告げたのです。フランスのドゴール将軍は、この日の日記に「シンガポールの陥落は、白人植民地主義の永い歴史の終焉を意味する。」と記しました。

 さて、イギリス軍を追い払った後、日本軍はマレーの青年教育に力を注ぎました。1942年5月15日、シンガポールに「昭南興亜訓練所」を開設し、マレーの全ての民族から、優秀な青年を招いて心身共に訓練をしました。これは後に、マラッカの「マラヤ興亜訓練所」に引き継がれ、1000名を越える卒業生を送り出します。この卒業生の大半が、マラヤ義勇軍、マラヤ義勇隊の将校となり、マレーシアの独立と、その後の新しい国づくりの中核となりました。先のノンチック元上院議員は言います。「新国家マラヤ連邦の建国の基本策と具体策は、当時のマレー人青年の日本グループによって進められたと言っても過言ではありません。あの当時の国家計画庁本部は、昭南、マラヤの両興亜訓練所や、日本に留学した南方特別留学生の同窓会の雰囲気でした。」

 また、日本の軍政部がそれまで西欧人専用だった、クラブやプール等を、肌の色に関わり無く、一般に開放する等の政策をとり「民族の平等」を掲げた事は、マレーの人々の間にあった、白人に対するコンプレックスを取り除き「自分達の祖国を自分達の国にしよう!」という独立心を目覚めさせました。

 しかし、それから3年8ヶ月後の1945年8月15日、日本軍は連合軍に降伏してしまいます。その結果、イギリス軍が再びマレーを植民地にするために戻って来きました。しかし、マレー人は以前の様に従順ではありませんでした。

 マレーシアのマラヤ大学の副学長のウンク・アジス氏は「日本軍がもたらした『大和魂』の様な考え方を持つことは、マレー人には独立の為にどうしても必要でした。日本軍政下の訓練の結果、日本が降伏した後、イギリス人が戻ってきて植民地時代よりも更に悪質な、独裁的制度をマレーシアに課そうとした時、マレーの人々は立ち上がったのです。」と言う。
 また、マレーシア外務省情報センター所長のニック・モハマド氏は「これまで独立なんて考えた事もなかったので、徐々に植民地にされたのですが、日本の軍政下で反植民地主義に目覚めたのです。民族意識は若者に影響を与え、彼らはもはや怠けてはいませんでした。皆、立ち上がったのです。これまでになかった大変貴重な3年8ヶ月の経験でした。」と語っています。

 さてみなさん、こんな話を耳にしたことはないですか?マレーに進軍した日本兵が、赤ん坊を放り投げ、銃剣で突き刺したという話。これはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』と『死の家の記録』に出てくる、トルコ兵の話を某国が、日本兵の仕業であると、捏造し、広く流布したものです。この話は、全く事実ではないと、マレーの人々も証言しています。しかし、誰が何の為に、ここまで日本兵を悪く言い立てるのでしょうか落ち込み?戦後教育を受けた、多くの日本人はこの話を鵜呑みにして、今も信じているのではないでしょうか?

 先の、ノンチック元上院議員は「先日、マレーシアに来られた日本のある学校の教師が『日本軍はマレー人を虐殺したに違いないから、その事実を調べに来た。』と言っており、私は大変驚きました。『日本軍はマレー人を、誰一人殺していません!』と私は答えてやりました。日本軍が殺したのは、戦闘で闘ったイギリス軍や、そのイギリス軍に協力したチャイナ系の抗日ゲリラだけです。」

 マレーシアは複雑な民族構成で成り立っています。それはマレーが良質な錫(スズ)を産出することから、イギリスがこの錫を採取する為の労働力として、大量の華僑(かきょう)※(中国系)の人々を移住させたからです。華僑の人々はその後、イギリスとマレー人の間に入り込み、経済活動を掌握し、搾取階級となりました。
 このような背景から、華僑の人々は日本に対して、イギリスを駆逐し、自らの利益を剥奪してしまう、日本軍の進撃を喜ぶ訳がありません。むしろその権益を守る為に、イギリスに協力して抗日ゲリラ活動を行っていたのです。また、支那事変以来、日本と本国が戦争状態にあったことも作用していたのでしょう。これらの理由から、イギリス軍の敗北と撤退を喜んだマレー人と、それを快く思わない中国の対日観には、大きな開きがあることを、充分知っておく必要があります。
※華僑(かきょう)は、中国大陸・台湾・香港・マカオ以外の国家・地域に移住しながらも、中華人民共和国の国籍を持つ漢民族を指す。

 こうした植民地時代からの華僑の経済独占は戦後になっても続き、経済進出を閉ざされた、マレー人と華僑との民族間対立は、時として多数の国民の血を流すことさえありました(1969年の5.13事件等)。
 華僑の人々は今も、戦争中に日本が行った華僑の利益抑制や、マレー人に機会を与えようとしたことを酷く憎み、「日本軍は残虐であった」という、数々の「嘘と捏造」を流布し続けています。しかし、本来のマレー人は冒頭で紹介したように、決して反日民族ではありません。むしろ親日民族であり、日本軍の上陸を意義ある事として、今でも都度、記念行事を行っているのです。

 正しい歴史を知らないと、この学校教師の様に、世界で恥ずかしい思いをしますね。

マレーシア

 
 では!のちほど祝日

 星もっと詳しく知りたい人への推薦図書等

 『世界から見た大東亜戦争』名越二荒之助編/展転社
 『アジアに生きる大東亜戦争』ASEANセンター編/展転社
 ビデオ『独立アジアの光-東南アジアの歴史と現代』



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インドネシアを知って日本を知る!

インドネシア国旗

 「我々インドネシア人はオランダの鉄鎖を断ち切って独立すべく、350年間にわたり幾度か屍山血河※の闘争を試みたがオランダの狡知※なスパイ網と強靱な武力と苛酷な法律によって圧倒され壊滅されてしまった。それを日本軍が到来するや、たちまちにしてオランダの鉄鎖を断ち切ってくれた。インドネシア人が歓喜雀躍※し感謝感激したのは当然である。」
※屍山血河(しざんけつが)とは、激しい戦闘の例え。また、その後の惨状のこと。
※狡知(こうち)とは、悪知恵。
※歓喜雀躍(かんきじゃくやく)とは、躍り上がらんばかりに、非常に喜ぶこと。

 「日本軍政時代の3年半については、オランダ、チャイナ、アメリカ等、戦勝国の学者や、欧米に留学して日本が嫌いになった人々は、悪い面ばかりを誇大にあげつらっている。しかし、それでは全体を語ったことにはならない。」 
(アラムシャ第三副首相)

 「日本の占領は、後に大きな影響を及ぼすような利点を残した。第1に、オランダ語と英語が禁止されたので、インドネシア語が成長し、使用が広まった。日本軍政の3年半に培われたインドネシア語は驚異的発展を遂げた。第2に、日本は青年達に軍事教練を課して、竹槍、木銃によるものだったとはいえ、厳しい規律を教え込み、勇敢に戦う事や耐え忍ぶことを訓練した。第3に、職場からオランダ人が全ていなくなり、日本はインドネシア人に高い地位を与えて、我々に高い能力や大きい責任を要求する、重要な仕事を任せた。」
(インドネシアの中学3年用の歴史教科書より)

 インドネシアで50年間も歌い継がれる「祖国防衛義勇軍(PETA=ペタ)マーチ」

“アジア、すでに敵に向かい、蜂起せり 己を捨てて全力を尽くす
連合国を粉砕せんと 玉散ることもいとわず
進め 進め 義勇軍 アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ
古きアジア 不幸に苦しむ 烈しき圧制に 幾世紀も忍ぶ
大日本 雄々しく立てり アジアを救い 我らを守る
進め 進め 義勇軍 アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ…”

 350年間の長きに亘って、オランダの植民地にされてきたインドネシア。
 独立を勝ち取ったのは、昭和17年(1942年)3月の日本軍進攻がきっかけでした。過酷で計算され尽くした350年の植民地政策によって、有色人種であるアジア人は白人の支配を脱することは不可能だと思いこまされていました。
 しかし、そこに白人よりも小さな身体の日本人が突然やってきたかと思うと、なんとたった9日間の戦闘でオランダ軍は全面降伏してしまったのです。自分達と肌や髪の色の同じ小柄な日本人が、絶対にかなう筈もないと思っていた白人をあっという間に倒してしまったのです。この様子を目の前で見たインドネシアの人々は「そうだ!自分達もやればできるんだ!」という勇気を持ったのでした。現地の人々に大歓迎された日本軍は、オランダによって流刑されていた、インドネシア独立運動の指導者スカルノとハッタを獄中から救出し、日本軍への協力を求めました。こうして昭和20年8月に日本が敗戦するまでの3年半、オランダ時代とはまったく違う軍政が実施されました。

 しかし独立を約束した日本が連合国に敗れたとたん、またもやイギリス軍、次いでオランダ軍が、インドネシアを再占領するために戻ってきたのです。ところがインドネシアの人々はもう以前のインドネシア人ではありませんでした。自分達の力で独立を目指して戦う勇敢な戦士となっていたのです。そしてスカルノとハッタは連合軍が来る前、昭和20年(1945年)8月17日午前10時、多くの民衆の見守るなか、独立宣言文を読み上げました。

電球この独立宣言文の日付けは「17-8-‘05」と記されています。「‘05」とは、当ブログ「てゆうか、日本って何歳!?」でも記しました「皇紀」または「神武紀元」という、日本が戦前まで広く使っていた暦に基づいています。西暦(西洋の暦)はキリストの誕生を元年としますが「皇紀」は初代の神武天皇の即位の日を元年としています。「皇紀」によると昭和20年は「2605年」にあたります。その下2ケタをとって「‘05」とされました。今もジャカルタのスカルノ、ハッタ記念公園(独立宣言広場)に行けば、この宣言文がレリーフになってスカルノとハッタの銅像の真ん中にあるので誰でも見られます。

電球ちなみに、日本人に大人気の「バリ島」では「皇紀」カレンダーが今でも販売されているそうです笑いv

 さて話を戻しますが、独立を目指すインドネシアにとっては日本敗戦後のこれからが死闘でした。日本軍による3年半の軍事訓練を受けたとはいえ、近代的兵器で武装したイギリス、オランダなどの連合軍にそう簡単に勝てるわけがありません。敗れた日本軍の兵士たちはこの状況を見て、独立を約束しながら果たせなかったという責任感もあったでしょう。多くの人が現地に残り、インドネシアの民衆の先頭に立って戦い、その半数以上の日本兵が彼の地の土となりました。このインドネシア独立戦争は連合国を相手に4年間も続き、死者80万人という犠牲を払いました。そして命を捧げた日本兵はインドネシア独立の英雄として、ジャカルタ郊外のカリバタにある国立英雄墓地に丁重に祀られています。

 こうした歴史的事実からインドネシアの独立記念日では、インドネシアの服装の男女2名になんとびっくり日本兵の服装をした1名を加えて3名で、国旗を掲揚します。もちろんこれは独立を支援した日本軍に敬意と感謝を表しているのですが、こんなことは日本では全く知られていませんね落ち込み

インドネシア


 では!のちほど祝日

 星もっと詳しく知りたい人への推薦図書等

 『世界から見た大東亜戦争』名越二荒之助編/展転社
 『アジアに生きる大東亜戦争』ASEANセンター編/展転社
 『南の祖国に生きて-インドネシア残留日本兵の現在』上坂冬子/文芸春秋
 ビデオ『独立アジアの光-東南アジアの歴史と現代』




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世界を知って日本を知る!


 先の大東亜戦争のことで「日本はアジアに好かれていない」と教育現場や、一部のメディアで語られていますが、本当にそうなのでしょうか?
 
 「世界を知って日本を知る」「日本を知って自分を知る」

 ということで、次回から「教科書やメディアが教えない」日本に対するアジア各国の「本当の評価」を記してみたいと思います。

 では!のちほど祝日


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アロハシャツに隠された日本の歴史!


 みなさんは「アロハシャツ」持ってますか笑い

 てゆうか、季節外れですみません。。しかしびっくり今回はこれでいきます太陽

 一般的に「アロハシャツ※」と呼ばれているハワイアンシャツは、ハワイに移住した日本人が、自分たちの着物をシャツとして作り直したのが始まりです。
※「アロハシャツ」という名称は、ハワイアンシャツを大量販売商品として作った人物が名付けた商標です。
 
 日本人が初めてハワイへ移住したのは、明治維新直前の1868年初夏。153名を乗せた船が横浜を出航し、約1ヶ月後にハワイに上陸しました。
 
 移民の主な仕事はサトウキビの栽培で、ヨーロッパ人の監督下、1日12時間も働き、賃金は月4ドルという、非常に厳しい生活を送りました。それでも帰国せず定住した理由は、暮らしやすい気候、土着の人々の優しさ、そして明治維新後の日本の不安定な状況だったようです。

 こうした苦難の生活のなかで、彼らは日本から持ち込んだ着物を、現地の気候に合わせ、涼しく動きやすい半袖シャツに作り直し着用しました。
 当然、着物の柄がそのまま生かされていますから、鶴、虎、龍、鯉、松竹梅といった和柄の半袖シャツでした。柄は純日本風、アイテムは洋風という、言わば和洋折衷の衣服だったのです。
 
 電球ちなみにハワイアンシャツは、日本人が初めて作った「洋服」なんですよ笑いv

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祝日は日本の文化!

 「みどりの日」から「昭和の日」へ
 4月29日は、もともと昭和の時代に「天皇誕生日」という祝日だったというのをご存知の方も多いと思います。それが、昭和64年(1989年)1月7日に昭和天皇が崩御されたことを受けて年号が平成に改まり「天皇誕生日」も平成元年(1989年)から「みどりの日」となりました。しかし、多くの国民の要望を受けて、平成17年に国会で「国民の祝日に関する法律」(祝日法)が改正。平成19年(2007年)より「昭和の日」とすることになったのです。

 ではこれまで祝日だった「みどりの日」はどうなったかというと実は、5月4日に移動して存続しています。もともと4月29日の「みどりの日」は、昭和の時代「天皇誕生日」という祝日でしたが、昭和天皇の崩御にともない「天皇誕生日」は今の天皇陛下のお誕生日である12月23日となり、4月29日は昭和天皇が自然を愛したことにちなんで、平成元年から「みどりの日」と名称を変えて祝日として存続しました。自然をこよなく愛された昭和天皇は「全国植樹祭」にも必ずご臨席になり、ご自身の手により植樹をされてきました。その伝統は、今の天皇陛下に受け継がれています。

 さて「昭和の日」と同じような起源を持つ祝日は他にもあるかというと「文化の日」にあたる11月3日は、明治天皇のお誕生日であり、戦前には「明治節」(明治時代には天長節)という祝日でした。国民の声により昭和2年(1927年)に「明治節」として祝日と定められ、国民に親しまれてきました。昭和23年(1948年)には、近代文化が目覚ましい発展を遂げた明治の時代を念頭に「文化の日」としてあらためて定められました。また、昭和21年(1946年)に日本国憲法が公布された日でもあります。「文化の日」には、皇居で文化の発展に功労のあった人々に文化勲章の授与式が行われ、また、文化功労者および各種褒章の受賞者の伝達式などが行われます。

 日本の祝日は、様々な歴史と文化を意味しており、日本人として知っておくべき「日本文化」のひとつだと思います。
 他の国民の休日についても、今後記していきたいと思います笑いv

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真の日本人!

 やや古いデータですが、2006年5月、NTTレゾナントが「日本人の品格・道徳観に関する調査」を実施した結果、日本人が「礼儀正しさ」や「謙虚さ」を忘れつつあり、これが各種社会問題の一因になっているとの見方が多いことが明らかとなった。
 有効回答者2,114名のうち、半数以上の人が「謙虚さ」や「礼儀正しさ」といった道徳観は、元来日本人が持っていたものとして高く意識されている一方で、昨今失われつつあると、危機意識を表した。
 こうした道徳観の後退が「法に触れなければ何をしてもよい」という見方が出たり、未成年者の凶悪犯罪の増加、家庭崩壊等の社会問題に繋がっているとの見方が示された。また、道徳観の維持・回復のためには「家庭でのしつけ」が最重要とされており、家庭における人間教育の重要性と、大人の意識改革が必要と再認識される結果となった。

・・・調査結果のポイント電球
(1) 日本人の品格・道徳観に関する書籍を読んだ事のある人と、今後読みたいと回答している人を合わせると過半数に上る。また、購読した人の65%が、自身の考え方や意識に変化があったと回答している。
 
(2) 日本人が元来持っている品格・道徳観としては「謙虚さ」「礼儀正しさ」等が挙げられる一方で、日本人がこれらを失いつつある、との見方が約半数に上っている。
 日本人として、残しておくべき品格・道徳観は「思いやりの気持ち」「礼儀正しさ」を挙げる人が65%を超える高い結果となった。

(3) 「日本人が取り入れるべき考え方・主義」としては「論理を重視する」が最も高かった。
 「日本人が元来持っていない考え方・主義」としては「個人主義」が、最も多く挙げられた。
 
(4) 品格・道徳観を失いつつあることが「法に触れなければ何をしてもよい」という考えや「家庭崩壊」「未成年の犯罪」「凶悪犯罪の増加」等に繋がっているとの見方が多かった。社会問題の背景として、道徳観の後退が一因となっていると認識されていると思われる。具体的な行為としては「タバコの吸殻やゴミのポイ捨て」「高齢者が立っている前で座り続ける学生」等、日常の行動に表れていると捉えられている。
 今後、品格・道徳観を持ち続けるためには「家庭でのしつけ」が最も有効であると回答した人が約48%に上り、家庭における人間教育の重要性が再認識される結果になると同時に、大人の意識改革の必要性も再認識される結果となった。

 僕はこれまで「日本や日本人の素晴らしさ」をテーマにブログを記してますが「倫理観」「思いやり・優しさ」「謙虚さ」「礼儀さ」「勤勉・勤労」といった、日本人が元来持っている素晴らしいものが失われつつある現状は理解しています。これらを失ってしまった原因として「教育」を始め「家庭」「社会」「環境」と、いくつかあると思います。しかし、これまでのブログにも記しました通り、日本人には「元来」自然と上記の素晴らしい点が備わっているはずなんです。人からわざわざ教えてもらわなくとも、正しい「倫理観」等を自分で身に付け、実践していく能力を日本人は持っていると僕は思っています。それでこそ、世界から「礼節ある民族」と最も高い評価を受けている「真の日本人」であると思います。 

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日本人青年の意外な関心!

 内閣府が平成21年3月27日に発表した「世界青年意識調査結果」によると、日本の青年は調査対象となった5カ国の中で政治への関心が最も高いことが分かった。平成15年の前回調査と比べても、政治に関心があるとの回答は11.3ポイント増え、現状を憂い政治の動向に注目する若者が増えていることを伺わせた。

 調査は日本と米国、英国、仏国、韓国の5カ国の18〜24歳までの男女を対象に各国約1000人に実施、平成19年秋と20年秋の2度に分けて、家族や学校、国家・社会、人生観などについて質問した。

 国家・社会に関する調査では「政治に関心ある」と答えたのは、日本が58.0%と最も高く、米国54.5%、韓国49.7%、仏国42.6%、英国33.2%の順。「自国人であることに誇りを持っている」と答えたのは米国が91.2%と最も高く、日本は英国(84.1%)に次いで3番目の81.7%だった。逆に「国際的視野を身につけている」としたのは日本は最低で27.8%と、1位の米国(52.9%)の半分程度に留まった。

 家族観の項目では、日本は「子供は親から経済的に早く独立すべきだ」が88.6%で最も高く「わが子に老後の面倒をみてもらいたいと思わない」も韓国の55.4%に次いで2番目に高い50.0% 。逆に「どんなことをしても親を養う」は最も少ない28.3% 。韓国は日本と同じ傾向で、米英仏の3カ国は逆の傾向がみられた。
(MSN産経ニュースより)

 僕はこの記事を見て、素直に良い結果だと思いますが、意外な感じがしました。
 「自国人であることに誇りを持っているか」という質問でも、米、英についで3番目なのは、最下位かと思っていた僕には驚きでした。

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日本の文化を大切に!


 2009年3月26日、21世紀を担う若者の人間力育成を目指す「産経志塾」で、東京大学(国際関係史)の山内昌之教授が講義に立ち「諸外国と渡り合うためにも、日本人としてのバックグラウンドを大切にしてほしい」と3期生45人の塾生に呼びかけた。

 「世界史と外交」をテーマに講義した山内教授は「日本人として、日本の歴史や文化を説明出来ないことは恥ずかしい。日本史を学び、世界史と結びつけて理解することで、世界の中の日本の立ち位置を考えることができる」と指摘した。
(MSN産経ニュースより) 

 僕も外国の友人と付き合うなかで「日本人として、日本の歴史や文化を説明出来ないことは恥ずかしい」ということは身に沁みてよく分かります。

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