2009年11月05日
インドを知って日本を知る!2
1の続き、、
この戦いで敵方として戦った、イギリス軍東南アジア総司令部司令官マウントバッテン大将は回想記の中で、こう記しています。「かつて不敗を誇った日本軍も半年の死闘に衣服や靴もボロボロとなり、支えるものは不屈の精神力だけであった。日本軍はインパールにおいて、ついに敗れたが、そこには何かが残った。それは歴史学の権威トインビーが、いみじくも喝破した通りである。すなわち『もし、日本について、神が使命を与えたものだったら、それは強権を我がもの顔の西欧人を、アジアのその地位から追い落とす事にあったのだ』」
(ルイス・マウントバッテン『ビルマ戦線の大逆襲』より)
「何かが残った…」その「何か」については、インドの民衆たちが1番よく知っています。
インパール手前15キロのロトパチンという村では、村民たちが自主的に作った日本兵の慰霊塔があり、現在も毎年、日本兵の供養が続けられています。ロトパチン村の村長は「日本兵は飢餓の中でも勇敢に戦い、この村で壮烈な戦死を遂げていきました。この勇ましい行動は皆インド独立の為になりました。私達はいつまでもこの壮烈な記憶を若い世代に伝えて行こうと思っています。そのため、ここに日本兵へのお礼と供養のため、慰霊祈念碑を建てて、独立インドのシンボルとしたのです。」と語っています。
また、激戦地となったコヒマに住むナガ族は、そこに咲く可憐な花に「日本兵の花(ジャパニーズ・ソルジャーズ・フラワー)」という名を付けています。この花は非常に生命力が強くて、少々のことでは枯れることがなく、しかも群生して仲良く一斉に咲き始める野草です。このような花の性質が、死闘の中、弾薬も尽き、ボロボロになりながらも、皆で力を合わせて、敵に立ち向かっていく、そんな日本兵の姿に重ね合わせられ、名付けられたのだというのです。コヒマの人々は、花に名を刻み、日本兵が倒したイギリス軍の戦車を今も勇気のシンボルとして大事に保存しています。
インパール作戦は決して無駄ではありませんでした。確かに、あまりに多くの犠牲を払いはしましたが、「何か」、つまりインドの独立という大きな歴史を残したのです。このように遠く離れた地で、今でも日本人に感謝してくれている人々がいるということは、祖先が僕達に残してくれた大きな財産だといえるでしょう。
このあと、賭けた勝負にも敗れた日本軍は更なる撤退を続け、ついに1945(昭和20年)8月15日に連合軍に対して降伏をしてしまいます。
日本の敗戦後も、起死回生の望みを賭けた、チャンドラ・ボースは、寺内寿一南方総軍司令官の計らいで、ソ連に亡命する途中、不運な飛行機事故に遭い、とうとう伝説の人となってしまいました。享年48歳、最後まで、インドの独立に命を懸けた生涯でした。
その後、ボースの下で共に独立を目指して戦ってきた、インド国民軍(INA)兵士達には、過酷な運命が待っていました。勝者イギリスが、ボースの指導したインド国民軍の将兵1万9500名を、イギリス国王に対する忠誠に背き、敵に通謀し、利敵行為を行ったという「反逆罪」で軍事裁判にかける事になったのです。イギリスはこの「反乱」を、セポイの反乱(1857)以来の大不祥事と考え、これを厳罰に処し、見せしめにすることによって、これから先のインド統治を揺るぎないものにしようとしたのでした。イギリスは決して、植民地支配を止めようとは思っていなかったのです。しかし、この愛国者であるインド国民軍を「反乱軍」として裁くといった措置に、インド全土では2年に渡り、大規模な反乱が続きます。イギリスも軍隊を派遣し、徹底的な弾圧に努めるなど、流血の惨事がインド各地で起こりました。更に、イギリス軍によって、拘留されていた国民軍兵士たちの監獄からは、ボースの決めた国民軍の合言葉「チェロ・デリー!チェロ・デリー!」の声が、毎日響き渡りました。インド民衆も「愛国の英雄を救え!」「INA全員を即時釈放せよ!」と叫びながら、警戒厳重な監獄にデモ行進をし、監獄の内と外で「チェロ・デリー!」の大合唱が起きました。ついに1947年5月、イギリスは軍事裁判の中止をやむなく決定、8月にはインドの独立を認めざるを得なくなりました。
こうして、インドが200年もの長きにわたるイギリスの植民地支配を脱したのは、この日を夢見たチャンドラ・ボースの死後、2年目の夏のことでした。
その後も、インドは、敗戦に打ちひしがれた日本に対して、厚い友情を示してくれました。
敗戦国を裁く極東軍事裁判では、連合国側が日本を弾劾し続けるなか、ただ1人、インド代表のパール判事だけが日本の無罪を訴えたことはあまりにも有名です。
また、インドはサンフランシスコ講和会議への参加を拒否しました。それは、勝者=連合国側の、日本に対する懲罰的な条約に反対してのことであり、日本に対する賠償も放棄しています。それどころか、インド独立運動家で、戦後、国会議員になったマハンドラ・プラタップ氏は「日本に対してこそ賠償を払うべきだ」という「逆賠償論」を主張しました。
いかがでしょうか?こうしたアジアの声をもっと聞いてみたいとは思いませんか?先入観を拭い去り、歴史の事実を掘り起こせば、彼らの声はもっと聞こえてくるでしょう。
僕達の祖先が、命を懸けて築いてくれた友好と信頼という財産を、大切に受け継ぐ為には、こうした政治的に作られたのではない、歴史認識を持つことが必要なのです。
では!のちほど
もっと詳しく知りたい人への推薦図書
『世界から見た大東亜戦争』名越二荒之助編/展転社
『アジアから見た大東亜戦争』ASEANセンター編/展転社
『アジア独立への道』田中正明/展転社
『パール博士の日本無罪論』田中正明/慧文社
『F機関』/藤原岩市原書房
『印度洋にかかる虹』国塚一乗/光文社
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この戦いで敵方として戦った、イギリス軍東南アジア総司令部司令官マウントバッテン大将は回想記の中で、こう記しています。「かつて不敗を誇った日本軍も半年の死闘に衣服や靴もボロボロとなり、支えるものは不屈の精神力だけであった。日本軍はインパールにおいて、ついに敗れたが、そこには何かが残った。それは歴史学の権威トインビーが、いみじくも喝破した通りである。すなわち『もし、日本について、神が使命を与えたものだったら、それは強権を我がもの顔の西欧人を、アジアのその地位から追い落とす事にあったのだ』」
(ルイス・マウントバッテン『ビルマ戦線の大逆襲』より)
「何かが残った…」その「何か」については、インドの民衆たちが1番よく知っています。
インパール手前15キロのロトパチンという村では、村民たちが自主的に作った日本兵の慰霊塔があり、現在も毎年、日本兵の供養が続けられています。ロトパチン村の村長は「日本兵は飢餓の中でも勇敢に戦い、この村で壮烈な戦死を遂げていきました。この勇ましい行動は皆インド独立の為になりました。私達はいつまでもこの壮烈な記憶を若い世代に伝えて行こうと思っています。そのため、ここに日本兵へのお礼と供養のため、慰霊祈念碑を建てて、独立インドのシンボルとしたのです。」と語っています。
また、激戦地となったコヒマに住むナガ族は、そこに咲く可憐な花に「日本兵の花(ジャパニーズ・ソルジャーズ・フラワー)」という名を付けています。この花は非常に生命力が強くて、少々のことでは枯れることがなく、しかも群生して仲良く一斉に咲き始める野草です。このような花の性質が、死闘の中、弾薬も尽き、ボロボロになりながらも、皆で力を合わせて、敵に立ち向かっていく、そんな日本兵の姿に重ね合わせられ、名付けられたのだというのです。コヒマの人々は、花に名を刻み、日本兵が倒したイギリス軍の戦車を今も勇気のシンボルとして大事に保存しています。
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こうして、インドが200年もの長きにわたるイギリスの植民地支配を脱したのは、この日を夢見たチャンドラ・ボースの死後、2年目の夏のことでした。
その後も、インドは、敗戦に打ちひしがれた日本に対して、厚い友情を示してくれました。
敗戦国を裁く極東軍事裁判では、連合国側が日本を弾劾し続けるなか、ただ1人、インド代表のパール判事だけが日本の無罪を訴えたことはあまりにも有名です。
パール判事
また、インドはサンフランシスコ講和会議への参加を拒否しました。それは、勝者=連合国側の、日本に対する懲罰的な条約に反対してのことであり、日本に対する賠償も放棄しています。それどころか、インド独立運動家で、戦後、国会議員になったマハンドラ・プラタップ氏は「日本に対してこそ賠償を払うべきだ」という「逆賠償論」を主張しました。
いかがでしょうか?こうしたアジアの声をもっと聞いてみたいとは思いませんか?先入観を拭い去り、歴史の事実を掘り起こせば、彼らの声はもっと聞こえてくるでしょう。
僕達の祖先が、命を懸けて築いてくれた友好と信頼という財産を、大切に受け継ぐ為には、こうした政治的に作られたのではない、歴史認識を持つことが必要なのです。
インド
では!のちほど
もっと詳しく知りたい人への推薦図書
『世界から見た大東亜戦争』名越二荒之助編/展転社
『アジアから見た大東亜戦争』ASEANセンター編/展転社
『アジア独立への道』田中正明/展転社
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