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インドネシアを知って日本を知る!

インドネシア国旗

 「我々インドネシア人はオランダの鉄鎖を断ち切って独立すべく、350年間にわたり幾度か屍山血河※の闘争を試みたがオランダの狡知※なスパイ網と強靱な武力と苛酷な法律によって圧倒され壊滅されてしまった。それを日本軍が到来するや、たちまちにしてオランダの鉄鎖を断ち切ってくれた。インドネシア人が歓喜雀躍※し感謝感激したのは当然である。」
※屍山血河(しざんけつが)とは、激しい戦闘の例え。また、その後の惨状のこと。
※狡知(こうち)とは、悪知恵。
※歓喜雀躍(かんきじゃくやく)とは、躍り上がらんばかりに、非常に喜ぶこと。

 「日本軍政時代の3年半については、オランダ、チャイナ、アメリカ等、戦勝国の学者や、欧米に留学して日本が嫌いになった人々は、悪い面ばかりを誇大にあげつらっている。しかし、それでは全体を語ったことにはならない。」 
(アラムシャ第三副首相)

 「日本の占領は、後に大きな影響を及ぼすような利点を残した。第1に、オランダ語と英語が禁止されたので、インドネシア語が成長し、使用が広まった。日本軍政の3年半に培われたインドネシア語は驚異的発展を遂げた。第2に、日本は青年達に軍事教練を課して、竹槍、木銃によるものだったとはいえ、厳しい規律を教え込み、勇敢に戦う事や耐え忍ぶことを訓練した。第3に、職場からオランダ人が全ていなくなり、日本はインドネシア人に高い地位を与えて、我々に高い能力や大きい責任を要求する、重要な仕事を任せた。」
(インドネシアの中学3年用の歴史教科書より)

 インドネシアで50年間も歌い継がれる「祖国防衛義勇軍(PETA=ペタ)マーチ」

“アジア、すでに敵に向かい、蜂起せり 己を捨てて全力を尽くす
連合国を粉砕せんと 玉散ることもいとわず
進め 進め 義勇軍 アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ
古きアジア 不幸に苦しむ 烈しき圧制に 幾世紀も忍ぶ
大日本 雄々しく立てり アジアを救い 我らを守る
進め 進め 義勇軍 アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ…”

 350年間の長きに亘って、オランダの植民地にされてきたインドネシア。
 独立を勝ち取ったのは、昭和17年(1942年)3月の日本軍進攻がきっかけでした。過酷で計算され尽くした350年の植民地政策によって、有色人種であるアジア人は白人の支配を脱することは不可能だと思いこまされていました。
 しかし、そこに白人よりも小さな身体の日本人が突然やってきたかと思うと、なんとたった9日間の戦闘でオランダ軍は全面降伏してしまったのです。自分達と肌や髪の色の同じ小柄な日本人が、絶対にかなう筈もないと思っていた白人をあっという間に倒してしまったのです。この様子を目の前で見たインドネシアの人々は「そうだ!自分達もやればできるんだ!」という勇気を持ったのでした。現地の人々に大歓迎された日本軍は、オランダによって流刑されていた、インドネシア独立運動の指導者スカルノとハッタを獄中から救出し、日本軍への協力を求めました。こうして昭和20年8月に日本が敗戦するまでの3年半、オランダ時代とはまったく違う軍政が実施されました。

 しかし独立を約束した日本が連合国に敗れたとたん、またもやイギリス軍、次いでオランダ軍が、インドネシアを再占領するために戻ってきたのです。ところがインドネシアの人々はもう以前のインドネシア人ではありませんでした。自分達の力で独立を目指して戦う勇敢な戦士となっていたのです。そしてスカルノとハッタは連合軍が来る前、昭和20年(1945年)8月17日午前10時、多くの民衆の見守るなか、独立宣言文を読み上げました。

電球この独立宣言文の日付けは「17-8-‘05」と記されています。「‘05」とは、当ブログ「てゆうか、日本って何歳!?」でも記しました「皇紀」または「神武紀元」という、日本が戦前まで広く使っていた暦に基づいています。西暦(西洋の暦)はキリストの誕生を元年としますが「皇紀」は初代の神武天皇の即位の日を元年としています。「皇紀」によると昭和20年は「2605年」にあたります。その下2ケタをとって「‘05」とされました。今もジャカルタのスカルノ、ハッタ記念公園(独立宣言広場)に行けば、この宣言文がレリーフになってスカルノとハッタの銅像の真ん中にあるので誰でも見られます。

電球ちなみに、日本人に大人気の「バリ島」では「皇紀」カレンダーが今でも販売されているそうです笑いv

 さて話を戻しますが、独立を目指すインドネシアにとっては日本敗戦後のこれからが死闘でした。日本軍による3年半の軍事訓練を受けたとはいえ、近代的兵器で武装したイギリス、オランダなどの連合軍にそう簡単に勝てるわけがありません。敗れた日本軍の兵士たちはこの状況を見て、独立を約束しながら果たせなかったという責任感もあったでしょう。多くの人が現地に残り、インドネシアの民衆の先頭に立って戦い、その半数以上の日本兵が彼の地の土となりました。このインドネシア独立戦争は連合国を相手に4年間も続き、死者80万人という犠牲を払いました。そして命を捧げた日本兵はインドネシア独立の英雄として、ジャカルタ郊外のカリバタにある国立英雄墓地に丁重に祀られています。

 こうした歴史的事実からインドネシアの独立記念日では、インドネシアの服装の男女2名になんとびっくり日本兵の服装をした1名を加えて3名で、国旗を掲揚します。もちろんこれは独立を支援した日本軍に敬意と感謝を表しているのですが、こんなことは日本では全く知られていませんね落ち込み

インドネシア


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マレーシアを知って日本を知る!

マレーシア国旗

 平成3年(1991年)12月、マレーシアのコタバルを首都とする、ケランタン州政府は、日本軍の上陸50周年を記念して、特別式典を開催。更に、戦争博物館を設立されました。その戦争博物館の館長である、ロザリー・イソハック(ケランタン州副知事)は次のように語っています。

 「1991年、私達は日本のコタバル上陸50周年を祝いました。これが「ケランタン」つまり、当時のマラヤにとって意義ある出来事であったからです。ここ、コタバルは、最初の日本軍上陸地です。私は、戦争博物館の館長として記念行事を担当しましたが、多くの人々にこの重要な出来事を、永く記憶に留めて戴きたいと願っています。」

 マレーシアの人々が祝う1991年から50年前といえば、昭和16年(1941年)の12月。 戦後世代の日本人にとって、昭和16年12月8日というのは「日本が戦争を始めた日」として「マイナス・イメージ」を持っている人が多いと思います。また、そこで語られるのは、日本のアジア侵略や、現地住民の虐殺といった「嘘と捏造」に洗脳された自虐討論ばかりです。そんな日本人をよそに、当のマレーシアでは日本軍の上陸を祝って記念式典が行われているのです。

 昭和16年(1941年)12月、日本軍は真珠湾のアメリカ軍艦隊を攻撃すると同時に、マレーシアに上陸。その後、マレー沖のイギリス東洋艦隊に攻撃を仕掛けました。イギリスが誇る、世界最新鋭の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と、「レパルス」という2隻を、航空機爆撃で撃沈したことは、世界戦史上、前例のないことでした。この衝撃的な知らせを受けた、当時のイギリス首相チャーチルは「戦争の全期間(第2次世界大戦)を通じて、私はこれ以上の打撃を受けたことはなかった。いかに多くの努力と希望と計画が、この2隻の軍艦と共に沈んでしまったか。ベッドのなかで寝返りを打ち、身もだえする私の心にこのニュースの持つ恐ろしさが沁みこんできた。」(チャーチル『第二次大戦回顧録』)と記しています。

 日本軍上陸まで、150年以上に及び、イギリスの植民地支配に苦しめられていたマレー人は、半島を進撃する日本軍を心から歓迎し、食糧の提供やジャングルの地理案内、軍需物資の運搬まで手伝いました。当時16歳だった、マレーシアのラジャー・ダト・ノンチック元上院議員は、当時を振り返りこう言います。

 「私達は、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声を上げました。敗れて逃げてゆくイギリス軍を見た時に、今まで感じた事のない興奮を覚えました。日本軍は永い間、アジア各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い払い、とても白人には勝てないと諦めていたアジアの民族に、驚異の感動と自信を与えてくれました。」
 
 日本軍はこのような現地の人々の支援もあって、60日間の激戦の末、イギリス軍のアジア最大の要塞、シンガポールを攻略します。
 
 昭和17年(1942年)2月15日、ついにイギリス軍は降伏し、150年以上に及んだイギリスのマレー支配は終わりを告げたのです。フランスのドゴール将軍は、この日の日記に「シンガポールの陥落は、白人植民地主義の永い歴史の終焉を意味する。」と記しました。

 さて、イギリス軍を追い払った後、日本軍はマレーの青年教育に力を注ぎました。1942年5月15日、シンガポールに「昭南興亜訓練所」を開設し、マレーの全ての民族から、優秀な青年を招いて心身共に訓練をしました。これは後に、マラッカの「マラヤ興亜訓練所」に引き継がれ、1000名を越える卒業生を送り出します。この卒業生の大半が、マラヤ義勇軍、マラヤ義勇隊の将校となり、マレーシアの独立と、その後の新しい国づくりの中核となりました。先のノンチック元上院議員は言います。「新国家マラヤ連邦の建国の基本策と具体策は、当時のマレー人青年の日本グループによって進められたと言っても過言ではありません。あの当時の国家計画庁本部は、昭南、マラヤの両興亜訓練所や、日本に留学した南方特別留学生の同窓会の雰囲気でした。」

 また、日本の軍政部がそれまで西欧人専用だった、クラブやプール等を、肌の色に関わり無く、一般に開放する等の政策をとり「民族の平等」を掲げた事は、マレーの人々の間にあった、白人に対するコンプレックスを取り除き「自分達の祖国を自分達の国にしよう!」という独立心を目覚めさせました。

 しかし、それから3年8ヶ月後の1945年8月15日、日本軍は連合軍に降伏してしまいます。その結果、イギリス軍が再びマレーを植民地にするために戻って来きました。しかし、マレー人は以前の様に従順ではありませんでした。

 マレーシアのマラヤ大学の副学長のウンク・アジス氏は「日本軍がもたらした『大和魂』の様な考え方を持つことは、マレー人には独立の為にどうしても必要でした。日本軍政下の訓練の結果、日本が降伏した後、イギリス人が戻ってきて植民地時代よりも更に悪質な、独裁的制度をマレーシアに課そうとした時、マレーの人々は立ち上がったのです。」と言う。
 また、マレーシア外務省情報センター所長のニック・モハマド氏は「これまで独立なんて考えた事もなかったので、徐々に植民地にされたのですが、日本の軍政下で反植民地主義に目覚めたのです。民族意識は若者に影響を与え、彼らはもはや怠けてはいませんでした。皆、立ち上がったのです。これまでになかった大変貴重な3年8ヶ月の経験でした。」と語っています。

 さてみなさん、こんな話を耳にしたことはないですか?マレーに進軍した日本兵が、赤ん坊を放り投げ、銃剣で突き刺したという話。これはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』と『死の家の記録』に出てくる、トルコ兵の話を某国が、日本兵の仕業であると、捏造し、広く流布したものです。この話は、全く事実ではないと、マレーの人々も証言しています。しかし、誰が何の為に、ここまで日本兵を悪く言い立てるのでしょうか落ち込み?戦後教育を受けた、多くの日本人はこの話を鵜呑みにして、今も信じているのではないでしょうか?

 先の、ノンチック元上院議員は「先日、マレーシアに来られた日本のある学校の教師が『日本軍はマレー人を虐殺したに違いないから、その事実を調べに来た。』と言っており、私は大変驚きました。『日本軍はマレー人を、誰一人殺していません!』と私は答えてやりました。日本軍が殺したのは、戦闘で闘ったイギリス軍や、そのイギリス軍に協力したチャイナ系の抗日ゲリラだけです。」

 マレーシアは複雑な民族構成で成り立っています。それはマレーが良質な錫(スズ)を産出することから、イギリスがこの錫を採取する為の労働力として、大量の華僑(かきょう)※(中国系)の人々を移住させたからです。華僑の人々はその後、イギリスとマレー人の間に入り込み、経済活動を掌握し、搾取階級となりました。
 このような背景から、華僑の人々は日本に対して、イギリスを駆逐し、自らの利益を剥奪してしまう、日本軍の進撃を喜ぶ訳がありません。むしろその権益を守る為に、イギリスに協力して抗日ゲリラ活動を行っていたのです。また、支那事変以来、日本と本国が戦争状態にあったことも作用していたのでしょう。これらの理由から、イギリス軍の敗北と撤退を喜んだマレー人と、それを快く思わない中国の対日観には、大きな開きがあることを、充分知っておく必要があります。
※華僑(かきょう)は、中国大陸・台湾・香港・マカオ以外の国家・地域に移住しながらも、中華人民共和国の国籍を持つ漢民族を指す。

 こうした植民地時代からの華僑の経済独占は戦後になっても続き、経済進出を閉ざされた、マレー人と華僑との民族間対立は、時として多数の国民の血を流すことさえありました(1969年の5.13事件等)。
 華僑の人々は今も、戦争中に日本が行った華僑の利益抑制や、マレー人に機会を与えようとしたことを酷く憎み、「日本軍は残虐であった」という、数々の「嘘と捏造」を流布し続けています。しかし、本来のマレー人は冒頭で紹介したように、決して反日民族ではありません。むしろ親日民族であり、日本軍の上陸を意義ある事として、今でも都度、記念行事を行っているのです。

 正しい歴史を知らないと、この学校教師の様に、世界で恥ずかしい思いをしますね。

マレーシア

 
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ミャンマーを知って日本を知る!

ミャンマー国旗

 「アジア人の前衛たる日本人は、自らの社会経済的進歩と教育発達のみを求めて闘ったのではない。インド・ビルマ・チャイナ・フィリピン・スマトラ等で、政治的・経済的に足枷をはめられて抑圧されていた人々のために闘ったのだ。」
(ビルマ独立義勇軍)

“♪守るも攻むるも鋼鉄の 浮かべる城ぞ頼みなる
浮かべるその城日の本の 皇国の四方を守るべし
まがねのその艦日の本に 仇なす国を攻めよかし♪”

 この歌を知っている方はいますか?歌詞は知らなくってもメロディーを聴けば誰でも分かる歌。実はこれ、軍艦マーチなんです。パチンコ屋で威勢良くかかっている曲と言えば分かって貰えるかもしれません。

 残念なことに、このような説明をしなくてはならなくなってしまったこの曲は、日本が戦争に負けるまでは、海軍の誇りであった名曲でした。しかし、今ではパチンコのイメージとなってしまい、なんだか情けない役割にされています。ところが驚くなかれ、この曲が今でも誇りと共に演奏される名誉ある存在でいられるのは、遠くミャンマー(旧ビルマ)※の“国軍記念日”という晴れ舞台なのです笑い拍手
※旧ビルマは、1989年に国名をミャンマーに変更。それ以前を記す場合はビルマと表記しています。

 ミャンマーでは、3月27日の国軍記念日になると、全国のミャンマー国軍が、首都ヤンゴンに集まり、盛大なパレードを繰り広げるのですが、なんとびっくりこのパレードは、いきなり日本のこの“軍艦マーチ”から演奏し始めるのです。続いてミャンマー軍楽隊は“歩兵の本領”“愛馬進軍歌”等、昔の日本の歌を次々と演奏して、パレードを続けていきます。これは一体、どういうことでしょう?

 実は、ミャンマーは「日本人より日本を愛する国」と言われる程の親日国家です。何故かというと、ミャンマーでは政府高官からジャーナリストに至るまで、皆こう言います。「ミャンマーが今日あるのは、日本のおかげです。日本のおかげで、英国の圧制を逃れ、独立する事が出来た。我々は、深く日本に感謝しているのです。」

 ビルマは19世紀、3度に渡ってイギリスの攻撃を受け、ついに1886年イギリスの植民地になりました。その時、既にイギリス領であったインドの1州に組み込まれ、ビルマの国王夫妻はイギリス領スリランカに流刑され、その地で死亡。王子は処刑され、王女はイギリス軍の士官の従卒に与えられてしまいます。

 その後の悲劇を、バー・モウ元首相はこう書いています。「外国人による搾取は上層から下層まで、あらゆる方面で暴虐さを加えていた。巨大イギリス企業は上等の部分を全て独占し、インド人と中国人の商人達がそれに続いて中級の部分を殆ど手に入れてしまっていた」
(バー・モウ『ビルマの夜明け』より)

 そしてビルマ人は、チーク材の切り出し等の重労働にこき使われました。現在もミャンマーでは先端の尖っていない鎌や包丁が売られていますが、これは植民地時代、イギリス人に抵抗する武器にならないようにした名残だといいます。こんな悲惨な状況を一転させたのが、日本軍の進攻と、日本によるビルマ独立志士達の育成でした。

 話は今から約100年前の明治時代。膨張を続けて南下を推し進めるロシアを相手に、日本は国を挙げて戦いました。これが、日露戦争(1904〜05)です。

 当時は、アジアの国々の殆どが、ヨーロッパの白人諸国の支配下に置かれ、植民地とされていました。先に紹介したように、ビルマも例外ではありません。誰もが、アジアの小国、日本の敗戦を予想していましたが、それを裏切って世界最強の軍事大国ロシアに陸と海で勝利を収めました。有色人種であるアジアの国が、白人をやっつけたという知らせを聞いた、他の有色人種達は歓喜し、こぞって日本に学び始めます。

 その中の1人に、ビルマの僧オッタマがいました。オッタマ僧正は抗英独立運動を行って投獄されたこともある人物で、日本にやってきたのは1907年でした。彼は3年間日本に滞在して、取材した内容を『日本』という本にまとめ、ビルマで発刊しています。その中で「日本の興隆と戦勝の原因は、明治天皇を中心にして、青年が団結して起ったからである。我々も仏陀の教えを中心に、青年が団結、決起すれば、必ず独立を勝ち取ることが出来る。」「長年のイギリスの桎梏から逃れるには、日本に頼る以外に道はない。」と主張したのです。その後もオッタマは、ビルマの完全自治を要求する運動を起こし、イギリス政府によって投獄される等、何度も投獄、出獄を繰り返し、ついに1939年に獄死してしまいます。残念ながら日本と協力して立ち上がった、ビルマ青年の活躍を彼は見ることが出来ませんでしたが、その反イギリス精神は独立の志士たちに受け継がれていきました。

 この若き志士達こそ、後に「ビルマ建国の父」と呼ばれる、オン・サン達、タキン党の青年達でした。オン・サンとは当時の表記ですが、現在ミャンマーで活躍している、アウン・サン・ス−・チー女史のお父さんです。

 そして1930年代後半に、彼らタキン党を中心に、反イギリス運動は国民的盛り上がりを見せますが、イギリスは独立運動の大弾圧を始め、志士たちの多くが逮捕、投獄されてしまいます。これを逃れたオン・サンは独立蜂起の為、日本への亡命を決意するのです。

 一方、同じ頃イギリス・アメリカは日本への敵視政策を取り、日本と敵対関係にあった蒋介石(しょうかいせき)軍に、莫大な軍用物資の援助を行っていました。それを運ぶ道程が、イギリス領ビルマを通って中国に入る「ビルマルート」、いわゆる「援蒋(えんしょう)ルート」でした。早く蒋介石との戦争状態を終わらせたい日本にとっては、このビルマルートを遮断することが不可欠の問題となってきたのです。

 そこで日本は、ビルマ青年達を支援し、イギリス勢力を追放する為、ビルマ独立を達成しようとしたのです。

 1940年、日本陸軍は鈴木敬司大佐をビルマに派遣、オン・サンらを救出し、大佐の故郷である浜松に亡命させます。そして、鈴木敬司大佐を機関長としたビルマ独立の為の「南機関※」が誕生するのです。
※南機関(みなみきかん)は、1941年から1942年にかけて存在した日本軍の特務機関の1つ。
 「南機関」の活動計画は、独立運動の中核となるビルマ人志士30人を、ひそかに日本に脱出させ、彼らに武装蜂起に必要な軍事教育をすること。その教育訓練の終わったビルマ人志士を、再びビルマに潜入させ、反イギリス運動を起こし、ビルマ独立政府の樹立を宣言する事と、蒋介石を支援するビルマルートを遮断する事にありました。

 この時の彼らこそ、後にビルマの独立と建国の英雄として仰がれる「ビルマ30人志士」です。

 1941(昭和16)年、大東亜戦争の開戦と同時に、タイのバンコクで30人の志士を中心に「ビルマ独立義勇軍」が結成されました。日本軍による厳しい訓練を受けた青年達は、独立ビルマを象徴する孔雀の旗を掲げて、ビルマ独立を誓い合ったのです。

 義勇軍の司令官には青年達が心から慕う、鈴木敬司大佐が就任し、オン・サンの提案で鈴木大佐は純白のビルマの民族服=ロンジー姿で白馬にまたがり、ビルマ民衆の前に登場します。これはビルマの伝説で「イギリスに滅ぼされたアラウンパヤー王朝最後の王子が、いつか必ずボモージョ(雷帝のこと)となって、白馬にまたがり、東の方角からやってくる。そしてイギリスの支配からビルマを解放してくれる」という、ボモージョ伝説を演出したものでした。
 ビルマ民衆は歓喜して彼ら義勇軍を迎え、その協力もあって3ヶ月で首都ラングーンを陥落させ、イギリス軍を追い払いました。そして日本の軍政を経た後の1943年8月1日、ビルマはついに独立を宣言したのです笑いv

 その時、外相に就任した、ウー・ヌーは次のように演説しました。
 
 「歴史は、高い理想主義と、目的の高潔さに動かされたある国が、抑圧された民衆の解放と福祉の為にのみ、生命と財産を犠牲にした例をひとつくらい見るべきだ。そして日本は人類の歴史上、初めてこの歴史的役割を果たすべく運命づけられているかに見える。」

 しかし日本と同盟を結んで米・英に宣戦布告したビルマにも、日本の敗戦が色濃くなってきた頃、「日本と離れてイギリスと結ぶべきだ」との声が高まってきます。日本と一緒に敗戦国になって、再びイギリスに占領されるのを怖れたのです。それまで日本と共に闘ってきた30人の志士達も動揺します。バー・モウやボー・ヤン・ナインは日本を裏切らず、ミン・オンという青年にいたっては日本を裏切ることは恩義に欠けるとして自決してしまいました。

 しかし、オン・サンは「反日に立つのは、ビルマを生き残らせる為の、唯一の方法」であると、バー・モウに手紙を書き、1945年(昭和20年)3月、ついに日本に反旗を翻すのです。この決断によって、日本軍はビルマから撤退し、代わりにイギリス軍が戻ってきました。

 再び植民地支配を目指すイギリスに対し、オン・サンは日本軍に育てられた10万人の義勇軍を率いて、イギリスと独立交渉をします。

 そしてついに1948年1月4日、イギリスのアトリー内閣が独立を承認し、ビルマはようやく独立を達成したのです。しかしこの席にオン・サンはいませんでした。この5ヶ月前に政敵の銃弾に倒れていたからです。

 その20年の後、バー・モウは『ビルマの夜明け』と言う著書を発表し、この本がイギリスでも出版される事になりました。この時「ロンドンタイムズ図書週報」1968年5月23日号では、この本について次のように紹介しています。

 「ビルマを長い植民地支配から解放した者は誰か。それは、イギリスでは1948年の、アトリー首相の労働党内閣ということになっている。しかし、バー・モウ博士はこの本の中で、全く別の、真の歴史事実として、日本が第2次世界大戦で果たした役割を公平に評価している」とし、序文の一部を引用しています。

 それは「真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマ解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった。」というバー・モウの歴史観を現した一文でした。

 日本では決して語られる事のない歴史が、ここミャンマーではしっかりと語り継がれています。彼らが植民地支配を脱する契機となった国軍記念日のパレードが、日本の“軍艦マーチ”で始まるなんて、感動ですね笑いv

ミャンマー(旧ビルマ)

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インドを知って日本を知る!2

 1の続き、、

 この戦いで敵方として戦った、イギリス軍東南アジア総司令部司令官マウントバッテン大将は回想記の中で、こう記しています。「かつて不敗を誇った日本軍も半年の死闘に衣服や靴もボロボロとなり、支えるものは不屈の精神力だけであった。日本軍はインパールにおいて、ついに敗れたが、そこには何かが残った。それは歴史学の権威トインビーが、いみじくも喝破した通りである。すなわち『もし、日本について、神が使命を与えたものだったら、それは強権を我がもの顔の西欧人を、アジアのその地位から追い落とす事にあったのだ』」
(ルイス・マウントバッテン『ビルマ戦線の大逆襲』より)

 「何かが残った…」その「何か」については、インドの民衆たちが1番よく知っています。

 インパール手前15キロのロトパチンという村では、村民たちが自主的に作った日本兵の慰霊塔があり、現在も毎年、日本兵の供養が続けられています。ロトパチン村の村長は「日本兵は飢餓の中でも勇敢に戦い、この村で壮烈な戦死を遂げていきました。この勇ましい行動は皆インド独立の為になりました。私達はいつまでもこの壮烈な記憶を若い世代に伝えて行こうと思っています。そのため、ここに日本兵へのお礼と供養のため、慰霊祈念碑を建てて、独立インドのシンボルとしたのです。」と語っています。

 また、激戦地となったコヒマに住むナガ族は、そこに咲く可憐な花に「日本兵の花(ジャパニーズ・ソルジャーズ・フラワー)」という名を付けています。この花は非常に生命力が強くて、少々のことでは枯れることがなく、しかも群生して仲良く一斉に咲き始める野草です。このような花の性質が、死闘の中、弾薬も尽き、ボロボロになりながらも、皆で力を合わせて、敵に立ち向かっていく、そんな日本兵の姿に重ね合わせられ、名付けられたのだというのです。コヒマの人々は、花に名を刻み、日本兵が倒したイギリス軍の戦車を今も勇気のシンボルとして大事に保存しています。

 インパール作戦は決して無駄ではありませんでした。確かに、あまりに多くの犠牲を払いはしましたが、「何か」、つまりインドの独立という大きな歴史を残したのです。このように遠く離れた地で、今でも日本人に感謝してくれている人々がいるということは、祖先が僕達に残してくれた大きな財産だといえるでしょう。

 このあと、賭けた勝負にも敗れた日本軍は更なる撤退を続け、ついに1945(昭和20年)8月15日に連合軍に対して降伏をしてしまいます。

 日本の敗戦後も、起死回生の望みを賭けた、チャンドラ・ボースは、寺内寿一南方総軍司令官の計らいで、ソ連に亡命する途中、不運な飛行機事故に遭い、とうとう伝説の人となってしまいました。享年48歳、最後まで、インドの独立に命を懸けた生涯でした。

 その後、ボースの下で共に独立を目指して戦ってきた、インド国民軍(INA)兵士達には、過酷な運命が待っていました。勝者イギリスが、ボースの指導したインド国民軍の将兵1万9500名を、イギリス国王に対する忠誠に背き、敵に通謀し、利敵行為を行ったという「反逆罪」で軍事裁判にかける事になったのです。イギリスはこの「反乱」を、セポイの反乱(1857)以来の大不祥事と考え、これを厳罰に処し、見せしめにすることによって、これから先のインド統治を揺るぎないものにしようとしたのでした。イギリスは決して、植民地支配を止めようとは思っていなかったのです。しかし、この愛国者であるインド国民軍を「反乱軍」として裁くといった措置に、インド全土では2年に渡り、大規模な反乱が続きます。イギリスも軍隊を派遣し、徹底的な弾圧に努めるなど、流血の惨事がインド各地で起こりました。更に、イギリス軍によって、拘留されていた国民軍兵士たちの監獄からは、ボースの決めた国民軍の合言葉「チェロ・デリー!チェロ・デリー!」の声が、毎日響き渡りました。インド民衆も「愛国の英雄を救え!」「INA全員を即時釈放せよ!」と叫びながら、警戒厳重な監獄にデモ行進をし、監獄の内と外で「チェロ・デリー!」の大合唱が起きました。ついに1947年5月、イギリスは軍事裁判の中止をやむなく決定、8月にはインドの独立を認めざるを得なくなりました。

 こうして、インドが200年もの長きにわたるイギリスの植民地支配を脱したのは、この日を夢見たチャンドラ・ボースの死後、2年目の夏のことでした。

 その後も、インドは、敗戦に打ちひしがれた日本に対して、厚い友情を示してくれました。

 敗戦国を裁く極東軍事裁判では、連合国側が日本を弾劾し続けるなか、ただ1人、インド代表のパール判事だけが日本の無罪を訴えたことはあまりにも有名です。

パール判事

 また、インドはサンフランシスコ講和会議への参加を拒否しました。それは、勝者=連合国側の、日本に対する懲罰的な条約に反対してのことであり、日本に対する賠償も放棄しています。それどころか、インド独立運動家で、戦後、国会議員になったマハンドラ・プラタップ氏は「日本に対してこそ賠償を払うべきだ」という「逆賠償論」を主張しました。

 いかがでしょうか?こうしたアジアの声をもっと聞いてみたいとは思いませんか?先入観を拭い去り、歴史の事実を掘り起こせば、彼らの声はもっと聞こえてくるでしょう。

 僕達の祖先が、命を懸けて築いてくれた友好と信頼という財産を、大切に受け継ぐ為には、こうした政治的に作られたのではない、歴史認識を持つことが必要なのです。

インド


 では!のちほど祝日

 星もっと詳しく知りたい人への推薦図書

 『世界から見た大東亜戦争』名越二荒之助編/展転社
 『アジアから見た大東亜戦争』ASEANセンター編/展転社
 『アジア独立への道』田中正明/展転社
 『パール博士の日本無罪論』田中正明/慧文社
 『F機関』/藤原岩市原書房
 『印度洋にかかる虹』国塚一乗/光文社



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インドを知って日本を知る!1

インド国旗

 「欧米は日本が侵略戦争を行ったと歴史に留めて、自らのアジア侵略の正当性を誇示する目的だったに違いない。日本の子弟が歪められた罪悪感を背負い、卑屈・退廃に流れるのを私は平然と見過ごせない。」
(ラダ・ビノード・パール極東国際軍事裁判判事)

 1945年(昭和20)8月18日、台湾の台北空港で「天皇陛下と寺内さん(寺内寿一・南方総軍総司令官)によろしく」という言葉を残して、日本と共に戦ったインドの英雄がこの世を去りました。日本の敗戦から3日後のことでした。

 その人の名はスバス・チャンドラ・ボース、インドの独立運動の指導者「ネタージ(指導者)」と呼ばれ、現在でもインドで尊敬を集めている有名な人物です。

 しかし、その彼の墓が、日本の蓮光寺というお寺にあることは、日本でもあまり知られていません。

 また、カルカッタにある彼の邸宅を改装したボース記念館では、彼の残した演説や、彼が指揮したインド国民軍の愛唱歌の入ったテープが販売されていますが、愛唱歌のなかには、なんとヒンズー語で歌われた日本の歌「愛国行進曲」が収められています。

 さらに、ボースがインド人民に向けて訴えた演説の一節をご紹介しましょう。「…大東亜戦争開始以来、歴史に較べるもののない日本軍の勝利はアジアのインド人に感銘を与え、自由獲得の戦いに参加することを可能にした。日本政府は単に自己防衛のために戦うだけでなく、英米帝国主義のアジアからの撲滅を期し、さらにインドの完全な独立を援助するものである。いまやインド国民軍は攻撃を開始し、日本軍の協力を得て、両軍は肩を並べ、共同の敵アメリカ・イギリスの連合国に対し、共同戦線を進めている。外国の侵略の軍隊をインドから駆逐しない限り、インド民衆の自由はなく、アジアの自由と安全もなく、英米帝国主義との戦争の終結もない。」(1944.3.20自由インド放送より)このボースの演説内容に驚かれる方も多いことでしょう。無理もありません。私たちの多くは、先の大戦をアメリカ・イギリスなどの自由主義・民主主義陣営と、自由を抑圧するドイツ・日本のファシズム陣営の戦いであったと教えられてきたからです。しかし、ボースはここではっきりと、アメリカとイギリスを「帝国主義者」と呼び、その「侵略の軍隊」をアジアから追い出さなければ、アジアの自由はないのだと言っています。

 このようなアジアの声を、またインドと日本の深い友好の関係を知らない日本人が多いのではないでしょうか?

 そこで、ここではインドの人々と日本人が協力して、自由と独立を勝ち取った歴史を紹介したいと思います。

 インドは17世紀初めより、ヨーロッパの植民地主義の標的となり、最終的にはイギリスのたび重なる侵略によって、ついにムガール王朝が滅ぼされ、イギリスの植民地とされてしまいました。イギリスの略奪的経済搾取は、土地の収奪、自給自足農業の破壊、当時世界一を誇ったインド綿製品の破壊にとどまらず、過酷な重税を課しました。インド民衆は食糧不足などにより、18世紀にベンガル地方で1000万人、19世紀には南インドで1500万人が犠牲になったといわれています。

 このような中、インド人に驚きと勇気を与えたのが、日露戦争(1904〜05)における日本側の勝利でした。日露戦争とは、当時は白人に支配されるのが当然と思われていた有色人種の小国日本が、白人の軍事大国ロシアに対し、大方の予想を裏切って大勝利を収めた世界史上初めての戦いです。この勝利の報は多くの有色人種に感銘を与えました。後年、インドの初代首相ジャワハルラル・ネルーは「日本が大国ロシアを破ったとき、インド全国民は非常に刺激され、大英帝国をインドから放逐すべきだという独立運動が全インドに広がったのだ。」と言っていますが、事実、この勝利をきっかけに、植民地化されていたアジアから、多くの独立運動家が日本にやってきました。彼らは独立運動を徹底的に弾圧する宗主国の追っ手をのがれて、日本にかくまわれ、白人支配者から独立する機会を狙っていたのです。

 そして、1941年(昭和16年)12月8日、日本がアメリカとイギリスに宣戦布告をすると、インド人の同志たちは「インド独立連盟」を東京で旗揚げし、翌年には東南アジア各地に散らばっていたインド独立運動家を集めてインド独立を誓う「東京会議」を開くなど、日本はインド独立闘争の拠点となりました。

 ところで、あまり知られていないことですが、この戦争で、日本が戦っていたイギリス軍の兵隊のうち、約7割は、イギリス植民地で徴発されたインド人の兵士だったのです。いわゆる「英印軍」と呼ばれたインド人兵士達でした。

 ですから、植民地化されたアジア諸国からヨーロッパ勢力、特にイギリスを追い出すためには、インド人兵士がイギリス軍兵士として、宗主国イギリスの為に戦うのを止めさせなければなりません。

 そういった経緯から、日本政府は、インドの独立を全面的に支援する為、藤原岩市少佐を中心とした、10名足らずの「F機関」という組織を作りました。

 「F機関」という名は、フジワラ・フリーダム・フレンドシップの頭文字をとって、こう呼ばれたのですが、彼ら機関員はその言葉通り、命懸けで日本とインドの共闘を訴えました。イギリス植民地マレー半島の戦場で、イギリス側に立つインド人兵士たちに「インド独立のために、日本と共にイギリスと戦おう。」と降伏を呼びかけていったのです。

 最初は半信半疑だったインド兵達も、F機関員たちが敗残兵である自分達を差別することなく、一緒のテーブルを囲んで、食事をする事に驚きを隠せませんでした。イギリス軍にいたときは、仲間同士である筈のイギリス人兵士とインド人兵士が同じ部屋で食事をすることすら考えられなかったのです。

 さらに藤原機関長は、日本軍が占領したマレー半島の治安維持を、なんと投降してきたばかりの、彼らインド人捕虜に任せたのです。先程まで、敵味方に別れて戦っていた自分達を、全面的に信頼してくれている…、この申し出にインド人兵士は驚くと同時に、大変感動したといいます。

 降伏してきたインド人兵士たちは、率先して日本軍の先頭に立ち、次々と同胞に降伏を呼びかけていきました。こうして、投降インド兵の数は、どんどん膨れ上がり、最終的には5万人というインド兵が、イギリス軍を裏切って投降してきたのです。

 ここに、インド人による、インド独立のための、インド人の軍隊「インド国民軍(INA)」が誕生しました。さて、一方、冒頭で紹介した指導者(ネタージ)、スバス・チャンドラ・ボースは、どうしていたのでしょうか?彼は、この時イギリスと敵対していたドイツに亡命し、独立運動を展開していました。しかし、ドイツ首脳はヨーロッパのことしか頭になく、しかもインドがイギリスから独立する事は、少なくとも、後150年は不可能だと考えており、ボースを落胆させてしまいます。

 ドイツでの独立闘争の可能性を断たれたボースは、日本が英印軍を組織し始めた事を知り、インド独立闘争の為の協力は日本に求めるべきだと判断して、ドイツから日本に行く事を決意します。

 そして、ついにボースは、彼の到着を待つ1万5千名のインド国民軍兵士の前に姿を現します。1943年(昭和18年)7月5日の事でした。

 この日、彼はインド国民軍兵士たちに向かって、2時間近くに及び、大演説を行いました。「同志諸君!兵士諸君!諸君の合言葉は『デリーへ!デリーへ!』である。我々の任務は、イギリス帝国最後の墓場、古都デリーのラール・キラに入城式を行う日までは終わらないのである。…我々はこれより、デリーに向かって進軍する。チェロ・デリー!(征け、デリーへ!)チェロ・デリー!(征け、デリーへ!)」

 ボースがこう叫んだとき、国民軍兵士ばかりでなく、この演説を見に来ていた、2万のインド民衆も、声を揃えて「チェロ・デリー!チェロ・デリー!」と唱和し、その場の熱狂は最高潮に達しました。

 この翌月、8月1日には日本によって、ビルマ(現ミャンマー)が独立を達成し、バー・モウが首相に就任しました。(詳しくは当ブログのビルマ編を参照。)ボースはこの独立祝典に出席し、同じくイギリスの圧政に苦しめられていた、ビルマ民衆の万歳の声を聞き、日本が独立の約束を果たした事に感銘を受けました。イギリスはインドと交わした約束を何度も破ってきたからです。第一次大戦の時にも、インドに自治を許すという餌をまいて、イギリスへの戦争協力を強いておきながら、全く果たされませんでした。その苦い経験を振り返りつつ、眼前で歓呼するビルマ民衆の姿に、ボースは近い将来のインド民衆の姿を重ね合わせていました。

 ところがこの時、既に日本軍は勢いを盛り返してきた連合軍の猛反攻に遭い、ガダルカナルからの撤退を余儀なくされるなど、戦局に不安の影が差し始めていました。

 しかし、ボースはインド国民軍の司令官に就任すると同時に、自由インド仮政府の主席となり、独立政府を組織します。そして、直ちにイギリス・アメリカに宣戦を布告したのです。

 悪化する一方の戦局を打開する為、日本軍とインド国民軍が、最も悲劇的な戦いとして名高いインパール作戦に勝負を賭けたのは、その翌年、1944年(昭和19年)3月の事でした。この戦いでは、多くの将兵が命を落とし、生き地獄だとさえ言われました。そのため、現在の歴史家の多くは、このインパール作戦を、愚かな無用の戦いであったと言います。

 しかし、本当にそうなのでしょうか?

 2に続く、、

タイを知って日本を知る!

タイ王国国旗

 みなさんは象の「はな子」を知っていますか?
 
 終戦後の昭和24年、タイ政府が第ニ次大戦中に日本政府に貸し出したお金の返済交渉に、タイ使節団が来日しました。その時、彼らが見た日本は、国全体が敗戦のショックに打ちひしがれていました。使節団の団員は、口々に「こんな気の毒な日本を見ていられるか!」と言い、借金を大幅に棒引きすることを決意。さらに、日本の子供達を慰めようと、象をプレゼントしようという事になったのです。その時、日本へ贈られたメスの象が「はな子」です。平成21年(2009年)現在も、東京都三鷹市の「井の頭動物園」で元気にしています。

はな子

 第ニ次世界大戦が激しくなる中、日本の多くの動物園は、空襲で檻が破壊されると、猛獣が街に逃げ出す恐れがある事を考慮し、苦しくも猛獣を殺す事を決定します。ライオンや熊が次々と殺される中、象にも毒の入った餌を与えましたが、象は餌を吐き出してしまい、その後は口に運びませんでした。毒を注射しようにも皮膚が厚く、針が折れてしまう為、餌や水を与えるのを止め、餓死するのを待つことにしました。象は日に日に弱りながらも、餌を貰えると思い、必死に芸をする様子を見て、飼育員達は泣きながら見守ったという話は「かわいそうなぞう」という童話になって、今も語り継がれています。こういった背景をタイ使節団が知り、日本へ象の贈呈がされたといわれています。 

 さて、2002年11月に外務省から発表された「日本に関するASEAN※世論調査」によると、タイ国民の日本への好感度は89%にも上り、現在も大変な親日国のひとつであります。
※東南アジア諸国連合(ASEAN=アセアン)は、東南アジア10ヶ国( インドネシア・シンガポール・タイ・フィリピン・マレーシア・ブルネイ・ベトナム・ミャンマー・ラオス・カンボジア)の経済・社会・政治・安全保障・文化での地域協力組織。本部はインドネシアのジャカルタにある。総人口は約5億8000万人(2005年)と大きく、近年の目覚しい経済成長に拠り、欧州連合(EU)、北米自由貿易協定(NAFTA)、中国、インドと比肩する存在になりつつある。(Wikipedia参照)
 
 2007年には、日本タイ修好120年記念として、様々な催しが執り行われました。もちろん、それ以前から、日本とタイには友好の歴史がありました。17世紀には、山田長政※(1590〜1630)が600名の日本人義勇兵を率いて、アユタヤ王朝の親衛隊長として仕えており、アユタヤには日本人町も出来ていました。
※山田 長政(やまだ ながまさ)は、江戸時代前期にシャム(現在のタイ)の日本人町を中心に東南アジアで活躍した人物。通称は仁左衛門(にざえもん)。

 しかし、18世紀からイギリス、フランス、オランダなどの列強が、アジア諸国を植民地化してゆき、とうとうアジアにおける独立国は日本とタイだけという有様となりました。タイは、周囲を、イギリスの植民地マレー、ビルマ(現ミャンマー)と、フランスの植民地カンボジア、ベトナム、ラオスに挟まれています。このような困難な境遇にあって、領土の一部をイギリス・フランスに割譲しながら、なんとか独立を保っていたのです。

 タイは、アジアのもうひとつの独立国日本が、じりじりと追いつめられていくのを、どのような思いで見つめていたのでしょうか。 1930年代、満州国を真っ先に承認したのはタイ政府でした。満州問題で、日本が国際連盟で孤立した時、対日非難投票で唯一の棄権をし、世界を驚かせたのもタイ国です。また、いわゆるABCD包囲網で、日本が軍事物資の不足に悩んでいる時に、タイで生産される生ゴムと綿の全部を日本に供給し、多額の借款も供与してくれました。
※ ABCD包囲網(ABCDほういもう)とは、1941年に東アジアに権益を持つ国々が日本に対して行った貿易の制限に、当時の日本が付けた名称。“ABCD”とは、制限を行っていたアメリカ (America)、英国 (Britain) 、オランダ (Dutch) と、対戦国であった中華民国 (China) の頭文字を並べたもの。

 当時のアジアで、欧米列強に植民地化されずに生き残るためには、日本を助け、ともに立ち上がる事こそが唯一の道だと考えていたのです。

 昭和16年12月8日、日本は対米英開戦に踏み切りました。まもなく、当時のピブン内閣は「日タイ同盟条約」を締結し、同時に、中国国民政府の蒋介石総統に向けて「同じアジア人として日本と和を結び、米英の帝国主義的植民地政策を駆逐すべきである」と電文を送りました。
 さらに、インド人やビルマ人に対しても、祖国独立運動を促す布告をした為、タイの首都バンコクでは「自由インド独立連盟」や「ビルマ独立軍」が編成されていきました。(詳しくは当ブログ、インド・ミャンマーを知って・・を参照下さい)そして、翌年1月25日、タイ政府は、米英両国に対して宣戦布告をし、日本と共同戦線をはったのです。

 帝国主義下のアジアで独立を保ったタイは、外交上手ともいえます。盲目的に日本と共闘するばかりではありません。どの国も国益を考えて行動するように、タイ政府も心情的な共感だけで、日本と足並みを揃えた訳ではありませんでした。これは当然の事です。タイの政府内部でも、ピブンと対立するプリーディー等は、アメリカ政府の支援を受けた 在米タイ人を中心とした抗日組織「自由タイ」と接触を保つなど、二重外交を進めていました。

 特に、ミッドウェーの敗北、ガダルカナルの敗退から、日本軍の不利が明らかになってくると、タイ政府は少しずつ、日本に距離を置きはじめ、終戦後に有利な立場となるよう布石を打ち始めていったのです。

 昭和18年11月に開催された大東亜会議に、ピブン首相本人が出席するのを控えたのも、敗戦後を見据えての事といわれています。ちなみに、その代わりに出席した、タイの王子ワンワイタヤコーン殿下は、戦後、国際連合の議長を務めた人物で、殿下は日本の国連加盟を働きかけ、国際舞台への復帰に尽力してくれた人としても有名です。

 日本の敗戦が色濃くなる一方、タイ政府は、昭和19年のサイパン島陥落直後、日タイ同盟締結の責任者として、ピブン首相を追放し「自由タイ」運動を通じて、英米連合国と交渉を続けました。「日本と同盟を結んだのは弱小国としてやむを得なかったのだ」、「本心は自由タイ」運動の表明にあるように、親英米だったのだ」と表明し、切り抜けることに成功しました。

 タイは日本と共闘し、後に袂を分ける事になりましたが、それも国家の独立をかけた必死の外交政策でした。とはいえ「アジア人よ立て」、「日本と共にアジアから欧米を駆逐しよう」と呼びかけた思いは、全部が嘘だった訳ではありません。

 敗戦国として「侵略国」の烙印を押される日本、各国への膨大な戦後賠償に応える日本を見かねて手を差し伸べてくれたのは、前述のように、やはりタイだったからです。

 「日本のお蔭でアジア諸国は独立した。日本という母は難産で母胎を損なったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジア諸国民が米英と対等に話せるのは、身を殺して仁をなした日本という母のお蔭だ。」
(ククリット・プラモード元首相)

 戦後教育を受けた僕達日本人は、このお言葉の真の意味を理解することで、おのずと「日本の本当の歴史」を知ることになると思います。また、日本人として知らなければならないことだと思います。

タイ王国


 では!のちほど祝日

 星もっと詳しく知りたい人への推薦図書

 『アジアに生きる大東亜戦争』ASEAN センター/展転社
 『日タイ四百年史』西野順次郎/時事通信社
 『タイの大地とともに』西野順次郎/日経事業出版社
 『大東亜会議の真実』深田祐介/PHP新書



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日本と大東亜戦争!

 大東亜戦争とは、16世紀から19世紀もの永きにわたり、白人が世界を支配した「白人至上世界」を打ち破ったものであり「日本民族が成し遂げた、世界史に残る快挙」です。

・・大東亜戦争の意義

1. 人種差別の世界から、人種平等の世界へ。

 日本軍は、大東亜戦争開戦のあと半年間で、欧米の勢力をアジア地域から一掃した。さらに、日本軍は、占領期間の僅か2-3年の間に、アジア諸民族に教育と軍事訓練を施した。これによって、アジア諸民族は、500年近く自分達を支配していた白人と戦う勇気と方法を身に付け、最終的にアジア・アフリカの植民地は、みな独立した。

2. 白人による独占貿易の世界から、自由貿易の世界へ。

 白人は、16世紀から20世紀まで、世界の資源を独占していた。それが、大東亜戦争によって、資源を白人が独り占め出来なくなった。資源の宝庫であったアジア・アフリカの独立によって、白人が資源を独占する世界から、資源を自由に買える世界となった。

 GHQ 最高司令官 ダグラス・マッカーサー元帥
 「日本が大東亜戦争に突入したのは自衛の為であった。」
(昭和27年(1952年)5月3日の憲法記念日に)

 英国歴史学者 アーノルド・トインビー
 「第二次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大な歴史を残したといわねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去200年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかにしたことである。」
(昭和31年(1956年)10月28日 英紙「オブザーバー」)

 では!のちほど祝日


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日本が裁かれた東京裁判!


 まず始めに極東国際軍事裁判、いわゆる「東京裁判」は国際法違反であり、法律上も認められません。
 
 みなさんも既に周知の通り、東京裁判とは、戦勝国が敗戦国を一方的に裁くという、かなり異常な裁判です。戦勝連合国の機関であるGHQ等が実施した裁判ですが、当のマッカーサー(GHQ 最高司令官)がトルーマン大統領に「東京裁判は間違っていた。」と証言した事から解るように、あまりにも無茶苦茶な裁判です。
 
 大東亜戦争の責任を日本に問うのであれば、日本中を大空襲し、国際法違反にも当たる民間人の虐殺や原爆の投下を行ったアメリカが裁かれないという事はありえません。さらに、戦争を仕掛けたルーズベルトも、トルーマンも、空襲や原爆投下を実施したアメリカ軍部も実行犯のパイロットも、民間人大虐殺という重大な国際法違反をしているのですから裁かれなくてはいけません。
 また、盧溝橋事件※(ろこうきょうじけん)発生後、中国国民革命軍と停戦協定が成立していたにも関わらず、通州事件※(つうしゅうじけん)を起こした中国。
 終戦間際に火事場泥棒の様に、日ソ中立条約を違反して参戦してきて、その後は多くの日本人をシベリアに強制連行し抑留させ、多くの日本人を死に至らしめたロシア。
 法律用語で言うところの「事後法(じごほう)※」が通用するのであればキーセン※という制度自体を国家で行い、日本の初代内閣総理大臣の伊藤博文を暗殺し、平和に対する罪を犯した朝鮮もきちんと裁かれるべきです。

 そんなリンチ裁判を「有効」とする事は無理があり過ぎます。

 そもそも「東京裁判」は、法律上成立しないのです。
 大東亜戦争終結後、東京裁判・ニュルンベルク裁判・スターリンの粛正裁判と、連合国(戦勝国)が枢軸国(敗戦国)を裁く裁判が行われました。そこで、連合国側が敗戦国に対して問うた罪状は主として「平和に対する罪」と「人道に対する罪」です。しかし「平和に対する罪」については、昭和58年(1983年)に開催された「国際シンポジウム/東京裁判」の際、参加した法学者・歴史家により、第二次大戦前の国際法上、その事は認知されてはいなかったと言う見解が出されています。また「人道に対する罪」についても、そもそも「戦争」という武力による国益の衝突において、戦死者や被害が出ない方が「異常」であり、多かれ少なかれ、人的・物質的被害が生じます。また「東京裁判」が、法律上成立し得ない最大の要因は、それが「事後法」だからです。つまり「東京裁判」は、法律上不当であり、そもそも裁判として認められないのです。

 「東京裁判」で「日本無罪論」を出したパール判事は有名ですが「東京裁判」に反対していたのは彼だけではありません。敵国であるアメリカ人等からも多くの抗議が出ていたことは、佐藤和男氏著の『世界が裁く東京裁判』等でも証明されています。



佐藤和男氏著書の『世界が裁く東京裁判』は現在も発売されています。

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※盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)とは、昭和12年(1937年)7月7日に北京(北平)西南方向の盧溝橋で起きた、日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件。中国では一般的に七七事変と呼ばれる。この事件は日中戦争(支那事変)直接の導火線となった。

※通州事件(つうしゅうじけん)とは、昭和12年(1937年)7月29日に発生した事件で、「冀東防共自治政府※※」保安隊(中国人部隊)による日本軍部隊・特務機関に対する襲撃と、それに続いて起こった日本人居留民(朝鮮系日本人を含む)に対する虐殺を指す。
※※冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)とは、1935年から1938年まで中国河北省に存在した政権。

※事後法とは、行為を起こした時に、法律に抵触するとされていなかった行為に適用すべく、事後的に法律を制定すること。

※キーセン(妓生=きしょう)とは、朝鮮国に於いて、諸外国からの使者や高官の歓待や宮中内の宴会等で、楽技を披露するために準備された女性の事を指す。しかし実際のキーセンの位置付けは、芸妓を兼業とする娼婦です。


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天皇陛下ご即位20年!

 今日の産経新聞【正論】に、素晴らしい内容が記されていましたので、ご紹介します。

 ■「尊皇」の心で難局を打開したい 
 昭和は、わが国の歴史においても例を見ないほどの激動の時代だった。では平成はどうだろうか?

 日々の暮らしに精一杯のわれわれ民草は、ともすれば同時代の大きな変化に気付かないままやり過ごしてしまうものだが、後世の史家が振り返ったとき、平成は昭和と同様に、あるいはそれ以上に大きく動揺した時代だったと指摘されることになるかも知れない。
 
 先帝昭和天皇が摂政に就かれた大正10(1921)年、大陸に中国共産党が創立され、翌年その北方にソ連邦が建国された。それから68年後の平成元(1989)年、昭和天皇の崩御から1年もたたぬうちにベルリンの壁が崩壊し、欧州では共産主義の敗北というかたちで東西冷戦に一応の決着がついた。

 ≪昭和の壮挙の上に立って≫
 昭和の御代を通じて、日本は懸命に、健気(けなげ)に生きてきた。この間わが国にとっての最重要課題は共産主義の脅威からいかに国柄を守るかということだった。ソ連は建国するや否や対日工作を本格化させ、日本の支部員を指嗾(しそう)した。例の「天皇制」という耳障りな用語はコミンテルン(1932年テーゼ)の造語だが、そこには、制度なんだからいつだって改変できる、とっととやめちまえ、という含意がある。戦後、大多数の日本人は天皇とともに復興することに希望を見出したが、共産党は天皇および皇室を敵視し、野卑な言葉で攻撃した。社会党左派にもそれに同調する空気があった。

 しかし日本はこうした内外にわたる「左からの圧力」を静かに跳(は)ね返し、伝統と歴史の上に自由と民主主義を発展させるという文明史上の壮挙を成し遂げた。

 平成の御代は欧州における冷戦終結とほぼ同時に始まっている。しかし、F・フクヤマの託宣通りにはならず、歴史は終わったわけではなく、東アジアは冷戦構造を抱えたまま今日にいたっている。ベルリンの壁が崩壊する少し前に隣国中国では天安門事件が起こり、人民解放軍が自国人民を蹴散すことによって冷戦における敗北を巧妙に回避したばかりか、その後毎年二桁の軍拡を続け、産軍一体となった富国強兵策によっていつの間にか米国と並ぶ覇権国家になろうとしている。

 今年10月1日(国慶節)の建国60周年軍事パレードでは大陸間弾道弾などを、4月23日の海軍創設60周年観艦式では原子力潜水艦や水上戦闘艦などを、これでもかといわんばかりに誇示してみせた。中国の軍拡や北朝鮮の核開発の脅威にさらされるのは、まず日本である。ところがその中国に媚態(びたい)をついているのも日本である。

 冷戦後のわが国は、脱高度成長期の経済運営において試行錯誤を重ね、いささか疲弊し、現在の生活や将来に対して不満や不安をもつ国民が増えている。自民党は当事者能力の不在をさらけ出した。国民の不満と自民党の劣化に乗じて政権を奪取した新政権は東アジアの異常な状況を直視しようとせず、同盟国たる米国に対して距離を置き、中国には(自民党政権以上に)揉(も)み手をして接近しようとしている。その中国でさえ興味を失いつつある東アジア共同体構想を提起し、そこに米国を入れる入れないでフラフラと迷走し、普天間基地の移設問題では閣内の不一致をさらけ出して国民と同盟国を呆(あき)れさせている。現実の前で観念が空転しているのである。

 ≪周囲の厳しさ見えぬ人たち≫
 外交に専念していればいいのに、岡田克也外相は国会開会式における天皇陛下のお言葉について「陛下の思いが少しは入ったお言葉がいただけるような工夫を考えてほしい」と口走った。政権交代を寿ぐお言葉でも頂戴(ちょうだい)したかったのだろうか。天皇の政治利用に無神経なこの発言には、新政権の観念的かつ軽薄な体質が端的にあらわれている。

 昭和の日本には、闘うべき相手の姿がはっきりと見えていた。いくつかの判断ミスもあったが、必死にその相手と闘ってきた。平成の日本は、周囲の厳しい状況がみえていない。いや、見ようとしない。闘うことを放棄している。内部の崩壊にも気付かない、気付こうとしない。そこに苦難がある。

 そんな中で、天皇陛下は先帝のご遺徳を継承され、無私のお心で静かに祭祀(さいし)を営まれ、国家の安寧と国民の慶福をお祈りしておられる。日本人はいま、内政外交にわたって試練を迎えているが、これまでがそうであったように、これからも、天皇とともに苦難を乗り越えていかなければならない。

 和辻哲郎は「尊皇思想はわが国民の生活の根強い基調であつて、いかなる時代にもその影を没したことはない。権力を有する人たちがそれを忘れた時にも、国民は決して忘れはしなかつた」(『尊皇思想とその伝統』)と喝破したが、為政者はともかく、国民が尊皇の心を失わなければ、この難局も打開できると信じたい。(えんどう こういち)
(産経新聞【正論】より抜粋)

※和辻哲郎(わつじ てつろう、1889年3月1日 - 1960年12月26日)とは、『古寺巡礼』『風土』などの著作で知られる日本の哲学者、倫理学者、文化史家、日本思想史家。その倫理学の体系は、和辻倫理学と呼ばれる。
(Wikipediaより)

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日本人が忘れてはならない4日!

 みなさんは「自分にとって忘れてはならない日」ってありますか?

 今上天皇(現天皇陛下)は「日本人が忘れてはならない日」として、次の4日を挙げられておられます。

 6月23日  沖縄戦終結の日

 8月 6日  広島原爆の日

 8月 9日  長崎原爆の日

 8月15日  終戦の日

 
 僕達日本人にとっては、心に留めて置きたい大切な4日ですね。
 
 では!のちほど祝日


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