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天皇陛下は日本の象徴であり日本人そのものです!

中国副主席と天皇陛下

 まず始めに、天皇陛下とは日本の象徴であり、日本人そのものです。

 さて、みなさんはこの写真を見て何か感じますか?

 先日、オバマ大統領が皇居御所へ訪れた際に、天皇陛下に対する敬意を示した挨拶が成されましたが、今回は残念ながらというか想像通りの挨拶となりました。この中国副主席ですが、映像やこの写真を見る限り、天皇陛下への敬意など微塵も感じられません。いくつか感謝や礼の言葉を並べているようですが、陛下にお会いした際の挨拶を見る限り、僕にはその言葉が全く信じられません。

 天皇陛下の世界における地位について今回は説明しませんが、この副主席には一国の主席クラスでさえ、決してこの写真の様に対等に挨拶を交わす相手ではないということをよく学んでから、お会いしてほしいものです。

 また、今回の件で民主党は天皇陛下を政治利用していないと言っていますが、外国の要人が天皇陛下とお会いする際、通常では外務省→宮内庁ルートですが、今回は宮内庁に2度も拒否されたため、官邸→宮内庁というルートをとったということです。しかし、こちらのルートは明らかに指示系統であることから、誰が見ても天皇陛下を政治利用したということは明白だと思います。これは絶対に許せません怒りびっくり

 さらに、先日小沢幹事長は韓国大統領との会談で、「天皇陛下を訪韓させる」という約束をして帰ってきました。。もうここまで来ると、彼の中で天皇陛下というのは、彼の政治活動におけるひとつの駒にしか過ぎないのでしょう落ち込み

 電球日本の天皇家の歴史を知りたい方は、当ブログ「てゆうか、日本って何歳!?」 を、ご覧下さい笑いv

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天皇陛下に対する米大統領の敬意!

オバマ米大統領と天皇皇后両陛下

 みなさんはこの写真を見て何か感じますか?

 2009年11月14日、天皇皇后両陛下が来日中のオバマ米大統領をお住まいの皇居・御所に招いた際の1枚です。

 英国では、この時のオバマ大統領のお辞儀が、あまりにも深いという事で話題になっているそうです。

 その理由として「米大統領としてもっと堂々とするべきである」「みっともない」といった声があるそうですが、英国民の心の根底には先日問題になった、エリザベス女王に対する米大統領夫人の行為との比較がある様です。

ミシェル夫人とエリザベス女王

 2009年4月1日、金融サミットに出席する各国首脳らをバッキンガム宮殿に招いた女王主催の歓迎会で、オバマ米大統領とロンドンを訪問していたミシェル夫人が、握手以外で女王の身体に触れる事は「外交儀礼違反」とされているにも関わらず、エリザベス女王の肩に手を掛けたり、背中越しに手を置いた事が、同月2日付の英国各紙で話題になりました。
 過去にも、女王との接触をめぐっては、1990年代に当時のオーストラリアの首相が腕を回し、英国で批判を浴びた経緯があります。

 僕の英国人の友人も、この一件と今回の天皇陛下に対する米大統領の挨拶の比較を同様に言っていましたが、ここでひとつ正して置く必要があると思います。

 そもそも、日本の天皇家は、ヴァチカン(カトリック)が認めた、現存する唯一の皇室であり、天皇というのは、世界で2人いる最も地位の高い者です。(もう1人はローマ法王です)
 英国のエリザベス女王も、天皇陛下と同席する時は上座を譲るし、米大統領であっても、天皇陛下が訪問されれば、空港へホワイトタイで出迎えます。米大統領がこの歓迎をするのは、天皇陛下・ローマ法王・英国君主のみです。
 
 日本の天皇家は、世界で最も歴史の古い王家の血脈を男系で、今に伝えています。
 英国王室のエリザベスU世は38代目、デンマーク王室のマルガレーテU世は54代目、日本国皇室の現在の天皇陛下はなんと、125代目です。歴史が違いますびっくり

 その事を熟知しているオバマ大統領は、天皇陛下に対し敬意を表して「あたりまえの礼儀」をしただけであり、英国国民の方々の心情はお察ししますが、エリザベス女王に対するミシェル夫人の礼儀を欠いた行為と比較するのはいかがなものかと思います。

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天皇陛下とは!

 先日、テレビの街頭インタビューで「天皇陛下とは?」という質問をしていましたが、多くの人が「よくわからない」「皇居に居る人」・・と、あまりにも無知で悲しい回答が多かったです落ち込み

 僕は、天皇陛下とは、日本の象徴であり日本人そのものであると思います。
 
 理由としては、いくつかありますが、当ブログ「てゆうか、日本って何歳!?」 で記した事もその理由のひとつに挙げられます。

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天皇皇后陛下のサイパンご訪問!

 先日、天皇陛下ご即位20年の祝賀式典を観ていた時、天皇皇后両陛下が2005年にサイパンをご訪問された際の「ちょっといい話」を思い出しましたので、簡単に記してみます^^

 今から4年前の2005年6月、天皇皇后両陛下は27-28日の2日間、戦没者慰霊の為、サイパンをご訪問されました。

 終始、歓迎の場面では笑みを絶やさない天皇陛下でしたが、一度だけ表情が固まった瞬間がありました。2日目の敬老センターを訪問された時です。
 センターでは、戦争経験のある方々が、歓迎の気持ちを込め『海ゆかば』という曲を歌われました。この曲は、戦時中の国民であれば全ての人が知っている有名な曲です。その一方、1944年7月にサイパン陥落を知らせるラジオ放送の背景で流れた曲でもあります。

 みなさんご周知の通り、サイパンは日本の委任統治領でした。

 アメリカ軍は日本本土空襲の基地にする為にサイパン攻略を目指し、1944年6月15日から、激しい攻撃を開始しました。人も物資も乏しかったサイパン守備隊は、玉砕戦術を取りました。その結果、日本軍は約43000人、サイパンの民間人は約12000人が、帰らぬ人となりました。この中には、追い詰められ、北部の崖から自ら飛び降りた方もおり、その際「天皇陛下バンザイ!」と叫びながら飛び降りた事から、今でもそこは「バンザイクリフ」という地名が残っています。

 天皇皇后両陛下がその「バンザイクリフ」を訪れた時、海から強い風が吹いていました。黒のスーツに身を包んだ天皇陛下は、白の上下の皇后様の右腕を支えながら、岸壁まで歩まれました。両陛下は姿勢を正し頭を下げて、10秒以上もの間、多くの方が身を投げた海に向かって黙祷を捧げられました。 
 
 天皇陛下を迎えるサイパンでは、陛下は「日本人慰霊碑」や、多くの民間人が亡くなった「バンザイクリフ」や「スーサイドクリフ」を慰霊されると発表されていました。
 そんな中、竹島の領有権や歴史教科書の問題等で、韓国国内で非常に強い反日運動が高まっていました。そういった伏線もあり、サイパンに住む韓国人達が、韓国人戦没慰霊碑のある場所に、陛下を中傷する様な横断幕を、陛下の御訪問前に掲げたのです。
 そこは、陛下が「バンザイクリフ」ご慰霊の時に必ず通るルートになっており、そこに張られた横断幕は、嫌がおうにも陛下の目につく事になります。これには韓国と日本の複雑な歴史問題が絡んでおり、強行に撤廃を要求できず、現地の領事や日本人会もお手上げ状態で困惑していました。

 その時びっくりこの難問題を一気に解決したのが、日本統治時代を経験した、現地チャモロ人の年配女性でした。この女性(現地最大のスーパーマーケット「ジューテン」の経営者の母親)が「自分達の島で韓国人達が勝手な振る舞いをする事は許さない!」と怒り出したのです。「天皇陛下は神様であり、その神様が我々の島に来て下さるというのに、韓国人達は何と不届きな事をするのだ!」と言い放ったのです。すると、この女性の発言に他の多くのチャモロ人も同調し「陛下を中傷する様な不届きな横断幕を撤収しろ!」と騒ぎ出したのです。これには現地政府から査証を発給して貰っているという弱みを持つ韓国人達は、なす術もなく、天皇皇后両陛下のご訪問(6月27日)直前に撤収したのです。この一連の出来事、僕達日本人としては、何とも複雑な心境ではありますが、とりあえずこれで一件落着となりました。

 ご慰霊でサイパンへ訪れた天皇皇后両陛下の為に、義憤を持って立ち上がってくれた現地の方々に、僕は日本人として心から感謝をしています。 

 ちなみに電球戦地で日本兵として亡くなった朝鮮の人達は、自ら志願して日本兵になった人達です。韓国で制度的に徴兵制度が行われたのは1944年の秋からなので、この時期から徴兵されて戦地で亡くなった朝鮮の人達はいません。

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日本人が忘れてはならない4日!

 みなさんは「自分にとって忘れてはならない日」ってありますか?

 今上天皇(現天皇陛下)は「日本人が忘れてはならない日」として、次の4日を挙げられておられます。

 6月23日  沖縄戦終結の日

 8月 6日  広島原爆の日

 8月 9日  長崎原爆の日

 8月15日  終戦の日

 
 僕達日本人にとっては、心に留めて置きたい大切な4日ですね。
 
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天皇陛下ご即位20年!

 今日の産経新聞【正論】に、素晴らしい内容が記されていましたので、ご紹介します。

 ■「尊皇」の心で難局を打開したい 
 昭和は、わが国の歴史においても例を見ないほどの激動の時代だった。では平成はどうだろうか?

 日々の暮らしに精一杯のわれわれ民草は、ともすれば同時代の大きな変化に気付かないままやり過ごしてしまうものだが、後世の史家が振り返ったとき、平成は昭和と同様に、あるいはそれ以上に大きく動揺した時代だったと指摘されることになるかも知れない。
 
 先帝昭和天皇が摂政に就かれた大正10(1921)年、大陸に中国共産党が創立され、翌年その北方にソ連邦が建国された。それから68年後の平成元(1989)年、昭和天皇の崩御から1年もたたぬうちにベルリンの壁が崩壊し、欧州では共産主義の敗北というかたちで東西冷戦に一応の決着がついた。

 ≪昭和の壮挙の上に立って≫
 昭和の御代を通じて、日本は懸命に、健気(けなげ)に生きてきた。この間わが国にとっての最重要課題は共産主義の脅威からいかに国柄を守るかということだった。ソ連は建国するや否や対日工作を本格化させ、日本の支部員を指嗾(しそう)した。例の「天皇制」という耳障りな用語はコミンテルン(1932年テーゼ)の造語だが、そこには、制度なんだからいつだって改変できる、とっととやめちまえ、という含意がある。戦後、大多数の日本人は天皇とともに復興することに希望を見出したが、共産党は天皇および皇室を敵視し、野卑な言葉で攻撃した。社会党左派にもそれに同調する空気があった。

 しかし日本はこうした内外にわたる「左からの圧力」を静かに跳(は)ね返し、伝統と歴史の上に自由と民主主義を発展させるという文明史上の壮挙を成し遂げた。

 平成の御代は欧州における冷戦終結とほぼ同時に始まっている。しかし、F・フクヤマの託宣通りにはならず、歴史は終わったわけではなく、東アジアは冷戦構造を抱えたまま今日にいたっている。ベルリンの壁が崩壊する少し前に隣国中国では天安門事件が起こり、人民解放軍が自国人民を蹴散すことによって冷戦における敗北を巧妙に回避したばかりか、その後毎年二桁の軍拡を続け、産軍一体となった富国強兵策によっていつの間にか米国と並ぶ覇権国家になろうとしている。

 今年10月1日(国慶節)の建国60周年軍事パレードでは大陸間弾道弾などを、4月23日の海軍創設60周年観艦式では原子力潜水艦や水上戦闘艦などを、これでもかといわんばかりに誇示してみせた。中国の軍拡や北朝鮮の核開発の脅威にさらされるのは、まず日本である。ところがその中国に媚態(びたい)をついているのも日本である。

 冷戦後のわが国は、脱高度成長期の経済運営において試行錯誤を重ね、いささか疲弊し、現在の生活や将来に対して不満や不安をもつ国民が増えている。自民党は当事者能力の不在をさらけ出した。国民の不満と自民党の劣化に乗じて政権を奪取した新政権は東アジアの異常な状況を直視しようとせず、同盟国たる米国に対して距離を置き、中国には(自民党政権以上に)揉(も)み手をして接近しようとしている。その中国でさえ興味を失いつつある東アジア共同体構想を提起し、そこに米国を入れる入れないでフラフラと迷走し、普天間基地の移設問題では閣内の不一致をさらけ出して国民と同盟国を呆(あき)れさせている。現実の前で観念が空転しているのである。

 ≪周囲の厳しさ見えぬ人たち≫
 外交に専念していればいいのに、岡田克也外相は国会開会式における天皇陛下のお言葉について「陛下の思いが少しは入ったお言葉がいただけるような工夫を考えてほしい」と口走った。政権交代を寿ぐお言葉でも頂戴(ちょうだい)したかったのだろうか。天皇の政治利用に無神経なこの発言には、新政権の観念的かつ軽薄な体質が端的にあらわれている。

 昭和の日本には、闘うべき相手の姿がはっきりと見えていた。いくつかの判断ミスもあったが、必死にその相手と闘ってきた。平成の日本は、周囲の厳しい状況がみえていない。いや、見ようとしない。闘うことを放棄している。内部の崩壊にも気付かない、気付こうとしない。そこに苦難がある。

 そんな中で、天皇陛下は先帝のご遺徳を継承され、無私のお心で静かに祭祀(さいし)を営まれ、国家の安寧と国民の慶福をお祈りしておられる。日本人はいま、内政外交にわたって試練を迎えているが、これまでがそうであったように、これからも、天皇とともに苦難を乗り越えていかなければならない。

 和辻哲郎は「尊皇思想はわが国民の生活の根強い基調であつて、いかなる時代にもその影を没したことはない。権力を有する人たちがそれを忘れた時にも、国民は決して忘れはしなかつた」(『尊皇思想とその伝統』)と喝破したが、為政者はともかく、国民が尊皇の心を失わなければ、この難局も打開できると信じたい。(えんどう こういち)
(産経新聞【正論】より抜粋)

※和辻哲郎(わつじ てつろう、1889年3月1日 - 1960年12月26日)とは、『古寺巡礼』『風土』などの著作で知られる日本の哲学者、倫理学者、文化史家、日本思想史家。その倫理学の体系は、和辻倫理学と呼ばれる。
(Wikipediaより)

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日本が裁かれた東京裁判!


 まず始めに極東国際軍事裁判、いわゆる「東京裁判」は国際法違反であり、法律上も認められません。
 
 みなさんも既に周知の通り、東京裁判とは、戦勝国が敗戦国を一方的に裁くという、かなり異常な裁判です。戦勝連合国の機関であるGHQ等が実施した裁判ですが、当のマッカーサー(GHQ 最高司令官)がトルーマン大統領に「東京裁判は間違っていた。」と証言した事から解るように、あまりにも無茶苦茶な裁判です。
 
 大東亜戦争の責任を日本に問うのであれば、日本中を大空襲し、国際法違反にも当たる民間人の虐殺や原爆の投下を行ったアメリカが裁かれないという事はありえません。さらに、戦争を仕掛けたルーズベルトも、トルーマンも、空襲や原爆投下を実施したアメリカ軍部も実行犯のパイロットも、民間人大虐殺という重大な国際法違反をしているのですから裁かれなくてはいけません。
 また、盧溝橋事件※(ろこうきょうじけん)発生後、中国国民革命軍と停戦協定が成立していたにも関わらず、通州事件※(つうしゅうじけん)を起こした中国。
 終戦間際に火事場泥棒の様に、日ソ中立条約を違反して参戦してきて、その後は多くの日本人をシベリアに強制連行し抑留させ、多くの日本人を死に至らしめたロシア。
 法律用語で言うところの「事後法(じごほう)※」が通用するのであればキーセン※という制度自体を国家で行い、日本の初代内閣総理大臣の伊藤博文を暗殺し、平和に対する罪を犯した朝鮮もきちんと裁かれるべきです。

 そんなリンチ裁判を「有効」とする事は無理があり過ぎます。

 そもそも「東京裁判」は、法律上成立しないのです。
 大東亜戦争終結後、東京裁判・ニュルンベルク裁判・スターリンの粛正裁判と、連合国(戦勝国)が枢軸国(敗戦国)を裁く裁判が行われました。そこで、連合国側が敗戦国に対して問うた罪状は主として「平和に対する罪」と「人道に対する罪」です。しかし「平和に対する罪」については、昭和58年(1983年)に開催された「国際シンポジウム/東京裁判」の際、参加した法学者・歴史家により、第二次大戦前の国際法上、その事は認知されてはいなかったと言う見解が出されています。また「人道に対する罪」についても、そもそも「戦争」という武力による国益の衝突において、戦死者や被害が出ない方が「異常」であり、多かれ少なかれ、人的・物質的被害が生じます。また「東京裁判」が、法律上成立し得ない最大の要因は、それが「事後法」だからです。つまり「東京裁判」は、法律上不当であり、そもそも裁判として認められないのです。

 「東京裁判」で「日本無罪論」を出したパール判事は有名ですが「東京裁判」に反対していたのは彼だけではありません。敵国であるアメリカ人等からも多くの抗議が出ていたことは、佐藤和男氏著の『世界が裁く東京裁判』等でも証明されています。



佐藤和男氏著書の『世界が裁く東京裁判』は現在も発売されています。

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※盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)とは、昭和12年(1937年)7月7日に北京(北平)西南方向の盧溝橋で起きた、日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件。中国では一般的に七七事変と呼ばれる。この事件は日中戦争(支那事変)直接の導火線となった。

※通州事件(つうしゅうじけん)とは、昭和12年(1937年)7月29日に発生した事件で、「冀東防共自治政府※※」保安隊(中国人部隊)による日本軍部隊・特務機関に対する襲撃と、それに続いて起こった日本人居留民(朝鮮系日本人を含む)に対する虐殺を指す。
※※冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)とは、1935年から1938年まで中国河北省に存在した政権。

※事後法とは、行為を起こした時に、法律に抵触するとされていなかった行為に適用すべく、事後的に法律を制定すること。

※キーセン(妓生=きしょう)とは、朝鮮国に於いて、諸外国からの使者や高官の歓待や宮中内の宴会等で、楽技を披露するために準備された女性の事を指す。しかし実際のキーセンの位置付けは、芸妓を兼業とする娼婦です。


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日本と大東亜戦争!

 大東亜戦争とは、16世紀から19世紀もの永きにわたり、白人が世界を支配した「白人至上世界」を打ち破ったものであり「日本民族が成し遂げた、世界史に残る快挙」です。

・・大東亜戦争の意義

1. 人種差別の世界から、人種平等の世界へ。

 日本軍は、大東亜戦争開戦のあと半年間で、欧米の勢力をアジア地域から一掃した。さらに、日本軍は、占領期間の僅か2-3年の間に、アジア諸民族に教育と軍事訓練を施した。これによって、アジア諸民族は、500年近く自分達を支配していた白人と戦う勇気と方法を身に付け、最終的にアジア・アフリカの植民地は、みな独立した。

2. 白人による独占貿易の世界から、自由貿易の世界へ。

 白人は、16世紀から20世紀まで、世界の資源を独占していた。それが、大東亜戦争によって、資源を白人が独り占め出来なくなった。資源の宝庫であったアジア・アフリカの独立によって、白人が資源を独占する世界から、資源を自由に買える世界となった。

 GHQ 最高司令官 ダグラス・マッカーサー元帥
 「日本が大東亜戦争に突入したのは自衛の為であった。」
(昭和27年(1952年)5月3日の憲法記念日に)

 英国歴史学者 アーノルド・トインビー
 「第二次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大な歴史を残したといわねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去200年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかにしたことである。」
(昭和31年(1956年)10月28日 英紙「オブザーバー」)

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タイを知って日本を知る!

タイ王国国旗

 みなさんは象の「はな子」を知っていますか?
 
 終戦後の昭和24年、タイ政府が第ニ次大戦中に日本政府に貸し出したお金の返済交渉に、タイ使節団が来日しました。その時、彼らが見た日本は、国全体が敗戦のショックに打ちひしがれていました。使節団の団員は、口々に「こんな気の毒な日本を見ていられるか!」と言い、借金を大幅に棒引きすることを決意。さらに、日本の子供達を慰めようと、象をプレゼントしようという事になったのです。その時、日本へ贈られたメスの象が「はな子」です。平成21年(2009年)現在も、東京都三鷹市の「井の頭動物園」で元気にしています。

はな子

 第ニ次世界大戦が激しくなる中、日本の多くの動物園は、空襲で檻が破壊されると、猛獣が街に逃げ出す恐れがある事を考慮し、苦しくも猛獣を殺す事を決定します。ライオンや熊が次々と殺される中、象にも毒の入った餌を与えましたが、象は餌を吐き出してしまい、その後は口に運びませんでした。毒を注射しようにも皮膚が厚く、針が折れてしまう為、餌や水を与えるのを止め、餓死するのを待つことにしました。象は日に日に弱りながらも、餌を貰えると思い、必死に芸をする様子を見て、飼育員達は泣きながら見守ったという話は「かわいそうなぞう」という童話になって、今も語り継がれています。こういった背景をタイ使節団が知り、日本へ象の贈呈がされたといわれています。 

 さて、2002年11月に外務省から発表された「日本に関するASEAN※世論調査」によると、タイ国民の日本への好感度は89%にも上り、現在も大変な親日国のひとつであります。
※東南アジア諸国連合(ASEAN=アセアン)は、東南アジア10ヶ国( インドネシア・シンガポール・タイ・フィリピン・マレーシア・ブルネイ・ベトナム・ミャンマー・ラオス・カンボジア)の経済・社会・政治・安全保障・文化での地域協力組織。本部はインドネシアのジャカルタにある。総人口は約5億8000万人(2005年)と大きく、近年の目覚しい経済成長に拠り、欧州連合(EU)、北米自由貿易協定(NAFTA)、中国、インドと比肩する存在になりつつある。(Wikipedia参照)
 
 2007年には、日本タイ修好120年記念として、様々な催しが執り行われました。もちろん、それ以前から、日本とタイには友好の歴史がありました。17世紀には、山田長政※(1590〜1630)が600名の日本人義勇兵を率いて、アユタヤ王朝の親衛隊長として仕えており、アユタヤには日本人町も出来ていました。
※山田 長政(やまだ ながまさ)は、江戸時代前期にシャム(現在のタイ)の日本人町を中心に東南アジアで活躍した人物。通称は仁左衛門(にざえもん)。

 しかし、18世紀からイギリス、フランス、オランダなどの列強が、アジア諸国を植民地化してゆき、とうとうアジアにおける独立国は日本とタイだけという有様となりました。タイは、周囲を、イギリスの植民地マレー、ビルマ(現ミャンマー)と、フランスの植民地カンボジア、ベトナム、ラオスに挟まれています。このような困難な境遇にあって、領土の一部をイギリス・フランスに割譲しながら、なんとか独立を保っていたのです。

 タイは、アジアのもうひとつの独立国日本が、じりじりと追いつめられていくのを、どのような思いで見つめていたのでしょうか。 1930年代、満州国を真っ先に承認したのはタイ政府でした。満州問題で、日本が国際連盟で孤立した時、対日非難投票で唯一の棄権をし、世界を驚かせたのもタイ国です。また、いわゆるABCD包囲網で、日本が軍事物資の不足に悩んでいる時に、タイで生産される生ゴムと綿の全部を日本に供給し、多額の借款も供与してくれました。
※ ABCD包囲網(ABCDほういもう)とは、1941年に東アジアに権益を持つ国々が日本に対して行った貿易の制限に、当時の日本が付けた名称。“ABCD”とは、制限を行っていたアメリカ (America)、英国 (Britain) 、オランダ (Dutch) と、対戦国であった中華民国 (China) の頭文字を並べたもの。

 当時のアジアで、欧米列強に植民地化されずに生き残るためには、日本を助け、ともに立ち上がる事こそが唯一の道だと考えていたのです。

 昭和16年12月8日、日本は対米英開戦に踏み切りました。まもなく、当時のピブン内閣は「日タイ同盟条約」を締結し、同時に、中国国民政府の蒋介石総統に向けて「同じアジア人として日本と和を結び、米英の帝国主義的植民地政策を駆逐すべきである」と電文を送りました。
 さらに、インド人やビルマ人に対しても、祖国独立運動を促す布告をした為、タイの首都バンコクでは「自由インド独立連盟」や「ビルマ独立軍」が編成されていきました。(詳しくは当ブログ、インド・ミャンマーを知って・・を参照下さい)そして、翌年1月25日、タイ政府は、米英両国に対して宣戦布告をし、日本と共同戦線をはったのです。

 帝国主義下のアジアで独立を保ったタイは、外交上手ともいえます。盲目的に日本と共闘するばかりではありません。どの国も国益を考えて行動するように、タイ政府も心情的な共感だけで、日本と足並みを揃えた訳ではありませんでした。これは当然の事です。タイの政府内部でも、ピブンと対立するプリーディー等は、アメリカ政府の支援を受けた 在米タイ人を中心とした抗日組織「自由タイ」と接触を保つなど、二重外交を進めていました。

 特に、ミッドウェーの敗北、ガダルカナルの敗退から、日本軍の不利が明らかになってくると、タイ政府は少しずつ、日本に距離を置きはじめ、終戦後に有利な立場となるよう布石を打ち始めていったのです。

 昭和18年11月に開催された大東亜会議に、ピブン首相本人が出席するのを控えたのも、敗戦後を見据えての事といわれています。ちなみに、その代わりに出席した、タイの王子ワンワイタヤコーン殿下は、戦後、国際連合の議長を務めた人物で、殿下は日本の国連加盟を働きかけ、国際舞台への復帰に尽力してくれた人としても有名です。

 日本の敗戦が色濃くなる一方、タイ政府は、昭和19年のサイパン島陥落直後、日タイ同盟締結の責任者として、ピブン首相を追放し「自由タイ」運動を通じて、英米連合国と交渉を続けました。「日本と同盟を結んだのは弱小国としてやむを得なかったのだ」、「本心は自由タイ」運動の表明にあるように、親英米だったのだ」と表明し、切り抜けることに成功しました。

 タイは日本と共闘し、後に袂を分ける事になりましたが、それも国家の独立をかけた必死の外交政策でした。とはいえ「アジア人よ立て」、「日本と共にアジアから欧米を駆逐しよう」と呼びかけた思いは、全部が嘘だった訳ではありません。

 敗戦国として「侵略国」の烙印を押される日本、各国への膨大な戦後賠償に応える日本を見かねて手を差し伸べてくれたのは、前述のように、やはりタイだったからです。

 「日本のお蔭でアジア諸国は独立した。日本という母は難産で母胎を損なったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジア諸国民が米英と対等に話せるのは、身を殺して仁をなした日本という母のお蔭だ。」
(ククリット・プラモード元首相)

 戦後教育を受けた僕達日本人は、このお言葉の真の意味を理解することで、おのずと「日本の本当の歴史」を知ることになると思います。また、日本人として知らなければならないことだと思います。

タイ王国


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 星もっと詳しく知りたい人への推薦図書

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 『タイの大地とともに』西野順次郎/日経事業出版社
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インドを知って日本を知る!1

インド国旗

 「欧米は日本が侵略戦争を行ったと歴史に留めて、自らのアジア侵略の正当性を誇示する目的だったに違いない。日本の子弟が歪められた罪悪感を背負い、卑屈・退廃に流れるのを私は平然と見過ごせない。」
(ラダ・ビノード・パール極東国際軍事裁判判事)

 1945年(昭和20)8月18日、台湾の台北空港で「天皇陛下と寺内さん(寺内寿一・南方総軍総司令官)によろしく」という言葉を残して、日本と共に戦ったインドの英雄がこの世を去りました。日本の敗戦から3日後のことでした。

 その人の名はスバス・チャンドラ・ボース、インドの独立運動の指導者「ネタージ(指導者)」と呼ばれ、現在でもインドで尊敬を集めている有名な人物です。

 しかし、その彼の墓が、日本の蓮光寺というお寺にあることは、日本でもあまり知られていません。

 また、カルカッタにある彼の邸宅を改装したボース記念館では、彼の残した演説や、彼が指揮したインド国民軍の愛唱歌の入ったテープが販売されていますが、愛唱歌のなかには、なんとヒンズー語で歌われた日本の歌「愛国行進曲」が収められています。

 さらに、ボースがインド人民に向けて訴えた演説の一節をご紹介しましょう。「…大東亜戦争開始以来、歴史に較べるもののない日本軍の勝利はアジアのインド人に感銘を与え、自由獲得の戦いに参加することを可能にした。日本政府は単に自己防衛のために戦うだけでなく、英米帝国主義のアジアからの撲滅を期し、さらにインドの完全な独立を援助するものである。いまやインド国民軍は攻撃を開始し、日本軍の協力を得て、両軍は肩を並べ、共同の敵アメリカ・イギリスの連合国に対し、共同戦線を進めている。外国の侵略の軍隊をインドから駆逐しない限り、インド民衆の自由はなく、アジアの自由と安全もなく、英米帝国主義との戦争の終結もない。」(1944.3.20自由インド放送より)このボースの演説内容に驚かれる方も多いことでしょう。無理もありません。私たちの多くは、先の大戦をアメリカ・イギリスなどの自由主義・民主主義陣営と、自由を抑圧するドイツ・日本のファシズム陣営の戦いであったと教えられてきたからです。しかし、ボースはここではっきりと、アメリカとイギリスを「帝国主義者」と呼び、その「侵略の軍隊」をアジアから追い出さなければ、アジアの自由はないのだと言っています。

 このようなアジアの声を、またインドと日本の深い友好の関係を知らない日本人が多いのではないでしょうか?

 そこで、ここではインドの人々と日本人が協力して、自由と独立を勝ち取った歴史を紹介したいと思います。

 インドは17世紀初めより、ヨーロッパの植民地主義の標的となり、最終的にはイギリスのたび重なる侵略によって、ついにムガール王朝が滅ぼされ、イギリスの植民地とされてしまいました。イギリスの略奪的経済搾取は、土地の収奪、自給自足農業の破壊、当時世界一を誇ったインド綿製品の破壊にとどまらず、過酷な重税を課しました。インド民衆は食糧不足などにより、18世紀にベンガル地方で1000万人、19世紀には南インドで1500万人が犠牲になったといわれています。

 このような中、インド人に驚きと勇気を与えたのが、日露戦争(1904〜05)における日本側の勝利でした。日露戦争とは、当時は白人に支配されるのが当然と思われていた有色人種の小国日本が、白人の軍事大国ロシアに対し、大方の予想を裏切って大勝利を収めた世界史上初めての戦いです。この勝利の報は多くの有色人種に感銘を与えました。後年、インドの初代首相ジャワハルラル・ネルーは「日本が大国ロシアを破ったとき、インド全国民は非常に刺激され、大英帝国をインドから放逐すべきだという独立運動が全インドに広がったのだ。」と言っていますが、事実、この勝利をきっかけに、植民地化されていたアジアから、多くの独立運動家が日本にやってきました。彼らは独立運動を徹底的に弾圧する宗主国の追っ手をのがれて、日本にかくまわれ、白人支配者から独立する機会を狙っていたのです。

 そして、1941年(昭和16年)12月8日、日本がアメリカとイギリスに宣戦布告をすると、インド人の同志たちは「インド独立連盟」を東京で旗揚げし、翌年には東南アジア各地に散らばっていたインド独立運動家を集めてインド独立を誓う「東京会議」を開くなど、日本はインド独立闘争の拠点となりました。

 ところで、あまり知られていないことですが、この戦争で、日本が戦っていたイギリス軍の兵隊のうち、約7割は、イギリス植民地で徴発されたインド人の兵士だったのです。いわゆる「英印軍」と呼ばれたインド人兵士達でした。

 ですから、植民地化されたアジア諸国からヨーロッパ勢力、特にイギリスを追い出すためには、インド人兵士がイギリス軍兵士として、宗主国イギリスの為に戦うのを止めさせなければなりません。

 そういった経緯から、日本政府は、インドの独立を全面的に支援する為、藤原岩市少佐を中心とした、10名足らずの「F機関」という組織を作りました。

 「F機関」という名は、フジワラ・フリーダム・フレンドシップの頭文字をとって、こう呼ばれたのですが、彼ら機関員はその言葉通り、命懸けで日本とインドの共闘を訴えました。イギリス植民地マレー半島の戦場で、イギリス側に立つインド人兵士たちに「インド独立のために、日本と共にイギリスと戦おう。」と降伏を呼びかけていったのです。

 最初は半信半疑だったインド兵達も、F機関員たちが敗残兵である自分達を差別することなく、一緒のテーブルを囲んで、食事をする事に驚きを隠せませんでした。イギリス軍にいたときは、仲間同士である筈のイギリス人兵士とインド人兵士が同じ部屋で食事をすることすら考えられなかったのです。

 さらに藤原機関長は、日本軍が占領したマレー半島の治安維持を、なんと投降してきたばかりの、彼らインド人捕虜に任せたのです。先程まで、敵味方に別れて戦っていた自分達を、全面的に信頼してくれている…、この申し出にインド人兵士は驚くと同時に、大変感動したといいます。

 降伏してきたインド人兵士たちは、率先して日本軍の先頭に立ち、次々と同胞に降伏を呼びかけていきました。こうして、投降インド兵の数は、どんどん膨れ上がり、最終的には5万人というインド兵が、イギリス軍を裏切って投降してきたのです。

 ここに、インド人による、インド独立のための、インド人の軍隊「インド国民軍(INA)」が誕生しました。さて、一方、冒頭で紹介した指導者(ネタージ)、スバス・チャンドラ・ボースは、どうしていたのでしょうか?彼は、この時イギリスと敵対していたドイツに亡命し、独立運動を展開していました。しかし、ドイツ首脳はヨーロッパのことしか頭になく、しかもインドがイギリスから独立する事は、少なくとも、後150年は不可能だと考えており、ボースを落胆させてしまいます。

 ドイツでの独立闘争の可能性を断たれたボースは、日本が英印軍を組織し始めた事を知り、インド独立闘争の為の協力は日本に求めるべきだと判断して、ドイツから日本に行く事を決意します。

 そして、ついにボースは、彼の到着を待つ1万5千名のインド国民軍兵士の前に姿を現します。1943年(昭和18年)7月5日の事でした。

 この日、彼はインド国民軍兵士たちに向かって、2時間近くに及び、大演説を行いました。「同志諸君!兵士諸君!諸君の合言葉は『デリーへ!デリーへ!』である。我々の任務は、イギリス帝国最後の墓場、古都デリーのラール・キラに入城式を行う日までは終わらないのである。…我々はこれより、デリーに向かって進軍する。チェロ・デリー!(征け、デリーへ!)チェロ・デリー!(征け、デリーへ!)」

 ボースがこう叫んだとき、国民軍兵士ばかりでなく、この演説を見に来ていた、2万のインド民衆も、声を揃えて「チェロ・デリー!チェロ・デリー!」と唱和し、その場の熱狂は最高潮に達しました。

 この翌月、8月1日には日本によって、ビルマ(現ミャンマー)が独立を達成し、バー・モウが首相に就任しました。(詳しくは当ブログのビルマ編を参照。)ボースはこの独立祝典に出席し、同じくイギリスの圧政に苦しめられていた、ビルマ民衆の万歳の声を聞き、日本が独立の約束を果たした事に感銘を受けました。イギリスはインドと交わした約束を何度も破ってきたからです。第一次大戦の時にも、インドに自治を許すという餌をまいて、イギリスへの戦争協力を強いておきながら、全く果たされませんでした。その苦い経験を振り返りつつ、眼前で歓呼するビルマ民衆の姿に、ボースは近い将来のインド民衆の姿を重ね合わせていました。

 ところがこの時、既に日本軍は勢いを盛り返してきた連合軍の猛反攻に遭い、ガダルカナルからの撤退を余儀なくされるなど、戦局に不安の影が差し始めていました。

 しかし、ボースはインド国民軍の司令官に就任すると同時に、自由インド仮政府の主席となり、独立政府を組織します。そして、直ちにイギリス・アメリカに宣戦を布告したのです。

 悪化する一方の戦局を打開する為、日本軍とインド国民軍が、最も悲劇的な戦いとして名高いインパール作戦に勝負を賭けたのは、その翌年、1944年(昭和19年)3月の事でした。この戦いでは、多くの将兵が命を落とし、生き地獄だとさえ言われました。そのため、現在の歴史家の多くは、このインパール作戦を、愚かな無用の戦いであったと言います。

 しかし、本当にそうなのでしょうか?

 2に続く、、
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