2009年11月07日
タイを知って日本を知る!
タイ王国国旗
みなさんは象の「はな子」を知っていますか?
終戦後の昭和24年、タイ政府が第ニ次大戦中に日本政府に貸し出したお金の返済交渉に、タイ使節団が来日しました。その時、彼らが見た日本は、国全体が敗戦のショックに打ちひしがれていました。使節団の団員は、口々に「こんな気の毒な日本を見ていられるか!」と言い、借金を大幅に棒引きすることを決意。さらに、日本の子供達を慰めようと、象をプレゼントしようという事になったのです。その時、日本へ贈られたメスの象が「はな子」です。平成21年(2009年)現在も、東京都三鷹市の「井の頭動物園」で元気にしています。
はな子
第ニ次世界大戦が激しくなる中、日本の多くの動物園は、空襲で檻が破壊されると、猛獣が街に逃げ出す恐れがある事を考慮し、苦しくも猛獣を殺す事を決定します。ライオンや熊が次々と殺される中、象にも毒の入った餌を与えましたが、象は餌を吐き出してしまい、その後は口に運びませんでした。毒を注射しようにも皮膚が厚く、針が折れてしまう為、餌や水を与えるのを止め、餓死するのを待つことにしました。象は日に日に弱りながらも、餌を貰えると思い、必死に芸をする様子を見て、飼育員達は泣きながら見守ったという話は「かわいそうなぞう」という童話になって、今も語り継がれています。こういった背景をタイ使節団が知り、日本へ象の贈呈がされたといわれています。
さて、2002年11月に外務省から発表された「日本に関するASEAN※世論調査」によると、タイ国民の日本への好感度は89%にも上り、現在も大変な親日国のひとつであります。
※東南アジア諸国連合(ASEAN=アセアン)は、東南アジア10ヶ国( インドネシア・シンガポール・タイ・フィリピン・マレーシア・ブルネイ・ベトナム・ミャンマー・ラオス・カンボジア)の経済・社会・政治・安全保障・文化での地域協力組織。本部はインドネシアのジャカルタにある。総人口は約5億8000万人(2005年)と大きく、近年の目覚しい経済成長に拠り、欧州連合(EU)、北米自由貿易協定(NAFTA)、中国、インドと比肩する存在になりつつある。(Wikipedia参照)
2007年には、日本タイ修好120年記念として、様々な催しが執り行われました。もちろん、それ以前から、日本とタイには友好の歴史がありました。17世紀には、山田長政※(1590〜1630)が600名の日本人義勇兵を率いて、アユタヤ王朝の親衛隊長として仕えており、アユタヤには日本人町も出来ていました。
※山田 長政(やまだ ながまさ)は、江戸時代前期にシャム(現在のタイ)の日本人町を中心に東南アジアで活躍した人物。通称は仁左衛門(にざえもん)。
しかし、18世紀からイギリス、フランス、オランダなどの列強が、アジア諸国を植民地化してゆき、とうとうアジアにおける独立国は日本とタイだけという有様となりました。タイは、周囲を、イギリスの植民地マレー、ビルマ(現ミャンマー)と、フランスの植民地カンボジア、ベトナム、ラオスに挟まれています。このような困難な境遇にあって、領土の一部をイギリス・フランスに割譲しながら、なんとか独立を保っていたのです。
タイは、アジアのもうひとつの独立国日本が、じりじりと追いつめられていくのを、どのような思いで見つめていたのでしょうか。 1930年代、満州国を真っ先に承認したのはタイ政府でした。満州問題で、日本が国際連盟で孤立した時、対日非難投票で唯一の棄権をし、世界を驚かせたのもタイ国です。また、いわゆるABCD包囲網で、日本が軍事物資の不足に悩んでいる時に、タイで生産される生ゴムと綿の全部を日本に供給し、多額の借款も供与してくれました。
※ ABCD包囲網(ABCDほういもう)とは、1941年に東アジアに権益を持つ国々が日本に対して行った貿易の制限に、当時の日本が付けた名称。“ABCD”とは、制限を行っていたアメリカ (America)、英国 (Britain) 、オランダ (Dutch) と、対戦国であった中華民国 (China) の頭文字を並べたもの。
当時のアジアで、欧米列強に植民地化されずに生き残るためには、日本を助け、ともに立ち上がる事こそが唯一の道だと考えていたのです。
昭和16年12月8日、日本は対米英開戦に踏み切りました。まもなく、当時のピブン内閣は「日タイ同盟条約」を締結し、同時に、中国国民政府の蒋介石総統に向けて「同じアジア人として日本と和を結び、米英の帝国主義的植民地政策を駆逐すべきである」と電文を送りました。
さらに、インド人やビルマ人に対しても、祖国独立運動を促す布告をした為、タイの首都バンコクでは「自由インド独立連盟」や「ビルマ独立軍」が編成されていきました。(詳しくは当ブログ、インド・ミャンマーを知って・・を参照下さい)そして、翌年1月25日、タイ政府は、米英両国に対して宣戦布告をし、日本と共同戦線をはったのです。
帝国主義下のアジアで独立を保ったタイは、外交上手ともいえます。盲目的に日本と共闘するばかりではありません。どの国も国益を考えて行動するように、タイ政府も心情的な共感だけで、日本と足並みを揃えた訳ではありませんでした。これは当然の事です。タイの政府内部でも、ピブンと対立するプリーディー等は、アメリカ政府の支援を受けた 在米タイ人を中心とした抗日組織「自由タイ」と接触を保つなど、二重外交を進めていました。
特に、ミッドウェーの敗北、ガダルカナルの敗退から、日本軍の不利が明らかになってくると、タイ政府は少しずつ、日本に距離を置きはじめ、終戦後に有利な立場となるよう布石を打ち始めていったのです。
昭和18年11月に開催された大東亜会議に、ピブン首相本人が出席するのを控えたのも、敗戦後を見据えての事といわれています。ちなみに、その代わりに出席した、タイの王子ワンワイタヤコーン殿下は、戦後、国際連合の議長を務めた人物で、殿下は日本の国連加盟を働きかけ、国際舞台への復帰に尽力してくれた人としても有名です。
日本の敗戦が色濃くなる一方、タイ政府は、昭和19年のサイパン島陥落直後、日タイ同盟締結の責任者として、ピブン首相を追放し「自由タイ」運動を通じて、英米連合国と交渉を続けました。「日本と同盟を結んだのは弱小国としてやむを得なかったのだ」、「本心は自由タイ」運動の表明にあるように、親英米だったのだ」と表明し、切り抜けることに成功しました。
タイは日本と共闘し、後に袂を分ける事になりましたが、それも国家の独立をかけた必死の外交政策でした。とはいえ「アジア人よ立て」、「日本と共にアジアから欧米を駆逐しよう」と呼びかけた思いは、全部が嘘だった訳ではありません。
敗戦国として「侵略国」の烙印を押される日本、各国への膨大な戦後賠償に応える日本を見かねて手を差し伸べてくれたのは、前述のように、やはりタイだったからです。
「日本のお蔭でアジア諸国は独立した。日本という母は難産で母胎を損なったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジア諸国民が米英と対等に話せるのは、身を殺して仁をなした日本という母のお蔭だ。」
(ククリット・プラモード元首相)
戦後教育を受けた僕達日本人は、このお言葉の真の意味を理解することで、おのずと「日本の本当の歴史」を知ることになると思います。また、日本人として知らなければならないことだと思います。
タイ王国
では!のちほど
もっと詳しく知りたい人への推薦図書
『アジアに生きる大東亜戦争』ASEAN センター/展転社
『日タイ四百年史』西野順次郎/時事通信社
『タイの大地とともに』西野順次郎/日経事業出版社
『大東亜会議の真実』深田祐介/PHP新書
・・・日本の食料自給率をみんなでUPしよう
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