2009年11月03日
マレーシアを知って日本を知る!
マレーシア国旗
平成3年(1991年)12月、マレーシアのコタバルを首都とする、ケランタン州政府は、日本軍の上陸50周年を記念して、特別式典を開催。更に、戦争博物館を設立されました。その戦争博物館の館長である、ロザリー・イソハック(ケランタン州副知事)は次のように語っています。
「1991年、私達は日本のコタバル上陸50周年を祝いました。これが「ケランタン」つまり、当時のマラヤにとって意義ある出来事であったからです。ここ、コタバルは、最初の日本軍上陸地です。私は、戦争博物館の館長として記念行事を担当しましたが、多くの人々にこの重要な出来事を、永く記憶に留めて戴きたいと願っています。」
マレーシアの人々が祝う1991年から50年前といえば、昭和16年(1941年)の12月。 戦後世代の日本人にとって、昭和16年12月8日というのは「日本が戦争を始めた日」として「マイナス・イメージ」を持っている人が多いと思います。また、そこで語られるのは、日本のアジア侵略や、現地住民の虐殺といった「嘘と捏造」に洗脳された自虐討論ばかりです。そんな日本人をよそに、当のマレーシアでは日本軍の上陸を祝って記念式典が行われているのです。
昭和16年(1941年)12月、日本軍は真珠湾のアメリカ軍艦隊を攻撃すると同時に、マレーシアに上陸。その後、マレー沖のイギリス東洋艦隊に攻撃を仕掛けました。イギリスが誇る、世界最新鋭の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と、「レパルス」という2隻を、航空機爆撃で撃沈したことは、世界戦史上、前例のないことでした。この衝撃的な知らせを受けた、当時のイギリス首相チャーチルは「戦争の全期間(第2次世界大戦)を通じて、私はこれ以上の打撃を受けたことはなかった。いかに多くの努力と希望と計画が、この2隻の軍艦と共に沈んでしまったか。ベッドのなかで寝返りを打ち、身もだえする私の心にこのニュースの持つ恐ろしさが沁みこんできた。」(チャーチル『第二次大戦回顧録』)と記しています。
日本軍上陸まで、150年以上に及び、イギリスの植民地支配に苦しめられていたマレー人は、半島を進撃する日本軍を心から歓迎し、食糧の提供やジャングルの地理案内、軍需物資の運搬まで手伝いました。当時16歳だった、マレーシアのラジャー・ダト・ノンチック元上院議員は、当時を振り返りこう言います。
「私達は、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声を上げました。敗れて逃げてゆくイギリス軍を見た時に、今まで感じた事のない興奮を覚えました。日本軍は永い間、アジア各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い払い、とても白人には勝てないと諦めていたアジアの民族に、驚異の感動と自信を与えてくれました。」
日本軍はこのような現地の人々の支援もあって、60日間の激戦の末、イギリス軍のアジア最大の要塞、シンガポールを攻略します。
昭和17年(1942年)2月15日、ついにイギリス軍は降伏し、150年以上に及んだイギリスのマレー支配は終わりを告げたのです。フランスのドゴール将軍は、この日の日記に「シンガポールの陥落は、白人植民地主義の永い歴史の終焉を意味する。」と記しました。
さて、イギリス軍を追い払った後、日本軍はマレーの青年教育に力を注ぎました。1942年5月15日、シンガポールに「昭南興亜訓練所」を開設し、マレーの全ての民族から、優秀な青年を招いて心身共に訓練をしました。これは後に、マラッカの「マラヤ興亜訓練所」に引き継がれ、1000名を越える卒業生を送り出します。この卒業生の大半が、マラヤ義勇軍、マラヤ義勇隊の将校となり、マレーシアの独立と、その後の新しい国づくりの中核となりました。先のノンチック元上院議員は言います。「新国家マラヤ連邦の建国の基本策と具体策は、当時のマレー人青年の日本グループによって進められたと言っても過言ではありません。あの当時の国家計画庁本部は、昭南、マラヤの両興亜訓練所や、日本に留学した南方特別留学生の同窓会の雰囲気でした。」
また、日本の軍政部がそれまで西欧人専用だった、クラブやプール等を、肌の色に関わり無く、一般に開放する等の政策をとり「民族の平等」を掲げた事は、マレーの人々の間にあった、白人に対するコンプレックスを取り除き「自分達の祖国を自分達の国にしよう!」という独立心を目覚めさせました。
しかし、それから3年8ヶ月後の1945年8月15日、日本軍は連合軍に降伏してしまいます。その結果、イギリス軍が再びマレーを植民地にするために戻って来きました。しかし、マレー人は以前の様に従順ではありませんでした。
マレーシアのマラヤ大学の副学長のウンク・アジス氏は「日本軍がもたらした『大和魂』の様な考え方を持つことは、マレー人には独立の為にどうしても必要でした。日本軍政下の訓練の結果、日本が降伏した後、イギリス人が戻ってきて植民地時代よりも更に悪質な、独裁的制度をマレーシアに課そうとした時、マレーの人々は立ち上がったのです。」と言う。
また、マレーシア外務省情報センター所長のニック・モハマド氏は「これまで独立なんて考えた事もなかったので、徐々に植民地にされたのですが、日本の軍政下で反植民地主義に目覚めたのです。民族意識は若者に影響を与え、彼らはもはや怠けてはいませんでした。皆、立ち上がったのです。これまでになかった大変貴重な3年8ヶ月の経験でした。」と語っています。
さてみなさん、こんな話を耳にしたことはないですか?マレーに進軍した日本兵が、赤ん坊を放り投げ、銃剣で突き刺したという話。これはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』と『死の家の記録』に出てくる、トルコ兵の話を某国が、日本兵の仕業であると、捏造し、広く流布したものです。この話は、全く事実ではないと、マレーの人々も証言しています。しかし、誰が何の為に、ここまで日本兵を悪く言い立てるのでしょうか?戦後教育を受けた、多くの日本人はこの話を鵜呑みにして、今も信じているのではないでしょうか?
先の、ノンチック元上院議員は「先日、マレーシアに来られた日本のある学校の教師が『日本軍はマレー人を虐殺したに違いないから、その事実を調べに来た。』と言っており、私は大変驚きました。『日本軍はマレー人を、誰一人殺していません!』と私は答えてやりました。日本軍が殺したのは、戦闘で闘ったイギリス軍や、そのイギリス軍に協力したチャイナ系の抗日ゲリラだけです。」
マレーシアは複雑な民族構成で成り立っています。それはマレーが良質な錫(スズ)を産出することから、イギリスがこの錫を採取する為の労働力として、大量の華僑(かきょう)※(中国系)の人々を移住させたからです。華僑の人々はその後、イギリスとマレー人の間に入り込み、経済活動を掌握し、搾取階級となりました。
このような背景から、華僑の人々は日本に対して、イギリスを駆逐し、自らの利益を剥奪してしまう、日本軍の進撃を喜ぶ訳がありません。むしろその権益を守る為に、イギリスに協力して抗日ゲリラ活動を行っていたのです。また、支那事変以来、日本と本国が戦争状態にあったことも作用していたのでしょう。これらの理由から、イギリス軍の敗北と撤退を喜んだマレー人と、それを快く思わない中国の対日観には、大きな開きがあることを、充分知っておく必要があります。
※華僑(かきょう)は、中国大陸・台湾・香港・マカオ以外の国家・地域に移住しながらも、中華人民共和国の国籍を持つ漢民族を指す。
こうした植民地時代からの華僑の経済独占は戦後になっても続き、経済進出を閉ざされた、マレー人と華僑との民族間対立は、時として多数の国民の血を流すことさえありました(1969年の5.13事件等)。
華僑の人々は今も、戦争中に日本が行った華僑の利益抑制や、マレー人に機会を与えようとしたことを酷く憎み、「日本軍は残虐であった」という、数々の「嘘と捏造」を流布し続けています。しかし、本来のマレー人は冒頭で紹介したように、決して反日民族ではありません。むしろ親日民族であり、日本軍の上陸を意義ある事として、今でも都度、記念行事を行っているのです。
正しい歴史を知らないと、この学校教師の様に、世界で恥ずかしい思いをしますね。
マレーシア
では!のちほど
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