2020年12月22日
ドラゴン・スープレックス
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藤波辰爾の代名詞といえばなんといってもドラゴン・スープレックスでしょう。今の選手の方が綺麗にブリッジも出来るのでしょうが、インパクトは藤波選手が一番です。
入場曲のドラゴン・スープレックスのレコードですが、ジャケット写真が何故ドロップキックなのでしょうか。
本来のドラゴン・スープレックスはこれです。
受け身が取れないため対戦相手からクレームも多かったと聞きます。
ヘビー級に転向してからは大型選手には仕掛けにくく次第に減っていき、腰を痛めてからは完全にフルネルソンの前フリだけになってしまいました。
藤波選手は大分の中学卒業後に自動車整備工場に就職したもののレスラーになることを諦めきれず、魁勝司(北沢幹之)に直談判し日本プロレスの門を叩いています。オーディションなどない時代なのでスカウトかツてを頼るしか術がありません。猪木が日本プロレスを追放された翌日に猪木を頼り夜逃げし、翌72年の新日本プロレス旗揚げに参加します。
74年にカール・ゴッチ杯(今のヤングライオン杯みたいなもの)を制し、ドイツ→アメリカと遠征。フロリダのゴッチ道場でその後の基礎が出来上がります。藤波は入門当時は線が細く、かなり痩せていました。ジュニアで頭角を現す頃になって筋肉がつき彫刻のような肉体になりました。
その後はヘビー級に転向し体重の軽さに悩んだと思いますが。
長州力が「藤波はエリートで俺は雑草」と言ったことがありますが、ミュンヘン五輪に出場後に新日に入団した長州の方が余程エリートです。
藤波選手は一時期タレント活動を中心にしていたこともあり、NHKの昼番組でどこかの農家にロケに行き炊き込みご飯をご馳走になるのですが、「お母さん、僕大盛りでお願いします!」と大盛りによそってもらい、一口食べて「美味い!」と一言叫んですぐに茶碗をテーブルに置いたのは笑いました。
また、藤波選手は城マニアでもあり、「藤波城」を建てたくて工務店の見積もりを依頼したところ、100億円と提示されたことがあります。
今でも建てたい願望はあるとか。固定資産税ハンパない。。。。。
ドラゴンスープレックスのリンク貼っておきます。
https://m.youtube.com/watch?v=a24DTzYsTKY
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