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2012年01月30日

A8キャンパス アフィリエイト 初級講座

先日、A8キャンパス アフィリエイト 初級講座にお伺いしました。

講師は、株式会社しくみラボの田村啓さんでした。

アフィリエイトにおいて、ターゲットを絞るということが大切とのお話でした。

ターゲットがよく分からないサイトは売れないとのことでした。

売り上げが欲しいと思う時に、つい、「何を売るか」「どうやって売るか」に目を奪われがちですが、実は、最初に考えなければならないのは、「誰に売るか」ということです。

順番としては、「誰に売るか」→「何を売るか」→「どうやって売るか」となります。

アフィリエイトも全く同じなのですね。

ターゲットを絞るとは、「誰に売るか」をはっきりさせることといえるでしょう。

「何を売るか」は、「もの」や「サービス」を対象としています。

「どうやって売るか」は、「方法」の問題といえます。

「誰に売るか」は、「人」に関わります。

「もの」や「方法」以前に「人」に目を向けることが大切ですね。

「人」をないがしろにしては、アフィリエイトに限らず、何事もうまくいかないでしょう。

「人」を大切にした後、「何を売るか」を考えますが、これはサイト運営者の興味のあることがメインとなるでしょう。

興味のないことを紹介したり、記事にしたりすることはないでしょうから、自ずと「何を売るか」は絞られてくるでしょう。

その次は、「どうやって売るか」になります。

田村さんのお話によると、500記事は必要ということです。

ターゲットが絞られていれば100記事に至っていなくても売れるとのことでした。

「どうやって売るか」とは、「方法」のことですが、特別な「方法」があるのではなく、しなければならない地道なことを少しずつでも行っていくという当たり前の「方法」が本当の「方法」であり、「どうやって売るか」の極意といえましょう。

とにかく記事を書く、ということですね。

記事を書いていくにしても、ライバルが多い分野では、競争が激しく、アフィリエイト成果は思うように上がらないとのことでした。

ライバルが少ない分野を見つけることも大切とのお話でした。

言ってみれば、人と同じことをしていても仕方がないということですね。

常に自分自身のアンテナを張っておき、新しいアイデアを生み出す創造性が必要ですね。

また、田村さんは、サイトにアクセスする人には2種類あるとのお話をされていました。

ひとつは「知りたい人」のアクセスであり、もうひとつは「買いたい人」のアクセスです。

「知りたい人」はサイトの記事を読んで情報を得てしまえば去っていくので、売り上げにはつながらない。

「買いたい人」は、サイトの記事を読んでその対象となる「もの」を買い、売り上げにつながる、とのお話でした。

アクセス数が増えるとうれしくなりますが、アフィリエイトの成果を重要視する場合、単にアクセス数が多くても意味がないようです。

「買いたい人」のアクセス数がポイントということですね。

アフィリエイト成果が上がる場合でも、報酬単価が少なければ、いくら売れても報酬総額は少なく、報酬単価は重要とのお話もありました。

いい大人が50円程度の報酬で喜んでも仕方がなく、報酬単価としては、500円から1000円を目指す必要があるとの指摘もありました。

報酬単価に関しては、ビジネスの側面からシビアに考えるべきでしょうね。

あまりにも報酬単価が少ないものには注意しておく必要があるでしょう。
posted by lawful at 22:30| ビジネス

2012年01月28日

一冊の本を十回読む

「ある程度よい本であれば十回読んだ人から変わっていく」(齋藤孝『〈貧乏〉のススメ』ミシマ社 83頁)

著者が指摘するように、然るべき本を繰り返し読んでいる人は、何かが違うものです。

その何かははっきりしたものではありませんが、にじみ出てくるものです。

言葉として捉えられるものというよりは、感覚的に捉えられるものです。

このにじみ出る何ものかを得るためには、年季が必要です。

そのため、若い人からこのにじみ出る何ものかが放出されることはありません。

やはり、それなりの年齢になって出てくるものです。

しかし、年寄りになっても何も出てこない人がほとんどでしょう。

考えてみれば、然るべき書を十回読むというのは、意外と難しい。

まず、然るべき書を見つけるのが困難です。

また、然るべき書が見つかっても、二回、三回読むのが精一杯といったところでしょう。

五回も読むということすら、ほとんど考えられないといってもいいかもしれません。

十回となると、然るべき書と読者とが一体化した段階に至っているといえるでしょう。

「しっかりした人の本を何回も読む。そうすると、それが柱になる。一回、二回読むのと、五回、十回読むのとでは、吸収量が全くちがう。暗記すればもっと強い」(同書 84頁)

著者は、「暗記」の次元にまで言及されています。

然るべき書を暗記するぐらい読み込むことにより、然るべき書を使いこなし、活用できる次元にもっていくことが理想とされています。

単なる読書では、情報として知識を得ることができても、自分自身の人生、生活において、その情報なり知識なりを使いこなし、活用できているかといえば、ほとんどできていないというのが実情です。

情報、知識は多いが、実生活で使えない、では話にならないでしょう。

情報、知識が少なくても、実生活で使えるという状態であれば、価値のある豊かな人生、生活となり得ます。

ただし、十回読む書は、十回読んでも飽きのこない豊潤な内容を持っていなければなりません。

「何度も反復することでそこに書かれているメンタリティを吸収して、自分の骨格にしてしまいたい。そういう心地よさがあるからこそ十回もくりかえすのだ」(同書 84頁)

十回読むことは努力でどうにかなりますが、自分自身の骨格にまでしたいと思わせる然るべき書との出会いがあるかどうかは、もう、運としかいいようがありません。

運がなければ、努力もできないというのが現実ではないでしょうか。

然るべき書を探す努力はしなければなりませんが、必ず出会えるという保証はありません。

然るべき書との出会いがあった場合は、十回以上も読むという努力をすればよいだけです。

努力は重要であり、努力がなければなりませんが、それ以上に、その人の持っている運というものが大きな影響力を持っていることを認識しなければなりません。

その点、著者は、然るべき書を持っている人ですから、運のある人といえます。

著者と同様に然るべき書を持つ人間になりたいものですね。

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2012年01月22日

「腹六分」の人間関係(十界論の観点から)

「言うなれば他人さまの余計なことに首を突っ込まない。「腹六分」の人づき合いがいいということなのです。たとえ親、夫婦、兄弟、恋人同士でも自分以外の人間とつき合う時は「腹六分」にすべきなのです」(美輪明宏『世なおしトークあれこれ』PARCO出版 143頁)

美輪さんは、「腹八分」ならぬ「腹六分」の人間関係をすすめています。

ベタベタした人間関係は、いい人間関係にならないと言われています。

相手の悪いところは見ない、言わない、聞かないようにすべきとのことです。

「腹六分」といってもどのように捉えていけばいいのか。

いろいろ考えてみたところ、十界論を使うのがよいと思われます。

つまり、相手の仏界、菩薩界、縁覚界、声聞界、天界、人界の六つと付き合い、相手の地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界の四つとは付き合わないということです。

相手の素晴らしい状態(仏界)、人のために尽くす状態(菩薩界)、芸術的感性に優れた状態(縁覚界)、学識のある状態(声聞界)、喜んでいる状態(天界)、冷静な平穏な状態(人界)を努めて観るようにし、その部分と接点を持つようにすることです。

反対に、相手の怒った状態(地獄界)、欲望まみれの状態(餓鬼界)、愚かな状態(畜生界)、むやみに喧嘩をする状態(修羅界)は、確認し、認識しつつも、それらに振り回されないという生き方が求められます。

「腹六分」といっても、どの六分を取ればよいのか、どの四分を除外すればよいのか、上記のとおり、相手の生命状態を基準に考えれば、はっきりします。

これは、自分自身にもあてはまります。

自分の生命状態を努めて仏界、菩薩界、縁覚界、声聞界、天界、人界の状態にしておき、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界の生命状態が出てきた場合、注意をし、改善に努めるということですね。

どの人間にも十界があるということですので、相手のよい六分と付き合うことができますから、一応、理論上は、どの人間とも付き合うことができるといえます。

ただし、実際には、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界が身に付いてしまっている人々が多く、付き合う人を吟味する必要性は高いですね。

誰とでも付き合うことは困難です。

やはり、選択ということが求められます。

類は友を呼ぶということですので、邪な人々から身をかわしながら、自分自身は良い生命状態になるよう精進することが肝要です。

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2012年01月18日

ピーター・ドラッカー『経営者の条件』KNOW THY TIME

ピーター・ドラッカー『経営者の条件』第2章「汝の時間を知れ」に重要な言葉があります。

まずは、原文で確認してみましょう。

The only way he can get to the important things is by pushing on others anything that can be done by them at all.

続いて翻訳を見てみましょう。

「重要なことに取り組めるようになるためには、ほかの人間にできることは、ほかの人間にやってもらうしか方法はない」(『経営者の条件』上田惇生訳 ダイヤモンド社 1995年)

昔の翻訳も見てみましょう。

「彼自身が重要な事柄であると考えているような問題に手をつけられるようにするためには、とにかく他人に頼んで、なんとか他人にやってもらえるような事柄はすべて他人にやらせるという以外に方法はないのである」(『経営者の条件』野田一夫・川村欣也訳 ダイヤモンド社 1966年)

ドラッカーは、自分自身が本来的にしなければならない事柄、仕事をすることなく、そうでない事柄、仕事をしてしまい時間を失ってしまう愚を戒めています。

あれもこれもと手を出しすぎると何もなすことができません。

時間は有限であるだけでなく、僅少であるということです。

しかし、時間が無限で、多大であると勘違いしてしまいがちです。

ほかの人にやってもらう仕事として、単純な仕事、簡単な仕事が考えられます。

確かにこのような仕事をしてもらえば、自分自身が本来行うべき仕事に時間を充てることができます。

しかし、単純な仕事、簡単な仕事よりも、より一層、時間を獲得できるのは、複雑な仕事、困難な仕事であると思われます。つまり、専門家が行うような仕事です。

例えば、中小企業の経営者の場合、本来すべき仕事は自らの事業そのものです。

税務申告であれば税理士、会計関連が必要であれば公認会計士、法律の問題が生じた場合は弁護士に仕事をしてもらえば、経営者は自分の仕事に専念でき、そのための時間が確保できます。

考えてみれば、税理士、公認会計士、弁護士の業務を行うには相当の勉強量が必要であり、試験も難関です。

中小企業の経営者が生半可な知識を得たところで使い物になりません。

さっさと税理士、公認会計士、弁護士にお金を払って頼んだ方が得策です。

中途半端に知識をひけらかす癖のある経営者は大切な時間を奪われる危険性があります。

また、専門家にお金を支払うことを躊躇する意味のないケチな根性は、時間という取り返しのできない財産を失うことにつながります。

注意しなければなりません。

どのような立場であれ、自分が本来的にしなければならないことを明確にすると共に、他人に頼めることはどんどん他人に頼む(もちろん対価としての金員を払って)ことですね。

それでも、時間は足りないというのがドラッカーの指摘です。

時間を大切にしたいものです。

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2012年01月15日

『ゲーテとベートーヴェン』

「われわれは今、この二人から学びうるものが限りなくあるのを感じる。
 ベートーヴェンは、きびしい運命を克服しながら常に他者への共感を失わず、ついにはそれを地球大にまで拡げ、しかも一方では自分自身への誠実さを貫いて、「神と対座する姿勢」を失わなかった。彼は文筆家ではなかったから、自分の人生の軌跡をしるしたりはしなかった。しかしわれわれがその作品、とくに後期の作品群に静かに耳を澄ますならば、そこから彼が到達した世界の奥深さと人生の哲学が、無言のメッセージとして伝わってくるはずだ。
 ゲーテはといえば、同じ天才でもベートーヴェンのように、はじめから圧倒的な精神の強靭を与えられていたわけではなかったようだ。しかし、自分の弱さを自覚し、それを自分で訓化し統御しつつ、彼のいう自己形成をとげていった。ゲーテが偉大さという栄光をまといながら、われわれ普通人にとっても自己形成のモデルとなりうる理由は、そこにある」(青木やよひ『ゲーテとベートーヴェン』平凡社 231頁〜232頁)

ゲーテとベートーヴェンとは、二人とも天才とも巨匠ともいわれる人物です。

同時代に生きており、両者は、実際に会ったことがあり、互いの才能を認め合っていたようです。

著者の言うようにゲーテとベートーヴェンから学ぶべきものは多くあります。

しかし、両者とも作品数は多く、すべての作品を把握するのは困難です。

そこで、両者の代表作を中心として、学びながら、親しんでいきたいと思います。

ベートーヴェンでいえば、「第九」が代表作といえます。

さまざまな「第九」を聴いていく中でベートーヴェンの精神に触れていきたいと思います。

また、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」も個人的には好きでよく聴いています。

好きなものから入っていくというのがよいでしょうね。

勉強だ、教養だといって、あまり好きでもないものを無理して聴いても意味、価値はないでしょう。

また、すべての作品が素晴らしいというわけでもありません。

専門家になるわけではありませんので、好きかどうかという判断基準は意外と重要です。

ゲーテでいえば、『ファウスト』が代表作といえます。

長大な戯曲であり、読むのは大変ですが、一読する価値があります。

しかし、第二部はやや冗漫な感じがしますから、あまり好みでない場合は無理して読む必要はないかもしれません。

私が『ファウスト』を一読したときは、とにかく名作といわれている『ファウスト』を読み終えるのだという一心でした。

特に第二部はまどろっこしかった記憶があります。

それでも読み終えたのは、教養主義といった感じがあったからでしょう。

その後、ところどころ読み返すと、違った発見があったりして、やはり、名作なのだと感じ入ったものです。

あとは、詩、格言を集めた文庫もありますので、身近にゲーテの文学に触れることができます。

ゲーテが自ら書いたものではありませんが、エッカーマンの『ゲーテとの対話』は、ゲーテの発言をまとめており、ゲーテの人となりが分かります。

ゲーテとベートーヴェンから学ぶといっても、両巨人の作品から学ぶほかはなく、直接、作品に触れていきながら、時折、解説書を読むというのがよいでしょう。
posted by lawful at 22:11| 音楽

『一瞬の出会いでチャンスをつかんでいる人の 顔グセの法則』

「拍手によって相手をさらに幸せにしてあげたかったら、あなたの顔の前で拍手をすることです。
 そのとき、目のあたりまで手をあげて拍手をします。そのときのあなたの顔がニコニコ笑顔であれば、楽しんでいる気持ちを伝えられますし、涙顔であれば、よほど感動したと伝えることができるでしょう。
 とにかく、感情を顔に出し、その顔を拍手に添える、ということが大切です」(重田みゆき『一瞬の出会いでチャンスをつかんでいる人の 顔グセの法則』ダイヤモンド社 138頁)

本書では、笑顔の重要性、効用について縷縷説明されています。

また、笑顔だけでなく拍手の重要性、効用についても述べられています。

芝居を観たときなど、以前は漫然と拍手していたように思います。

胸の前で拍手していました。何となくの拍手といった感じでした。

顔の前、目のあたりまで手をあげて拍手するよう心掛けたところ、自分自身の感情を伴う拍手になっていることに気付きました。

素晴らしい舞台のとき、その素晴らしさに感動する気持ちと一緒に拍手していたのですね。

一方、つまらない舞台、間延びした舞台の場合、感動はありませんから、拍手しなくなりました。

というよりは、できなくなりました。

以前では、何となくの拍手ですから、漫然と拍手していましたが、感情、感動がない場合、拍手という行動も起こり得ません。

本書は、相手に好印象を与える笑顔、拍手についての本ですが、自分自身の感情、感動をしっかりと認識するための本ともいえそうです。
posted by lawful at 20:19| 雑感

2012年01月13日

『知ってるようで知らない ベートーヴェンおもしろ雑学事典』

ベートーヴェンの宗教観について、『知ってるようで知らない ベートーヴェンおもしろ雑学事典』(ヤマハミュージックメディア)では、以下のように説明しています。

「宗派などにはこだわらず、広範な知識を懸命に吸収することによって、理性に基づく合理的な神のイメージを抱こうと努めていたのでしょう」(同書 100頁)

ベートーヴェンは、カトリックではありましたが、プロテスタント、古代インドの宗教にも関心があり、勉強熱心であったようです。

ベートーヴェンは、「教会」という空間に留まらない宗教観を持っていたと思われます。

世界的な、もっと言えば宇宙的な規模で神を捉えていたのでしょう。

それ故、西洋人という範疇に留まらず、日本人の範疇にまで届く音楽を創造し得たと思われます。

キリスト教圏でない日本においてベートーヴェンが好まれる理由は、カトリックやキリスト教という枠組みをはみ出しているからともいえ、西洋人向けの音楽という枠組みではなく全世界の人々向けの音楽であったからといえるでしょう。

「第九」第四楽章で合唱されるシラーの「歓喜に寄す」の神も、「教会」や西洋という次元を超え、星空のかなたという次元で捉えられており、本来的な宗教性が見て取れます。

ベートーヴェンがこのシラーの詩に曲をつけようと思ったのも同様の宗教観があったからでしょう。

日本においては、仏教、神道が大きな影響力を持っていますが、このような宗教性、宗教観であれば、宗派という枠組みを超え、ベートーヴェンの音楽は違和感なく日本人に溶け込むことができます。

宗派の違いは違いとして正確に理解しつつも、自らの宗教性、宗教観においては、宗派に囚われないあり方が求められます。

ベートーヴェンの音楽には囚われのないあり方が感じられ、人々から親しまれているといえるでしょう。
posted by lawful at 22:26| 音楽

2012年01月07日

バートランド・ラッセル History of Western Philosophy

バートランド・ラッセル(1872〜1970)のHistory of Western Philosophy ソクラテスの章において、興味深い指摘がなされています。まずは、原文で確認してみましょう

A stupid man’s report of what a clever man says is never accurate, because he unconsciously translates what he hears into something that he can understand.

続いて翻訳を見てみましょう。

「りこうなひとのいったことに関する愚かなひとの記録は、決して正確ではない。なぜならそのひとは、自分の聞いたことを自分が理解しうる何物かに、無意識のうちに反訳してしまうからである」(『西洋哲学史』市井三郎訳 みすず書房)

読書をする際、著者の真意を把握することや文脈を捉えた上で適切、正確に解釈することは、思いの外難しいものと思われます。

つい、自分勝手な間違った読み方をする危険性があります。

特に古典の場合、著者が知的巨人であることがほとんどであり、内容も豊潤であるため、適切に把握するだけでも一苦労です。

実のところ、自分自身が分かる範囲でしか読み込めないのが現状でしょう。

それ故、古典は繰り返して読む必要があります。

改めて読むたびに新たな発見があります。

このことは然るべき書籍の場合、繰り返し読まなければ読んだことにならず、また、何度読んでも終わりがないということを意味します。

一度だけ読んで、読んだ気になってしまう愚は避けなければなりません。

世の賢明な人々を観察してみると、重要な古典を繰り返し読んでいる人が多いように思われます。

あれもこれもとたくさん読むことも大切ですが、自分自身にとって重要な古典を大切にしている人の方が本来の読書家といえるでしょう。

たくさん本を読むといっても、世の中の書籍のほんの一部しか読むことができません。

いくら、幅を広げようとしても限界があります。

いたずらに量を競うよりは、量を大切にしつつも、質を大切にしたいところです。

重要な古典を自分自身の軸として、その軸を太く強くしなやかにしておきたいですね。

その上で、自分自身の軸にその他たくさんの書籍を有機的に絡めていくような意識で読書していきたいですね。

ラッセルの指摘を参考に、愚者の記録、報告には気を付けて、賢明な人の記録、報告に接するよう心掛けたいものです。

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トニー・ブレア「私の履歴書」 リーダー選び

「私は指導者のポストはなにがしかの気迫を持って獲得しなければならないと感じていた。機が熟したときではなくつかみとるのだ。年功序列のリーダー選びは最悪だ」(トニー・ブレア「私の履歴書」E 日本経済新聞 平成24年1月7日付)

この発言の通り、トニー・ブレアは、43歳でイギリス首相になっています。

順番を待つのではなく、自ら獲得するという姿勢です。

特に、国のリーダーには、トニー・ブレアのような姿勢が求められます。

マキァヴェッリが「他人に勢力を得させる原因を作る者は自ら滅びる」(『君主論』佐々木毅訳 講談社学術文庫 第3章)と厳しく言うように、自分自身が責任を持って勢力なりポストを得ていかなければなりません。

人任せでは自分の出番が来る前に排除されてしまいます。

トニー・ブレアがこのマキァヴェッリの言葉を意識していたかどうかは分かりませんが、いずれにしても、トニー・ブレアの行動は、マキァヴェッリが注意した点を忠実に守っています。

政治の世界は、子供の遊びではないわけですから、マキァヴェッリのような冷徹な視点及び冷静な行動は絶対に必要です。

年功序列でリーダーを選んでよい組織であれば、それでよいでしょうが、国家レベルの政治の世界においては、外国との壮絶な交渉もあり、年功序列のリーダー選びで良いリーダーを選ぶのは無理があるように思えます。

その時に応じたリーダーを選ぶという姿勢でなければなりません。

このことは、若ければよいということを意味せず、場合によっては年配者にリーダーを任せるという選択肢を残しています。

いろいろなリーダーのパターンを許容する国民であれば、時機に適ったリーダーを得ることができるでしょう。

あまり短絡的にならず、政治を観察していきたいものです。

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2012年01月05日

岡本太郎 『川崎市岡本太郎美術館所蔵作品集 TARO』

岡本太郎の作品には、油彩、版画・ドローイング、彫刻、陶磁・レリーフ、インダストリアルデザイン、写真、どれをとっても圧倒的な存在感があります。

原色の鮮やかさ、造形の美しさ、作品から放たれる臨場感、他の芸術家とは違う力強さがあります。

「太陽の塔」は、あまりにも有名ですが、大阪に行かない限り実物を観ることはできません。

子供のころ観たことがありますが、それぎりです。

展覧会に展示されているのは模型ですが、模型であっても存在感は抜群です。

見事な造形にも驚かされ見入ってしまいます。

なかなかその場から離れることができず、作品そのものに磁力があるようです。

「午後の日」は、かわいらしい作品であり、ほっとさせてくれる作品です。

愛らしさが感じられます。他の作品では激しさが強調されていますが、「午後の日」に関しては、岡本太郎の優しさを感じることができます。

「かつて、すぐれた美術品、芸術作品といえば極めて稀なものであり、だからこそ尊いと考えられた。そのような希少価値としての芸術は当然、少数者の専用物であり、嫉妬ぶかく秘められることによって、なおさら非本質的に貴重視されていたのである。だがこれからの芸術はシネマ、ラジオ、テレビジョンに見られる如く、却って極めて大量に生産され、ひろく一般の身近にふれるものこそ価値がある」(『川崎市岡本太郎美術館所蔵作品集 TARO』二玄社 85頁)

この岡本太郎の指摘には、ハッとさせられます。

確かに、少ないから貴重というのは、その通りですが、いたずらに貴重視することと芸術の価値そのものとは、実のところ、何の関わりもありません。

量が多かろうが少なかろうが価値ある芸術は価値があると判断すればよいですし、岡本太郎の言うように、多くの人々に提供される芸術こそ価値があるとの視点は重要です。

希少価値をありがたがるのは経済の側面からすれば、その通りですが、芸術の側面からすれば非本質的であり、どうでもよいことです。

岡本太郎は、芸術作品だけでなく、多くの文章、言葉も残しています。

作品そのもの及び言葉により、本質的な芸術とは何かを教えてくれる人です。

言葉にも価値がある画家、書道家、彫刻家、陶芸家、デザイナー、写真家は、ほとんどいないと思われます。

その点、岡本太郎は、作品及び言葉を含め、存在そのものが芸術でありながら、また、その芸術すらも超越している本来的な人間を体現している人ともいえるでしょう。

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