「ある程度よい本であれば十回読んだ人から変わっていく」(齋藤孝『〈貧乏〉のススメ』ミシマ社 83頁)
著者が指摘するように、然るべき本を繰り返し読んでいる人は、何かが違うものです。
その何かははっきりしたものではありませんが、にじみ出てくるものです。
言葉として捉えられるものというよりは、感覚的に捉えられるものです。
このにじみ出る何ものかを得るためには、年季が必要です。
そのため、若い人からこのにじみ出る何ものかが放出されることはありません。
やはり、それなりの年齢になって出てくるものです。
しかし、年寄りになっても何も出てこない人がほとんどでしょう。
考えてみれば、然るべき書を十回読むというのは、意外と難しい。
まず、然るべき書を見つけるのが困難です。
また、然るべき書が見つかっても、二回、三回読むのが精一杯といったところでしょう。
五回も読むということすら、ほとんど考えられないといってもいいかもしれません。
十回となると、然るべき書と読者とが一体化した段階に至っているといえるでしょう。
「しっかりした人の本を何回も読む。そうすると、それが柱になる。一回、二回読むのと、五回、十回読むのとでは、吸収量が全くちがう。暗記すればもっと強い」(同書 84頁)
著者は、「暗記」の次元にまで言及されています。
然るべき書を暗記するぐらい読み込むことにより、然るべき書を使いこなし、活用できる次元にもっていくことが理想とされています。
単なる読書では、情報として知識を得ることができても、自分自身の人生、生活において、その情報なり知識なりを使いこなし、活用できているかといえば、ほとんどできていないというのが実情です。
情報、知識は多いが、実生活で使えない、では話にならないでしょう。
情報、知識が少なくても、実生活で使えるという状態であれば、価値のある豊かな人生、生活となり得ます。
ただし、十回読む書は、十回読んでも飽きのこない豊潤な内容を持っていなければなりません。
「何度も反復することでそこに書かれているメンタリティを吸収して、自分の骨格にしてしまいたい。そういう心地よさがあるからこそ十回もくりかえすのだ」(同書 84頁)
十回読むことは努力でどうにかなりますが、自分自身の骨格にまでしたいと思わせる然るべき書との出会いがあるかどうかは、もう、運としかいいようがありません。
運がなければ、努力もできないというのが現実ではないでしょうか。
然るべき書を探す努力はしなければなりませんが、必ず出会えるという保証はありません。
然るべき書との出会いがあった場合は、十回以上も読むという努力をすればよいだけです。
努力は重要であり、努力がなければなりませんが、それ以上に、その人の持っている運というものが大きな影響力を持っていることを認識しなければなりません。
その点、著者は、然るべき書を持っている人ですから、運のある人といえます。
著者と同様に然るべき書を持つ人間になりたいものですね。