岡本太郎の作品には、油彩、版画・ドローイング、彫刻、陶磁・レリーフ、インダストリアルデザイン、写真、どれをとっても圧倒的な存在感があります。
原色の鮮やかさ、造形の美しさ、作品から放たれる臨場感、他の芸術家とは違う力強さがあります。
「太陽の塔」は、あまりにも有名ですが、大阪に行かない限り実物を観ることはできません。
子供のころ観たことがありますが、それぎりです。
展覧会に展示されているのは模型ですが、模型であっても存在感は抜群です。
見事な造形にも驚かされ見入ってしまいます。
なかなかその場から離れることができず、作品そのものに磁力があるようです。
「午後の日」は、かわいらしい作品であり、ほっとさせてくれる作品です。
愛らしさが感じられます。他の作品では激しさが強調されていますが、「午後の日」に関しては、岡本太郎の優しさを感じることができます。
「かつて、すぐれた美術品、芸術作品といえば極めて稀なものであり、だからこそ尊いと考えられた。そのような希少価値としての芸術は当然、少数者の専用物であり、嫉妬ぶかく秘められることによって、なおさら非本質的に貴重視されていたのである。だがこれからの芸術はシネマ、ラジオ、テレビジョンに見られる如く、却って極めて大量に生産され、ひろく一般の身近にふれるものこそ価値がある」(『川崎市岡本太郎美術館所蔵作品集 TARO』二玄社 85頁)
この岡本太郎の指摘には、ハッとさせられます。
確かに、少ないから貴重というのは、その通りですが、いたずらに貴重視することと芸術の価値そのものとは、実のところ、何の関わりもありません。
量が多かろうが少なかろうが価値ある芸術は価値があると判断すればよいですし、岡本太郎の言うように、多くの人々に提供される芸術こそ価値があるとの視点は重要です。
希少価値をありがたがるのは経済の側面からすれば、その通りですが、芸術の側面からすれば非本質的であり、どうでもよいことです。
岡本太郎は、芸術作品だけでなく、多くの文章、言葉も残しています。
作品そのもの及び言葉により、本質的な芸術とは何かを教えてくれる人です。
言葉にも価値がある画家、書道家、彫刻家、陶芸家、デザイナー、写真家は、ほとんどいないと思われます。
その点、岡本太郎は、作品及び言葉を含め、存在そのものが芸術でありながら、また、その芸術すらも超越している本来的な人間を体現している人ともいえるでしょう。