2008年10月19日
バース_ローマ人の作った大浴場
風呂を意味するBathの語源となった所で有名。ストラトフォード同様、エイボン川のほとりにある。
イギリスでも昔は、日本の銭湯のように、大勢でお風呂に入る習慣があったが、今ではその習慣はなくなってしまった。
資料によるとローマ人の英国侵入は、紀元43年に始まり、数年の内にこのバースの温泉を発見したとある。
大浴場は公開されていて当時の様子を知ることができるが、当時は神殿(スリス・ミネルバ神殿)が隣に建てられていたという。スルス(Sulis)はケルトの、ミネルバ(Minerva)はローマの女神の名前だそうだ。はじめ、この場所にはケルトの神殿があったのだが、後に侵略してきたローマはそれを破壊せず、自分たちの女神、ミネルバと同一視するという扱いをした。女神なのに神殿に刻まれたシンボルはなぜか男の神の顔をしている。これは、ケルトや、古来からの宗教の影響を受けた「誤解」からそのような姿になったと考えられている。
ローマ人の作った遺跡は、規模、様式ともどれもすばらしいが、これはローマを支えた大軍隊に、戦争がないときにも適度に仕事を与えるために、侵略していった土地にローマ風呂などを建設したためらしい。侵略した土地の人の反感を押さえるためにも好都合で、まさに一石二鳥というわけだ。
遺跡の中心をなす大浴場と呼ばれるものは、底には鉛が敷き詰められている。その東側と西側には、それぞれ小さな部屋に区切られた浴場跡がある。トルコ風蒸し風呂、床下暖房の跡などを見ることができる。現在でも温泉が湧き出しているが、浴場に入ることは禁止されているので、浴衣で桶を持ってきてもどうしようもない。
西側の浴場には、冷水浴場もあり、なぜかコインが投げ込まれている。泉からはローマ時代のコインも見つかったというから、トレビの泉じゃないけれど、泉を見るとなぜかコインを入れたくなるのは、古今東西、一貫した習性らしい。かく言う私も、謎の遺伝子情報の命令には逆らうことのできない一人であった。
ローマ人退却とともに、神殿と大浴場は崩れたものの、12世紀に王の浴場、18世紀には鉱泉を飲むためにパンプルームが建てられ、社交の場となった(今でもコップに注いだ鉱泉を売っている)。ローマ風呂の遺跡が発見されたのは、1850年代になってからだというから、温泉を中心に、図らずもこの土地は社交の場として2度発展したわけだ。
神殿と大浴場がどのように破壊されたのかは、今となってはよく分からない。ただ、発掘により、何段階かに分けて破壊が繰り返されてきたことが分かっている。キリスト教の伝来など、宗教的な理由、侵略者、支配者による政治的理由、鉄や鉛の再利用や、近くに建てたバース寺院の材料にするなどの経済的理由によって破壊されてきたと思われる。
ローマ風呂だけではなく、近くにはバース大聖堂(BathAbbey)、橋の両側に店が並ぶパルティニィブリッジ、美しい風景のエイボン川があり、ぶらぶら歩いて観光してみたい土地だ。
川のほとり。左右に商店が並ぶ中世の橋(バルトニー橋)が見える。左側がローマンバスの遺跡につづく。
イギリスでも昔は、日本の銭湯のように、大勢でお風呂に入る習慣があったが、今ではその習慣はなくなってしまった。
資料によるとローマ人の英国侵入は、紀元43年に始まり、数年の内にこのバースの温泉を発見したとある。
大浴場は公開されていて当時の様子を知ることができるが、当時は神殿(スリス・ミネルバ神殿)が隣に建てられていたという。スルス(Sulis)はケルトの、ミネルバ(Minerva)はローマの女神の名前だそうだ。はじめ、この場所にはケルトの神殿があったのだが、後に侵略してきたローマはそれを破壊せず、自分たちの女神、ミネルバと同一視するという扱いをした。女神なのに神殿に刻まれたシンボルはなぜか男の神の顔をしている。これは、ケルトや、古来からの宗教の影響を受けた「誤解」からそのような姿になったと考えられている。
ローマ人の作った遺跡は、規模、様式ともどれもすばらしいが、これはローマを支えた大軍隊に、戦争がないときにも適度に仕事を与えるために、侵略していった土地にローマ風呂などを建設したためらしい。侵略した土地の人の反感を押さえるためにも好都合で、まさに一石二鳥というわけだ。
遺跡の中心をなす大浴場と呼ばれるものは、底には鉛が敷き詰められている。その東側と西側には、それぞれ小さな部屋に区切られた浴場跡がある。トルコ風蒸し風呂、床下暖房の跡などを見ることができる。現在でも温泉が湧き出しているが、浴場に入ることは禁止されているので、浴衣で桶を持ってきてもどうしようもない。
西側の浴場には、冷水浴場もあり、なぜかコインが投げ込まれている。泉からはローマ時代のコインも見つかったというから、トレビの泉じゃないけれど、泉を見るとなぜかコインを入れたくなるのは、古今東西、一貫した習性らしい。かく言う私も、謎の遺伝子情報の命令には逆らうことのできない一人であった。
ローマ人退却とともに、神殿と大浴場は崩れたものの、12世紀に王の浴場、18世紀には鉱泉を飲むためにパンプルームが建てられ、社交の場となった(今でもコップに注いだ鉱泉を売っている)。ローマ風呂の遺跡が発見されたのは、1850年代になってからだというから、温泉を中心に、図らずもこの土地は社交の場として2度発展したわけだ。
神殿と大浴場がどのように破壊されたのかは、今となってはよく分からない。ただ、発掘により、何段階かに分けて破壊が繰り返されてきたことが分かっている。キリスト教の伝来など、宗教的な理由、侵略者、支配者による政治的理由、鉄や鉛の再利用や、近くに建てたバース寺院の材料にするなどの経済的理由によって破壊されてきたと思われる。
ローマ風呂だけではなく、近くにはバース大聖堂(BathAbbey)、橋の両側に店が並ぶパルティニィブリッジ、美しい風景のエイボン川があり、ぶらぶら歩いて観光してみたい土地だ。
川のほとり。左右に商店が並ぶ中世の橋(バルトニー橋)が見える。左側がローマンバスの遺跡につづく。
聖なる泉。42度のお湯が沸いている。
テラスから見たローマンバス上部の彫刻群。1897年のローマンバス博物館オープンに先立って、1894年に製作されたもの。ローマンバスの遺跡は半ば地中に埋まっている。ローマンバスはその上部が、ちょっとだけ地面から出ている程度なのだ。
ローマ時代の寺院。地上にあるバース寺院とは、まったく別に、この場所には、女神、スリス・ミネルバ(=女神アテナ)を祭る寺院があった。
イギリスで発見されたローマ時代の寺院は二つしかなく、ここバースの寺院はそのうちの1つである。
ローマンバス博物館の周りには、いろんな屋台が並ぶ。