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2019年01月09日
山形の民話 2 (全68話)
山形の民話
その3『見るなの蔵』(みるなのくら)
むかし、あったけど。村の爺(じ)さま、山ん中で働いてたけど。暗くなって来て爺さま道に踏み迷って困っていると、向こうの方に灯(ひ)がテカン、テカン、と見えるんだと。その灯、頼(たよ)りにたどり着いてみると、山ん中の一軒屋に、とでも綺麗な姉こ一人いたなだど。その姉っこが爺様に声を掛けた。
「お前え、どごさ行ぐ?オレ、ちょっと行って来るさげ、お前え留守番(るすばん)していてくれ」
って、爺さま、そごの家の留守番、頼まったど。
「オレの留守の間、馬、養(やしな)って 呉れればいさげ。こごの家に蔵(くら)が三つある。三つある蔵の中(うち)、二つまでは見ても良いのだが、三つ目の蔵は何しても見ないでいてくれ」
って。ほして、その綺麗な姉こ出かけて行ったど。その後、爺さまひとつ目の蔵開けて見たども、何も無いのだと。爺さま、二つ目の蔵開けて見たども、ここにも、何も無いのだと。爺さま姉こと約束さった通り、三つ目の蔵は開けねで留守番していたけど。やがて、姉こ、無事に旅から戻って来て、大変喜んで、爺さまに宝物えっぺ呉(く)れたって。
爺さま、喜んで村の家さ帰って来たけど。ほすっと、隣(となり)の良ぐなし爺、その宝物見で、また、山さ行ったけど。日の呉れるまで山ん中さいで、ズーッと行ぐと、向こうの方に灯がテカン、テカン、と見えるんだと。
そこで、その灯頼りにたどり着いてみると、一軒屋ん中に、とでも綺麗な姉こ一人いたなだど。良ぐなし爺が、
「道間違ったから一晩泊めでくれ」
って、泊めてもらうことにしたど。ほすっと、この姉こ、
「オレ、一寸行ぐさげ、お前え、留守番していて呉れ」
って、その家の留守番、頼まったど。
「留守の間、馬、養っていて呉れれば、それで良いさげ。ここの家に蔵が三つある。三つある蔵の中、二つまで見ても良いのだが、三つ目の蔵は、なにしてもみないでくほ」
って。良ぐなし爺、
「アあ、良いとも」
って、約束したど。姉こ、安心して出掛けたど。良ぐなし爺、蔵のひとつ開げて見、二つ開げて見したども、何も無いのだど。ほして、三つ目の蔵も開けて見たど。そしたところ、その蔵の中には、鶯(うぐいす)が一羽いで、ホー、ホケキョ、と鳴いで飛んで行ってしまったど。
しばらくすると、旅の姉こが帰って来て、
「オレ、仏様に言いつけらって、法華経(ほけきょう)を唱えでいたなだども、もう少しで唱(とな)え終るところで見られてしまった!」
と、言って、大変悲しがって、飛び立ってしまったど。鶯の飛び立った後は、山と谷だけで何も無かったど。
どんぺからっこ、ねっけど。
管理人のひとこと
どうも、色々な筋が考えられるお話しでした。山の中に住む綺麗な娘は、実は、仏さまに云いつけられて法華経を唱えていた鶯(うぐいす)なのでした。彼女が何故、留守にしてお爺さん達に留守番を頼んだかと云うのが不明なのですが、3っある蔵の管理ではないでしょうか?
3番目の蔵の中で彼女は一生懸命法華経を唱えていたのです。恐らく「人に見られずに唱えること」が仏さまと約束されていたのでしょう。
「3番目の蔵の中は決して見てはいけない」と言われたら敢(あ)えて見たくなるのが人情です。浦島太郎の玉手箱の様に「開けてはいけない」と言われたらどうしても開けてしまうのが人間の悲しいサガ。まるで、性に目覚めた若いカップルが、何の知識も無いのに何とか努力して結ばれる様に、未知のことに興味を持ち危険を問わず冒険する様に人間は出来ています。
娘は鶯(うぐいす)の化身ですね。もう少しで唱え終わるところを人に見られた為、慌てて山の中に隠れてしまったのでしょう。人里離れた山奥に住む綺麗な娘と約束の大切なこと・・・色々な要素が含まれたお話です。聞く人によって幾通りにも解釈できる優れたお話だと感じます。
その4『一休さんと殿さま』(いっきゅうさんととのさま)
一休和尚さんは、小僧さんの頃からとても頓智(とんち)にたけたお人だった。未だホンの小僧さんなのに、大人(おとな)の喧嘩(けんか)を頓智でまるく収めたり、身分(みぶん)をかさに着て威張っていたりしていると頓智でギャフンと言わせたりするものだから、一休さんの人気はうなぎのぼりに高まったと。そんな評判が殿様の耳にも聞こえた。
「最近、好い気になっているから困らせて呉(く)れよう!」
と云う訳で、一休さんは殿様に呼ばれた。お城にあがってみると、通された広間にはお侍たちがたくさんいて、その一番奥の一段高くなったところに殿様が坐(すわ)っていらした。
「オオ、来たか。ウム、そちがうわさに聞く一休か?アア、かしこまらなくても好いぞ。そんなに遠くじゃ話が見えぬ。かまわんからそばに寄れ。よしよし、それで好い」
殿様、おつきの者がさし出した箱から何やら取り出して、両掌(りょうて)に包み込んだ。
「これ一休、そちはナカナカ頓智に秀(すぐ)れていると聞くが、これは当てられるかな?」
殿様は両掌を前に出し、一休さんに見えるように少しだけ両掌をひろげた。
「この掌(て)の中にあるのは雀(すずめ)だが、この雀、生きているか、死んでいるか、サア、当ててみよ?」
一休さんがまわりを見まわしたら、広間の両脇にズラーっと並んで坐っているお侍たちは、みなみなニャニャ笑って、答を知っている風だ。
『オラが負けると思っている顔ばかりだな。と云う事は……フーン、そういうことか』
殿様の魂胆(こんたん)がピーンとひらめいた一休さん、ニコニコっとした。
「ハイっ。当てられ無いことも無いけれど・・・」
と言いながら、タタミのヘリを股いで立ちあがり、
「その前にオラのを当ててみて下さい。このタタミのヘリから、オラは右へ行くか左へ行くか判りますか?殿様が当てたら、雀が生きているか死んでいるか、 オラも当ててみますから」
と言った。余りに予想外の答えで、家来たちはハッとして殿様の顔を見た。殿様、顔をまっ赤にして一休をにらんでいる。
「ウーン、まいった。予(よ)の負けじゃ!」
と言われた。殿様は、一休さんが、雀が生きていると答れば雀の首をひねって殺し、死んでいるといえば生きたまま出して見せる積りだったと。魂胆をさか手にとられて負けた殿様、くやしくてならない。くる日も、くる日も好い智恵はないかと思案していたら、襖(ふすま)の絵が目についた。殿様、難問を思い着かれた。
「ウーン。これなら一休をギャフンと言わせてやれる!」
というて喜んだ。又、一休さんが呼ばれた。
「これ一休。そこの襖の虎を縛(しば)ってみよ!」
殿様が閉(と)じた扇子(せんす)でさす方を見ると、襖には、ガンク・ガンカイと言って、昔は虎を描(か)かせたら世界一と言われたガンクの描いた虎が竹林(ちくりん)から目をランランと光らせて一休さんをにらんでいる。牙をむいて、今にも襲いかかって来そうだ。
緊張感がピーンと張りつめて、そのすさまじさは絵と判っていても身のすくむ思いがする。絵に見とれている一休さんに、殿様、
「どうだ、なんぼ一休でも絵に画いた虎は縛れまい。こうさんするか?」
一休さんと殿さま挿絵:かわさき えり
と、得意顔で言われた。そしたら一休さん、ニコニコして、
「いえ、描いた虎でも何でも縛る。ですが、オラの縛り方は投げ縄でとらえてから縛るやり方で、虎を追い出すセコが要ります。このままでは、竹薮(たけやぶ)が邪魔(じゃま)になって何とも仕様がないから、殿様、虎を追い出して下さい。オラ、こっちで待っていますから」
と言うた。殿様、これには何ともしようが無くて、又負けてしまったと。
どんびんからりん、すっからりん。
管理人のひとこと
どうも、元々は京に住む一休さんのお話が山形にも伝わった様です。「一休さん」には、色んな頓智(とんち)話があるようですが、今回は一休さんを困らせようとしたお殿様が逆に「ギャフン」とやり返されたお話です。お殿様は、最近人気の高まった彼にお灸(きゅう)を据えようとしたのです。
人間、人気が出たからと有頂天に為ってはいけません。常に己(おのれ)を謙遜し身を低く過ごすのが得策で、その上で人には親切に思いやりを込めた接し方をするのが徳のある人間の行いなのです。と、小言を云うつもりはありませんが、頓智(とんち)に長(たけ)けた一休さんですから、色々なお話が尽きないことでしょう。
その5『因幡の白兎』(いなばのしろうさぎ)
昔々、因幡(いなば)の国に白い兎がいたそうな。毎日浜辺にやって来ては、
「何とかして、海渡って向こう岸さ行ってみてえナア。んだげんども俺(お)ら泳がんねえし、海には何がいるか分(わ)がんねえから、途中で殺されっかわかんね。何とか無事に向こうさ行ぐ工夫ないべか?」
と思って、ため息ついていたそうな。そしたら、ある時、ええこと考え浮んだ。ワニザメを並べて、その背中の上を行くといいって。「んだら」っていう訳で、ワニザメに相談したと。
「ワニザメ君、ワニザメ君、海のお前の数が多いか、陸(おか)の兎(うさぎ)の数が多いか、比べっこすんべ!」
「どうやってだ?」
「お前だち海さ並んでみろ。オレ、一匹一匹勘定して行くから。勘定し終ったら向こうで兎ば皆集めるから。ほしたらお前が勘定すればええ。数が多い方が勝ちだ!」
「わがった。ええがんべ」
因幡の白兎挿絵:かわさき えり
っていう訳で、ワニザメは仲間皆に声掛けて、こっちの岸から向こうの岸まで、ズラアッと並んだと。
「サア、数えれや!」
「ようし、行くぞぉ!」
白い兎は得意になって、ワニザメの背中をピョンコ、ピョンコ跳ねて向こう岸まで行ったと。今一歩で陸さ上がるっていう時、嬉しくなって、
「オレにだまされているとも知らず、こうして並んでくれてありがとうよ。オレ、数なの白兎なの集める気なの何も無いなだ。お前だちの背中渡って、向こう岸さ行きたくってこう云う事言ったんだ!」
って、つい言ってしまったと。それを聞いた最後のワニザメは、怒って、白い兎をガブリッてくわえて、皮をはいでしまったんだと。白い兎は、痛くて痛くて何とも仕様が無いのだと。泣いていると、そこへ神様が大勢通りかかって、
因幡の白兎挿絵:かわさき えり
「これ兎、どうした?」
「こう云う訳で…」
「アアそうか、それは可哀そうに、それではお前は、海の水に入れ。そうしたら、たちまち毛がはえる」
って言ったと。白い兎が海の水に入ったら「痛テテテテ…」って、塩水がしみて、ビリビリ、ビリビリ、ってもっともっと痛くなったと。こらえ切れずにギャンギャン泣いていたら、袋を担いた神様が通りかかったと。その神様は親切で
「お前、ほだらことしてもダメだ。きれいな真水(まみず)で洗って、して、蒲(がま)の穂(ほ)さ転がれ、んだどええから」
って、教えてくれたと。白い兎がその通りにしたら、やっと元の白い兎になったと。
どんぴんからりん、すっからりん。
管理人のひとこと
「因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)」は、とても懐かしいお話です。私どもの世代の人なら殆どの人が昔聞いたお話でしょう。何か、童謡にも在った様な気がしますが・・・皮を剥かれて海水に漬かったらサゾや痛い事でしょう、全く残酷な話です。
「真水で洗ってガマの穂で身を包みなさい」とは、とても説得力のある話で、柔らかなガマの穂の感触が素直に想像できます。処で、最近「ガマの穂」を見たことがありません。恐らく、河原の岸にでも生えているのでしょうが・・・因幡、出雲・山陰のお話が山形まで伝わったのでしょうか・・・神話のお話でもあるのでしょう。
身体も心も凍える季節 温かな温泉が最高です!!
2019年01月08日
山形県の昔話1 (全68話)
宮城の民話の次には、お隣の山形の民話へと代わります。引き続きお楽しみください・・・
山形の民話
その1『蜜柑のはじまり』(みかんのはじまり)
昔々、あるところにお寺(てら)があって、和尚様(おしょうさま)がひとり住(す)まわれておらしたと。ところがその和尚様、段々年をとられて今にもお迎(むか)えが来るばかりになったと。村の人達が集(あつ)まって、
「もうし、和尚様、和尚様。何か食(く)いたいものは無(な)いか?」
と枕元(まくらもと)で聞いたと。そしたら和尚様、
「ほだ ナア、これと云って無いけんど、なろうことなら暖(あった)かい国にあると云うミカンという物を一口(ひとくち)でも食ってみたいもんだ」
と言うたと。村の人達は、
「ミカンだな?ようし 判った!必(かなら)ず手に入れて来るから、それまで養生(ようじょう)していておくんなさい!」
と胸打(むねう)って請(う)けおうたと。
お寺から出て来た村人達、
「ところで、ミカンって何だ?」
「オラ知(し)んね」
「オラも知んねえ」
言うて、誰も見た者はおらん。
「ホンでも、和尚様は暖かい国にあるって言い為さったぞ」
「そんなら、暖かい国へ行って誰だかに聞けばわかるじゃろ」
と言うことに為って、足達者(あしたっしゃ)な若者(わかもの)二・三人してミカンを探(さが)しに出かけたと。行くが行くが行くと、駿河(するが)今の静岡県(しずおかけん)の辺りに差(さ)しかかった。
「この辺は暖かい国じゃノウ。もしかしたらこの辺りにミカンというものがあるかも知れん」
「そうじゃの、どこぞで聞いてみっぺ」
と言うて、ある家で尋ねてみたら、ミカンの木はあるにはあるが季節(きせつ)外れで、みな捥(も)いだ後だったそうな。
「も少し行ってみっぺ。あるかもしんね」
と、探(さが)し探しに行ったら、ある家の庭(にわ)にミカンの木が一本あって、そのてっぺんに、足った一粒(つぶ)だけミカンがなってあった。
若者達は、早速その家に行って、
「コレコレの訳(わけ)で遠(とお)い最上(もがみ)の国から来た者です。どうか、あのミカンをゆずってけろ」
と、頼(たの)んだそうな。すると、その家の人は、
「アレは、来年(らいねん)もミカンが一杯なる様に天(てん)の神様(かみさま)に差し上げ申(もう)した奴です。だけど、坊様(ぼうさま)の為なら神様も文句(もんく)は言わんでしょう。お金(かね)なんぞ要(い)らんから、サアさ、早うその坊様のところへ持って行きなさい」
と言うて心好く捥(も)いで呉れたと。三人の若者は喜(よろこ)び勇(いさ)んで戻ったそうな。和尚様は、一口二口吸(す)ってみて、晴々(はればれ)とした目を開けて、
「アア、ありがたいこんだ、ありがたいこんだ。後はもう何も思い残(のこ)すことはない。ナムナムナム・・・」
と言うて、穏(おだ)やかにあの世(よ)へ旅立(たびだ)ったと。その後(のち)駿河の国では、欲張(よくば)って一粒も残さず捥いでしまった家のミカンの木は皆枯(か)れてしまったと。
足った一本、和尚様の為に分けて呉れた家のミカンの木だけは後々(のちのち)、あで栄(さか)って、ミカンの木を増(ふ)やしたと。今方々(ほうぼう)にあるミカンの木は、この家のが親木(おやぎ)なんだと。
こんなことがあるから、ナリモノは「来年もたんと成(な)る様に」って天の神様に頼んで、木のてっぺんにある一粒を「木ィ守(まも)り」として、必ず残して置くもんだと。
どんぴん。
素敵な「自転車と家庭水族館」管理人のひとこと
年老いたお寺の和尚さんを大切にする心温まる好いお話でしたね。陸奥(むつ)の山形からワザワザ駿河(するが)まで出かけて蜜柑(みかん)を一つ貰って来て大切な和尚さんに食べて貰う・・・和尚さんの末期(まつご)の願いを聞き届けて挙げたのです。和尚さんは、自分を思う皆の心掛けに感謝して満足して往生(おうじょう)したのでしょうね。
そして当時の陸奥では、蜜柑がとても珍しく高価なものだったことが判ります。恐らく蜜柑は、お金持ちがお正月に食べられる様な、普通の人にはとても貴重なものだったのでしょう。庶民は、南国の産物である蜜柑も知らなかったのですね。
そして、木になる果物の蜜柑に柿やリンゴなどは、収穫期に全て執り切るのでは無く最後の一つを天の神様に差し上げるものだと残して置いたのですね。恐らく、それを鳥が食べて遠くに持って行き種子をまき散らして子孫を増やして行ったのでしょう・・・
その2 『猿むこ』さるむこ
昔あったとさ。爺(じ)さまが山の畑耡(うな)いに行ったと。余りに疲れたので、
「アアこわい(疲れた)。こんなこわい思いして畑耡(うな)うのは辛いナァ。娘(むすめ)三人持ったが、この畑耡(うな)って呉(け)る者あれば、どれでもエエ娘(むすめ)呉(く)れっけどもナア・・・」
と、独り言(ひとりごと)言うたづうなだ。そうすっと猿出て来て、
「爺さ爺さ、何語った、今?」
と言うた。
「何も語らね」
「何も語らねなてない。俺ぁ藪(やぶ)にいて聞いていた。何か語ったぞ!」
「 嫌、俺は本当は、アンマリこわいからこの山の畑耡(うな)って呉る人あれば、娘三人持てたが、どれでもええなな(のを)呉れるて、本当は言うた」
「そんでは俺耡って呉っから、俺に呉ろ!」
と言われて
「ええごで」
と返事して、猿に山の畑耡ってもらったども、家さ帰って来て、
「こんなこと言うたって、ハイという子供も無いし」
と、余りに心配して、頭痛(や)めると言うて寝たづだ。
そうすっど、一番大きい娘が
「父ちゃん、起きて御飯(ごはん)食え」
と言うたども、
「嫌々、何も食いたく無い。ほだども、俺の言う事聞いて呉れれば、起きて食うども」
「何の事だか、ほだら語ってみろ」
と言うので、
「これこれこう云う事で、猿出はって来て、山の畑耡って貰(もら)ったから、お前(め)嫁に行って呉んねえか?」
と言うたれば、
「何老(お)いぼれみたいなことこいでけつかる。猿のオカタ(奥方・嫁)に行かれっか!」
と、枕(まくら)蹴(け)とばして逃げて行ったと。二番目の娘も、
「父ちゃん、起きて御飯食え」
と言うたども、爺さま頼んだっきゃ、
「猿のオカタに行かれっか!」
と枕蹴飛ばして逃げて行ったと。次に末の娘来て、
「何でも聞くから父ちゃん。具合の悪いのさえ治って呉れるごんだら、それでもええ。猿のオカタになって行くから、御飯食って治って呉ろ」
と言わっで、爺さま起きて御飯食って、何日にやると山の畑さ行って猿に会うて決めたど。そうして、末の娘は猿のどこさ嫁に行ったど。
デリケートゾーンがむれて不衛生かも…。でもどうやってケアしたらいいかわからないし、人にも聞けない、どうしたらいい?【アウトクリア】autclear
三月のお節句(せっく)に餅(もち)搗(つ)いて、嫁の里帰(さとがえり)だど。猿が、
「この餅、何さ入れて持って行ったらええが?笹(ささ)さ包んで持って行くか?」
と言うたら、嫁は、
「嫌々、おら家(え)の父ちゃんは笹さ取れば笹くさいから食わねと言う」
と言うた。
「重箱(じゅうばこ)さ入れっか?」
「 いいや、重箱さ入れれば重箱 臭いって食わね」
「ホンだら、何さ入れて持って行く?」
「本当は臼(うす)さ入れてそのまま背負って行けば、父ちゃん大喜びして食うから、そうして持って行って呉れ」
となって、猿は搗(つ)いた餅入れた臼、そのまま背負って山を下りだど。途中まで来っど、川の上さ桜なびいて、何ぼか綺麗に咲いていた。嫁が、
「父ちゃんは桜好きなな(なの)だから、桜の枝取って持って行けば喜ぶから取って呉ろ」
と言うたら、猿は背負った臼、おろそうとしたど。嫁、
「嫌々、土さ下ろすど土臭いて言うて、決して食わねがら、そのまま背負って登って呉ろ」
と言うたれば、猿、臼背負ったまま木さ登った。
「これでいいか?」
「ンだな、それよか、も少し向こうの枝だとええな」
「ンでは、これかぁ?」
「嫌々、今少し枝のええどこ取って貰いたいナァ」
こう言いあいながら猿を段々と上さやると、猿は重いもんだから、バギッと桜の木折れて、川の深いどごさ落ちてしまたけど。猿、臼背負ったまま流されながら、
♪ 川に流るる猿の生命(いのち)は 惜しくはなけれど 後に残りし姫(ひめ)恋しや
と詠(うた)ったど。末娘は家さ帰って、爺さまの跡とりして、一生安楽に暮らしたけど。
どんぺからっこねっけど。
素敵な「自転車と家庭水族館」管理人のひとこと
どうも、昔話に出て来る姉妹の長女や次女は何時も意地悪で思いやりの少ない娘が多いようです。この話も末娘が損な役割を買って出て、最後には幸せに為るお話でした。お爺さんの独り言を聞いた猿は、半ば強引にお爺さんに約束を迫り心優しい末娘を娶りました。さぞや好い思いをしたのでしょう。が、幸せは長くは続きません。
決して猿が意地悪をした訳では無く、優しい気持ちで末娘とお爺さんへの心遣いで餅をつき里帰りさせたのです。しかし、現実は厳しいものでした。娘の計略にマンマとはまり、川に流されてしまったのです。こうなると何故か猿が可愛そう・・・♪ 川に流るる猿の生命(いのち)は 惜しくはなけれど 後に残りし姫(ひめ)恋しやと、泣いた心情が心に刺さります。猿が人間の娘を嫁にすると、矢張りこの様な悲劇が待っているのです・・・ナンマイダ
2018年12月20日
民話「ゆきおんな」の考察
「雪女」ゆきおんな
「ゆきおんな」の話に少しばかり心が残りました。このお話はそもそも、日本各地に残る民話の中から、小泉八雲(ラフカデヨ・ハーン)が取り上げた民話集「怪談」の中のお話でもあります。そのあらすじを簡単にご紹介しましよう・・・
昔々、寒い北国でのお話です。茂作と巳之吉と云う猟師の親子がいました。二人は山が雪でスッポリ覆われる頃になると猟へ出かけるのでした。その日も二人は猟をしていましたが、次第に吹雪が強くなり、ドンドン雪が積り、このままでは遭難しそうでした。
そこへ天の助けか一件の猟師小屋が見えたので、二人はそこで吹雪が去るまで休むことにします。囲炉裏に火をくべて冷えた身体を温めます。一日中歩き疲れたせいでグッタリ疲れ、直ぐに眠りこんでしまいました。
余りに強い風だったので戸がガタンと開き、ピューと風が吹き込んで来て、囲炉裏の火がかき消されます。
夜中、余りの寒さに息子の巳之吉が目を醒まします。
「ウウゥー、なんちゅう寒さだ!」
手はかじかみ、体の芯から凍えるようです。処がどうも様子が変です。小屋の中に二人の他に誰か居る様です。見ると、真っ白な肌をした女が寝ている父、茂作の顔を覗き込んで「フーッ・・・」と息を吹きかけています。すると見る間に茂作の体は凍えて行き、寝たまま息をひきとってしまいました。
「ア、ありゃあ雪女…!」
巳之吉は逃げようとしますが寒さと怖さで体が動きません。女はユックリ近づいて来ます。処が、怖がる巳之吉に女は優しく言います。
「貴方は未だ若い。それにとても綺麗な目をしています。助けてあげます。但し今夜のことを人に話したら、その時こそ貴方の命はありませんよ」
そして女はスーーッと消えて行きました。
ハッと気がつくと、朝でもう雪は止(や)んでおり、かたわらで茂作が冷たくなっていました。山をおり、茂作の葬式を出します。巳之吉は自分が火を絶やした為に茂作の命が失われたことを深く悔やみますが、あの女のことは誰にも話しませんでした。
それから一年ほどたったある大雨の日のこと。巳之吉が仕事から戻ると家の前で一人の女が雨宿りしていました。遠くからでも判るほどその姿はホッソリと美しく、うつむいた横顔は何とも言得無い好い色香を放っています。
フッと女が顔を上げます。その顔に巳之吉は見覚えがありました。こんな美しい女を見たのは後にも先にもあの時ばかりです。吹雪で意識がボヤけていたとは言え、雪女の顔を忘れるはずはありませんでした。
「雪女が、俺を殺しに来た!」
巳之吉は真っ青になって立ち尽くしますが、女が話しかけます。
「アノもし、この雨で困っています。どうかしばらく雨宿りさせてくれませんでしょうか?」
巳之吉は女が何を考えているか恐ろしかったのですが、さしあたって危険は無さそうだし、それに自分は雪女との約束は破らず人に話してはいないのだからと、女を家に招き入れます。
女は「お雪」と名乗り、親兄弟に死なれて一人身になった境遇など、色々と打ち明け話をします。話しているうちに二人は心を寄せ合い、一緒に暮らすようになり、マア色々あって夫婦になります。こうして幸せな月日が流れて行きます。それでも時々はお雪が雪女かもと思うことがありました。
お雪は暑い日差しを受けるとフラフラ倒れてしまうのです。巳之吉はそんなお雪を優しく抱きとめながら、心の何処かで「もしや雪女では」と疑うのでした。しかしお雪は巳之吉を殺す処か、とても好いお嫁さんでした。掃除はすみずみまで行き届き、タタミのあわせ目のゴミまで爪楊枝で掻き出すのでした。
二人の子供も生まれ幸せな毎日に、何時しか巳之吉は「お雪が雪女でもそうで無くても、どっちでも好い」と思えて来ました。
或る吹雪の晩のことです。巳之吉はお酒を飲んでおりまして、お雪の横顔を見ながら好い気分になっていました。
「アア、こうやってるとあの不思議な晩のことを思い出すナァ・・・」
「不思議な晩?」
「ん?親父が死んだ晩のことさ…」
と言いかけるともう止まりません。巳之吉は昔雪女に会った夜のことをすべて話していました。
「マア、今にして思えばオラの見間違いだったんだろうな。 だども、お前を見ていると、何だかあの夜の雪女に似ている気がして、 ちょっと疑ったりしてたこともあったな。へへ」
するとお雪は
「あなた、とうとう喋ってしまったんですね」
スッと巳之吉を見つめます。
「エッ?」
「あれほど喋ってはいけないと言っていたのに」と、お雪の着物がスーと白く変わっていきます。
「おい、待ってくれよ、ナア冗談だろう。すまない今のことは忘れてくれ。な、酒の上のことだ。そんな、俺はどうでも好いんだ雪女だろうと何だろうと。お前が一緒にいてさえくれれば!」
「あなたと過ごした楽しかった毎日は忘れません。本当にしあわせでした」
その時バタン戸が開いてヒューと吹雪が吹き込んで来ました。そしてお雪の姿は消えて無くなりました。
残された巳之吉は、何時までもボーゼンとへたれこんでいました。
おしまい
この物語の疑問点
質問 昔話 雪女は何故爺さんを殺して傍にいた若者の所に嫁に行ったのか、何故口止めをしたのか、何故殺さず消えたのか、全然判りません。何一つ納得が出来ません。
爺さんを殺した理由、若者が生き残った理由。嫁に来た理由。口止めして約束破られて逃げる位なら最初から嫁にくんなよ。話が極端過ぎて全く理解できないので判り易く解説して下さい。宜しくお願いします。
ベストアンサーに選ばれた回答
pet********さん 2014/2/2401:45:18
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の怪談、雪女によれば、雪女は吹雪中の小屋に突然現れて、茂作(老人)も巳之吉(若者)も両方殺そうとしていました。殺意の理由は判りませんが、そもそもの性質に「自分のテリトリー内に人間を見つけたら殺す」と云うのがあるものなのではないかと思います。
基本、民話の中の雪女は真夏や南国や街中にノコノコ出現して吹雪を起こしたり人を凍死させたりはしません。雪のふる中に現れるにしろ、雪女が雪を呼ぶにしろ、雪女が雪女として活動し力を振るうのは大体が冬であるし北国や雪山です。
大雪がそこに偶々居合わせた生き物の命を奪うことがあるのに対して「お雪よ、どうして命を奪う?」と疑問を向けても仕方がありませんよね?雪女も自分のテリトリー内に人間が居たら、遭難させたり凍死させたりすることに為るのは「だって私、基本的にそう云うものですから、何でかって聞かれても・・・?」って感じではないかと思います。
そう云う訳で雪女は、何時吹雪いても可笑しくない山に仕事で遣って来て、結局帰れ無くなり、暖をとる為の火を起こすことも出来ない(囲炉裏も何も無い)粗末な小屋に泊まることに為ってしまった二人の木こりの処に現れ、眠っている二人とも殺す筈でした。処が、茂作は殺され巳之吉は殺されなかった。何故か?
先ず茂作は直ぐに眠りこんでしまったのに対し、巳之吉はナカナカ眠れずにいました。結局ウトウトしてしまうのですが、閉めた筈の戸が開いて吹き込んで来た雪が顔にあたったので目覚めると、雪女が茂作を殺している処だったのです。
固まってしまった巳之吉に接近して来た女は、暫く怖い目をしていましたが、フッと表情を緩めて「お前もあの年寄りのようにしてやろうと思ったが、お前はとても若い(18歳)ので、どうも憐れに為った。それにお前はナカナカ綺麗だから、今は許してやることにする」と言います。
つまり、巳之吉が殺され無かったのは、死ぬには余りにも早過ぎる若さだと思われたことと、"綺麗"だったから。綺麗って云うのが美形のことなのか、若い健康体で人間性もきれいと云う事なのかわかりませんが、兎に角、雪女に殺すのには惜しいと評価された訳です。
茂作が先に殺されたのは、年齢順に選ばれたのか、眠りの浅い巳之吉よりも深く眠っていたことが関係するのか・・・?
嫁に来た理由もハッキリとは判りませんが、雪女が巳之吉に好感を持ったからなのかなと思います。「今は命をとら無いが、誰にも、親にも絶対に話すな。話したら殺す」と言い渡しているので、監視する為に潜入して来たとも考えられますが、雪女がお雪として巳之吉の前に現れるのが小屋の件の一年後なので、ちょっと考えてしまうところです。
事件から時間が経って恐怖感や実感が薄れた頃に禁を破る可能性を考えたのかも知れませんが、嫁に為ってまで身近にいないと口外されたかどうかが判らないと云うのも、そんなものかしら?と思うので、恐怖体験から時間が経った後、信頼して心を許した相手に秘密を口外するかどうか試す、監視する目的がゼロではないとしても、お雪としての巳之吉とのやりとりもふまえて考えた時、シンプルに好意が芽生えてと云う方が納得出来る様に思います。
巳之吉が雪女=お雪と知らずについ暴露してしまった際にも、巳之吉は「今でも、夢か現か定かじゃない、アレは夢だったのかどうか?」と云うとても曖昧な暴露の仕方なのに、雪女の反応が凄いので、そのタブーは何か絶対のことだったみたいです。理由は不明。
何で?どうして?何て人間に納得出来る様な理由を求めること自体が違うことなのかも知れないけど、それにしては、結局「子供達(10人生まれました!)を思えば、お前を殺せない」と、巳之吉を約束通りには始末しないので、益々好く分から無い。詰まり好きなんでしょ?みたいに思えてしまうとこがある。
雪女は基本人間を殺すが、巳之吉は若い身空の綺麗な人だったから個人的に思う処(気に入った?)があって殺さず嫁にも来た。好意と監視の両面であり得ると思うけど、嫁として関わり、子供を10人も作って、結局約束破ったのに殺さ無いと云う事を考えると、監視より感情的な部分がかなり大きいと感じます。
以上
素敵な「自転車と家庭水族館」/span>https://fanblogs.jp/yorichan5000/ 管理人のひとこと
確かにこのお話には色々な謎の部分が含まれていそうですね。それは、聞き手によって色々な想像を与え貴重と思われる数々の教訓も含まれていそうです。
例えば、秘密を守る約束の大切さであり、男女の愛情の機微であったり、単に打算的な人間の営みであったりします。特に雪女の心を考えると色々な想像が出来ます。
・・・山の中の吹雪の晩に出会った若く逞しい男。自分の存在を知られたら相手は生かしておいては為らぬ定め、仕方なく若い男はそのままにして親父を殺して去った。が、どうしても、その男の事が忘れられず雪女はその後男に遭いに行きます。そして、話すうちに打ち解け夫婦と為るのです。子をもうけ幸せな生活を送りますが、そんな或る日・・・と云う訳で、スッカリ安心しきって居た男は、大切な約束を破ってしまうのですね。これも身の定めです、愛する子供の為に男を殺しはせずに只黙って立ち去って行くのです。
幸せは何時までも続くものでは無い、《幸せ》と感じた時がピークであり、その後次第に冷めて行くのも世の常ですからね。日々反省し相手に感謝し誠意を尽くすことが大切なのです・・・
2018年12月16日
宮城の民話 その5
しばらの間、私が住まいする宮城県の郷土の昔話をお伝えしようと思います。お子様やお孫様が寝る前の一時、語ってお伝え願えれば幸いです・・・その5
宮城県の昔話(全14話)
再話 佐々木 徳夫
整理・加筆 六渡 邦昭
提供 フジパン株式会社
第十三話 『行かずの雪隠』(いかずのせっちん)
挿絵:かわさき えり
昔ね、あるお寺の雪隠(せっちん)に狸(たぬき)が棲(す)みついて、雪隠に入る度にいたずらすんで、和尚(おしょう)さんは「行かずの雪隠」と名づけて、締(し)め切ってたど。
ある日のこと、和尚さんが、
「小僧(こぞう)や、御法事(ごほうじ)さ行って来るがら、行かずの雪隠さ近寄(ちかよ)んでねえぞ」
て言って出かけたど。近寄るな、という所には行きたいもんで、小僧は戸をこじあけて入ったど。別に変わったこともネエ。ナアンだ、普通の雪隠でねえが、と思って用を足してたら、下から白い手がヌーッと出て来て、尻をペタペタ叩(たた)いたり、撫(な)でたりされたんで「キャーッ」って飛び上がったら、入り口に男と女の生首(なまくび)がブランと下がって、ニッタニッタ笑ってんで、腰(こし)抜かしてしまったど。
小僧はやっと這(は)い出して、蒲団(ふとん)をかぶってブルブル震(ふる)えながら寝(ね)てたど。間もなく表でカタッ、カタッと下駄(げた)の音がして、スーッと戸が開いたんで、アッ、和尚さんが帰って(けぇって)来た、と思ってホッとしたど。
「小僧、今帰った(けぇった)ぞ。お前(おめえ)、行かずの雪隠さ行ったべ」
「はい」
「下から白い手がヌーッと出て来て、尻をペタペタ叩いたり、撫でたりしたべ」
「はい」
「入り口に男と女の生首がブランと下がって、ニッタニッタ笑ったべ」
「はい」
「こんな顔でながったかあ」
て言いながら、蒲団をめくったと思ったら、またヌーッと生首が近寄って来て、ニッタニッタ笑ったど。小僧は「キャーッ」 て、蒲団をかぶってブルブル震えてたど。 ほうしたら、また表でカタッ、カタッと下駄の音がして、スーッと戸が開いたど。小僧は、また化け物が近寄って来るな、と思って、ぎっつり蒲団をつかんでいたら、
「小僧や、今帰ったぞ。何だどこにいるんだ」
和尚さんは、小僧が蒲団をかぶって寝てんだと思って、さっと蒲団を剥(は)いだら、「キャーッ」って、小僧が気絶してしまったど。
挿絵:かわさき えり
和尚さんは、
「小僧、あれほど言ったのに行かずの雪隠さ行ったな。俺だ、俺だ。これからは二度と近寄るな」
て言ったどさ。
こんで、えんつこもんつこ、さけた。
管理人の一言
「やっちゃいけない!」と言われると逆にやりたくなねのが人間のサガ。どうしてなんだろうね?しかし、この好奇心が無いと人間には進歩は無いね。何故?どうして?と思うから新たな発見や知恵が生まれるのだね。「ダメだ!」と云う先人も、昔はやってしまった経験者だから強くは叱らない。こうやって色々な失敗や経験を積んで賢くなるのだからな。小言を言われても、人に余り迷惑を掛けなければ《どんどん》失敗するべしだね・・・失敗の分だけ成功も生まれるのだから。
第十四話 『尼裁判』(あまさいばん)
挿絵:かわさき えり
むかし、あるところに親孝行の息子が年老いた父親と暮らしておったそうな。働き者の息子だったから、村の人が好い嫁を世話してくれたと。息子と嫁は、
「お父っつぁんはもう年だから、家でのんびりしてりゃええ」
いうて、二人して、朝は朝星の出ているうちに家を出て山の畑へ行き、夜は月星をながめながら帰るほど働いたと。父親は、
「わしゃあ、いい息子と嫁を持った」
いうて、スッカリ安心したと。気がゆるんだら急にふけこんで死んでしもうたと。息子は悲しんで悲しんで仕事が手につかんようになった。そしたら、嫁を世話してくれた人が来て、
「今度、村の衆(しゅう)とお伊勢参りに行くことになった。お前も家ん中でクヨクヨしているよりは、一緒に行って気晴らしをしたらよかべ」
という。嫁も、
「あんたぁ、行っといでよ。お父っつぁんの功徳になるよ」
いうので「そだな」 って、村の衆と一緒にお伊勢参りに出かけたと。
お伊勢さまにお参りして町を見物していたら鏡屋(かがみや)があった。息子は鏡を知らんのだと。珍しい物があると思うてのぞいたら、映った自分の姿が死んだ父親にソックリだった。
「ありゃあ、うちのお父っつぁんは、こんげなところにおられたか」
いうて、驚くやら喜ぶやら。
「番頭さん、この親父(おやじ)なんぼだ」
「へぇ?!何のことでしょう」
「これ、この親父だ」
「へえ、ですがアノウ、これは親父ではなくて、鏡ですが」
「何言うとる。息子の俺が言うのだから間違げぇネエ。これは親父だ。家に連れて帰るから、ぜひ売ってくれ」
番頭さん、目を点にしておったと。旅から帰った息子は、鏡を長びつに入れて、朝晩のぞいては、
「お父っつぁんは今日もご機嫌だ。ニコニコしとる」
いうて喜んでいるんだと。嫁はどうも不思議でならない。ある日、息子が畑へ出掛けてから、長びつを開けて中をのぞいたと。そしたら何と、中には綺麗な女ごがおって、「見つかった」云う様な顔をしておった。サア、嫁は腹が立って腹が立ってならん。昼飯時に畑から戻った息子をつかまえて、怒ること、怒ること。
「あんた! お父っつぁんの功徳に行ったと思っていたら、何さアレは。お伊勢さまから好い女ごを連れて来て。ああくやしい!」
「お前、何言うてるや。俺はお父っつぁんを買うて来ただぞ。女ごなんぞ隠しておらん。もいちどよおっく見てみろ」
「ほんとうに? …そだな、毎日長びつに入ったままの女ごもなかべな」
言うて、もう一度長びつの中を見たら、今度は夜叉のようなオッカナイ顔をした女がいた。嫁はあわてて、ふたをパタンと閉じたと。
「いたあ、アンタあ、やっぱり女だよう」
「そんな筈はねえんだがなあ」
いうて、息子がのぞいてみたら、親父がとまどった顔をしておった。
「お前、何見とる。やっぱりお父っつぁんだ」
「違う」「そうだ」
と言い争いをしているところへ、お寺の尼さんが家の前を通りかかった。
「仲の好い二人が喧嘩とは、一体どうしましたか?」
「聞いて下されアンジュさま、実は…」
と嫁が話すと、
「それじゃあ、私が見てみましょう」 いうて、尼さんがのぞいたと。そしたら鏡には尼さんが映っとった。
「もう喧嘩は辞めなさい。この中の年増女は髪を落として尼になったから」
こういうたと。
えんつこ もんつこ さげぇた。
管理人の一言
好く出来たお話だナ。落語の様にちゃんと《落ち》まで入れてる。トンチとシャレの聞いた上出来なお話だナ。鏡を見る人のそのままがその人に伝わるから、鑑とは恐ろしいものではあるな。亡くなった親父に為ったり、綺麗な女に為ったり夜叉に為ったり・・・そして最後には尼さんに為ってしまった。
何かで怒った時、一度鏡を見るのを習慣にしたら好いのではないだろうか?怒りで震える我が顔を見ると、その醜(みにく)さに呆れるだろうな。少し時間をおいて怒りを鎮めることが大切だろう。
では、次には前回取り上げた「雪女」のお話を、別の資料から紹介しよう・・・
宮城の民話 その4
しばらの間、私が住まいする宮城県の郷土の昔話をお伝えしようと思います。お子様やお孫様が寝る前の一時、語ってお伝え願えれば幸いです・・・その4
宮城県の昔話(全14話)
再話 佐々木 徳夫
整理・加筆 六渡 邦昭
提供 フジパン株式会社
第十話 『熊になった兄弟』(くまになったきょうだい)
挿絵:かわさき えり
むがすむがす、あるどこに太郎と次郎がいであったど。ふたりとも怠け者(なまけもの)で、サッパリ稼(かせ)がね。親が残して呉れたものを、アレを売りコレを売りしては食いつなぐうちに、焚き物(たきもの)にも困るようになったど。あるどき、太郎が、
「次郎、山さ行って、焚き物取って来ぉ」
ど、言い付けた。そしたら次郎は、
「くたびれるから、オラ、嫌んだ」
ど言って、ゴロンと横になったど。
「かばねやみみてなごど言ってねえで、行って来ぉ」
「兄(あん)つぁんは怒(おこ)りっぽいんだがら……しょうがねえナア」
挿絵:かわさき えり
次郎が山さ行ったら、景色のいい楢(なら)の木があっだ。
「伐(き)るのがもったいないよな、好い木だナア。んでも、他の木を探すのもくだびれるし、これにすべえ」
と言って鋸(のこ)を当てたら、楢の木が、
「焚き物が欲しがったら、家(え)さ帰(け)えるまでドッサリ届げでおぐがら、どうが伐らねで呉(け)らえん」
ど言ったど。
次郎が伐るのを止めて山を下っていだら、空を焚き物がヒュンヒュン飛んで行っだ。家さ帰って来たら、ドッサリ焚き物が届いでだど。太郎はウンと喜んで、
「次郎、次郎。今度ぁ食い物届げで貰え」
ど言ったど。次の日、次郎はまた山さ行って、楢の木さ鋸を当てで、
「食い物届げろ、届げねば伐るぞ」
ど言ったら、楢の木は、
「家さ帰えるまでドッサリ届げでおぐがら、どうが伐らねで呉らえん」
ど言ったど。次郎が伐るのを止めて山を下っていだら、空をフキだのワラビだの木の実だのがヒュンヒュン飛んで行っだ。家さ帰って来たら、ドッサリ食い物が届いでだど。太郎はウンと喜んで、
「次郎、次郎。今度ぁ銭(ぜん)コ届げで貰え」
ど言ったど。
次の日、次郎はまた山さ行って、楢の木さ鋸を当てで、
「銭コ届げろ、届げねば伐るぞ」
ど言ったら、楢の木は、
「家さ帰えるまでどっさり届げでおぐがら、どうが伐らねで呉らえん」
ど言ったど。次郎が伐るのを止めて山を下っていだら、空を砂金(さきん)がキラメかして虹(にじ)みていにヒュンヒュン飛んで行っだ。家さ帰って来たら、ドッサリ砂金が届いでだど。太郎はウンと喜んだ。んだげんども、持ったことのねぇ大金を盗まれるのが心配になって、
「次郎、次郎。泥棒(どろぼう)に入(へえ)られねように、山の楢の木さ行って、家さ人が寄り付かねように頼んで来ぉ」
ど言ったど。
次郎は、下りてきた足で、また山さ行ったど。そしたら楢の木が、
「どっさり銭コ届げだのに、まだ何が足んねのすか?」
ど言っだ。
「あんまり銭コ届げて貰ったんで、泥棒に入られんのが心配なんだ。何とが家さ人が寄り付かねようにして呉ろ」
「アア、わがった。誰も寄り付かねようにしてやっから」
挿絵:かわさき えり
次郎が、やれえがったぁ、と山を下って家さ帰ったら、何と太郎が大っきな熊(くま)になって家の中に積んだ砂金の山のまわりをグルグル廻(まわ)っていたど。次郎が魂消(たまげ)て、
「何とすたべや、兄つぁん。そんな姿にされで」
ど言っているうちに、次郎も熊に為ってしまったど。二頭の熊が家の中をグルグル廻ってるもんだから、それがらは、誰一人としで寄り付く者がながっだど。
こんでえんつこもんつこ、さげだ。
管理人の一言
好く出来たお話だナ。人は余り楽(らく)をして暮らすと碌(ろく)なことはないと云う事だべナ。何かの運で、滅多に無い好いことがあっても何度もそれを望んではダメだ・・・と云う事だべ。棚(たな)から牡丹餅(ぼたもち)の様に、幸運の偶然が重なることは何度もは起きない。楽ばかりして好い気に為ると、 終(しま)いには思いも拠らない天罰が下ることもあるのだと云う事だべ・・・
第十一話 『鬼打木の由来』(おにうちぎのゆらい)
挿絵:かわさき えり
むかし、あるところに爺さんと娘とが暮らしていた。ある時娘が畑仕事をしていると、そこへ鬼がやってきて、娘をさらって行ってしまった。爺さんは、くる日もくる日も娘を捜(さが)し、訪(たず)ね歩いたと。何年も経ったと。
奥山(おくやま)のそのまた奥山の、鬼の棲(す)むと云う岩山(いわやま)を登(のぼ)っていたら、鬼が山の上から現われて、爺さんも捕まったと。鬼の館(やかた)に連れられて行くと、なつかしい娘がいて、鬼の奥方になっていた。息子(むすこ)も一人出来ていたと。その息子は首から上が鬼だったと。
鬼は爺さんを釜(かま)の中に入れて、息子に、
「釜焚き(かまたき)するから、火を持って来い」
と云うた。その息子はまだ年端(としは)もいかないのに利口(りこう)な子で、火を持って来いと言われて薪(たきぎ)を焚(た)く火では無く、機(はた)を織る時の杼(ひ)を持って来た。
「それで無い!別の火だ」
と怒られて、今度はムシロを打つ杼を持って来た。
「何にも分らない奴だ。もう好い、俺がとって来る。お前はここで見張っていろ」
と云うて、鬼は向こうへ火を採(と)りに行ったと。そのすきに息子は釜の中の爺さんに、
「今のうちに逃げて」
と声をかけた。爺さん、直ぐに釜から出て、娘と息子を連れて山を下った。そうとは知らない鬼が、火を採って戻ってみると息子がいない。
挿絵:かわさき えり
「しょうがない奴だ、また遊びに行きおってからに」
と云うて、釜の下の炉(ろ)に火を着けた。しばらくたって、釜の湯がグラグラグラグラ沸いたので、
「爺め、もう煮えたろう」
と云うて、フタを取ったら、何と、爺が入っていなかった。
「やろう逃げたなぁ!」
というて、館の中を捜したら、娘もいない。慌てて、山を駆(か)け降りた。爺さんと娘と息子は、逃げて逃げて逃げて、山のふもとの大きな川を舟で渡り終えた。ホッとしていたら、鬼がもう向こう岸へ来ておったと。川をこいでやって来る、その速いこと。ザンブザンブ、ザンブって追いつかれそうになったと。爺さん、慌てて、
「みんな尻(しり)を出せ!」
と云うて、尻を鬼の方に突き出して、ピタピタ尻たたきした。鬼は人間の尻たたきが嫌いなんだそうな。
「これはたまらん」と鬼はいうて、諦めて帰って行ったと。
爺さんと娘と息子と三人で家に帰り着くと、その日が丁度正月元旦だった。爺さんは竹を切って来て、急ごしらえの門松(かどまつ)を立てたと。そしたら、息子の頭に角(つの)が生(は)えていたので、息子は門松が恐くて門を潜れなかった。
爺さんが門松のおさえにしている木で、息子の角をこすったら、角がポロリともげた。お正月の門松のささえに立てる木や、門に太い薪を二本寄せかけて置くのを、「鬼木(おにぎ)」とか「鬼打木(おにうちぎ)」というのは、昔にこんなことがあったからなんだと。疫病(えきびょう)や鬼を打ち払う為なんだそうな。
えんつこもんつこさげえた。
管理人の一言
鬼が娘を浚(さら)って山の奥に逃げ込み、仕舞には娘を嫁にしたんだナ、そして子供までもうけたって。果たしてこの「鬼」とは一体何だろうか?山賊や超人的な天狗の様なものなのかな?人間では無い恐ろしい怪獣なのか?昔の人達が「鬼」と恐れたのは果たして何なのか。
一般に人間が忌み嫌う恐怖の対象を「鬼」と称したのだとしよう。そうすると、鬼でも人間の娘を愛し子供も愛したのだとすると、恐ろしいだけの野獣では無いのは承知している筈だ。怖くて忌み嫌う鬼にも、夫婦愛や親子の情もあるんだな。一体どういう存在なんだべか?
鬼の中には、怖いだけでなく優しい者や親切な鬼、泣き虫や気の弱い鬼も居たのだろう。「鬼の目に涙・・・」などという言葉もあるくらいだし・・・
第十二話 『雪女産女型』(ゆきおんな うぶめがた)
挿絵:かわさき えり
むがすむがす、白河様(しらかわさま)という殿様(とのさま)の頃の話だど。ある雪の降る夜、お城の夜の見廻(みまわ)り番の侍だちが四方山話(よもやまばなし)に花を咲かせてたど。
「今晩のように雪の降る夜は、お城に雪女が出るという噂だが、聞いたごどあるが?」
「まさか、雪女なんぞ出るはず無(ね)べ」
ひとりの侍がこう言って、小便をしに出たど。用事をすませて、ヒョイっと頭をあげたら、降りしきる雪の中に、赤ん坊を抱いた女の姿が、ボーッと見えたど。
「今時分(いまじぶん)、誰だべ」
と思ってだら、スーッと寄っできで、
「もし、お侍さん、雪の中に大事な物を落どして捜(さが)していたげんども、この児(こ)が重いんで、一時抱いてて呉(け)らえん」
て言うた。侍は、女が気の毒に思えて、赤ん坊を受け取ると、赤ん坊は氷のように冷たかったど。女は何かを捜している風だったげんども、雪の中さスーッと消えてしまったど。ほうしたら、抱いていた赤ん坊がだんだん重くなって来て、抱えきれなくなった。下さおろすべとしたら、ピッタリ腕さひっついて離(はな)れねぇんだど。
侍は気味悪くなって、助けを呼ぼうとしたげんども、声が出ねぇんだど。赤ん坊はますます重くなってくる。侍はこらえてこらえて、息もつけなくなって、とうとう気を失ってしまったど。
見廻り番の詰所(つめしょ)では、小便に出かけた仲間がナカナカ戻らねぇんで、皆して捜したら、侍はぶっといツララを抱えて気絶していたど。
それから幾日(いくにち)か経った雪の降る夜、夜廻(よまわ)りのお爺(じ)んつぁんが、拍子木(ひょうしぎ)をカチカチ叩(たた)きながら、
「火の用心、火の用心」
って歩ってたら、、松の木の根元で、女が長い髪の毛を解かしていたど。こんな夜更(よふ)けに、しかも雪の降る晩におかしな女もあるもんだ、と思うて、
「誰だぁ」
って、とがめたど。
「ハイ、わだしですかぁ」
って、振り向いた女の顔を見だら、何と三尺(さんじゃく)もある、目も鼻も口も無えノッペラボウだったど。お爺んつぁんは「アワワワー」って、腰を抜かしてしまったど。
それからというもの、雪女の噂がいよいよ本当だということになって、大騒ぎになったど。そこで、腕に覚えのあるお城の家老(かろう)が、自ら見廻りを買って出たど。
珍しく雪の降らない、月夜のことだった。
「こんなに晴れあがった明るい晩に、よもや雪女なんぞ出ねべ」
といいながら家老が見回っていだら、直ぐ目の前を一尺ばかりの小坊主(こぼうず)が、テクテク小走りで行くんだと。<これは あやしいぞ>と思って、家老が右さ寄れば小坊主は左さ寄り、左さ寄れば右へ寄る。<いよいよ あやしい>と思って、踏(ふ)んづけっぺとしたら、小坊主はコロコロと前さ転げて逃げんだど。<こいつは 化け物だ>
と思って、やっと捕まえて、両肩(りょうかた)をぐっと押さえつけ、
「ウン、ウン」 って力を入れたら、力をいれる程に小坊主は大きくなって、家老と同じ背丈(せたけ)になったど。これより大きくなられでは何されるか判らんから、パッと手を離すや刀を抜いて斬りつけた。そいつは、
「ギャーッ」
って叫び声あげて、屋根の高さほども背が伸びてから、どうっと砕(くだ)けて、粉雪になって四方に散ってしまったど。そのとたんに、雪が降りはじめ、風も出て激しい吹雪(ふぶき)になったど。雪女は、そのあとは姿を現さなくなったど。
こんで よっこもっこ さげた。
管理人の一言
好くある「雪女」と異なり、少しユーモアーなお化けの様だナ。赤ん坊が重いツララになったり、剽軽(ひょうきん)な小坊主が出て来たり、ノッペラボウが出て来たり。処で、雪女の有名なお話は果たしてどんなだったべや?その正体は、氷の塊や雪の塊で吹雪(ふぶき)になって空中に飛び散り無くなってしまうのだろうか?
2018年12月15日
宮城県 郷土の昔話 その3
しばらの間、私が住まいする宮城県の郷土の昔話をお伝えしようと思います。お子様やお孫様が寝る前の一時、語ってお伝え願えれば幸いです・・・その3
宮城県の昔話(全14話)
再話 佐々木 徳夫
整理・加筆 六渡 邦昭
提供 フジパン株式会社
第七話 『ヒバリとウズラとヨシキリ』
昔々、ヒバリとウズラとヨシキリは、仲良(なかよ)く一緒(いっしょ)に暮(く)らしていたそうな。 或る日、ウズラに用ができて町へ出掛(でか)けることになったと。ウズラは履(は)き物(もの)が無(な)かったので、ヒバリの草履(ぞうり)を借(か)りようと思った。
「ヒバリさん、今日オレ町へ行かねばなんねくなったが、ちょっこら草履を貸(か)してくれんか?」
「この草履はオレの一張羅(いっちょうら)で、他(ほか)に代わりが無いから嫌(や)でがんす」
「そんなこと言わんで、ちょこっとだから貸してくらっしぇ」
「やんでがす!」
「ちょこっとだけ」
ウズラはヒバリが嫌(や)だ嫌だと言うのを無理(むり)やり借りて、履いて町へ出掛けたと。その日は丁度、市(いち)の立つ日で、町にはたぁくさんの人が出ておった。小っさいウズラは、何度も何度も踏(ふ)まれそうになったっと。
右に避け、左に避け、ちょこまかちょこまかしているうちに、何時の間にか、ヒバリの大事な大事な草履が片一方(かたいっぽう)脱げて、無(な)くなっておったと。
「こりゃア大ごとだぁ、どうあっても見(め)っけなきゃあ!」
ウズラは、必死(ひっし)になって町のアチラコチラを探(さが)しまわった。が、何処へ行ったものやら、草履を見つけることができなかったと。オエオエ泣(な)きながら家に戻(もど)ったら、ヨシキリが走(はし)って来て、
「お前、どうして泣いているや?」
て聞くから、泣きながら、
「実は、町へ行ったらこれこれ、しかじかぁ……」
と、草履を無くした訳を話したと。
「オレも探してやるから、ヒバリにオレもお詫(わ)びしてやるから。さ、さ、もう泣くな」
と言うて、一緒にヒバリにお詫びしたと。ヒバリはカンカンに怒(おこ)って、
「それだから、オレ嫌んだって言ったんだ。オレの一張羅の草履なんだから、どうあっても探して持って来ねば、おれ堪忍(かんにん)しねえからな!」
と言うた。ウズラとヨシキリは、それから毎日毎日、草履の片一方を探して歩いた。したけど、どんだけ探しても、どんだけ尋(たず)ね歩いても見つからなかったと。
ウズラとヨシキリがヒバリに、「銭(ぜに)っこやるから」と言うても、「代わりの草履を買(こ)うてやるから」と言うても、ヒバリは『うん』と言わない。
「何が何でも、あの草履返(け)えせ!」
と、ウズラを叩(たた)いたり蹴(け)ったりするもんだから、ウズラとヨシキリは辛抱(しんぼう)しきれなくなって、隠(かく)れることにしたと。ウズラは草むらに隠れ住(す)み、ヨシキリは藪(やぶ)の中に隠れ住んだと。
・・・昔、こんなことがあったもんだから、今でもヒバリは空高く舞(ま)いあがって、ウズラとヨシキリを探しては、
「まだ草履片一方見つからねえか、返せ返せ、ピーチク、パーチク」
と言うて、叫(おら)んで居るのだと。ヨシキリはヨシキリで、
「ゲェジ、ゲェジ、カラゲェジ。草履片べら、なんだんベエ」
と、ウズラを勇気(ゆうき)づけてやっているんだと。
えんつこ もんつこ さげえた。
管理人の一言
昔は仲良く一緒に遊んでいたのだけど、草履を無理に借りて無くしたものだから、ヒバリは怒りウズラは草むらに隠れ住(す)み、ヨシキリは藪(やぶ)の中に隠れ住んだと。そしてヒバリは空に・・・って夫々住み分けたんだナ。
草履の片方が無くなると履くに履けないし、と言って何時か見付かると思うと捨てようにも捨てれないもんだべナ。困ったもんだなや。この様な一対で使うものは色々あるけど・・・お箸に手袋・・・片方無くすと用を足さないもんな。困った困った・・・
第八話 『見なきゃ良かった 聞かなきゃ良かった』(みなきゃよかった きかなきゃよかった)
挿絵:かわさき えり
むがすあったずもな。あるどごに旅人(たびびと)がいて、歩いでいだら日が暮れだ。
「野宿はしたくねぇし、今夜一晩(ひとばん)泊めて呉(け)るどご無(ね)がなぁ」
っで言って、なおも歩いでいだら、うまいごどに一軒家(いっけんや)があったど。
「旅の者だが、何とか一晩泊めて貰えねべが?」
っで言っだら、お婆(ば)ンつぁんが孫を抱いて出て来て、
「この通りのあばら家(や)でもよがったら、お泊まんなえん」
っで言って、旅人んこと、囲炉裏端(いろりばた)さ招(しょう)じ入れたど。
お婆ンつぁんは、
「ちょうど雑炊(ぞうすい)を作ってだがら、熱(あっつ)いどごあげっから」
っで言って、孫を膝さ抱き上げて、シャクシで雑炊をかき混ぜたど。旅人は火に手をかざしてあたりながら、今できるか、今できるかと待っていたど。お婆ンつぁんの膝の上の孫、顔赤らめて息んだったが、そのうち孫の裾(すそ)から、かたいナニがコロコロ転がって、鍋の中さポチャンと入ったど。気がつかねえお婆ンつぁん、シャクシでガラガラかき混ぜたど。
旅人は腹の虫がグーグー鳴っても、とっても食う気がしなかったど。お婆ンつぁん、欠けた椀にその雑炊山盛りにして、
「さぁさ、どうぞおあがんなえん」っで言っだ。
「あいや、ア、痛ダ、イダダァ。急に腹が差し込んで、ア、痛ダ。折角だども、今夜は食わねほうが好いど思うがら、お湯コだけいただきます」
旅人は、何とか雑炊をまぬがれて、煎餅蒲団(せんべいぶとん)借りて寝たど。
挿絵:かわさき えり
んだども、腹の虫がグーグー騒(さわ)いで収まんね。厠(かわや)さ起きる振りして、ソウっと台所さ行って戸棚(とだな)の中を探したら、小皿に茄子(なす)がひとつあったど。ホヤーと温(ぬ)くかったんで、煮付の残りかと思って一口に食ってしまっだど。次の朝ま、お婆ンつぁんが台所で、
「小皿さ置いでだ茄子が見え無くなったや。どごさ行ったべ。アリャァ温めて痔(じ)をあっためる茄子なのに」
っで言ってるのを旅人が聞いだ。旅人は気持ち悪くなったげんども、腹の底さ入ってしまって、何どもしょうがなかったど。
こんで、えんつこもんつこ、さげた。
管理人の一言
こんなことはよーくある話だナや、俺も似たような経験はたくさんありそうだナ。一つの危険から逃れようとすると、次に又新たな危機に見舞われるんだな。更に新たな困難が来ることもあるな。一つや二つの危機には対処しても、三つめ危機に対処するのは本当に体力と気力が必要だ。
まとめて一度に解決するのは不可能だから、一つ一つ確実に対処することを考えるしかないものだナ。ナ〜に、そう考えれば何とか為るもので、堅実に解決に努力するしかないのだ・・・アーメン
自由テキスト
第九話 『かしこ淵』(かしこぶち)
挿絵:かわさき えり
むかし、陸前の国(りくぜんのくに)今の宮城県(みやぎけん)にひとりの男がおった。ある日、男が谷川(たにがわ)で魚釣りをしていたと。処が、その日はどう云う訳か一匹も魚が釣れなかった。そこで場所を変えてみようと、川の上流(じょうりゅう)へ行くと、そこには水の青い、いかにも深そうな淵(ふち)があった。
「よし、ここで釣ってみるか」
男が釣り糸をたらすと、直ぐに魚が掛かった。面白(おもしろ)い様に釣れる。少しの間にビク一杯(いっぱい)の魚が釣れた。男は、
「これは好い釣り場を見つけた。でも、釣れ過ぎるのも疲れることだわい。ちょいと一休みするか」
と、岸辺(きしべ)にゴロリと横になった。一眠りして、何気なく淵を見ると、淵の中から水グモが出て来た。水グモは、岸辺に寝転んでいる男のところへやって来て、クモの糸を男の足の親指にクルリとひっかけた。そして、もとの淵の中へ入って行った。
しばらくすると、また、淵の中から水グモが出て来て、クモの糸を男の足にかけて行った。
「ハテ、変なことをする?」
と思って見ていると、水グモは何度も何度も淵と男の足の親指との間を行ったり来たりするのだった。そうして、何時の間にか、男の足の親指には指の太さほどの糸が確りと巻き込まれていたと。
挿絵:かわさき えり
男は、クモが淵の中へ戻ったすきに、足の親指から糸を外して、傍にあった柳(やなぎ)の木の根っこに糸をひっかけておいた。そうしたら、淵の底から、
「太郎(たろう)も次郎(じろう)も、皆来ぉい」
と、声がした。何事(なにごと)かと思って、男が淵をのぞきこむと、今度は、
「エンと、エンやらさぁ。エンと、エンやらさぁ」
と、かけ声がきこえて来た。ダンダンかけ声は大きくなり、
「エンと、エンやらさぁ」
と、バカでかい声がして、男のそばの柳の木が、メリメリメリーと音をたてて、根こそぎ淵の中へ引きずり込まれていった。
男は、ほっと胸をなでおろし、
「あぶないところだった。柳の木に糸を巻きかえておいたお陰で命拾(いのちびろ)いをした」
と、独言(ひとりごと)を言った。すると、淵の中から、
「かしこい、かしこい」
と声が聞こえて来た。こんなことがあってから、人々は、この淵を"かしこ淵"と呼ぶようになったそうな。不思議なことに「かしこ淵」は色々な県にある。
まんまん えんつこ さげぇた。
管理人の一言
物事が大成功し有頂天に為って一休み・・・そんな時に隙(すき)が出るのが人間の性(さが)ってもんです。偶(たま)にボーッと休むのは結構だが、怠けたりサボってばかり居ては直ぐに没落するのですな。「酒と女に気を付けろ」誰かに足を引っ張られるのです。休む時も羽目を外さず注意深く物事を観察することが大切です・・・
宮城の民話 その4につづく
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宮城県 郷土の昔話 その2
しばらの間、私が住まいする宮城県の郷土の昔話をお伝えしようと思います。お子様やお孫様が寝る前の一時、語ってお伝え願えれば幸いです・・・その2
宮城県の昔話(全14話)
再話 佐々木 徳夫
整理・加筆 六渡 邦昭
提供 フジパン株式会社
第四話『お月お星』(おつきおほし)
挿絵:かわさき えり
昔、あるところにお月(つき)とお星(ほし)と云う二人の娘がいたと。お月は亡くなった先妻(せんさい)の子で、お星は継母(ままはは)の子であったが、二人はとても仲が良かったと。継母は娘のお月を、
「お月は何て嫌な子だべ」
云うて、憎んで憎んで、何時か殺してやろうと思っていたと。或る時のこと、父親が急用で上方(かみがた)へ出かけて行った。継母はこの時とばかり、お月を殺す恩案をしたと。妹のお星は母親のたくらみを知って、
「姉さん姉さん、今夜はオラの布団さ一緒に寝るべ」
云うて姉を誘い、姉の布団の中には西瓜を寝させて置いたと。そうとは知らない継母は、そっと忍んでそれを出刃包丁で突き刺したと。
「これでもう憎らしいお月も死んだべ」
とニンマリしていたら、翌朝になってお月が、
「母さん、お早うござりす」
と朝のあいさつをしたので悔しがったと。そこで今度は、継母は石の唐櫃(からびつ)の中にお月を入れて、奥山へ運んで行って穴の中へ埋めさせることにしたと。
妹のお星はこれを知って、石屋にソッと頼んで、唐櫃の底に小さい穴を開けて貰ったと。そして姉のお月に、
「姉さん、この芥子(からし)の種を持って行ってけさい。唐櫃の中からこの芥子の種をこぼしていけば、春になったら芥子の美しい花コ咲くべから、それをたどりたどり必ず助けに行くから」
云うて芥子の種を渡したと。お月は、お星から貰った芥子の種を石の穴からポトリポトリこぼしながら、山へ連れて行かれ、穴の中へ埋められてしまったと。
やがて冬が去って春が来たと。野山に花がほころびはじめ、お月の撒いて行った芥子の種が芽を出して、美しい花が咲いたと。お星は母に弁当を作って貰い、山遊びに行かせて貰った。お星は芥子の花の咲いている道を辿って、山の奥へ奥へと分け入ったと。そして声一杯に、
「お月姉さん、お月姉さ―ん」 と呼ぶと、向こうから細い声で、
「ホーイ、ホーイ」
と云う返事が聞こえて来た。
お星は急いで穴を掘って、石の唐櫃を開けると、お月を救い出したと。お月はもう、骨と皮ばかりに痩せ細って、髪の毛はトーキビの毛のように赤く縮れていたと。
「んでも姉さん、好く生きていただ」
「オラ、お星が呉れた芥子の種の残りを食べて、やっと持ち応えただ」
言い合って、二人は抱き合って嬉れし泣いたと。
「姉さん、これから又家さ戻っても殺されるべから、何処か遠くさ行くすべ」
云うて、お月とお星は、手をたずさえて何処へともなく姿を消したと。
それから間もなく、旅に出ていた父親が家へ帰って来たと。土産を一杯持って来たが、お月もお星も姿を見せない。女房に、
「ふたりは、どこさ行っただ」
と尋ねると、女房は、
「多分、山さでも遊びに行ったのだべ」
と知らんプリをしている。しかし何日待っても娘たちが帰って来ない、父親は心配のあまり六部(ろくぶ)になって、お月とお星を探しに出かけたと。
「お月お星が 居るならば 何しにこの鉦(かね)っコ叩くべや カ―ンカーン」と鉦を叩きながら、何処までも何処までも探し歩いたと。これが鉦叩き鳥のはじまりだと。お月とお星は、空高く昇って行って、お月さんとお星さんになったとも言われとる。
えんつこもつこ さげえた。
管理人の一言
何とも悲しい話だナ、涙が出て止まらないべ。それにしても、継母(ままはは)とは何でこんなに意地悪なんだべや?これは、時代を幾ら超えても無くならない業の様なものだべナ。継母に悪気が無いとも言えないが、自然に出て来る・・・「母性愛の裏返し」の様なもんだべナ。きっと我が子が可愛いのと逆に憎しみが出て来るんだナ。
父親は六部に為って、鉦を叩きながら二人の娘を探し回ったそうな。殺したい程憎んだり、全てを投げ捨て娘を探す深い父親の愛情・・・人間には、この様な深い業があるんだナ。
第五話 『蟻と蜂の旅』(ありとはちのたび)
挿絵:かわさき えり
昔、昔、あるところに蟻(あり)と蜂(はち)があったと。或る時道端(みちばた)のタンポポの花のてっぺんで蟻と蜂が出逢(あ)った。
「やあ、蜂」
「やあ、蟻」
って、あいさつして語りあっていたら、時は春、あんまりにもウララカだから、何処かへ旅をしようかということになったと。蜂は空をブンブン飛びながら、蟻は地面をセッセ、セッセと足動かして行ったと。
「蟻、アリ、おめ、なかなか足が速(はや)いな」
「蜂、お前(め)、8(はち)の字に行ったり来たりして俺(お)らに合わせて呉れているども、くたびれたべ」
って、ちょこっとの間(ま)休んで、また旅したと。いくがいくがいくと、デッカイ魚が道に落ちてあった。さて、何の魚かナア、って、旅の人が来たから聞いたら、
「こいつは鯛(たい)っていう魚だ」
って、教えてくれた。蜂が、
「好いもの見つけたナア。俺(おれ)達二人で拾ったものだから俺達の物(もん)だ」
って、言うたら、蟻が、
「何、俺らが這(は)って来て、一番に見つけたから、俺らの物だ」
って、言うた。そしたら蜂は、
「何だよ、そんなこと言うか、俺は空から先に見つけてたぞ。俺のもんだべ」
って、けんかになったと。そんだら弘法(こうぼう)様のところへ行って、どっちの物だかお聞きしてみよう、と云う事になり聞いたと。そしたら弘法さま、
「そうだな、拾ってありがたかったべ、ありがたいだから、鯛は蟻の物だな」
って、おっしゃられた。 蟻は喜(よろこ)んで、何処かへ運んで隠(かく)したと。
また、蟻と蜂は旅した。アッチを見、コッチを見して、旅は面白いナアって言っていたら、夏が過ぎて秋になったと。今まで咲(さ)いてた花も枯(か)れて涼(すず)しくなった。それでも、いくがいくがいくと、また、見たこともない魚が道に落ちていた。旅の人に聞いたら、
「こいつは鰊(にしん)っていう魚だ」
って教えて呉れた。蟻がまた欲(よく)たれて、
「オラが先に走って来て見つけたんだから、こいつも俺らのだ」
って言うた。そしたら蜂が、
「この前は、お前が鯛とったべ。鰊まで、またお前がとることなかべ」
って、けんかになったと。そんだら弘法さまのところへ行って、どっちの物だか、お聞きしてみよう、ということになり、聞いたと。 そしたら、弘法さま、
「そうだな、これは初鰊(はつにしん)だな。初めてとれた鰊だから蜂の物だ。はちにしんだ」
って、おっしゃられた。蜂は喜んで、何処かへ運んで隠したと。蟻と蜂は、
「お前はアリガタイだす」「お前はハチニシンだす」
って言うて、又、仲好く旅したと。
えんつこ もんつこ さげぇた。
管理人の一言
「お前はアリガ鯛(たい)だす」「お前はハチ鰊(にしん)だす」って結局、弘法様のシャレなんだね。何れにしても友達同士仲良くしなさいと云う事の様だな。チャンチャン!
第六話『犬の眼』 (いぬのめ)
挿絵:かわさき えり
昔、あるところに一人の男があった。男は眼(め)の病気になったと。痒(かゆ)くなり、痛(いた)くなり、かすんで来て、段々見えなくなった。眼医者(めいしゃ)へ行って、診(み)てもらったら、
「これは、眼ん玉はずして、よっく手入れをせなんだら、この先もたんな」
と言われた。
「眼ん玉をはずすだと、トンでもねえ」
男が怖気(おじけ)づいて眼をむいたら、すかさず眼医者が、男のおでこを小槌(こづち)でトンと叩(たた)いた。眼ん玉が飛び出たと。そこを匙(さじ)でくり抜(ぬ)いた。
「ホウラ抜けた。お前はしばらくそこで寝とれ」
こう言うと眼医者は、塩水やら何たら薬やらで手入れして、眼ん玉を日向(ひなた)に干(ほ)したと。
処が、干し過ぎて眼ん玉が縮(ちぢ)んで小さく為ってしまった。
「ありゃ、こりゃ、いかんわい」
眼医者はその眼ん玉を、今度は水に浸(ひた)して置いたと。処が、浸し過ぎて眼ん玉がフヤケて大きくなってしまった。
「ありゃ、こりゃ、いかんわい」
眼医者は、その眼ん玉を再度(ふたたび)日向に干したと。処が、犬が来て、その眼ん玉を食うてしまった。
「ありゃ、こりゃ、いかんわい」
困った眼医者は、
「この犬の眼ん玉くり抜いて、あの男に入れてやろ。何、眼にはかわりない」
と言いながら、犬の眼を見たら、犬は怖気づいて眼をむいた。すかさず眼医者が、犬のおでこを小槌でトンと叩いた。眼ん玉が飛び出たと。そこを匙でくり抜いた。その犬の眼ん玉を男に入れてやったと。
「どうじゃ、見えるか」
「へえ、おかげさんで足元(あしもと)がよおっく」
男は喜(よろこ)んで帰って行ったと。
処が、それからというもの、男は糞(くそ)を見ると無性に食いたくなる。困って、また眼医者に行き、話をしたと。眼医者は、こりゃ、犬の眼の所為に違いないと思うたが、
「なに、直(じき)に治(なお)る。理由(わけ)は分かってる」と、男を安心させた。早速(さっそく)男から眼ん玉をくり抜いて、手入れをし、また戻してやったと。処が、今度は裏返(うらがえ)しに入れてしまった。
男は、見えることは見えるのだが、何が見えているのか、好く判(わか)らん。不思議に思うていたら、どうやらおのが身体(からだ)の中が見えているらしいと気がついた。サア、そうなると面白(おもしろ)くてならん。身体の隅(すみ)から隅までたどって観(み)たと。
身体の仕組(しく)みやら加減(かげん)やら、様々(さまざま)理解(わか)るようになった男は、病気ひとつしなくなって、とうとう五臓六腑(ごぞうろっぷ)を扱(あつか)う評判(ひょうばん)の医者殿になったと。
どんびすかんこねっけど。
管理人の一言
オデコを金づちで「ポコッ!」叩くと目ん玉が飛び出すんだネ。それをスプーンでほじくり出す・・・これが意外にリアルで面白いネ。自分でやってしまおうかな? 目を繰り抜かれた犬が可愛そうだけど、達者にやってるかな?
マア、そんなことを抜きににして物語は進み、裏返しに入れられた目ん玉で自分の身体の中を覗く・・・と云う着想も面白いネ。そして内臓を知り抜いた男は名医に為ったって?とても身勝手で適当で無責任だけど、結果オーライって訳だね。それはそれで好いのでは?
宮城の民話 その3につづく
宮城の民話 その1
私が住まいする宮城県の、郷土の昔話をお伝えしようと思います。お子様やお孫様が寝る前の一時、語ってお伝え願えれば幸いです・・・
宮城県の昔話(全14話)
再話 佐々木 徳夫
整理・加筆 六渡 邦昭
提供 フジパン株式会社 から引用します・・・
第一話 良太の智恵(りょうたのちえ)
挿絵:かわさき えり
昔、あるところに良太(りょうた)と云う面白い子供がおったと。或る日縁側で遊んでいた良太に、おとっつぁんが
「これ、良太。おてんとう様と江戸(えど)とドッチが近いと思う?」
と聞いたそうな。そしたら良太は首を曲げて思案(しあん)してから、
「おてんとう様の方がよっぽど近い。だっておてんとう様はここから見えるけど、江戸はサッパリ見えないもの」
と言うた。おとっつぁんはスッカリ感心(かんしん)してしまったと。
それから何日かして、江戸からお客(きゃく)さんが来たそうな。おとっつぁんはお客さんに早速、良太の利口(りこう)な処を見せようと思って、
「良太や、おてんとう様と江戸とどっちが近いと思う」
とまた聞いたんだと。そしたら良太は、お客さんとおとっつぁんの顔を見て、首を曲げて思案してから、
「江戸の方がズッと近いよ」
と答えたと。スッカリあてが外れてしまったおとっつぁんは、妙な顔をして、
「どうして江戸の方が近いって言うのや。おめえ、この間はおてんとう様の方が近いって言ったでねぇか」
と言ったそうな。そしたら良太、
「そんな事言ったって、おとっつぁん、江戸からはこうしてお客さんが見えるけど、おてんとう様からは未だ一ぺんも見えた事がないもの」
と、こう言うたと。
こんでおしめい、チャンチャン!
管理人の一言
どうだべな・・・そんな面白い話でも無かったよナ。目の前に見えるものは身近で親近感が深く感じられるけど、それと本当の現実は違うってことだべナ。実際に話したり手で触ったりできる現実は、逆にその本質を好く見ていないのだと云うことでもあるんだべナ。物事の確信を正確に掴むには、現実から適当な距離を置き、客観的な思索や観察も大切なんだべナ・・・
第二話『牛になった爺婆』(うしになったじじばば)
挿画 かわさき えり
昔、あったと。或る所に金持ちの欲深(よくぶか)爺(じじ)と婆(ばば)が居たと。或る晩(ばん)げのこと、旅の六部(ろくぶ)がやって来て、
「どうぞ、ひと晩泊(と)めて下さい」
と頼(たの)んだと。
欲深婆は、汚(よご)れた身成(みな)りの六部をひと目見て、
「今夜、泊まり客(きゃく)があってダメでがす。隣(となり)さ行ってけろ」
と、素気無く断(ことわ)ったと。その隣に貧乏(びんぼう)な爺さんと婆さんが住んでいたと。気の毒(どく)な六部を見て、
「何のお構(かま)いも出来ねえけんど、どうぞお泊まんなさい」
と、快(こころよ)く迎(むか)え入れたと。ほして、残りご飯を温(ぬく)めてご馳走(ちそう)したと。
次の朝ま、婆さんが早々(はやばや)と起きて朝ご飯の仕度(したく)をして待っていたが、六部はナカナカ起きて来ないのだと。心配になって障子(しょうじ)の穴からソオッと覗いて見たら、布団(ふとん)の上には、六部では無くて大きな牛の形をした金の塊がピカピカ光って寝てあったと。
貧乏な爺さんと婆さんは、一遍に大金持ちになったと。隣がにわかに福々(ふくぶく)しくなったのを見た隣の欲深婆が、
「どうして金もうけしたや」
と聞いたと。爺さんと婆さんは、六部を泊めたら金の牛に為って居たと話したと。ほしたら、欲深婆が、
「おら家(え)も、今度六部が来たら必(かなら)ず泊まってもらうべ」
と言うたと。
欲深爺と婆は、毎日門口(かどぐち)に立って、旅の六部が来ないものかと待ち構(かま)えていたと。ほしたら或る日、汚(きたな)げな六部がやって来たので、
「六部さん、六部さん、今夜ぜひ、おら家さ泊まってけろ」
と言うて、無理やり手を引っ張(ぱ)って家に入れたと。ほして、残り物を集(あつ)めて、冷(ひや)っこいまんま食わせ、
「六部さん、六部さん、疲(つか)れたろうから、早よ休め」
と、冷っこい煎餅布団(せんべいぶとん)に寝かせたと。欲深爺と婆は、
「まんだ金の牛になってねか?」
「いんや、まだなってね」
「まだか?」
「まだだ」
と言うて、何遍(なんべん)も何遍も覗いて見たと。幾ら経(た)っても金の牛になっていないので、二人で神棚(かみだな)の前にぺタッと座(すわ)って、
「あの六部が、早く金の牛になりますように!」
「んだ、ピカピカ光る金の牛になりますように!」
と、拝(おが)んでいたと。
ほしたら、舌(した)がダンダン回(まわ)らなく為って来て、ヨダレがベロベロ流れて来たと。ほのうち、頭から角(つの)がニョッキリ生(は)えて来て、欲深爺と婆の方が牛に為ってしもうたと。
こんで えんつこぱあっと さげた。
管理人の一言
何時の時代にも居る、意地悪でケチな人と親切で優しい人の違いなんだべナ。ヤッパー常に心掛けねば、咄嗟の事態には欲をかいて醜態を演じてしまうべナ。例え直ぐに報われ無くとも、人には常に親切で優しく接する様に心掛けねばネ。その方が心も豊かに為るんだネ・・・処で*六部ってナアンだ?
*解説 六部(仏教言葉・ろくぶ)とは?
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
六十六部の略で、本来は全国66か所の霊場に一部ずつ納経する為に書写された66部の『法華経(ほけきょう)』のことを言ったが、後に、その経を納めて諸国霊場を巡礼する行脚(あんぎゃ)僧のことを指す様になった。別称、回国行者とも言った。
我が国独特のもので、その始まりは聖武(しょうむ)天皇(在位724〜749)の時とも、最澄(さいちょう)(766―822)、或いは鎌倉時代の源頼朝(よりとも)、北条時政(ときまさ)の時とも言い定かでは無い。恐らく鎌倉末期に始まったもので、室町時代を経て、江戸時代に特に流行し、僧ばかりでなく俗人もこれを行うようになった。
男女とも鼠木綿(ねずみもめん)の着物に同色の手甲(てっこう)・脚絆(きゃはん)・甲掛(こうがけ)・股引(ももひき)を着け、背に仏像を入れた厨子(ずし)を背負い、鉦(かね)や鈴を鳴らして米銭を請い歩いて諸国を巡礼した。
第三話 『藤田丹後』(ふじたたんご)
挿絵:かわさき えり
これは、ずうっと昔、キリシタンを厳(きび)しく取り締(し)まった頃の話だ。陸前(りくぜん)の国、今の宮城県の鹿島(かしま)と云う町に隠(かく)れキリシタンの藤田丹後(ふじたたんご)と云う武士(ぶし)が居ったと。
或る時、キリシタンであることが殿様に知れて、藤田丹後はお寺に身を隠したと。殿様は、藤田丹後の親類(しんるい)の茂庭(もにわ)と云う家来(けらい)に、丹後を捕(とら)えるように命じたと。茂庭は殿さまの命令(めいれい)とあれば仕方が無い。捕(と)り方を大勢引き連れてお寺を取り囲んだと。
自分を捕えに来たのが茂庭だと知った丹後は、笑って、
「俺は幾らでも逃げられるがナ、それではオレの親類の茂庭が気の毒(どく)だから捕まってやるさ。だが、俺が捕まえられればキリシタン、バテレンの妖術(ようじゅつ)ば見せることも出来なくなるから、ひとつ参考までに見せてやろう」
こう云うと、中庭に下りて何やら呪文(じゅもん)を唱(とな)え始めた。そして、印(いん)を結んだとたんに、前の方の海から海水がドッと押(お)し寄(よ)せて来たと。茂庭をはじめ捕り方たちは、慌てて後ろの方へ逃げ散(ち)ったと。丹後は笑って、
「今度は釣(つ)りでもしようか」
と云うと、一竿(いっかん)の釣り竿(ざお)を手にし、糸を海水の中へ投げ込んだ。するとたちまち、釣り糸の先には大きな魚が掛かったと。
「何の魚だべ」と、捕り方のひとりが見ると、赤鯛(あかだい)であったと。
「また釣ってみせようか」と言って釣り糸を垂(た)れたら、今度は見事な鮪(まぐろ)が掛かったと。そうやって、アレヨアレヨと云う間に小山になるほど魚を釣ってみせたと。
「もうこれで好かろう」
と言うて、藤田丹後が釣り竿を収(おさ)めたら、たちまち海の水が引いて中庭の土が見えて来たと。後退(あとじさ)った捕り方たちが庭に下りて来て、しきりと不思議がっておったが、そのうち捕り方のひとりが、帯をさわりながら、
「刀(かたな)が無い」
と叫(さけ)んだ。すると、アチコチで、
「おれの棒(ぼう)が無い」
「さすまたが無い」
などと驚き慌てふためいたと。捕り方たちの持っていた武器(ぶき)は、ひとつ残(のこ)らず消えていたと。すると、藤田丹後は、カラカラと笑って、
「心配することはないさ、ここにあるではないか」
と魚の山を指(さ)してやった。何と、魚の山と見えたのは皆の武器の山であったと。
「どうだ、オレのキリシタン・バテレンの妖術は?だから俺は、逃げようと思えば何時でも逃げられる、と 言ったろうが」
親類の茂庭をはじめ、捕り方たちはあぜんとしているばかりだと。
やがて、藤田丹後は寺の和尚に挨拶(あいさつ)をしてから、綱(つな)の掛かった籠(かご)に自分から乗ったと。その前後左右を捕り方たちがとり囲(かこ)んで運(はこ)んで行ったと。しばらくすると、後ろから、
「オイ、オイ」
と呼(よ)ぶ声がする。捕り方たちが振(ふ)り返ってみると、厳重(げんじゅう)に括られた籠に乗っている筈の丹後が、後を追って来ておった。
「なに、寺に忘れ物をしたので、ちょいと取りに行って来た。後は何も無いから、籠の中で眠(ねむ)らせて貰うさ」
と、ヌケヌケと言うと、捕り方たちは、
「何時の間にいなくなったんだべ」
と云うて、首を傾(かし)げるばかりだと。藤田丹後は、やがて刑場(けいじょう)で殺(ころ)されたが、その時丹後の身体はスウッと煙(けむり)の様に消えて、あとはどうなったか、誰にも分からなかったそうな。
どんびん。
管理人の一言
昔話に「隠れキリシタンの武士」の話が出て来るのは珍しいで無いかい?それと、伴天連のキリシタンだと自分を紹介し、妖術を使う設定もネ。結局彼は処刑されたのだが、仙台伊達藩の中には、伊達政宗が支倉常長の遣欧使節団を送るほどの熱心な信者も数多く居たんだろうな。それは、武士の中にもネ。
政宗の使節団の目的は、メキシコやヨーロッパとの交易によって利益を得ようとした様だが、結局、徳川幕府もキリシタンを禁教として迫害した。その後政宗は、表向きキリスト教を禁止せざるを得ずに居た。だから藩内にも「隠れキリシタン」は相当存在したと考えられそうだナ。特に地方の藩には、江戸時代中、ズーッと信心していた人々が数多く居たと考えるべきだろうな・・・
宮城の民話 その2につづく
2018年10月18日
ナポレオン その3
ナポレオン その3
大陸封鎖令
1806年11月には大陸封鎖令を出し、イギリスとの貿易を禁じて経済的な打撃を与え、フランス産業を育成しようとした。
続いて、ポーランドに侵攻し、プロイセン・ロシア連合軍を破った。1807年7月、ティルジット条約が結ばれ、プロイセンは約半分の領土を失い、多額の賠償金を課せられた。プロイセンの旧領にはヴェストファーレン王国が建国され(ナポレオンの弟ジェローム・ボナパルトが国王)、分割されたポーランドをワルシャワ公国として復活させた。
ロシアはイギリスに敵対する大陸封鎖令に参加し、スウェーデンにも封鎖令を強要する事でフィンランドの獲得が容認された。その結果、1809年に第2次ロシア・スウェーデン戦争が起き、スウェーデンは敗北、フィンランドはロシアの属国となった。この頃がナポレオンの絶頂期で、イギリスを除く全ヨーロッパを支配した。
パリの凱旋門(三帝会戦の勝利を祝してナポレオンが建築を命じた)
没落
しかし、大陸支配は長くは続か無かった。彼は自由を掲げてヨーロッパを解放したが、それは民族意識を植え着ける事にも為った。先ず、兄ジョゼフ・ボナパルトが国王に就いたスペインで反乱が起きた(半島戦争或いはスペイン独立戦争)。背後でイギリスやポルトガルが支援し、フランス軍は敗れた。
1809年、オーストリアとイギリスは第5次対仏大同盟を結成して反撃して来た。ナポレオンはウィーンに進攻し多大な損害を出し乍ら辛くもオーストリア軍を破った。ナポレオンはジョゼフィーヌと離婚し、オーストリア皇女マリー・ルイーズを妻に迎えた。
1812年6月、ナポレオンは同盟諸国から徴兵した60万の大軍を率いてロシアに遠征した。大陸封鎖令を無視してイギリスに穀物を輸出したロシアを成敗する為である。ロシア軍はナポレオンとの会戦を避け、物資や食糧を焼き払い乍ら退却する焦土戦術を執った。フランス軍は徐々に疲弊して行った。
フランス軍は9月に要約モスクワ近郊に到達した。兵力は1/3に激減し冬が近づいて居た。最後の力を振り絞ってロシア軍を破りモスクワに入城したが、ロシア兵に拠る放火でモスクワは焼け野原と為った。フランス軍は食料を入手する事が出来ずモスクワを撤退した。冬将軍を味方に付けたロシア軍の反撃が始まり、フランス軍は総崩れと為った。ロシアから撤退出来たフランス兵は僅か5,000名で、馬20万頭と大砲1000門も失われた。
エルバ島
不敗のナポレオンが敗れた事で、プロイセンを中心に第6次対仏大同盟が結成され、反ナポレオン闘争が開始された。1813年、ナポレオンはプロイセン・オーストリア・ロシアの連合軍にライプチヒの戦いで敗れた。彼はエルバ島に流され、ルイ16世の弟ルイ18世が王位に就き、ブルボン朝が復活した。
諸国はヨーロッパの戦後処理の為ウィーン会議を開いた。この会議はオーストリアの外相メッテルニヒに拠って主宰されたが、領土配分を巡って利害が対立し「会議は踊る、されど進まず」の状態に為った。各国は保守反動的なウィーン体制を承認した。
しかし、フランス革命とナポレオン支配の下で目覚めた自由主義・国民主義の精神を押さえ着ける事が出来ず、先ずラテンアメリカで独立運動が始まった。フランスでもルイ18世の復古的な政治に民衆の不満が爆発寸前に為って居た。
ウィーン会議が開かれたシェーンブルン宮殿(ウィーン)
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百日天下
1815年2月、ナポレオンはエルバ島を脱出してパリに戻り、国民の熱狂的な歓迎を受けた。再び帝位に就いたナポレオンは、連合国の対仏同盟が整う前にベルギーのワーテルロー(Waterloo)に進軍した。しかし、イギリス・プロイセン連合軍に完敗し、ナポレオンの百日天下と為ってフランス第一帝政は崩壊した。
ナポレオンは南大西洋の孤島のイギリス領セントヘレナに流された。フランスでは亡命中のルイ18世が復位した。島での生活は常に監視された不自由なものだった。1821年、膨大な回想録を残したナポレオンは波乱の生涯を閉じた。51歳だった。遺骸はパリのアンヴァリッド(Hotell des Invalides 廃兵院)に葬られて居る。
あとがき
以上がナポレオンの生涯のあらましです。全く波乱万丈を絵に描いた様な一生ですね。確かに彼の頭脳は、大胆で緻密であり、更に冒険や賭けを好む挑戦的な性格の様です。その裏には、自分の力を信ずる圧倒的に楽天的な面も強かったようですね。
失敗にクヨクヨせず、目の前の困難を何とか乗り越えようと努力する・・・頭を巡らし必死に打開策を求め、時には結果を恐れず信念を全うする・・・何度かのピンチを乗り越え何度も復活を果たすのです。その粘り強さと運の強さは何処から来ているのでしょう?
それが、後に英雄と称えられる彼の成功と失敗と復活の連続・・・そして、今のフランスに伝わる民衆の強さへと繋がるのではないでしょうか。全ては、フランス革命を起こしたフランス人の気質なのでしょう。現在フランスは、燃料税の引き上げに反対する、マクロン政権への反政府大規模デモが繰り広げられています。黄色いベストを着て全国規模での反政府運動が起きています。これは、主催者の居ない自然発生的なデモであり、暴走する人達とは区別すべきものです。
自由・平等・友愛を唄ったフランス革命の意思は、単にフランス王政を崩壊させただけで無く、その後の共和制を維持して行きます。これは、全世界に民衆の力強さを証明した歴史的な出来事だったのです。
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ナポレオン その2
ナポレオンの全盛期
こうして、ナポレオンは1810年頃には絶頂期を迎える事に為ります。占領地には、自身の兄弟を国王として派遣。兄のジョゼフはスペインとナポリ。弟のルイはオランダ。末の弟ジェロームにはウェストファリア王国の王と為ります。ドルストイの文学作品である『戦争と平和』は、この頃の状況を描いた作品ですね。
ナポレオンの没落
イケイケのナポレオンにも遂にストップが掛る時が遣って来ます。先ずは、スペインから。スペインへの侵略は1808年から開始して行きますが、これにスペインの民衆は激怒!しゲリラ戦を展開しナポレオンを苦しめ、結局これを鎮圧する事は出来ませんでした。そして、決定的に為るのがロシア遠征の失敗です。
何故、ナポレオンはロシアに遠征をしたのか?
それは、ロシアがナポレオンの出した大陸封鎖令を無視したから・・・この大陸封鎖令って云うのは、イギリスへの嫌がらせです。島国であるイギリスへ経済封鎖をして打撃を与えようとしたんです。イギリスの商品がヨーロッパに入って来無い様にして、イギリスへも商品が入って来無い様にイギリスをヨーロッパから切り離してしまおうと云う作戦。
ですが、当時既にイギリスは新大陸やアジアに貿易の拠点を持って居り、大したダメージを受け無い・・・逆に苦しめられるのはイギリスへの貿易を封じられたロシア等だったんです。ですから、ロシアはこの大陸封鎖令を無視してイギリスへの穀物輸出を続けました。そこでナポレオンはロシア遠征を決意するんです。
最初の内はナポレオンが優勢でモスクワを制圧するんですが、ここでロシアが執った作戦が焦土作戦。これは、もう自らモスクワを火の海にしてしまうんです。食べ物も無ければ略奪する物も無い状態。ですから、ナポレオンは食糧不足の為撤退を余儀無くされます。
この撤退の最中にも途中でコサック隊等の追撃を受ける事に為りナポレオン軍では、脱走兵が増え始め、馬は餓死し、捕虜に為る兵も増え続けます。しかも、ロシアだから寒いですしね。60万〜70万の兵で出発したと言われて居るロシア遠征でしたが死者は40万人、捕虜が10万人、更には脱走兵とパリに帰って来れたのは数千とか数百人だったと言われて居ます。
このロシア勝利を契機にナポレオン支配下にある各地で「オッ、如何やらナポレオンとて無敵では無いではないか!」と支配打倒の動きが見え始めます。これを解放戦争と言います。1813年にはライプチヒの戦いにてプロイセン・オーストリア・ロシアの同盟軍にナポレオンは敗北しました。
そして1814年 遂に諸国の軍に拠りパリが占領されナポレオンはエルバ島に島流しに為ってしまいます。この島はイタリア半島の直ぐ西にあるナポレオンの出身地のコルシカ島の直ぐ東側です。
ナポレオンの百日天下
さて、ナポレオンの居なく為ったフランス。では、その後継者は誰に為ったのか?
ドイツに亡命して居たルイ18世が即位する事に為ります。革命でルイ16世が殺されて、すったもんだでナポレオンが皇帝に為ったのに結局ルイ18世・・・ウ〜ン。何だかナァって処ですが、ヨーロッパ諸国に取っては元通りが一番無難!って事だったんでしょうね。
しかし、ナポレオンの占領に拠ってグチャグチャに為ってしまった国境。如何しようか?って事で話し合いが凭れます(ウィーン会議)。ですが、各国も自国に有利に進めたいので上手く話が纏まりません。それをチャンスと見たナポレオンはエルバ島を脱出してパリに戻り皇帝に返り咲くんです。ですが、直ぐにイギリス、オランダ、プロイセン等の連合軍にワーテルローの戦いで敗れてしまいます。
その後のナポレオンは南太平洋のセントヘレナ島へ流されてしまいます。これがナポレオンの百日天下と云うヤツです。ナポレオンは、結局この地で1821年に亡く為る事に為ります。死因は毒殺と言った説もありますが、一般的には病死と言われて居ます。51歳でした。
幼少時代は、読書に耽り、苛めの対象にも為って居たと言われるナポレオン。古代ローマの英雄カエサルに憧れ、遂にはフランスの皇帝に迄為り、様々なものを後世に残して居ます。
前途したナポレオン法典は、日本を含む諸外国の民法に影響を与えて居ますし、エジプト遠征中の1799年に遠征軍の大尉が発見したロゼッタストーンは後にエジプト文字の解読の切っ掛けと為ります。缶詰の原理も実はナポレオンの影響が大きく、ナポレオンが長期保存の出来る軍用食のアイデアを求めた処パリの製菓会社のアベールが考案したものが元となっています。
アッ、それからナポレオンと言えば、身長が小さいと言ったイメージを持たれる方も多いのですがナポレオンの身長は167〜168センチと言われて居ます。当時のヨーロッパ人の平均身長から見ても決して小さく無いんですね。しかし、軍人は皆大きかった様です。親衛隊の入隊基準が178センチとされて居たので周りがデカかったようです。
ナポレオン年表
1796.3 イタリア遠征開始
1798.5 エジプト遠征
1799.6 第二回対仏大同盟
1799.10 ナポレオン帰国
1799.11 ブリュメール18日のクーデタ
1800.1 フランス銀行成立
1800.5 第二回イアリア遠征
1802.3 アミアンの和約
1804.3 ナポレオン法典
1804.5 ナポレオンの皇帝即位
1805.8 第三回対仏大同盟
1805.10 トラファルガー海戦
1806.7 ライン同盟
1807.7 ティルジットの和約
1808.5 五月虐殺
1812.6 ロシア遠征
1812.10 ロシア撤退
1813.10 ライプチヒの戦い
1814.9 ウィーン会議
1815.2 ナポレオンエルバ島脱出
1815.6 ワーテルローの戦い
1821.5 ナポレオン死去
では、別の文献でナポレオンの生涯を見てみよう・・・
生い立ち
1769年、ナポレオン・ボナパルトはコルシカ島(Corsica)で生まれた。その後、フランスのブリエンヌ陸軍幼年学校に入学し、パリの陸軍士官学校砲兵科に進んだ。士官学校では通常4年掛る処を、僅か11ヶ月と云う速さでスピード卒業した。
砲兵士官に任官すると、間も無くフランス革命が始まった。革命の最中南フランスの港町トゥーロンで王党派の反乱が起こり、その鎮圧軍に従軍した。トゥーロンには王党派を支援するイギリスやスペインの艦隊が停泊して居た。ナポレオンは港を見下ろす高地から敵艦を砲撃して追い払い反乱を鎮圧した。ナポレオンはこの功績で一挙に砲兵隊司令官へと昇進した。
【コルシカ島 Corsica】 長い間ジェノヴァが支配して居た。18世紀に入ると独立運動が激化し、ジェノヴァはフランスに援軍を求めた。1769年、フランス軍はパスカル・パオリ(Pascal Paoli)率いるコルシカ軍を破り、島はフランス領に為った。コルシカの独立は頓挫した。
イタリア戦役
1794年、テルミドールのクーデターでロベスピエールが処刑されると、彼の弟と親交があったナポレオンは逮捕された。しかし、王党派の反乱が発生した為再び軍に登用され、得意の大砲で反乱を鎮圧した。これに拠って彼は中将に昇進し国内軍司令官と為った。
翌年、貴族の未亡人で総裁バラスの愛人だった年上のジョゼフィーヌと結婚した。彼女はナポレオンを詰まら無い男と見て居り、次々と愛人を作り浮気を繰り返した。
1796年、ナポレオンはイタリア派遣軍司令官としてオーストリアが支配する北イタリアに遠征した。彼は各地でオーストリア軍を破り、北イタリアの諸都市を解放して市民から大歓迎を受けた。フランス軍がウィーンに迫ると、オーストリアは第1次対仏大同盟を破棄して講和条約を結んだ(カンポ・フォルミオ条約)。
この条約に拠って、フランスはイタリア北部に広大な領土を獲得し、ヴェネツィアとジェノヴァ共和国が消滅した。パリに帰還したナポレオンは熱狂的な歓迎を受けた。
エジプト遠征 (エジプト・シリア戦役)
1798年、イギリスとインドの交易路を遮断する為オスマン帝国領のエジプトに遠征した。エジプトに上陸したフランス軍はアレクサンドリアを占領し、エジプトのマムルーク軍に圧勝してカイロに入城した(ピラミッドの戦い)。その後、数週間でエジプト全土を征服した。
しかし海上ではフランス艦隊はイギリス艦隊に破れ、フランス軍はエジプトに閉じ込められた。更に、エジプトの宗主国オスマン帝国が参戦し、マムルーク軍も激しく抵抗した為フランス軍は苦戦に追い込まれた。
翌1799年、フランス軍はオスマン帝国が支配するシリアに進軍しヤッファを占領した。続いてその北の町アッコを包囲するが、頑強な抵抗にあい撤退した(アッコ攻囲戦)。この時ヤッファのフランス軍内でペストが流行し、大勢のペスト患者が置き去りにされた。
イギリスはオーストリアとロシアに第2次対仏大同盟を呼び掛け、フランス国境を脅かした為、総裁政府に対する国民の信頼は失われた。この報を受けると、ナポレオンは単身フランスに舞い戻った。残されたフランス軍は、イギリスとオスマン軍の攻勢に苦戦し2年後に降伏した。
エジプトには167名の学術調査団が同行した。彼等はロゼッタ・ストーンを発見し、カルナック神殿や王家の谷等の古代遺跡の調査を行った。
アルプス越えから第1帝政へ
エジプトから戻ったナポレオンを民衆は歓喜で迎えた。11月、ナポレオンはブリュメールのクーデターで総裁政府を倒し、3人の統領と四院制の立法府から為る統領政府を樹立した。彼は第一統領に就任し、独裁権を握った。
1800年6月、ナポレオンはアルプス越えで北イタリアに侵攻し、オーストリア軍を破った。オーストリアはライン川の左端をフランスに割譲し、北イタリアをフランスの保護国とした(リュネヴィルの和約)。又、革命以来フランスと対立関係にあった教皇と和解し、イギリスとはアミアンの和約で講和して国家の安全を確保した。
内政面では税制や行政を整備し、壊滅的な打撃を受けた工業生産力を回復させた。又、フランス銀行を設立して通貨と経済の安定を図り、法を整備してナポレオン法典を発布した。この法典は、私有財産の不可侵、法の前の平等、契約の自由等近代的な価値観を取り入れた民法で、ハンムラビ法典、ローマ法大全と共に、世界の三大法典と言われる。
海外の植民地では、アメリカにルイジアナを1500万ドルと云う破格の値段で売却した。又、カリブ海イスパニョーラ島西部のフランス領サン・ドマングでは反乱が起き、ハイチ共和国として独立した。
1804年、国民投票で圧倒的な支持を受け、ナポレオン1世として皇帝の座に就いた(第1帝政)。
1805年、フランスの強大化を恐れたイギリスは、ロシア、オーストリアと第3次対仏大同盟を結成した。これに対してナポレオンは、イギリス侵攻作戦を建てドーバー海峡に大軍を集結させた。ネルソン率いるイギリス艦隊は、フランス・スペイン連合艦隊をトラファルガーの海戦(Trafalgar)で敗り、イギリス侵攻を食い止めた。この海戦でネルソンは戦死する。
しかし陸上ではフランス軍が快進撃し、ウィーンに迫った。オーストリア軍はロシア軍と共にアウステルリッツ郊外で迎え撃つが、ナポレオンの前に完敗した。この戦いは3人の皇帝が戦った事から三帝会戦とも呼ばれる。第3次対仏同盟は崩壊した。
1806年、プロイセンが中心と為って第4次対仏大同盟が結成された。ナポレオンは、プロイセンを攻めベルリンを占領、西南ドイツ一帯をライン同盟として保護国化した。これにより神聖ローマ帝国は崩壊し、オーストリア帝国となった。