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2018年10月18日

ナポレオン その3



 ナポレオン その3


 




 大陸封鎖令

 1806年11月には大陸封鎖令を出し、イギリスとの貿易を禁じて経済的な打撃を与え、フランス産業を育成しようとした。
 続いて、ポーランドに侵攻し、プロイセン・ロシア連合軍を破った。1807年7月、ティルジット条約が結ばれ、プロイセンは約半分の領土を失い、多額の賠償金を課せられた。プロイセンの旧領にはヴェストファーレン王国が建国され(ナポレオンの弟ジェローム・ボナパルトが国王)、分割されたポーランドをワルシャワ公国として復活させた。
 ロシアはイギリスに敵対する大陸封鎖令に参加し、スウェーデンにも封鎖令を強要する事でフィンランドの獲得が容認された。その結果、1809年に第2次ロシア・スウェーデン戦争が起き、スウェーデンは敗北、フィンランドはロシアの属国となった。この頃がナポレオンの絶頂期で、イギリスを除く全ヨーロッパを支配した。

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      パリの凱旋門(三帝会戦の勝利を祝してナポレオンが建築を命じた)


 



 




 没落
 
 しかし、大陸支配は長くは続か無かった。彼は自由を掲げてヨーロッパを解放したが、それは民族意識を植え着ける事にも為った。先ず、兄ジョゼフ・ボナパルトが国王に就いたスペインで反乱が起きた(半島戦争或いはスペイン独立戦争)。背後でイギリスやポルトガルが支援し、フランス軍は敗れた。
 1809年、オーストリアとイギリスは第5次対仏大同盟を結成して反撃して来た。ナポレオンはウィーンに進攻し多大な損害を出し乍ら辛くもオーストリア軍を破った。ナポレオンはジョゼフィーヌと離婚し、オーストリア皇女マリー・ルイーズを妻に迎えた。

 1812年6月、ナポレオンは同盟諸国から徴兵した60万の大軍を率いてロシアに遠征した。大陸封鎖令を無視してイギリスに穀物を輸出したロシアを成敗する為である。ロシア軍はナポレオンとの会戦を避け、物資や食糧を焼き払い乍ら退却する焦土戦術を執った。フランス軍は徐々に疲弊して行った。
 フランス軍は9月に要約モスクワ近郊に到達した。兵力は1/3に激減し冬が近づいて居た。最後の力を振り絞ってロシア軍を破りモスクワに入城したが、ロシア兵に拠る放火でモスクワは焼け野原と為った。フランス軍は食料を入手する事が出来ずモスクワを撤退した。冬将軍を味方に付けたロシア軍の反撃が始まり、フランス軍は総崩れと為った。ロシアから撤退出来たフランス兵は僅か5,000名で、馬20万頭と大砲1000門も失われた。


 



 




 エルバ島


 不敗のナポレオンが敗れた事で、プロイセンを中心に第6次対仏大同盟が結成され、反ナポレオン闘争が開始された。1813年、ナポレオンはプロイセン・オーストリア・ロシアの連合軍にライプチヒの戦いで敗れた。彼はエルバ島に流され、ルイ16世の弟ルイ18世が王位に就き、ブルボン朝が復活した。
 諸国はヨーロッパの戦後処理の為ウィーン会議を開いた。この会議はオーストリアの外相メッテルニヒに拠って主宰されたが、領土配分を巡って利害が対立し「会議は踊る、されど進まず」の状態に為った。各国は保守反動的なウィーン体制を承認した。
 しかし、フランス革命とナポレオン支配の下で目覚めた自由主義・国民主義の精神を押さえ着ける事が出来ず、先ずラテンアメリカで独立運動が始まった。フランスでもルイ18世の復古的な政治に民衆の不満が爆発寸前に為って居た。


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       ウィーン会議が開かれたシェーンブルン宮殿(ウィーン)



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 百日天下

 1815年2月、ナポレオンはエルバ島を脱出してパリに戻り、国民の熱狂的な歓迎を受けた。再び帝位に就いたナポレオンは、連合国の対仏同盟が整う前にベルギーのワーテルロー(Waterloo)に進軍した。しかし、イギリス・プロイセン連合軍に完敗し、ナポレオンの百日天下と為ってフランス第一帝政は崩壊した。
 ナポレオンは南大西洋の孤島のイギリス領セントヘレナに流された。フランスでは亡命中のルイ18世が復位した。島での生活は常に監視された不自由なものだった。1821年、膨大な回想録を残したナポレオンは波乱の生涯を閉じた。51歳だった。遺骸はパリのアンヴァリッド(Hotell des Invalides 廃兵院)に葬られて居る。


 

 



  あとがき

 以上がナポレオンの生涯のあらましです。全く波乱万丈を絵に描いた様な一生ですね。確かに彼の頭脳は、大胆で緻密であり、更に冒険や賭けを好む挑戦的な性格の様です。その裏には、自分の力を信ずる圧倒的に楽天的な面も強かったようですね。
 失敗にクヨクヨせず、目の前の困難を何とか乗り越えようと努力する・・・頭を巡らし必死に打開策を求め、時には結果を恐れず信念を全うする・・・何度かのピンチを乗り越え何度も復活を果たすのです。その粘り強さと運の強さは何処から来ているのでしょう?

 それが、後に英雄と称えられる彼の成功と失敗と復活の連続・・・そして、今のフランスに伝わる民衆の強さへと繋がるのではないでしょうか。全ては、フランス革命を起こしたフランス人の気質なのでしょう。現在フランスは、燃料税の引き上げに反対する、マクロン政権への反政府大規模デモが繰り広げられています。黄色いベストを着て全国規模での反政府運動が起きています。これは、主催者の居ない自然発生的なデモであり、暴走する人達とは区別すべきものです。
 自由・平等・友愛を唄ったフランス革命の意思は、単にフランス王政を崩壊させただけで無く、その後の共和制を維持して行きます。これは、全世界に民衆の力強さを証明した歴史的な出来事だったのです。



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