2018年10月18日
ナポレオン その2
ナポレオンの全盛期
こうして、ナポレオンは1810年頃には絶頂期を迎える事に為ります。占領地には、自身の兄弟を国王として派遣。兄のジョゼフはスペインとナポリ。弟のルイはオランダ。末の弟ジェロームにはウェストファリア王国の王と為ります。ドルストイの文学作品である『戦争と平和』は、この頃の状況を描いた作品ですね。
ナポレオンの没落
イケイケのナポレオンにも遂にストップが掛る時が遣って来ます。先ずは、スペインから。スペインへの侵略は1808年から開始して行きますが、これにスペインの民衆は激怒!しゲリラ戦を展開しナポレオンを苦しめ、結局これを鎮圧する事は出来ませんでした。そして、決定的に為るのがロシア遠征の失敗です。
何故、ナポレオンはロシアに遠征をしたのか?
それは、ロシアがナポレオンの出した大陸封鎖令を無視したから・・・この大陸封鎖令って云うのは、イギリスへの嫌がらせです。島国であるイギリスへ経済封鎖をして打撃を与えようとしたんです。イギリスの商品がヨーロッパに入って来無い様にして、イギリスへも商品が入って来無い様にイギリスをヨーロッパから切り離してしまおうと云う作戦。
ですが、当時既にイギリスは新大陸やアジアに貿易の拠点を持って居り、大したダメージを受け無い・・・逆に苦しめられるのはイギリスへの貿易を封じられたロシア等だったんです。ですから、ロシアはこの大陸封鎖令を無視してイギリスへの穀物輸出を続けました。そこでナポレオンはロシア遠征を決意するんです。
最初の内はナポレオンが優勢でモスクワを制圧するんですが、ここでロシアが執った作戦が焦土作戦。これは、もう自らモスクワを火の海にしてしまうんです。食べ物も無ければ略奪する物も無い状態。ですから、ナポレオンは食糧不足の為撤退を余儀無くされます。
この撤退の最中にも途中でコサック隊等の追撃を受ける事に為りナポレオン軍では、脱走兵が増え始め、馬は餓死し、捕虜に為る兵も増え続けます。しかも、ロシアだから寒いですしね。60万〜70万の兵で出発したと言われて居るロシア遠征でしたが死者は40万人、捕虜が10万人、更には脱走兵とパリに帰って来れたのは数千とか数百人だったと言われて居ます。
このロシア勝利を契機にナポレオン支配下にある各地で「オッ、如何やらナポレオンとて無敵では無いではないか!」と支配打倒の動きが見え始めます。これを解放戦争と言います。1813年にはライプチヒの戦いにてプロイセン・オーストリア・ロシアの同盟軍にナポレオンは敗北しました。
そして1814年 遂に諸国の軍に拠りパリが占領されナポレオンはエルバ島に島流しに為ってしまいます。この島はイタリア半島の直ぐ西にあるナポレオンの出身地のコルシカ島の直ぐ東側です。
ナポレオンの百日天下
さて、ナポレオンの居なく為ったフランス。では、その後継者は誰に為ったのか?
ドイツに亡命して居たルイ18世が即位する事に為ります。革命でルイ16世が殺されて、すったもんだでナポレオンが皇帝に為ったのに結局ルイ18世・・・ウ〜ン。何だかナァって処ですが、ヨーロッパ諸国に取っては元通りが一番無難!って事だったんでしょうね。
しかし、ナポレオンの占領に拠ってグチャグチャに為ってしまった国境。如何しようか?って事で話し合いが凭れます(ウィーン会議)。ですが、各国も自国に有利に進めたいので上手く話が纏まりません。それをチャンスと見たナポレオンはエルバ島を脱出してパリに戻り皇帝に返り咲くんです。ですが、直ぐにイギリス、オランダ、プロイセン等の連合軍にワーテルローの戦いで敗れてしまいます。
その後のナポレオンは南太平洋のセントヘレナ島へ流されてしまいます。これがナポレオンの百日天下と云うヤツです。ナポレオンは、結局この地で1821年に亡く為る事に為ります。死因は毒殺と言った説もありますが、一般的には病死と言われて居ます。51歳でした。
幼少時代は、読書に耽り、苛めの対象にも為って居たと言われるナポレオン。古代ローマの英雄カエサルに憧れ、遂にはフランスの皇帝に迄為り、様々なものを後世に残して居ます。
前途したナポレオン法典は、日本を含む諸外国の民法に影響を与えて居ますし、エジプト遠征中の1799年に遠征軍の大尉が発見したロゼッタストーンは後にエジプト文字の解読の切っ掛けと為ります。缶詰の原理も実はナポレオンの影響が大きく、ナポレオンが長期保存の出来る軍用食のアイデアを求めた処パリの製菓会社のアベールが考案したものが元となっています。
アッ、それからナポレオンと言えば、身長が小さいと言ったイメージを持たれる方も多いのですがナポレオンの身長は167〜168センチと言われて居ます。当時のヨーロッパ人の平均身長から見ても決して小さく無いんですね。しかし、軍人は皆大きかった様です。親衛隊の入隊基準が178センチとされて居たので周りがデカかったようです。
ナポレオン年表
1796.3 イタリア遠征開始
1798.5 エジプト遠征
1799.6 第二回対仏大同盟
1799.10 ナポレオン帰国
1799.11 ブリュメール18日のクーデタ
1800.1 フランス銀行成立
1800.5 第二回イアリア遠征
1802.3 アミアンの和約
1804.3 ナポレオン法典
1804.5 ナポレオンの皇帝即位
1805.8 第三回対仏大同盟
1805.10 トラファルガー海戦
1806.7 ライン同盟
1807.7 ティルジットの和約
1808.5 五月虐殺
1812.6 ロシア遠征
1812.10 ロシア撤退
1813.10 ライプチヒの戦い
1814.9 ウィーン会議
1815.2 ナポレオンエルバ島脱出
1815.6 ワーテルローの戦い
1821.5 ナポレオン死去
では、別の文献でナポレオンの生涯を見てみよう・・・
生い立ち
1769年、ナポレオン・ボナパルトはコルシカ島(Corsica)で生まれた。その後、フランスのブリエンヌ陸軍幼年学校に入学し、パリの陸軍士官学校砲兵科に進んだ。士官学校では通常4年掛る処を、僅か11ヶ月と云う速さでスピード卒業した。
砲兵士官に任官すると、間も無くフランス革命が始まった。革命の最中南フランスの港町トゥーロンで王党派の反乱が起こり、その鎮圧軍に従軍した。トゥーロンには王党派を支援するイギリスやスペインの艦隊が停泊して居た。ナポレオンは港を見下ろす高地から敵艦を砲撃して追い払い反乱を鎮圧した。ナポレオンはこの功績で一挙に砲兵隊司令官へと昇進した。
【コルシカ島 Corsica】 長い間ジェノヴァが支配して居た。18世紀に入ると独立運動が激化し、ジェノヴァはフランスに援軍を求めた。1769年、フランス軍はパスカル・パオリ(Pascal Paoli)率いるコルシカ軍を破り、島はフランス領に為った。コルシカの独立は頓挫した。
イタリア戦役
1794年、テルミドールのクーデターでロベスピエールが処刑されると、彼の弟と親交があったナポレオンは逮捕された。しかし、王党派の反乱が発生した為再び軍に登用され、得意の大砲で反乱を鎮圧した。これに拠って彼は中将に昇進し国内軍司令官と為った。
翌年、貴族の未亡人で総裁バラスの愛人だった年上のジョゼフィーヌと結婚した。彼女はナポレオンを詰まら無い男と見て居り、次々と愛人を作り浮気を繰り返した。
1796年、ナポレオンはイタリア派遣軍司令官としてオーストリアが支配する北イタリアに遠征した。彼は各地でオーストリア軍を破り、北イタリアの諸都市を解放して市民から大歓迎を受けた。フランス軍がウィーンに迫ると、オーストリアは第1次対仏大同盟を破棄して講和条約を結んだ(カンポ・フォルミオ条約)。
この条約に拠って、フランスはイタリア北部に広大な領土を獲得し、ヴェネツィアとジェノヴァ共和国が消滅した。パリに帰還したナポレオンは熱狂的な歓迎を受けた。
エジプト遠征 (エジプト・シリア戦役)
1798年、イギリスとインドの交易路を遮断する為オスマン帝国領のエジプトに遠征した。エジプトに上陸したフランス軍はアレクサンドリアを占領し、エジプトのマムルーク軍に圧勝してカイロに入城した(ピラミッドの戦い)。その後、数週間でエジプト全土を征服した。
しかし海上ではフランス艦隊はイギリス艦隊に破れ、フランス軍はエジプトに閉じ込められた。更に、エジプトの宗主国オスマン帝国が参戦し、マムルーク軍も激しく抵抗した為フランス軍は苦戦に追い込まれた。
翌1799年、フランス軍はオスマン帝国が支配するシリアに進軍しヤッファを占領した。続いてその北の町アッコを包囲するが、頑強な抵抗にあい撤退した(アッコ攻囲戦)。この時ヤッファのフランス軍内でペストが流行し、大勢のペスト患者が置き去りにされた。
イギリスはオーストリアとロシアに第2次対仏大同盟を呼び掛け、フランス国境を脅かした為、総裁政府に対する国民の信頼は失われた。この報を受けると、ナポレオンは単身フランスに舞い戻った。残されたフランス軍は、イギリスとオスマン軍の攻勢に苦戦し2年後に降伏した。
エジプトには167名の学術調査団が同行した。彼等はロゼッタ・ストーンを発見し、カルナック神殿や王家の谷等の古代遺跡の調査を行った。
アルプス越えから第1帝政へ
エジプトから戻ったナポレオンを民衆は歓喜で迎えた。11月、ナポレオンはブリュメールのクーデターで総裁政府を倒し、3人の統領と四院制の立法府から為る統領政府を樹立した。彼は第一統領に就任し、独裁権を握った。
1800年6月、ナポレオンはアルプス越えで北イタリアに侵攻し、オーストリア軍を破った。オーストリアはライン川の左端をフランスに割譲し、北イタリアをフランスの保護国とした(リュネヴィルの和約)。又、革命以来フランスと対立関係にあった教皇と和解し、イギリスとはアミアンの和約で講和して国家の安全を確保した。
内政面では税制や行政を整備し、壊滅的な打撃を受けた工業生産力を回復させた。又、フランス銀行を設立して通貨と経済の安定を図り、法を整備してナポレオン法典を発布した。この法典は、私有財産の不可侵、法の前の平等、契約の自由等近代的な価値観を取り入れた民法で、ハンムラビ法典、ローマ法大全と共に、世界の三大法典と言われる。
海外の植民地では、アメリカにルイジアナを1500万ドルと云う破格の値段で売却した。又、カリブ海イスパニョーラ島西部のフランス領サン・ドマングでは反乱が起き、ハイチ共和国として独立した。
1804年、国民投票で圧倒的な支持を受け、ナポレオン1世として皇帝の座に就いた(第1帝政)。
1805年、フランスの強大化を恐れたイギリスは、ロシア、オーストリアと第3次対仏大同盟を結成した。これに対してナポレオンは、イギリス侵攻作戦を建てドーバー海峡に大軍を集結させた。ネルソン率いるイギリス艦隊は、フランス・スペイン連合艦隊をトラファルガーの海戦(Trafalgar)で敗り、イギリス侵攻を食い止めた。この海戦でネルソンは戦死する。
しかし陸上ではフランス軍が快進撃し、ウィーンに迫った。オーストリア軍はロシア軍と共にアウステルリッツ郊外で迎え撃つが、ナポレオンの前に完敗した。この戦いは3人の皇帝が戦った事から三帝会戦とも呼ばれる。第3次対仏同盟は崩壊した。
1806年、プロイセンが中心と為って第4次対仏大同盟が結成された。ナポレオンは、プロイセンを攻めベルリンを占領、西南ドイツ一帯をライン同盟として保護国化した。これにより神聖ローマ帝国は崩壊し、オーストリア帝国となった。
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