2018年10月18日
英雄 ナポレオンとは? その1
素敵な「自転車と家庭水族館」管理人
https://fanblogs.jp/yorichan5000/
「世界史上、最も英雄かつ偉大な人物を一人挙げろ」と言われたら、貴方は誰の顔や名前を思い浮かべますか?一人に絞るのは本当に難しいのですが、歴史的な出来事を色々と頭に描き、対象と為りそうな人物を思いめぐらして下さい。勿論、単に政治的問題や大きな戦争等からでは無く、科学や芸術に哲学等を含めた芸術・学術面を含めると一人に絞るのは益々困難に為ります。古代の哲学者の訓言は、後々の何世紀にもわたる影響を与え続けるし、例えば、近代の哲学者の理論から宇宙の成り立ちから原子爆弾の開発までに強い影響を与えるものです。
私は、個人的に名前を挙げるとしたら「モンゴル帝国の創始者のジンギスカン」を挙げてしまいます。単なる私個人の興味と尊敬の対象でもありますが、あの広いユーラシア大陸を縦横無尽に支配した・・・中国大陸とヨーロッパが地続きの大陸であることを、政治的に経済的に立証した偉大な人物であったのは間違いありません。
そして、彼等は非常に少数の騎馬民族(団体)であったことで、単に武力での征服者としてだけでは無く、広範囲に拡散した支配地の宗教と文化と民族を吸収し共に発展し最後には溶け込んでしまい、大陸の東西文化の交流した複雑で独特な文化を生み出したのです。
どちらかと云えば、敵に攻撃されて滅びたのでは無く、現地の血と為り肉と為り自然に近い形で後継者を残して行ったものだと解釈出来ます。単に武力だけでの恐怖政治では成し得ない、言語や民族の融合の歴史的マジックの一つとも言えるのです。そう云う意味で私は、モンゴル帝国が興味の的となって居ます。
以前にこのブログで「モンゴル帝国の謎」を取り上げたので今回は、誰でもが頭に浮かべるであろう、フランスの英雄ナポレオンの人生のあらましを取り上げたいと存じます。ひとつお付き合いのほどお願いいたします・・・
ナポレオン
ナポレオンの「我輩の辞書に不可能は無い」「3時間しか眠ら無い」と言った言葉や逸話は余りに有名ですが、これらは実は後世の作り話。本当の彼の言葉にこんな名言があります。「それにしても、私の生涯は何と云うロマンであろう」 『ナポレオン言行録』オクターヴ・オリブー編に記されて居ます。自ら「ロマン」と語ったナポレオンの人生。では、その彼の生涯に付いて少し詳しく見て行きましょう。
ナポレオンの登場
ナポレオンが頭角を現して来たのはフランス革命の後半。フランス革命って云うのは、マァ簡単に言ってしまえばルイ16世や彼の妻であったマリ−アントワネットが処刑された時代の話ですね。漫画・ベルサイユの薔薇でお馴染みのものです。40代から50代の人は皆この漫画で知って居ると思いますし宝塚ファンなら絶対に知っていますね。
当時のフランスは財政危機だったのです。原因は主に戦争です。戦費が嵩んでフランスはお金に困ってしまったんですね。如何にかして呉れよ〜って事で革命が起きたんです。そして、ルイ16世が処刑される訳なんですが、このフランスの革命はヨーロッパの国々からは好く思われて居ませんでした。
何故か?国王が革命に拠って殺された何て言うのが、自分達の国にも広がって来たら各国の君主達は己の立場も危うく為りますからネェ。対仏大同盟って云うのを組んで国際的な反革命の団体を結成するんです。しかも、フランスでは未だ革命中なので未だ王党派と言われる王政を支持する人達も居ました。
コルシカ島
ナポレオン生誕の島 コルシカ島
そんな中、コルシカ島で生まれた26歳のナポレオンが登場するのです。フランス首都パリで起きた王党派の反乱を大砲を使う戦術に長けた青年が鎮圧する事に為ります。これをヴァンデミエールの反乱と言いまして1795年の話です。
ヴァンデミエールの反乱
これに拠り、当時フランスの政治の中心に居た穏健共和派と言われる人達に取ってナポレオンは頼れる存在として認識されます。そして、翌年の1796年3月にはナポレオンがイタリアに遠征する事に為ります。
ナポレオン 第一次イタリア遠征
この頃のイタリアと言えばオーストリアの支配下に在りました。ロディ・アルコレの戦いでオーストリア軍を撃破すると、フランスとオーストリアはカンポ・フォルミオ和約を結びます。これに拠って対仏大同盟は瓦解する事に為るんです。
ナポレオン エジプト遠征
もう、この頃にはナポレオンの名声は民衆レベルに迄知れ渡って居ました。1798年から1799年にはエジプトに遠征します。この目的はイギリス・インド間の連絡を絶つ事です。しかし裏側では、国内にて民衆の支持を得始めたナポレオンを外に追い遣りたい人達と功績を積み上げたいナポレオンの思惑とが一致したとも言えます。ですが、イギリスは海での戦いは滅法強いですから、ナポレオンはネルソン率いるイギリス海軍に敗北してしまいます。これがアブキール湾海戦(ナイルの海戦)です。
ナイルの海戦
イギリス海軍がフランスに勝利
この勝利に拠ってイギリスは今がチャンスとロシア等を誘い込み第二回対仏大同盟を結成します。再びフランスはピンチに立たされるんですね。フランスにしたら「もう、又ピンチに為っちゃったよ。誰か如何にかして〜」って感じです。
それを察知したナポレオンはフランスに戻りクーデターを引き起こします。霧月18日のクーデタ(ブリュメール18日のクーデタ)です。そして、このクーデタ成功に拠り新しい政治体制が生まれます。統領政府と言って3人の統領から為るシステムとは言え、これは事実上ナポレオンの独裁政権と為って行きます。
ブリュメールのクーデタ
ナポレオンの独裁体制
マレンゴの戦い
権力を手中に収めたナポレオン。では、彼がどんな政策を行って行ったかを見て行きます。
アミアンの和約
先ずは1800年にマレンゴの戦い。これは、イタリアに再び進行してオーストリアを撃破しリュネヴィルの和約を結びます。続いて1802年にはイギリスとの間に講和を結びました。アミアンの和約です。これで第二回対仏大同盟は崩壊です。
更に1801年にはローマ教皇とも関係を修復します。これはコンコルダートと言います。内容と言えばフランスに於けるカトリックの復活です。まぁ、フランスの国教にされる事は無かったんですが、多くのフランス人が信仰する宗教として認めますって約束をしたんですね。代わりにナポレオンが要求したのは、革命中に政府に拠って農民等に売却された教会の財産はそのままにすると云う約束でした。
ナポレオンは、フランスでカトリックを復活させる代わりに過つての教会の財産は現状のまま教会には返さ無いヨッと約束したんですね。これに拠って、農民等のハートをナポレオンはガッツリ握る訳です。以上が対外的なナポレオンの政策の主なもの。
フランス銀行
次に内政を見て行きます。1800年にフランス銀行の成立。そして1804年に有名なナポレオン法典が制定されました。これには、法の前の平等・契約の自由・私有財産の不可侵等が規定されて居ます。革命の成果の集大成とも言えるもので非常に完成度の高いものです。現在の日本の民法もナポレオン法典から学んでいる処が多いんですよ。
ナポレオン法典
ナポレオン法典(抜粋)
(家族制度) 213条 夫は妻を保護し妻は夫に服従する義務を負う。371条 子は年齢の如何を問わず父に対して尊敬の義務を負う。
(所有権の絶対) 545条 何人も公益の理由に基づき、且つ正当な事前の補償を受けるので無ければ、その所有権の譲渡を強制される事は無い。
(契約の自由) 1134条 適法に拠って締結された合意であれば、当事者間にて法律としての効力を持つ事とする。合意は、相互の承諾、又は法の認めるもの以外での取り消しは無効とする。
ナポレオン法典と同じ年には国民投票が行われます。此処で、ナポレオンは圧倒的な支持を得て;">皇帝と為るんです。以後、彼はナポレオン1世と為り、これ以降のフランスの政治体制を第一帝政と言います。これでフランスの革命は完全に終了した訳ですが、結局王を殺して代わりに皇帝が生み出されたと云う結果に為ったんですね。ルイ16世からナポレオンに変わった訳です。
トラファルガーの海戦
では、このフランスの動きをヨーロッパ諸国は如何思って居たのか?矢張り、快く思って居ないんですね。ナポレオンは王族出身では無いですからね。何処ぞのパッと出の戦争が得意な奴が皇帝と為りヤガッタとでも云う感じです。革命を経て国民に拠って選ばれたと云う点も他国の王族に取っては気に入りません。
ですから、イギリスを中心に又もや対仏大同盟を結成します。イギリス・オーストリア・ロシア・スウェーデン等が参加しました。1805年のことです。
ネルソン提督のヴィクトリー号
ナポレオンはイギリス本土を叩く為にド―ヴァー海峡にスペインとの連合艦隊を結成。しかしエジプトでフランス艦隊はイギリスに敗北してしまいます。これがトラファルガーの海戦。相手は又もやネルソン提督。イギリスは矢張り海での戦いは強いんです。ですが、この戦いに拠ってネルソンは命を亡くす事に為ってしまうんですね。勝利と引き換えに命を奪われてしまった・・・。
ネルソン提督
イギリスに敗北したナポレオン。しかし、同年のアウステルリッツの戦いには勝利します。この戦いは三帝会戦とも呼ばれます。フランスのナポレオンがオーストリアのフランス2世やロシアのアレクサンドル1世と戦ったので3人の皇帝が一同に会したと云う事で三帝会戦です。その結果、フランスとオーストリアとの間にプレスブルクの和約が締結されます。これに拠って第三回の対仏大同盟は崩壊です。
アウステルリッツの戦い
1806年にはナポレオンはライン同盟と云う傀儡連邦を成立させます。傀儡って云うのは操(あやつ)り人形と云う意味です。影響下にあった西南ドイツ諸邦に軍事同盟を作らせたんです。プロイセンとオーストリアに対抗する為ですね。
これに拠って16のドイツ諸邦が神聖ローマ帝国から離脱し、遂に844年間の歴史を持つ神聖ローマ帝国は名実共に崩壊しました。1806年10月にナポレオンはプロイセンとドイツの中部イエナで戦います。更に1807年にはプロイセン ・ロシアとアイラウでの戦いで勝利。これに拠り、プロイセンとロシアは1807年にティルジット条約を結ばされる事に為ります。
プロイセンは領土の半分以上をフランスに奪われナポレオンは此処にウェストファリア王国を建てました。又ナポレオンは東南部のプロイセン領を切り取りワルシャワ大公国を建国します。
ティルジット条約
その2につづく
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