2018年10月12日
人間魚雷「回転」の真実とは その2
人間魚雷「回転」の真実とは その2
人間魚雷・悲劇の作戦(2)
◆一層成果が上がら無く為る回天作戦
昭和20年4月アメリカ軍が沖縄に上陸、既に壊滅状態に陥って居た海軍は、船も航空機も残された僅かな戦力の全てを特攻に注ぎ込もうとする。しかし、回天の奇襲作戦は日を追う毎に戦果が挙がら無く為って居た。
駆逐艦による警備を整備する等アメリカ軍が対策を万全にしたからである。停泊地に近づく事さえ出来なかった。
回天作戦は修正を余儀無くされた。停泊中の艦船を襲うのでは無くアメリカ軍の補給路で潜水艦が待ち伏せし、航行中の船を狙う事にしたのである。標的が動いて居る為命中率が低い難しい作戦だった。
回天振武隊
昭和20年5月、航行中の艦船を狙う新たな作戦の下で回天振武隊が出撃する。搭乗員は5人、大津島で半年間寝食を共にして来た仲間だった。彼等が乗り込んだのは伊号367潜水艦だった。二度と生きて帰る事の出来ない回天作戦。出撃の判断は潜水艦の艦長に一任されて居た。軍医長は艦長から悩みを打ち明けられて居た。
「司令部から、回天は魚雷だと思って使えと言われて居るが、若い者を乗せてそう云う気には為れ無い」と。
当時海軍によって撮影された潜水艦内部の映像がある。温度が30度を超える狭い艦内で100人を超える乗組員が任務に着いて居た。この中で、搭乗員は出撃までの時間を過ごした。
伊361型輸送潜水艦と回天
「暑いの何のって、褌一丁で。朝だか昼だか夜だか判ら無いからイライラして来る」
伊367潜水艦が出撃してから10日程後、前方にアメリカ艦隊を発見した。「回天用意」の号令と共に5人が回天に乗り込んだ。5人は艦長の言葉に耳を澄ませて出撃の瞬間を待って居た。
「最初の回天戦用意の号令が来た時は緊張したね、愈々来たかと。2〜30分経ってから、遠過ぎて回天戦が出来ないとの命令。ほんとに緊張したね」
「回天戦用意で今日死ぬかと思っても、1時間以上待って回天を下(お)りろだ。緊張が毎日の様にあって死ね無い。早く何とかして呉れと云う感じで辛くて・・・」
回天戦用意の号令が下っても出撃停止に為る事がその後も繰り返された。出撃して3週間後、伊367潜水艦は再びアメリカの船団を発見した、回天戦用意の号令。遂に5人に出撃命令が下される。処が、回天は基地を離れて1ヶ月近く経って居た為十分な整備が出来ず故障で出撃出来ないものがあった。エンジンが掛から無かった岡田さんは仲間の千葉さんの出撃を見送った。
「用意、撃てー!で千葉のバンドが外れて回天がスーッと出て行った。出撃出来たのは二人だけだった。その時は自分が情け無かったね。が、後ろを見たら2号艇が未だ残って居るのに気が付いた。帰るのは俺だけで無いとホッとしたね」
岡田さん達が回天の爆発音を聞いたのは、予想された突入時間よりもかなり後の事だった。
「40分経っての爆発音。40分経ったら中の酸素がギリギリだもの、とても成功したとは思え無い。アレは自爆だ・・・」
それを艦長が聞いて「俺は若い男を無駄死にさせた」と自棄に為って居た。
◆特攻兵器人間魚雷作戦と人間の死
爆死した二人への追悼
昭和20年6月迄に回天が撃沈した艦船は、アメリカ軍の資料によれば僅か2隻。しかし日本軍は尚特攻を続ける。海軍軍令部総長は御前会議で、海軍は特攻精神に徹すると主張。特攻作戦は終戦迄続けられ、若い命が次々と犠牲に為って行った。
終戦間際に南太平洋で生き残った竹林さん「戦時下ベッドに居る時に、故郷と云う歌の中で”何時の日か帰らん”とあるが、俺達には無いな。その言葉を聞く度に胸にジンと来る」と。
初の回天隊が出撃した11月、大津島では毎年追悼式が行われて居る。生き残った搭乗員達は戦後64年間仲間の死と向き合って来た。回天の故障の為出撃出来無かった岡田さんは
「この二人とも今日はお別れでね、お供えした酒をこれから一緒に飲もうと思ってね。日本は、ほんとに人間の命を粗末にした国だったね。自分で志願したとは言え。こうして生きさせて貰って居る事自体が不思議で為ら無い。自分で弾があたる迄舵取って進んで死ぬのは、人間位しか無いよね」
戦局を挽回すると唄われた特攻兵器「人間魚雷回天」作戦の開始から9ヶ月で撃沈した敵艦は確認されて居るだけで3隻。回天で命を落とした若者104名にのぼる。
人間諸共体当たりし、命と引き換えに敵艦を沈め様とする極限の兵器である人間魚雷回天。太平洋戦争末期、敗北を重ねた日本海軍が考え出した究極の海の特攻作戦だったが、アメリカ軍の防御体制の整備と共に思う様に成果が挙がら無かった。
考えてみれば、これは人間の命を犠牲にした苦し紛れの戦法と言えるだろう。9ヶ月間で撃沈した敵艦は3隻、命を落とした若者は104名に上るとは・・・故障の為出撃出来無かった隊員が「日本程人間の命を粗末にした国は無いだろう」と言って居るのは当然である。
世界に於けるテロ組織が現在でも自爆テロを行って居ると云う。国家外交の一つの手段として行う戦争と、暴力やその脅威による思想提示手段として行うテロとは基本的に異なる。とは言え、太平洋戦争末期の日本がその様な発想の先鞭を着けたと言われても弁解の余地が無い気がする。
おわり
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