2018年10月12日
人間魚雷「回転」の真実とは? その1
人間魚雷「回転」の真実とは その1
人間魚雷・悲劇の作戦
回天特別攻撃隊 基地回天隊
〜回天特別攻撃隊〜
国内で展示されている回天
山口県周南市大津島。太平洋戦争の末期、海軍が開発したある秘密兵器が次々と運び込まれた。その兵器に乗る為に全国から400人の若者達が遣って来た。秘密兵器の搭乗員を募集するとだけ聞いて志願して来たと云う。
秘密兵器人間魚雷回天は、人間諸共敵艦に体当たりし命と引き換えに沈める極限の兵器である。搭載された爆薬は空母をも沈められる破壊力を持つと言われた。出撃すると二度と生きては帰れ無い。終戦迄に104人もの搭乗員が海に散って行った。太平洋戦争末期に行われた、海の中の特攻兵器人間魚雷回天の真相に迫る。
訓練基地跡
◆特攻兵器・人間魚雷回天の誕生
人間魚雷・特殊潜航艇「回天」
製造途中の回天 戦後に撮影
昭和17年6月の敗戦したミッドウエイ海戦以降、各地で日本軍は敗北を重ねて行く。そうした中海軍は、史上類を見無い新たな兵器の採用が検討されて居た。必死必殺戦法、搭乗員の命と引き換えに戦局を打開しようと云う所謂特攻作戦である。生きて帰れ無い兵器を採用する事に対し、当初海軍上層部には強い躊躇(ためら)いがあった。
昭和19年2月、海軍は人間を乗せた新型魚雷の開発に踏み切る。搭乗員が生存出来る可能性を残す為に脱出装置を着ける事が条件だった。しかし、戦局の悪化と共に開発が難しい脱出装置は断念された。搭乗員の命を犠牲にする事を前提とした兵器、人間魚雷の誕生である。
回天 構造・メカニズム
瀬戸内海にある大津島に回天の訓練基地が作られた。全国から集まった400人の若者達。志願したのは、海軍兵学校や予科練の出身者達だった。若者達は此処で始めて新兵器の全貌を知る事に為る。
人間魚雷回天、前方部分に詰められた爆薬はそれ迄の魚雷の3倍に相当し、空母を沈められるとされた。操縦席には自爆装置が着いて居た。気を失って前傾姿勢に為れば爆発する仕組みに為って居たのである。例え命中しなくても二度と戻っては来られ無い兵器だった。
元搭乗員1「覚悟はして居たけど、ヤッパリギョッとしましたね」
元搭乗員2「何れ死ぬんだと思うからね。早いか遅いかの違いだけど」
通常回天は、ハッチを閉めると操縦席は電球一つの暗い空間だった。身動きの取れ無い密室で、回天を操るのは困難を極めた。
回天は水深5mで航行して目標に接近する。そして一度浮上して目標物の位置を確認する。この時、敵から発見され無い様に僅かな時間で確認する事が求められた。その後何も見え無い中、コンパスと時計だけを頼りに突き進むのである。訓練では海中に突入したりエンジンが止まる等事故が続出した。何と、実戦を前に訓練で15名が命を落とした。
元搭乗員1「潜望鏡を上げたまま浮上して船の底にブッツケて潜望鏡が折れる。折れると根元が開き水が入って沈むのです、溺死です」
元搭乗員2「訓練即、死と隣り合わせです。大津島に近づいた時、エンジンが爆発して沈没しました。太平洋だったら1000mから2000mの海底に鎮座してオサラバでしょうね」
◆回天の目標到達は至難の業だった
昭和19年10月、劣勢の日本海軍は捨て身の一大決戦を挑む。フィリピンのレイテ沖海戦だ。アメリカ艦隊に全戦力を突入させるが、しかし日本軍は大敗北し連合艦隊は事実上壊滅した。
この後回天は海軍に残された数少ない切り札として、強い期待を背負う様に為る。レイテ沖海戦から2週間後の12月8日初の回天隊が出撃した。目標地域はアメリカの前進基地と為る南太平洋のウルシーである。標的は環礁に停泊して居るアメリカの艦隊だった。潜水艦が接近し搭載された回天が次々と出撃した。
しかし、目標に到達するのは至難の業だった。搭乗員には、詳細な地図も敵艦隊に関する情報も殆んど無かったからである。
元隊員「先ず一番難しいのは、真っ暗な時にどう遣ってウルシー水道迄行くか。ウルシー水道に入るのに方角を知るのはコンパスだけだから、特眼鏡を上げてもサッパリ判りませんよ。地理だって初めてですから、何回も来て居る人だったら多少違うかも知れ無いが難し過ぎるんですよ」
アメリカ側が撮った当時の写真である。回天の突入で炎上するタンカー。9人の命と引き換えに挙げた戦果はこの一隻だけだった。
その後も同様の奇襲作戦が行われたが戦果は殆ど挙がら無かった。作戦の失敗にも関わらず大津島では残された隊員達が沸き立って居た。大本営は、回天隊は多大な戦果を挙げたと華々しく発表したのである。空母2隻に戦艦3隻轟沈などと。
当時大津島で訓練していた隊員「この時は、一隻しか沈めていないとは知ら無かった。回天が5本とも戦果を挙げた事に為って居るんだから。我々も回天の威力たるや予想通りだと、意気に燃えたと云う処でしょうね」
出撃を待つ日々を語る隊員1「何しろ次から次へと出撃して行くから、飯食う人間が5人・6人と毎日減って行く。そうすると飯食うのも侘しく為って・・・これは早く出ないと為らぬと、悲しみとか死なんてお互い語り合う事も無い。これが当たり前だと受け入れて居た」
隊員2「精神的に悩む時は軍歌を歌って慰めた。後は山に行って、軍刀で竹や木を憂さ晴らしに斬ってみたりして自分の精神を癒していた」
◆死を目前に待機する若者達の心の葛藤
塚本さんの日記から
昭和18年10月学徒出陣。その中から回天の搭乗員に為った若者も多く居た。塚本さんは慶応大学在学中に海軍に入隊、その後志願して回天の搭乗員と為りウルシー沖で戦死した。塚本さんの手記が残されて居た。そこには回天隊に志願した時の心情が綴られていた。
「俺が待って居たのはこの兵器だ。どうしても俺はこれに乗る」この兵器とは人間魚雷回天。その反面、自分の決意が揺らぐ気持ちも綴られて居る。訓練生活で塚本さんは迷う心を断ち切ろうとする。
「人間は弱い。自己を思うからだ。滅私、完全なる滅私生活へ。母を忘れよ」
昭和19年11月、塚本さんの出撃が決まる。出撃が決まると搭乗員達は最後の帰省が許された。しかし回天の任務を話す事は固く禁じられた。家族水入らずの時間は一年振りだった。戦後、塚本さんの遺品の中から、家族に当てた録音が見つかった。
「母よ、妹よ、そして長い間育んで呉れた町よ、学校よ、さようなら。本当にありがとう。昔は懐かしいよ。秋に為れば、お月見だと言ってあの崖下にススキを取りに行ったね。あそこで転んだのは誰だっけ。こう遣って、皆愉快に何時までも暮らしたい」
塚本さんの弟さんは、出撃を控えた兄の顔が今でも焼き着いて居ると云う。
「死期は判って居る事です。それ迄死ぬ訓練をし無ければ為ら無いのは、並大抵の精神力では出来ないと思う」と。後に弟さんに遺品のハンカチが届けられた。「兄貴が着いて居るぞ。がんばれ。親孝行を頼む」
昭和20年1月、塚本さんは共に出撃した回天隊18名と共に命を落とした。
「愛する人々の上に、平和の幸を輝かせる為にも」 海軍に入隊してから一年、書き続けた日記の最後の言葉であった。
その2へつづく
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