アフィリエイト広告を利用しています

広告

posted by fanblog

2018年10月12日

少し変わった手記をご紹介 「捕虜に為った、ある士官の手記」 その3



 「捕虜に為った、ある士官の手記」 その3


 3  著者あとがき(2001年4月)

    10-16-11.png フェザストンの捕虜収容所

 研究を終えてから3年後、私は栃木県の鹿沼と宇都宮の教会で奉仕した。こうして福音を広める牧師をしての第1歩を踏み出したのである。
 1980年、私は妻と娘と共にフェザストンの捕虜収容所跡に戻り、当時収容所に関係した数人のニュージーランド人と再会した。回顧すると、1943年2月25日の事件はあったものの、当時、我々に対するニュージーランド側の扱いはとても好かった。

 戦後私は、日本人の外国人捕虜に対する扱いは好く無かった事を知った。日本人の残虐な行為に付いて私は捕虜とその家族に対して心から深くお詫びしたい。当時の日本人は、自分達は優越した人種であり、捕虜に為る事はこの上無い恥辱だと考えて居たから、外国人捕虜或いは個人の尊厳に殆ど意を払わ無かったのである。
 しかし私は、フェザストンでの経験とキリスト教に接した事から、人は国、人種・身体の色を超えてお互い兄弟姉妹である事を学んだ。私達はキリストへの忠誠を通じてお互いを許し、お互いに愛し合う事が出来るのである。戦争中の日本の残虐行為を許して頂きたい。未だ苦痛が残って居る事は承知して居るが、お互いが和解する事を心から望む次第である。


 4 本書の英訳者、エリック・トンプソンの暴動についての記述(要約)

 1942年の遅くから1943年に掛けてフェザストンに捕虜収容所が建設された。1943年1月に数百人の日本人捕虜が急にニュージーランドに引き渡されたのである。
 更に増えると予想されたが、その後の捕虜は米本土或いは豪州のカワラに送られたので、フェザストンの捕虜は増えず、結果として必要以上に大きな収容所に為った。捕虜の数は半数がガダルカナル設営隊の徴用工員と半数は軍人で主として海軍だった。

 1943年2月25日、武装したニュージーランド兵約30人が収容所に配置され、捕虜250人かそれ以上と対峙した。2時間程の間にニュージーランド側は捕虜に労働隊を出す様繰り返し要求した。仲介に立った日本の士官の内ニシムラ大尉は、兵士に拠って士官収容所に戻されたが、アダチトシオ少尉(?)は兵士達から少し離れて居た。彼は穏健派と見られて居たが、マルコルム中尉と睨み合い、皆が見守る中で「必要と為れば、仲間と共に死ぬ用意がある」と云う意味の事を言った。
 マルコルムは警告してから発砲してアダチを負傷させた。捕虜は怒り兵士達に突進して石を投げた。15乃し30秒の内にライフルとサブマシンガンが火を吹き(前者が約150発、後者が約70発)捕虜31人が死に17人が致命傷を負い、約74人が負傷した。
 ニュージーラン側は士官1人、兵士6人が味方のタマで負傷(兵士の内の1人は後死亡)捕虜の投石で士官1人、兵士7人が負傷した。アダチは負傷から回復、後に帰国したが、呉海軍墓地にある古鷹の碑に定期的にお参りした。

 アメリカのナショナルジオグラフィック社は、暁など彼我のフネが沈んでから50年後の1992年8月から9月に掛けて、海底のタイタニック、ビスマルクの発見で著名な海洋学者のドクター・バラードを長とするチームを送り、ガダルカナルの直ぐ北西の海底(アイアンボトム、サウンドと呼ばれる)を探索した。 
 新屋中尉も同じ海戦で沈んだ米軽巡アトランタのや米軍上陸直後サボ島付近で沈んだ豪重巡キャンベラの乗員等と共に同行した。その様子が標記の106分のビデオに為って居る。

 ここで新屋中尉は最初に米巡洋艦(アトランタ)を発見したと語って居り、前記1.の説明とやや異なる。
ビンセンと・オハラ“The U.S. Navy Against AXIS”には「阿部は比叡に照射を命じた。暁と長良も点灯した・・・(駆逐艦)ラフィは右舷の目標を追って居たが、左舷の暁に変えた・・・アメリカの各艦は次の目標を攻撃した。アトランタは比叡と暁、サンフランシスコは・・・」とある。

 このビデオで新屋中尉はアメリカの舟艇が近づいた時「ノーサンキュー」と言ったが、結局引き上げられたと語って居り、本書の記述と同じである。海底の映像で出て来るのは米重巡クインシー(1942年8月9日沈没)豪重巡キャンベラ(同)米軽巡アトランタ(11月13日)。
 この後日本の駆逐艦で「あ」の文字が見えるが、新屋中尉は暁(11月13日)か綾波(11月14日)か判定出来ないと言って居る。最後は転覆した霧島の巨大な推進器で、ドクター・バラードの説明によると、裏返しに為って居る大きなフネは極めて珍しいとの事である。

 以上



 素敵な「自転車と家庭水族館」管理人


 戦記や戦争体験記等を参考の為に好く読むのであるが、捕虜に為った兵士の話は多少はあるが、軍人、詰まり士官以上の将校が捕虜に為った手記は、私は初めて読むことに為った。そこでこれを取り上げたのですが、如何だったでしょうか。
 内容がいまいちで、これと云った話が載って居る訳では無いのですが、海軍兵学校を出て海軍士官と為り戦地で沈没させられてアメリカ軍の捕虜に為った将校の話です。その捕虜収容所で反乱が起きて百数十人の被害者を出したのも特異な話ではありますが、その場を描いたシーンを取り上げた部分もありません。
 その将校が捕虜になってアメリカ軍の牧師の説教を受けて感化したのか、キリスト教に入信し学校に入り牧師と為ってキリスト教を広める仕事をする様に為ったのです。

 軍人が宗教家に為ったのも決して珍しい訳では無く、増してや日本の敗戦で捕虜と為りキリスト教国の国の世話を受け、牧師の話を聞きながら自然とキリスト教へと心が惹かれたのでしよう。そして結婚されて昔の捕虜収容所を訪れたのですね。
 海軍兵学校を卒業されキリスト教の牧師と為ったのは確かに珍しいのでしょうが、その心の変遷に大変興味があります。が、その様な内容のお話は載って居ませんからこの文章自体の意味がいまいち掴めません。確かに舌足らずなものを取り上げたと思います。大変恐縮します・・・

 やはり本書の原本を読まないことには何事も語れないのですが、海軍兵学校海軍士官戦場で沈没米軍の捕虜収容所生活キリスト教の牧師の説教神学校キリスト教の牧師・・・との人生の遍歴を重ねた著者の心を覗く興味を引き起こす一文ではありました・・・






この記事へのコメント
コメントを書く

お名前:

メールアドレス:


ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/8192379
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
ファン
検索
<< 2021年04月 >>
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。