2018年10月12日
少し変わった手記をご紹介 「捕虜に為った、ある士官の手記」 その2
「捕虜に為った、ある士官の手記」 その2
2 捕虜と為って以後
(注)要点のみで示す。捕虜に為った事の苦痛やその時々の感想にキリスト教に傾斜して行く様子等に付いては概ね省略する。
10日以上経ってから貨物船に乗せられニューへブリデスに着き仮の収容所に入れられた。先着の捕虜も居た。尋問されたが偽名を使い、階級は水兵だと答えた。 4・5日後に輸送船に乗せられ数日後にニューカレドニアに着いた。
決心して断食を始めたが間も無く止めた。 2週間入院した。医官・看護婦・看護兵に囲まれて居る間に死のうと云う気持ちが無く為った。右頬の断片も取って呉れ回復した。 12月24日、患者全員が豪州赤十字社からのクリスマスプレゼントを貰った。
退院して収容所に帰ると「他の暁の乗員はニュージーランドに移った、キミも移る事に為る」と言われた。 暁の乗員が居た処には、暁より後の海戦で捕虜に為った(駆逐艦)高波乗員が約20人が居た。
駆逐艦 高波(たかなみ)
1942年の大晦日に別の収容所に移された。ここでも尋問された。隣の収容所には航空員の下士官兵が20人程居た。要約輸送船に乗せられてニュージーランドに向かった。オークランドに入港、列車でフェザストンに着いた。2箇所に分かれてテントに入れられた。収容所は建設中だった。
捕虜は重巡・古鷹の乗員約200人、ガダルカナルの設営隊の徴用工員400人弱・艦艇乗員・航空員・陸軍を合わせ約750人だった。
古鷹型 重巡洋艦
(注)或るアメリカの文献によると、古鷹と駆逐艦・吹雪の乗員、計113人が捕虜に為って居る。
カウラ第12戦争捕虜収容所
我々の区画は古鷹の乗員が多かった。士官も7名程居た。もう一つの区画はガダルカナルの設営隊員だった。 私はこれ迄士官である事を隠して居たが、下士官兵との関係がギゴチナイものに為ったので、士官の部屋に入れて貰う事にして手続きをした。階級は中尉としたが、名前はカサイ・マサハルにした。
収容所では国際法によって士官は働か無い、下士官兵は働くと決められて居るが、日本人捕虜に取って敵の為に働く事に強い抵抗があり、抵抗派は穏健派と対立しつつ暴動を計画した。 2月25にニュージーランド兵の1個小隊が来た。暴動が起きて捕虜122人が死傷、ニュージーランドの兵3人と士官1人が負傷した。
重巡艦 古鷹
(注)後述するが240人以上が暴動を起こし、捕虜は31人がその場で死亡17人が負傷後死亡74人が負傷。ニュージーランド側は味方の跳弾により1人が死亡6人が負傷、捕虜の投石により7人が負傷。
私は現場に居なかったが、丸腰の捕虜に対するニュージーランド側の過剰な行動に強い怒りを覚えた。下士官兵と設営隊員の捕虜の収容所が完成し、最後に(43年)6月に士官の収容所が完成して移された。この頃ソロモンからの、痩せ衰えた陸軍の兵士20ないし30人が加わった。
私は当初キリスト教には無関心だったが、やがて週1回の軍の牧師の説教を聞くのが最も充実した時間に為った。
1944年4月、私はマラリアで2週間程入院した。45年8月に戦争が終わった。12月30日に列車でウエリントンに移動、米海軍のLST2隻に分乗して日本に向かった。 ガダルカナルに1泊、グアムに1泊、小笠原の父島に数時間寄港した後、1946年2月2日に浦賀沖に投錨、捕虜達は故郷に帰った。
その3につづく
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