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2018年10月12日

少し変わった手記をご紹介 「捕虜に為った、ある士官の手記」 その1



 「捕虜に為った、ある士官の手記」 その1 

 左近允尚敏(さこんまさなおとし)


 




 




 【はじめに】
 
 去る2月にニュージーランドのフェザストンと云う町のミュージアムでミチハル・シンヤ著 ”Beyond Death and Dishonour”(2001年刊)を求めた。余談だが日の日は2月の22日で、約3時間後に凡そ南西約400キロのクライストチャーチ市が大地震に見舞われた。
 新屋徳治中尉(兵68期)は1942年11月、乗艦の駆逐艦の「暁」がガダルカナルの近くで撃沈され、米軍に救助されてフェザストンの捕虜収容所に送られた。終戦翌年の1946年2月に帰国後、神学を学びキリスト教の牧師に為った。
 本書によると1988年にセイブンシャと云う出版社から“From the Death of the Sea to Pulpit”(死の海から牧師へ)と云う題名で日本語版が出版されて居ると云う。「セイブンシャ」を調べたが分から無かった。

 豪州のカウラにある捕虜収容所が一杯に為ったので捕虜はニュージーランドに送られたと聞いたが、実際には早い時期にソロモンからニュージーランドに送られて居る。
 カウラでは1944年8月に日本人捕虜が暴動を起こし死亡231人負傷108人、豪州兵の死亡4人が出た。20年以上前にキャンベラの仲井隆夫防衛駐在官に案内されてこの地を訪れた事があるが、フェザストンでもカウラより1年半前に暴動が起きた事を知った。

    10-12-13.jpg トラック諸島・マリアナ諸島

    10-12-11.jpg 駆逐艦「暁」

    10-12-12.jpg 山本五十六連合艦隊司令長官 


 



 




 1  暁が沈没して捕虜に為るまで(要約)

 暗闇の中で右舷にガダルカナルが微(ひそ)かに見えて来た。駆逐艦「暁」の艦橋では緊張感が漲り、誰もが見張に専念して居る。真夜中を過ぎ1942年11月13日に為った。   
 私はガダルカナル挺身隊の護衛に当たって居る駆逐艦「暁」の水雷長で、魚雷の準備を命じてから艦橋右舷で何時でも発射を下令出来る位置に居た。昨日Bー17に発見されたから奇襲の望みは無く為って居る。
 山本連合艦隊長官が司令部を置くトラックは、南方1400キロにあるラバウルを支援出来る位置にある。ラバウルを基地とする艦艇は、ソロモン或いはニューギニアの何処にでも行動出来、航空機は遠く豪州のダーウィンを爆撃出来る。

 連合艦隊司令部は、戦艦戦隊を以てガダルカナルの飛行場を制圧する事にした。ガダルカナルの米軍を駆逐し飛行場を奪回し無ければ為ら無い。飛行場を制圧すればガダルカナル、更には長さ約800キロのソロモン諸島を制圧する事が出来る。米軍がガダルカナルを占領すれば、ラバウルの航空基地と地域の日本軍全てに脅威を与える。

    10-12-15.jpg 戦艦『比叡』模型

 第11戦隊(阿部弘毅少将)の比叡と霧島が11月12日の深夜、36サンチ砲を以てガダルカナルの飛行場を砲撃する計画で、暁はその護衛の1艦である。近藤信竹中将の第2艦の主力は、空母・隼鷹(じゅんよう)と共に戦艦隊の支援に当たる。敵が警戒して居る場合には、前衛の駆逐艦が警報を出す事に為って居るが、未だ何も言って来ない。

    10-12-14.jpg 航空母艦 隼鷹1944


 




 米軍は要約真珠湾の災厄から立ち直り、8月7日にガダルカナルに上陸した。我が海軍の設営隊は飛行場の建設を終え間も無く航空機が進出すると云う時だった。私達は、陸軍が総攻撃を遣れば飛行場は奪回出来ると思って居た。

 見張員が「何か見える・・・敵らしい」と報告して緊張は更に高まった。その直後に電話で「敵発見」が来た。幾つか黒いシルエットが見えて来た。その1隻が突然右舷正横から急速に接近して来た。1本煙突のフネで私は新型の駆逐艦と判断した。
 夜は日本側に有利である。夜戦の訓練を重ねて来たし、優れた双眼鏡と酸素魚雷がある。遣り過ごすべきか?攻撃すべきか?敵に発見されたのか?やるのか、やられるのか? 艦長が識別を命じたので、私は「敵です、間違い無し!」と大声で報告した。右舷には更に幾つかの艦影が現れた。

 艦長は上部の射撃指揮所に居る砲術長に砲撃を命じた。砲身が旋回し探照灯が米駆逐艦を照射した。こちらの位置を示した事に為った。ガーン! 目が眩む閃光が走って次の瞬間、耳を聾する轟音があり、甲板は激しく振動して私は爆風でデッキに叩き着けられた。そうか、今死ぬのか・・・一瞬、何処か遠くに連れられて行った様な気がした。
 私は何とか立ち上がった。頭がガンガン鳴り右の頬が熱い。額から流れた血が右目に入る。夢なのか現実なのか分から無い。思考力を失い動物の本能だけで動く。暗闇の中では傷の程度は分から無い。直ぐに死ぬのかと思った。

 艦長が取舵(とりかじ)を令したが、側に居た操舵員の姿は無い。私は舵輪を回した。空回りするので「舵利きません!」と報告した。近くの者は倒れたまま動か無い。
 艦橋に残ったのは、艦長・隊司令((注)第6駆逐隊司令)・航海長・航海士と私だった。私の帽子と靴は無く為って居る。甲板には血が流れ、私の靴下は血でグッショリに為って居る。艦長は上の射撃指揮所を呼んだが応答が無い。爆風から生じた強い酸の匂いで喉が焼ける。艦橋の機器は全て大きく損傷した。魚雷発射の管制員も遣られた。隊の軍医長も補給長も死んだ。
 砲弾は恐らく右艦首に居た米駆逐艦からのもので、艦橋後部を直撃した。フネをコントロールする機能は全て失われた。死傷者は艦橋に留まら無い。右舷機械室も被弾した。暁は針路の保持が出来無く為った。


 



 




 私は後部の舵取機室に向かった。死体がハッチを邪魔して居る。暗闇の中を狭いラッタルを降りた。半分開いたドアから通信室を見ると、数人が配置に着いたまま動か無いで居る。戦闘中は治療室に為る士官室に目を遣ると、負傷者で一杯な処に更に負傷者が後部から遣って来る。ローソクの淡い光が負傷した者、死に掛けて居る者を照らして居る。
 赤い炎が1缶室から後部に向かって来た。このまま行くべきかそれとも諦めるべきか。血が目に入る。看護兵に言って包帯をして貰った。それから夢遊病者の様な足取りで艦橋に戻った。左舷機械室にも被害があったらしくフネは為す術も無く漂って居る。米駆逐艦が高速で横を通って行った。艦長から機械室に連絡する様言われたので呼んだが応答は無い。戦場は遥か西に移り暁は取り残された。

 浸水が進んでフネは左に傾き乍ら沈み始めた。傾斜は徐々に増大する。艦橋に居るのは隊司令・航海長と私だけである。艦長は何処なのか。立って居られ無く為った3人は、先ずコンパス、次いで窓枠にシガミ付いた。
 1缶室からの炎が艦橋の後部から迫って来る。海面が競り上がって来たので3人は海に飛び込んだ。暁は左に横倒しに為り艦首を持ち上げてから姿を消した。
 フネは沈む時泳いで居る乗員を引き摺り込むと聞いて居たが、突然巨大な力で海中に引き摺り込まれた。どれ程引き込まれたか分から無い。モガイテも駄目だと思ったので成り行きに任せた。引き込まれた時鈍い爆発音を耳にしたが、安全装置が外れた爆雷だったかも知れ無い。


 



 胸が苦しく為ったので、少し海水を飲むと少し元気が出て必死に水を蹴り上に向かった。突然頭が海面に出た。
 間も無く乗員の頭が点々と見えて来た。互いに呼び合い筏(いかだ)を探した。戦場はサボ島の方に移って居り、米軍の打ち上げる星弾が空を明るくしたが、間も無く暗闇と沈黙の世界に為った。私は浮いて居た木材に掴まった。空が白み始めた。
 ガダルカナル島が見えたので、日本軍が尚保持して居る海岸に向かって泳いだ。私の運命は一晩で大きく変わった。私は現実を把握しようと努めたが未だ夢の中に居る気持ちだった。バラバラに為って居る30人か40人の乗員は、海が静穏な事に助けられて居る。どれも知った顔だった。隊司令や航海長はどう為ったのであろうか。フネが沈む時恐らく引き込まれたのであろう。

(注)日本名、第4次コロンバンガラ沖海戦、米国名、第1次ガダルカナルの戦い、と為って居るこの海戦の参加兵力と被害は次の通り。

 日本:戦艦・比叡(中破)霧島・軽巡1・駆逐艦11(暁と夕立は沈没・2中破・2軽微)
 米国:重巡2(1大破・1中破)・軽巡3(1沈没・1大破・1中破)・駆逐艦8(3沈没・2中破・1軽微)尚スコットとキャラハン両少将が戦死。

    10-16-8.jpg ルンガ沖夜戦


 


 

 乗員には殆ど無傷の者と重傷を負った者が居る。水雷科の下士官の一人はかなり弱って居て顔面蒼白である。要約彼を少し大きな板に乗せ泳ぎながら見守った。突然エンジン音が聞こえて来た。小さな上陸用舟艇が真っ直ぐに向かって来る。我々を拾いに来たのだ。私は「気を着け無いと捕虜に為るぞ!」と叫んだ。
 日本の軍人に取って捕虜に為るのは耐え難い恥辱である。我々は散り尻に為った。別の上陸用舟艇が横を通った。近かったのでアメリカの水兵の顔が見えた。波が来て海水を飲む。死んだ方が増しだと思った。少し離れて乗員が拾い上げられて居る。
 上陸用舟艇は去り私は落ち着きを取り戻した。陸に向かって泳いでも一向に距離は詰まら無い。潮で引き戻されて居るのか。しかし海岸は見えて居る。夜までには辿り着けるかも知れ無い。

 1万トンのオーガスタ級巡洋艦が私と海岸の間に来た。突如前部の8インチ砲が発砲したが2・3発で辞めた。未だ交戦中なのか。巡洋艦は間も無く旋回を始めた。太陽が容赦無く我々の頭に照り着ける。時々頭を海中に入れてみたが効果は無い。身体は重油に塗れて居る。目は海水で痛みナカナカ開けられ無い。
 耳鳴りは続き頭の傷が気に為る。右手の傷口は変色して居る。重油を少し飲んだらしい。身体から力が抜けて行く。ボンヤリした頭で前方を見ると、米巡洋艦の水上機の2機が着水した。内1機は直ぐ側だったので急いで離れる。もう1機は離水して飛び去った。

 頭上でエンジン音がするので見上げると1機が直ぐ側に来た。機銃掃射を受けるのかと思ったが、間も無く離水して姿を消した。私の位置を誰かに知らせるに違い無い。上陸用舟艇が遣って来た。胸の動悸が激しく為り、混乱して物がボンヤリと見える。
 二人の水兵が手を伸ばした。私は「ノーサンキュー!」と叫んだ。しかし弱った身体では抵抗しても駄目だった。私は引き上げられるとデッキに倒れた。暁の乗員数名が既に拾われて居た。


 




   10-12-16.jpg 天霧【綾波型駆逐艦 五番艦】

 私は1940年8月に兵学校を卒業、練習巡洋艦・鹿島に暫く乗ってから重巡・那智の艦長付兼見張士、開戦当初は第20駆逐隊の天霧の航海長としてマレー・仏印・スマトラ・インド洋の作戦に従事した。第1段作戦は成功裏に終わり帰国した。次いで横須賀の水雷学校の学生に為り1942年5月に暁に転勤したのである。

 暫くするとエンジンが止まり、フネは海岸に乗り上げた。ルンガ岬よりずっと東の海岸だった。トラックに乗せられ、鉄条網を張り巡らせた建物に着いた。建物は2つあって、その一つに暁の乗員10人以上が入れられた。
 私は立って居られ無く為って倒れてしまった。衛生兵が一人ずつチェックし、傷を包帯で巻いて呉れた。我々は最早戦士では無く乞食か難民だった。私が捕虜に為ったのは11月13日の正午頃であったろう。


 その2につづく


 



 



 





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