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2018年12月15日

宮城の民話 その1



        12-16-7.jpg


  




 私が住まいする宮城県の、郷土の昔話をお伝えしようと思います。お子様やお孫様が寝る前の一時、語ってお伝え願えれば幸いです・・・

 宮城県の昔話(全14話)


   再話 佐々木 徳夫
   整理・加筆 六渡 邦昭
   提供 フジパン株式会社
から引用します・・・




 第一話 良太の智恵(りょうたのちえ)
 


   12-15-21.jpg 挿絵:かわさき えり

 
 昔、あるところに良太(りょうた)と云う面白い子供がおったと。或る日縁側で遊んでいた良太に、おとっつぁんが
 「これ、良太。おてんとう様と江戸(えど)とドッチが近いと思う?」
 と聞いたそうな。そしたら良太は首を曲げて思案(しあん)してから、
 「おてんとう様の方がよっぽど近い。だっておてんとう様はここから見えるけど、江戸はサッパリ見えないもの」 
 と言うた。おとっつぁんはスッカリ感心(かんしん)してしまったと。


  12-15-22.jpg


 それから何日かして、江戸からお客(きゃく)さんが来たそうな。おとっつぁんはお客さんに早速、良太の利口(りこう)な処を見せようと思って、
 「良太や、おてんとう様と江戸とどっちが近いと思う」
 とまた聞いたんだと。そしたら良太は、お客さんとおとっつぁんの顔を見て、首を曲げて思案してから、
 「江戸の方がズッと近いよ」 
 と答えたと。スッカリあてが外れてしまったおとっつぁんは、妙な顔をして、
 「どうして江戸の方が近いって言うのや。おめえ、この間はおてんとう様の方が近いって言ったでねぇか」
 と言ったそうな。そしたら良太、
 「そんな事言ったって、おとっつぁん、江戸からはこうしてお客さんが見えるけど、おてんとう様からは未だ一ぺんも見えた事がないもの」
 と、こう言うたと。

 こんでおしめい、チャンチャン!



 管理人の一言

 どうだべな・・・そんな面白い話でも無かったよナ。目の前に見えるものは身近で親近感が深く感じられるけど、それと本当の現実は違うってことだべナ。実際に話したり手で触ったりできる現実は、逆にその本質を好く見ていないのだと云うことでもあるんだべナ。物事の確信を正確に掴むには、現実から適当な距離を置き、客観的な思索や観察も大切なんだべナ・・・



 

 

 




  第二話『牛になった爺婆』(うしになったじじばば)

 
   12-16-1.jpg 挿画 かわさき えり


 昔、あったと。或る所に金持ちの欲深(よくぶか)爺(じじ)と婆(ばば)が居たと。或る晩(ばん)げのこと、旅の六部(ろくぶ)がやって来て、
 「どうぞ、ひと晩泊(と)めて下さい」 
 と頼(たの)んだと。

 欲深婆は、汚(よご)れた身成(みな)りの六部をひと目見て、
 「今夜、泊まり客(きゃく)があってダメでがす。隣(となり)さ行ってけろ」
 と、素気無く断(ことわ)ったと。その隣に貧乏(びんぼう)な爺さんと婆さんが住んでいたと。気の毒(どく)な六部を見て、
 「何のお構(かま)いも出来ねえけんど、どうぞお泊まんなさい」
 と、快(こころよ)く迎(むか)え入れたと。ほして、残りご飯を温(ぬく)めてご馳走(ちそう)したと。

 次の朝ま、婆さんが早々(はやばや)と起きて朝ご飯の仕度(したく)をして待っていたが、六部はナカナカ起きて来ないのだと。心配になって障子(しょうじ)の穴からソオッと覗いて見たら、布団(ふとん)の上には、六部では無くて大きな牛の形をした金の塊がピカピカ光って寝てあったと。
 貧乏な爺さんと婆さんは、一遍に大金持ちになったと。隣がにわかに福々(ふくぶく)しくなったのを見た隣の欲深婆が、
 「どうして金もうけしたや」
 と聞いたと。爺さんと婆さんは、六部を泊めたら金の牛に為って居たと話したと。ほしたら、欲深婆が、
 「おら家(え)も、今度六部が来たら必(かなら)ず泊まってもらうべ」
 と言うたと。

 欲深爺と婆は、毎日門口(かどぐち)に立って、旅の六部が来ないものかと待ち構(かま)えていたと。ほしたら或る日、汚(きたな)げな六部がやって来たので、
 「六部さん、六部さん、今夜ぜひ、おら家さ泊まってけろ」
 と言うて、無理やり手を引っ張(ぱ)って家に入れたと。ほして、残り物を集(あつ)めて、冷(ひや)っこいまんま食わせ、
 「六部さん、六部さん、疲(つか)れたろうから、早よ休め」
 と、冷っこい煎餅布団(せんべいぶとん)に寝かせたと。欲深爺と婆は、

 「まんだ金の牛になってねか?」
 「いんや、まだなってね」
 「まだか?」
 「まだだ」


 と言うて、何遍(なんべん)も何遍も覗いて見たと。幾ら経(た)っても金の牛になっていないので、二人で神棚(かみだな)の前にぺタッと座(すわ)って、

 「あの六部が、早く金の牛になりますように!」
 「んだ、ピカピカ光る金の牛になりますように!」

 と、拝(おが)んでいたと。


   12-16-2.jpg


 ほしたら、舌(した)がダンダン回(まわ)らなく為って来て、ヨダレがベロベロ流れて来たと。ほのうち、頭から角(つの)がニョッキリ生(は)えて来て、欲深爺と婆の方が牛に為ってしもうたと。

  こんで えんつこぱあっと さげた。



 管理人の一言


 何時の時代にも居る、意地悪でケチな人と親切で優しい人の違いなんだべナ。ヤッパー常に心掛けねば、咄嗟の事態には欲をかいて醜態を演じてしまうべナ。例え直ぐに報われ無くとも、人には常に親切で優しく接する様に心掛けねばネ。その方が心も豊かに為るんだネ・・・処で*六部ってナアンだ?
 

 *解説 六部(仏教言葉・ろくぶ)とは?

 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

 六十六部の略で、本来は全国66か所の霊場に一部ずつ納経する為に書写された66部の『法華経(ほけきょう)』のことを言ったが、後に、その経を納めて諸国霊場を巡礼する行脚(あんぎゃ)僧のことを指す様になった。別称、回国行者とも言った。
 我が国独特のもので、その始まりは聖武(しょうむ)天皇(在位724〜749)の時とも、最澄(さいちょう)(766―822)、或いは鎌倉時代の源頼朝(よりとも)、北条時政(ときまさ)の時とも言い定かでは無い。恐らく鎌倉末期に始まったもので、室町時代を経て、江戸時代に特に流行し、僧ばかりでなく俗人もこれを行うようになった。
 男女とも鼠木綿(ねずみもめん)の着物に同色の手甲(てっこう)・脚絆(きゃはん)・甲掛(こうがけ)・股引(ももひき)を着け、背に仏像を入れた厨子(ずし)を背負い、鉦(かね)や鈴を鳴らして米銭を請い歩いて諸国を巡礼した。



 





  第三話 『藤田丹後』(ふじたたんご)



   12-16-3.jpg 挿絵:かわさき えり


 これは、ずうっと昔、キリシタンを厳(きび)しく取り締(し)まった頃の話だ。陸前(りくぜん)の国、今の宮城県の鹿島(かしま)と云う町に隠(かく)れキリシタンの藤田丹後(ふじたたんご)と云う武士(ぶし)が居ったと。
 或る時、キリシタンであることが殿様に知れて、藤田丹後はお寺に身を隠したと。殿様は、藤田丹後の親類(しんるい)の茂庭(もにわ)と云う家来(けらい)に、丹後を捕(とら)えるように命じたと。茂庭は殿さまの命令(めいれい)とあれば仕方が無い。捕(と)り方を大勢引き連れてお寺を取り囲んだと。

 自分を捕えに来たのが茂庭だと知った丹後は、笑って、

 「俺は幾らでも逃げられるがナ、それではオレの親類の茂庭が気の毒(どく)だから捕まってやるさ。だが、俺が捕まえられればキリシタン、バテレンの妖術(ようじゅつ)ば見せることも出来なくなるから、ひとつ参考までに見せてやろう」

 こう云うと、中庭に下りて何やら呪文(じゅもん)を唱(とな)え始めた。そして、印(いん)を結んだとたんに、前の方の海から海水がドッと押(お)し寄(よ)せて来たと。茂庭をはじめ捕り方たちは、慌てて後ろの方へ逃げ散(ち)ったと。丹後は笑って、
 「今度は釣(つ)りでもしようか」
 と云うと、一竿(いっかん)の釣り竿(ざお)を手にし、糸を海水の中へ投げ込んだ。するとたちまち、釣り糸の先には大きな魚が掛かったと。

 「何の魚だべ」と、捕り方のひとりが見ると、赤鯛(あかだい)であったと。
 「また釣ってみせようか」と言って釣り糸を垂(た)れたら、今度は見事な鮪(まぐろ)が掛かったと。そうやって、アレヨアレヨと云う間に小山になるほど魚を釣ってみせたと。
 「もうこれで好かろう」
 と言うて、藤田丹後が釣り竿を収(おさ)めたら、たちまち海の水が引いて中庭の土が見えて来たと。後退(あとじさ)った捕り方たちが庭に下りて来て、しきりと不思議がっておったが、そのうち捕り方のひとりが、帯をさわりながら、
 「刀(かたな)が無い」
 と叫(さけ)んだ。すると、アチコチで、
 「おれの棒(ぼう)が無い」
 「さすまたが無い」

 などと驚き慌てふためいたと。捕り方たちの持っていた武器(ぶき)は、ひとつ残(のこ)らず消えていたと。すると、藤田丹後は、カラカラと笑って、
 「心配することはないさ、ここにあるではないか」 
 と魚の山を指(さ)してやった。何と、魚の山と見えたのは皆の武器の山であったと。
 「どうだ、オレのキリシタン・バテレンの妖術は?だから俺は、逃げようと思えば何時でも逃げられる、と 言ったろうが」
 親類の茂庭をはじめ、捕り方たちはあぜんとしているばかりだと。


   12-16-4.jpg

 
 やがて、藤田丹後は寺の和尚に挨拶(あいさつ)をしてから、綱(つな)の掛かった籠(かご)に自分から乗ったと。その前後左右を捕り方たちがとり囲(かこ)んで運(はこ)んで行ったと。しばらくすると、後ろから、
 「オイ、オイ」
 と呼(よ)ぶ声がする。捕り方たちが振(ふ)り返ってみると、厳重(げんじゅう)に括られた籠に乗っている筈の丹後が、後を追って来ておった。
 「なに、寺に忘れ物をしたので、ちょいと取りに行って来た。後は何も無いから、籠の中で眠(ねむ)らせて貰うさ」
 と、ヌケヌケと言うと、捕り方たちは、
 「何時の間にいなくなったんだべ」
 と云うて、首を傾(かし)げるばかりだと。藤田丹後は、やがて刑場(けいじょう)で殺(ころ)されたが、その時丹後の身体はスウッと煙(けむり)の様に消えて、あとはどうなったか、誰にも分からなかったそうな。

  どんびん。


 





 管理人の一言


 昔話に「隠れキリシタンの武士」の話が出て来るのは珍しいで無いかい?それと、伴天連のキリシタンだと自分を紹介し、妖術を使う設定もネ。結局彼は処刑されたのだが、仙台伊達藩の中には、伊達政宗が支倉常長の遣欧使節団を送るほどの熱心な信者も数多く居たんだろうな。それは、武士の中にもネ。
 政宗の使節団の目的は、メキシコやヨーロッパとの交易によって利益を得ようとした様だが、結局、徳川幕府もキリシタンを禁教として迫害した。その後政宗は、表向きキリスト教を禁止せざるを得ずに居た。だから藩内にも「隠れキリシタン」は相当存在したと考えられそうだナ。特に地方の藩には、江戸時代中、ズーッと信心していた人々が数多く居たと考えるべきだろうな・・・



 




 宮城の民話 その2につづく












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