2020年08月20日
【自分が2人いる】短い命を楽しみたい自分、それを冷ややかに客観視する自分。
僕の中には、常に2人の自分がいる。
完全に私的な感覚なので、
「何を言ってるの?」と思われるかも知れない。
だけど最近、
「苦しいのに生きるのはなぜか」を考える時に、
冷ややかな自分の声が大きくなる。
そこで、
同居する2人の自分がどう見えているか、
それぞれが何を言っているかを話したい。
ー目次ー
僕の中に、どうやって2人が同居しているか。
冷ややかな自分が出場している間、
楽しみたい自分が眠っているわけじゃない。
人格交代するわけでもない。
1台のPCにモニターを2台つなげた
デュアルモニターのように、
いつでも両方が見れる状態。
今できること、恵まれていることに、
不思議なくらい純粋に感謝している。
バスケが、野球ができ、
たまに旅ができること。
英語の勉強が、読書ができることに
感謝と言っている。
死ぬまでの短い命を、
やりたいことに残さず使おうと叫んでいる。
好きなことをして楽しんでいる自分に
こんな言葉をかけている。
「好きなことをして楽しい、充実してる。だから何?」
何に対しても冷め、悟りを開いたようにも見える。
諦めの境地から、
何かと根本的なことをズバズバ言ってくる。
死生観について考える時、
その声が大きくなりがち。
冷ややかな自分が最近、
やたらとうるさく言ってくること。
それは、
生きるのが苦しいと思う自分に対しての
「今さら?」
以前、
生き続けるメリットを感じない自分について
書いた時、いちばんうるさく言われた。
→「なぜ、苦しいのに生きなければいけないのか 〜主治医に宛てたノートより〜。」
「今さら?」に加えて、こんなことも言っていた。
↓ーーーーーーーーーー↓
「生きることは苦しい」
そんなことは、
紀元前からさんざん考えられてきたこと。
宗教がとっくに証明してるじゃないか。
「神を信じれば来世で救われる」
「教えを守れば来世で極楽浄土へ行ける」
「善い行いをすれば来世で天国へ行ける」
そう、来世では。
ということは、
現世ではみんな救われてない。
つまり現世は苦しい。
だから、心の拠りどころに宗教があり、
家族や友人、恋人、大切な何かがある。
みんなそうやって、
「苦しい現世にいる期間」をしのいでるだけ。
そんな、数千年前に証明済みの事実と、
まったく同じことを言ってる自分。
今さら何?
ーーーーーーーーーー
「自分を客観視できるのはよいこと」
そんなことをよく耳にする。
僕の場合、
”客観視するもう1人の自分”というより、
”1人で2画面を見ている”感覚。
ただ客観視できるだけならよかったのに、
片方はどうしてこんなに冷めてるの?
人間は相反する感情をたくさん抱えてる。
矛盾も、一貫性のなさも。
僕の片方が選んだ性格は、
ずる賢さでも、攻撃性でも、嫉妬深さでもない。
すべてを諦めたような、虚無的な性格。
命の尊さに、純粋に感謝できる自分。
短い命を、悔いなく感じ切ろうとする自分。
なのに一方で、
その命すべてに虚しさを抱える自分。
僕の中の闇は、どうしてこんなに空っぽなの?
光と闇を併せ持つのが人間だとしたら、
僕はどうして闇の代わりに”虚無”を持ってるの?
根底にある
”誰にも愛されなかった悲しみ”に、
うすうす気づきながら自問する。
ーー愛されなかった末に陥る、愛着障害という病ーー
- 短い命を楽しみたい自分
- そんな自分を冷ややかに客観視する自分
完全に私的な感覚なので、
「何を言ってるの?」と思われるかも知れない。
だけど最近、
「苦しいのに生きるのはなぜか」を考える時に、
冷ややかな自分の声が大きくなる。
そこで、
同居する2人の自分がどう見えているか、
それぞれが何を言っているかを話したい。
ー目次ー
- デュアルモニターのように同居する2人
- 「生きることは苦しい」→『今さら?』
- 光と闇の代わりに、”光と虚無”を持っている
1.デュアルモニターのように同居する2人
僕の中に、どうやって2人が同居しているか。
冷ややかな自分が出場している間、
楽しみたい自分が眠っているわけじゃない。
人格交代するわけでもない。
1台のPCにモニターを2台つなげた
デュアルモニターのように、
いつでも両方が見れる状態。
1.短い命を楽しみたい自分
今できること、恵まれていることに、
不思議なくらい純粋に感謝している。
バスケが、野球ができ、
たまに旅ができること。
英語の勉強が、読書ができることに
感謝と言っている。
死ぬまでの短い命を、
やりたいことに残さず使おうと叫んでいる。
2.冷ややかに客観視する自分
好きなことをして楽しんでいる自分に
こんな言葉をかけている。
「好きなことをして楽しい、充実してる。だから何?」
何に対しても冷め、悟りを開いたようにも見える。
諦めの境地から、
何かと根本的なことをズバズバ言ってくる。
死生観について考える時、
その声が大きくなりがち。
2.「生きることは苦しい」→『今さら?』
冷ややかな自分が最近、
やたらとうるさく言ってくること。
それは、
生きるのが苦しいと思う自分に対しての
「今さら?」
以前、
生き続けるメリットを感じない自分について
書いた時、いちばんうるさく言われた。
→「なぜ、苦しいのに生きなければいけないのか 〜主治医に宛てたノートより〜。」
「今さら?」に加えて、こんなことも言っていた。
↓ーーーーーーーーーー↓
「生きることは苦しい」
そんなことは、
紀元前からさんざん考えられてきたこと。
宗教がとっくに証明してるじゃないか。
「神を信じれば来世で救われる」
「教えを守れば来世で極楽浄土へ行ける」
「善い行いをすれば来世で天国へ行ける」
そう、来世では。
ということは、
現世ではみんな救われてない。
つまり現世は苦しい。
だから、心の拠りどころに宗教があり、
家族や友人、恋人、大切な何かがある。
みんなそうやって、
「苦しい現世にいる期間」をしのいでるだけ。
そんな、数千年前に証明済みの事実と、
まったく同じことを言ってる自分。
今さら何?
ーーーーーーーーーー
3.光と闇の代わりに、”光と虚無”を持っている
「自分を客観視できるのはよいこと」
そんなことをよく耳にする。
僕の場合、
”客観視するもう1人の自分”というより、
”1人で2画面を見ている”感覚。
ただ客観視できるだけならよかったのに、
片方はどうしてこんなに冷めてるの?
人間は相反する感情をたくさん抱えてる。
矛盾も、一貫性のなさも。
僕の片方が選んだ性格は、
ずる賢さでも、攻撃性でも、嫉妬深さでもない。
すべてを諦めたような、虚無的な性格。
命の尊さに、純粋に感謝できる自分。
短い命を、悔いなく感じ切ろうとする自分。
なのに一方で、
その命すべてに虚しさを抱える自分。
僕の中の闇は、どうしてこんなに空っぽなの?
光と闇を併せ持つのが人間だとしたら、
僕はどうして闇の代わりに”虚無”を持ってるの?
根底にある
”誰にも愛されなかった悲しみ”に、
うすうす気づきながら自問する。
ーー愛されなかった末に陥る、愛着障害という病ーー
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