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2020年01月12日

命との対話として同行した「釣り」。

父の実家は漁村で、里帰りすると
父は釣りに行くのを楽しみにしていた。

父は実家すぐ目の前の砂浜へ投げ釣りに出かけては、
カレイやクロダイを釣ってくることもあった。

投げ釣りに関しては「子どもには危ない」と言って
大人だけで行っていたが、

築港での「チカ」という魚釣りへは
家族で同行していた。



釣りに同行すること自体は嫌でなかったが、
釣り竿に餌をつけたり実際に魚を釣るのは苦手だった。

どうしても魚の気持ちになってしまい、
釣られる痛みや苦痛、理不尽さと人間の身勝手さに
心が痛んで悲しくなるからだった。

始めてから何尾か釣り上げると、
すぐに心が悲しみでいっぱいになって
離脱を繰り返した。



チカさんたち、僕らが今日来なければ
今もきっと自由に海を泳いで、
人生(チカ生)を謳歌していたかも知れない。

大海原で他の生き物に捕食されたり、
食べ物が見つからなかったり、
つらいこともあるだろうけど、

今日、僕ら人間の手によって
チカ生が終わる必要はなかったんじゃないか。



生き物はみんな、何かの命を奪って生きている。

釣りだって食べるため、生きるため、
だから決して命をもてあそんではいない。

それは仕方ないことと理解している。

けど、痛かったろうな…。

釣られてから死ぬまでの間、
苦しかったろうな…。

餌で釣って、針にかけて
痛い思いをさせた挙句に殺す。

僕らが今日来なければ、
こんなに苦しいチカ生の終わりを
迎えなくてもよかったんじゃないのかな…。



釣って帰ったら、祖母が料理してくれる。

チカの刺身、天ぷら、フライ。
すごくおいしい。

自分もそうやって命を食べて
生かされてるくせに、

「チカさん痛そう、かわいそう」だなんて
どの口が言うのかな。一方的だな。

本人(本チカ)が幸せだったか苦しかったかは
チカさんしかわからないことなのに。

そんな自分が罪深くて嫌になるけど、

せめて、いただく時には
「チカさんありがとう」という気持ちでいよう。



これが、釣りに同行した時に
毎回思っていたこと。

みかんの房の双子を見つけて泣いた時も、
『風の谷のナウシカ』原作を読んだ時も、

僕はとにかくすぐに感情移入する。

そして当事者の気持ちになり、
「自分がその場にいたらきっとこう思う」と
無限の想像が広がっていく。

→双子のみかんで泣く。
双子のみかんの気持ちになる。
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/186/0

→『風の谷のナウシカ』原作で、
 殺される人たちの気持ちになる。
『風の谷のナウシカ』原作、残酷描写にいちいち心痛める。
https://fanblogs.jp/yaritaikotohanokosazuyaru/archive/401/0

だからすぐ、釣られる側の気持ちになっては、
痛みや苦しみを想像して一人で悲しむ。

生き物の犠牲の上に今の自分が生きてることに
大きなジレンマを抱えながら。



いつ頃からこうやって
そのものの気持ちになるようになったんだろう。

少なくとも、初めて釣りに同行した時には
すでにこんな無限の想像を働かせていた。

生きる罪深さ、「かわいそう」と思う自分への疑問、

きれいごとでは決して向き合えない、
命との対話として「釣り」と関わっていた気がする。


posted by 理琉(ワタル) at 18:52 | TrackBack(0) | 生き方

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自閉傾向の強い広汎性発達障害。鬱病から再起後、低収入セミリタイア生活をしながら好きなスポーツと創作活動に没頭中。バスケ・草野球・ブログ/小説執筆・MMD動画制作・Vroidstudioオリキャラデザインに熱中。左利き。 →YouTubeチャンネル
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