2019年08月18日
ドキュメンタリーカメラマンの回顧録
私が大手のテレビ番組制作会社で、自他共に認める一人前のENGカメラマンになれた頃、あるTV-CFの会社の社長と内の社長が交流しており、あるドキュメンタリー作品の撮影を、我が部署に仕事を与えてくださった。
そして、実績を積み重ねる中、いきなり二週間弱のオーストラリア海外出張をさせていただいた。
翌年、今度は大手広告代理店の関連会社からの、ある大手食品メーカーの記録映像で、二週間弱のドイツ海外出張をさせていただいた。
そんな中、、無能な中間管理職の業務に不審を感じ、人事の上司に相談したが相手にされなかった。
実は、その頃、あるプロダクションからヘッドハンティングの話をいただいており、業界では知られている優秀なドキュメンタリーディレクターと、内密で自己紹介と打ち合わせをさせていただいたことがある。
しかし、入札による仕事だった為、落ちて話が没になりました。
私はめげずに日々、実績を積み重ねる中、無能な中間管理職の上の上司から直に、あるテレビ局第二報道部(主にドキュメンタリー番組)の撮影を、やらないかと話をいただいた。
私は「喜んで撮影します。」とお答えし、春からの新番組のENGロケを、局カメラマンとローテーションで撮影させていただき、
また、新企画のミニドキュメンタリーでは、私が最初に撮影(奄美大島ロケ)することになり、ルポライターの取材を、綿密な打ち合わせをすることなく、突然の行動にも黙ってついて行き撮影した。
その事で、局ディレクターにも信頼され、まだ、ロケが始まったばかりなのに、「いい作品になりますね」とDとルポライターが話をしていた。
そうそう、その時の助手君も、何も言わなくても、10kgのカメラを肩にかつぐと、音声ケーブルをつなぎ録音してくれた。
優秀な助手をかつての上司が、私の為につけてくれたのである。
そして、オンエアー(番組放送)が終わり、テレビ局第二報道部の部長さんと目が合い、「君かー、あれは良く撮ったなー。」と褒めていただいた。
そして、また、同じミニドキュメンタリーで、別のディレクターからご指名をいただき、ラジオパーソナリティーのMCさんと北海道に行かせていただいた。
これだけ、実績を積み重ねているにも関わらず、無能な中間管理職からは妬みと嫌がらせで、研修として行かされていたすごくマイナーなローカルテレビ局の撮影をメインのように勤務させられていた。
これもまた、ローカルテレビ局の報道局長から直にドキュメンタリーの撮影をやらないかと指名を受けたこともあり、関東のディレクターからも気に入られ、2〜3年、わが社に直に依頼があり、
もちろん私をご指名してくださるのである。
しかし、大組織であっても人間は個人でありV局とU局の仕事が重なれば、V局の撮影を優先するのは当たり前であり、U局の撮影を後輩に譲ったら、その後、関東U局から仕事が来なくなりました。
その年の春、私を慕ってくれている助手が、本社で私の人事の話を、部長が話していたのを聞いたそうで、教えてくれた。
私は、この話がガセネタであっても、きっかけとして直ぐに辞める決断をし、直ぐにリクルート誌でライバル同業他社の募集を知った。
早速、お電話し人事の方と面接し、退職まで1か月待ってくださいとお願いし、退職後、あくる日には、ライバル同業他社にフリーランス日数契約でお世話になることになった。
ちなみに、テレビ局のプロデューサーと人事担当してくださった上司と私が、同じタクシーに乗る機会があり、その中で、前の会社の者であることが分かり、「君ら、ライバル会社からヘッドハンティングなんかするなよ」と笑いながら歓迎してくれました。
そんな事から、関西の全てのテレビ局の撮影に携われることになりました。
そして、二度とマイナーなローカルテレビ局に行かなくて済んだことに喜びを感じた。
ある日、街中の路上で撮影をしていたら、知り合いが近づいてきて、私に気が付き、「今秋、第二弾としてニューヨークだよ。」と話をいただき、喜んでお請けしました。
その時、思った。正社員ではなく、フリーランス契約で良かったと。
もちろん、新会社の上司に話をし、許可をしていただいたのです。
ホント、私の激動の三年間であり人生最高の思い出です。
もちろん、その後もフリーランスカメラマンとして引く手あまたの仕事をを続けさせていただきました。
しかし、バブル崩壊後であり、段々と仕事が減ることを予測し、他分野の舞台業者にも営業し、気付けばある舞台ビデオ業者では18年間もお世話になりましたが、
ある事件があり、若造社員スイッチャーが、バカげた要求をしてきたので、堪忍袋の緒が切れ反論してしまった。
2000年頃から、舞台ビデオの個人業者として軌道にのり日本各地に出張している中、
テレビ局が自社の関連プロダクションを設立し、これまでのテレビ番組下請け会社に発注しなくなった為、優秀だったのに倒産や、私と同じようにテレビ局以外の業務を請けて生き残っている会社もあります。
会社員時代の先輩ですが、私より遅れて独立した為、バブル崩壊と下請けいじめににあい、プライドを捨てたのでしょう。
最後に、私がいた頃には無かった本社の子会社が、今問題になっている大手広告代理店からの天下りや資本を得、甘い汁を吸っているようだ。
現在の社長は、私より遅れて本社に上がった先輩です。
カメラマンでもディレクターでもなく営業畑で出世していったようです。
そして、実績を積み重ねる中、いきなり二週間弱のオーストラリア海外出張をさせていただいた。
翌年、今度は大手広告代理店の関連会社からの、ある大手食品メーカーの記録映像で、二週間弱のドイツ海外出張をさせていただいた。
そんな中、、無能な中間管理職の業務に不審を感じ、人事の上司に相談したが相手にされなかった。
実は、その頃、あるプロダクションからヘッドハンティングの話をいただいており、業界では知られている優秀なドキュメンタリーディレクターと、内密で自己紹介と打ち合わせをさせていただいたことがある。
しかし、入札による仕事だった為、落ちて話が没になりました。
私はめげずに日々、実績を積み重ねる中、無能な中間管理職の上の上司から直に、あるテレビ局第二報道部(主にドキュメンタリー番組)の撮影を、やらないかと話をいただいた。
私は「喜んで撮影します。」とお答えし、春からの新番組のENGロケを、局カメラマンとローテーションで撮影させていただき、
また、新企画のミニドキュメンタリーでは、私が最初に撮影(奄美大島ロケ)することになり、ルポライターの取材を、綿密な打ち合わせをすることなく、突然の行動にも黙ってついて行き撮影した。
その事で、局ディレクターにも信頼され、まだ、ロケが始まったばかりなのに、「いい作品になりますね」とDとルポライターが話をしていた。
そうそう、その時の助手君も、何も言わなくても、10kgのカメラを肩にかつぐと、音声ケーブルをつなぎ録音してくれた。
優秀な助手をかつての上司が、私の為につけてくれたのである。
そして、オンエアー(番組放送)が終わり、テレビ局第二報道部の部長さんと目が合い、「君かー、あれは良く撮ったなー。」と褒めていただいた。
そして、また、同じミニドキュメンタリーで、別のディレクターからご指名をいただき、ラジオパーソナリティーのMCさんと北海道に行かせていただいた。
これだけ、実績を積み重ねているにも関わらず、無能な中間管理職からは妬みと嫌がらせで、研修として行かされていたすごくマイナーなローカルテレビ局の撮影をメインのように勤務させられていた。
これもまた、ローカルテレビ局の報道局長から直にドキュメンタリーの撮影をやらないかと指名を受けたこともあり、関東のディレクターからも気に入られ、2〜3年、わが社に直に依頼があり、
もちろん私をご指名してくださるのである。
しかし、大組織であっても人間は個人でありV局とU局の仕事が重なれば、V局の撮影を優先するのは当たり前であり、U局の撮影を後輩に譲ったら、その後、関東U局から仕事が来なくなりました。
その年の春、私を慕ってくれている助手が、本社で私の人事の話を、部長が話していたのを聞いたそうで、教えてくれた。
私は、この話がガセネタであっても、きっかけとして直ぐに辞める決断をし、直ぐにリクルート誌でライバル同業他社の募集を知った。
早速、お電話し人事の方と面接し、退職まで1か月待ってくださいとお願いし、退職後、あくる日には、ライバル同業他社にフリーランス日数契約でお世話になることになった。
ちなみに、テレビ局のプロデューサーと人事担当してくださった上司と私が、同じタクシーに乗る機会があり、その中で、前の会社の者であることが分かり、「君ら、ライバル会社からヘッドハンティングなんかするなよ」と笑いながら歓迎してくれました。
そんな事から、関西の全てのテレビ局の撮影に携われることになりました。
そして、二度とマイナーなローカルテレビ局に行かなくて済んだことに喜びを感じた。
ある日、街中の路上で撮影をしていたら、知り合いが近づいてきて、私に気が付き、「今秋、第二弾としてニューヨークだよ。」と話をいただき、喜んでお請けしました。
その時、思った。正社員ではなく、フリーランス契約で良かったと。
もちろん、新会社の上司に話をし、許可をしていただいたのです。
ホント、私の激動の三年間であり人生最高の思い出です。
もちろん、その後もフリーランスカメラマンとして引く手あまたの仕事をを続けさせていただきました。
しかし、バブル崩壊後であり、段々と仕事が減ることを予測し、他分野の舞台業者にも営業し、気付けばある舞台ビデオ業者では18年間もお世話になりましたが、
ある事件があり、若造社員スイッチャーが、バカげた要求をしてきたので、堪忍袋の緒が切れ反論してしまった。
2000年頃から、舞台ビデオの個人業者として軌道にのり日本各地に出張している中、
テレビ局が自社の関連プロダクションを設立し、これまでのテレビ番組下請け会社に発注しなくなった為、優秀だったのに倒産や、私と同じようにテレビ局以外の業務を請けて生き残っている会社もあります。
会社員時代の先輩ですが、私より遅れて独立した為、バブル崩壊と下請けいじめににあい、プライドを捨てたのでしょう。
最後に、私がいた頃には無かった本社の子会社が、今問題になっている大手広告代理店からの天下りや資本を得、甘い汁を吸っているようだ。
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カメラマンでもディレクターでもなく営業畑で出世していったようです。
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