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2016年12月31日
1988年(平成元年)の教育改革‐法政大学通信教育部教職課程(地歴科教育法リポート)
1988年(平成元年)の教育改革‐教職課程(地歴科教育法リポート)
平成元年、この時代は、世紀末であり、21世紀を目前に控えていた。
多様化する国際情勢、国際化の世界の流れは、これから先もっと、大きくなるであろう。
世の中の急変な流れの中、社会は変わりつつあった。今までの教育では、もう、限界が見えてきた。
そして、21世紀を目指し、激動の多様化する国際情勢に対応できる、国際感覚があり、広い視野で物事を感じ、豊で臨機応変な人間の教育を目標として、平成元年の1988年に、文部省は高等学校学習指導要領の改正と学校教育施行規則の一部改正に踏み切った。
高等学校の社会科科目をもっと、専門的、系統性に分け、日本の歴史文化を理解し、尊重しながら、世界の歴史文化を理解できるような、国際社会にも対応できる人間の育成に応えるために、社会科を歴史地理、公民に再編成した。
中学校の社会科は、歴史、地理、公民の三つの部分に分かれている。歴史部分は、主に日本史がメインである。世界史の扱われている部分はあまりなく、日本史の部分に関連した所が扱われているにすぎない。
21世紀の国際社会に対応できる人間を目指すためには、世界史の学習が必要である。
平成元年の社会科科目改正は、その、段階を踏んで実行に移された。最初は、来たる国際化の時代に向けて、昭和58年に、中央教育審議会教育内容等小委員会は、1、自己教育の育成、2、基礎、基本の徹底、3、個性と創造力の伸長、4、文化と伝統の尊重の4視点から、今後の科目編成の変更案を検討した。
そして、昭和58年から昭和62年にかけて、臨時教育審議会によって、21世紀に向けた新しい、今後の教育の3つの観点が示された。
これによると、1、個性重視の原則 2、生涯学習体系への移行 3、変化への対応である。
審議会の中で、社会科科目について、歴史、地理、公民などを、1つの社会科と言う枠に収めるべきではなく、構成に問題があるとの意見がでた。
また、従来の通り、歴史、地理、公民などを社会科の枠に収めると言う意見もあった。
このような新しい教育のあり方が問われた、世の中の流れの中、昭和60年、文部大臣の要請を受けた教育過程審議会は、これまでの教育の改革にのりだした。
そして、1、豊かな心をもち、たくましく生きる人間の育成を図る。 2、自ら学ぶ意欲と社会の変化に主体的に対応できる能力の育成を重視する。 3、国民として必要とされる基礎的・基本的な内容を重視し、個性を生かす教育の充実を図る。 4、国際理解を深め、我が国の文化と伝統を尊重する態度の育成を重視する。以上4つの方針を基にして、各教科・科目編成・授業時間数、などの教育全般に渡る改革に着手した。
結果として、改革によって、高等学校の社会科は、地理歴史・公民に分かれ、実際には、平成元年にこの改正案が実施された。
そして、高等学校の地理歴史科目の中の歴史については、日本史A 日本史B 世界史A 世界史Bに分かれた。
履修科目として、世界史Aと世界史Bの中から1科目、日本史A、日本史B、地理A,地理Bの中から1科目の合計2科目4単位以上が必須となった。
注目する点としては、世界史が必修科目となったことである。
これにより、全ての高校生が世界史を勉強することとなった。
世界史が必修になったことの狙いは、中学までの歴史は日本史がメインである。
日本の歴史を理解した上で、世界の歴史を勉強することにより、国際化社会に対応できる、資質を養うことが狙いである。
地理歴史の4科目を詳しく説明すると、世界史Aは、世界の歴史は1つの地域が単独で独自の発展をしたのではなく、常に世界の地域が相互に影響を与え、交流を行いながら発展していき、現代の世界を作り上げた。全世界の歴史を一体化して歴史を考える。
そして、近現代を中心に国際社会はどのようにして、できたのかを考え、国際社会に生きる日本人としての自覚と資質を養うのが目的の科目である。
世界史Bは、改正以前の世界史に近く、世界の各地域の特色ある文化や歴史を学習する。
また、各地域の文化、歴史の発展や現代世界の成り立ちの歴史的過程を考える。
この学習によって、世界の文化の多様性、各文化の違い、文化の交流や関連性、各文化の特色を知ることによって、歴史的な教養を身につけ、国際社会に生きる日本人を育成し、日本人としての自覚と資質を養うのを目的としている科目である。
日本史Aは、日本の歴史を世界の視野にたって、勉強する。
日本史を古代〜現代まで学習する。
内容は、近現代を中心に学習して、近現代日本がどのように、世界と関わることによって、社会を作っていったかを、世界史的な立場から日本史を考える。
そして、日本史Aを学習することによって、子供達にこれからの、国際社会の中の日本はどのような課題、役割があるのかを、世界史的な立場から考えられる能力を身に付けてもらうことに、この科目を学習する狙いがある。
日本史Bは、日本の歴史を学習して、日本独自の文化、伝統について、学んで、日本人としての誇りを、世界的な視野から考察する。
そして、日本文化の大切さを知ったうえで、日本人としての自覚を育て、これからの国際社会の中に生きる日本人の資質を養うことに、日本史Bのねらいがある。
以上が社会科における平成の教育改革である。
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2016年12月25日
鎖国からくる江戸時代のつくられたイメージと幕府の対外政策‐法政大学通信教育部(公民科教育法リポート)
鎖国からくる江戸時代のつくられたイメージと幕府の対外政策‐法政大学通信教育部(公民科教育法リポート)
鎖国という言葉のイメージは国交を完全に閉ざして外国とは付き合いをしないというイメージがある。
これは、江戸時代と聞いて日本人が連想する、閉ざした世界のイメージを植付け、閉ざした世界によって日本は世界の流れから大きく取り残されてしまうというイメージを作るものだった。
このイメージが定着することによって、後に続く明治維新の評価を価値あるのにしている。
明治維新によって、日本は外国との国交を回復して、文明の開花を行って、世界の流れから取り残されない国を作ったというイメージを作り上げた。
明治維新によって日本は飛躍的に文化の進んだ国に成長したと言う事を強調するために江戸時代の鎖国のイメージが必要だったのではと思われる。
しかし、西洋化=文明の発達と捉えてもいいのかという疑問がある。
機械や兵器の上では進歩したと言えるが、日本の古来の文化を古く、遅れているもとして、西洋の文化は進んでいるという考え方は、間違った認識である。
これも鎖国が持つ暗いイメージがこの考えを助長していると思える。
江戸時代の鎖国のイメージを捉える時、外国との国交を閉ざしたのではなく、一部国交を閉ざしたと考えるべきである。
江戸幕府は鎖国ではなく、むしろ積極的に外国と関係をもつことを望んでいたようにも思える。
本来、江戸幕府は大きな利潤を生むので積極的に西洋の国と貿易を行いたいが、しかし、貿易とセットになっている、キリスト教が日本に布教されるのはいやである。
このため、仕方なく、キリスト教が日本に入ってこないように、貿易に規制を掛けたのである。
江戸幕府の対西洋各国の対外政策としては、貿易の利潤よりも、キリスト教の禁止を対外政策の最優先事項にしたのである。
そのために、ポルトガルやスペイン、イギリスなどキリスト教が貿易とセットになる国は排除する必要があったのである。
また、キリスト教の布教と貿易を切り離して考えてくれたオランダに対しては、江戸時代を通じて、貿易を行ったのである。
当時の日本にとってキリスト教は非常に危険な思想と受けとめられていることが分かる。
このように、少し書き方を変えるだけで従来の鎖国のイメージとだいぶ違ってくるのである。
次ぎに鎖国のもう1つの側面である長崎の出島に対するイメージである。
従来のイメージだと長崎の出島という、閉ざされた世界でのみオランダと中国のみと関係を日本が持って、その他の場所ではいっさい外国と関係を持たなかったというイメージがある。
当時の日本は徳川家の幕府、その他の大名、天皇など、日本の国の中にたくさんの国が存在して、その代表が徳川家の江戸幕府である。
江戸幕府の政策の1つに武家諸法度や参勤交代などのように幕府以外の領主の力を削ぎ、また、力をつけさせないことに政策の重点を置いている。
長崎の出島を幕府の直轄領にすることによって、大きな利潤を生む外国との貿易を幕府のみが掌握して、他領主に力をつけさせないことに、その目的があったのではと思われる。
次ぎに隣国に対しての対外政策について考える。
従来の教育だとオランダや中国とのみ長崎の出島で貿易を行ったと教えられた。
しかし、北のアイヌや南の琉球、西の朝鮮についての内容はほとんど省かれて教えられてきた。
江戸幕府の隣国に対する対外政策としては、豊臣政権のように外国を侵略して日本の領土を広げる野心はなかった。
琉球に関しては、実際に兵を送って支配したのだが、あくまでも、目的は中国との国交を再開することにあった。
実際に支配したのは、兵を送った薩摩藩で、江戸幕府の琉球の位置付けとしては、あくまでも、日本と交流のある日本に従属した通信国としての位置付けである。
これは、幕府に次ぐ勢力をもつ薩摩藩の利潤と中国との国交回復を目的とした考えの両方が共存する難しい情勢なのである。
北のアイヌに対しての対外姿勢は、異民族として夷と捉え、松前藩を通じて幕府との関係を持った。
東の朝鮮は、豊臣秀吉の朝鮮出兵以来関係は最悪であった。
江戸幕府の対外政策の中心となったのは、朝鮮出兵の戦後処理を行って朝鮮との国交の回復をおこなって、そして、朝鮮ルートから中国との国交の回復を狙うことが政策の中心となった。
この時、対朝鮮政策の仲介となったのが宋氏である。
朝鮮とは幕府の努力が実り国交を回復して通信の国としての位置付けとなった。
江戸時代における日本と外国との関係の位置付けは、日本的な日本流の華夷思想で、それによって日本の国としての国家の姿勢や自国意識を作ることになる。
江戸幕府には豊臣政権のような外国に打って出て大帝国を作る野望や西洋諸国のように自らが世界の海に進出する野望もない。
あくまでも、隣接国や自国と関係のある国と友好関係を持って交易を行うのが目的にある。
そういう意味では、消極的な対外政策といるかもしれないが、当時の情勢になって考えてみると、ごくごく普通の考え方なのである。
豊臣秀吉や世界の海に進出した西洋諸国のほうが当時としては珍しい考えかたと捕らえたほうがいいのではと思う。
もちろん、西洋諸国と比べれば日本は消極的な対外政策であった。
また、近世は現代のような情報もあまりなく、交通手段や船の技術なども進歩していない時代に海を渡って、広大な世界の国々と積極的に関係を持つ考え方は一般的な思想とは言えない。
日本の歴史教育は、世界の1地域にしか過ぎない西洋的な史観で歴史を考えているから、当時の江戸時代の日本は閉ざされた国だという鎖国のイメージが作れたのではと思われる。
(江戸開幕 集英社 藤井譲治 参照)
(天下泰平 横田冬彦 講談社 参照)
いつもクリックありがとうございます。
鎖国という言葉のイメージは国交を完全に閉ざして外国とは付き合いをしないというイメージがある。
これは、江戸時代と聞いて日本人が連想する、閉ざした世界のイメージを植付け、閉ざした世界によって日本は世界の流れから大きく取り残されてしまうというイメージを作るものだった。
このイメージが定着することによって、後に続く明治維新の評価を価値あるのにしている。
明治維新によって、日本は外国との国交を回復して、文明の開花を行って、世界の流れから取り残されない国を作ったというイメージを作り上げた。
明治維新によって日本は飛躍的に文化の進んだ国に成長したと言う事を強調するために江戸時代の鎖国のイメージが必要だったのではと思われる。
しかし、西洋化=文明の発達と捉えてもいいのかという疑問がある。
機械や兵器の上では進歩したと言えるが、日本の古来の文化を古く、遅れているもとして、西洋の文化は進んでいるという考え方は、間違った認識である。
これも鎖国が持つ暗いイメージがこの考えを助長していると思える。
江戸時代の鎖国のイメージを捉える時、外国との国交を閉ざしたのではなく、一部国交を閉ざしたと考えるべきである。
江戸幕府は鎖国ではなく、むしろ積極的に外国と関係をもつことを望んでいたようにも思える。
本来、江戸幕府は大きな利潤を生むので積極的に西洋の国と貿易を行いたいが、しかし、貿易とセットになっている、キリスト教が日本に布教されるのはいやである。
このため、仕方なく、キリスト教が日本に入ってこないように、貿易に規制を掛けたのである。
江戸幕府の対西洋各国の対外政策としては、貿易の利潤よりも、キリスト教の禁止を対外政策の最優先事項にしたのである。
そのために、ポルトガルやスペイン、イギリスなどキリスト教が貿易とセットになる国は排除する必要があったのである。
また、キリスト教の布教と貿易を切り離して考えてくれたオランダに対しては、江戸時代を通じて、貿易を行ったのである。
当時の日本にとってキリスト教は非常に危険な思想と受けとめられていることが分かる。
このように、少し書き方を変えるだけで従来の鎖国のイメージとだいぶ違ってくるのである。
次ぎに鎖国のもう1つの側面である長崎の出島に対するイメージである。
従来のイメージだと長崎の出島という、閉ざされた世界でのみオランダと中国のみと関係を日本が持って、その他の場所ではいっさい外国と関係を持たなかったというイメージがある。
当時の日本は徳川家の幕府、その他の大名、天皇など、日本の国の中にたくさんの国が存在して、その代表が徳川家の江戸幕府である。
江戸幕府の政策の1つに武家諸法度や参勤交代などのように幕府以外の領主の力を削ぎ、また、力をつけさせないことに政策の重点を置いている。
長崎の出島を幕府の直轄領にすることによって、大きな利潤を生む外国との貿易を幕府のみが掌握して、他領主に力をつけさせないことに、その目的があったのではと思われる。
次ぎに隣国に対しての対外政策について考える。
従来の教育だとオランダや中国とのみ長崎の出島で貿易を行ったと教えられた。
しかし、北のアイヌや南の琉球、西の朝鮮についての内容はほとんど省かれて教えられてきた。
江戸幕府の隣国に対する対外政策としては、豊臣政権のように外国を侵略して日本の領土を広げる野心はなかった。
琉球に関しては、実際に兵を送って支配したのだが、あくまでも、目的は中国との国交を再開することにあった。
実際に支配したのは、兵を送った薩摩藩で、江戸幕府の琉球の位置付けとしては、あくまでも、日本と交流のある日本に従属した通信国としての位置付けである。
これは、幕府に次ぐ勢力をもつ薩摩藩の利潤と中国との国交回復を目的とした考えの両方が共存する難しい情勢なのである。
北のアイヌに対しての対外姿勢は、異民族として夷と捉え、松前藩を通じて幕府との関係を持った。
東の朝鮮は、豊臣秀吉の朝鮮出兵以来関係は最悪であった。
江戸幕府の対外政策の中心となったのは、朝鮮出兵の戦後処理を行って朝鮮との国交の回復をおこなって、そして、朝鮮ルートから中国との国交の回復を狙うことが政策の中心となった。
この時、対朝鮮政策の仲介となったのが宋氏である。
朝鮮とは幕府の努力が実り国交を回復して通信の国としての位置付けとなった。
江戸時代における日本と外国との関係の位置付けは、日本的な日本流の華夷思想で、それによって日本の国としての国家の姿勢や自国意識を作ることになる。
江戸幕府には豊臣政権のような外国に打って出て大帝国を作る野望や西洋諸国のように自らが世界の海に進出する野望もない。
あくまでも、隣接国や自国と関係のある国と友好関係を持って交易を行うのが目的にある。
そういう意味では、消極的な対外政策といるかもしれないが、当時の情勢になって考えてみると、ごくごく普通の考え方なのである。
豊臣秀吉や世界の海に進出した西洋諸国のほうが当時としては珍しい考えかたと捕らえたほうがいいのではと思う。
もちろん、西洋諸国と比べれば日本は消極的な対外政策であった。
また、近世は現代のような情報もあまりなく、交通手段や船の技術なども進歩していない時代に海を渡って、広大な世界の国々と積極的に関係を持つ考え方は一般的な思想とは言えない。
日本の歴史教育は、世界の1地域にしか過ぎない西洋的な史観で歴史を考えているから、当時の江戸時代の日本は閉ざされた国だという鎖国のイメージが作れたのではと思われる。
(江戸開幕 集英社 藤井譲治 参照)
(天下泰平 横田冬彦 講談社 参照)
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2016年12月18日
リポートを書くときの基本的な考え方‐無駄を省いて、時間の節約
リポートを書くときの基本的な考え方‐無駄を省いて、時間の節約
通信制大学には様々な目的で通われている人達がいます。
◎通信制大学を早く卒業して、取得した資格をスキルアップにつなげたい。
→不必要な事を省き的確に、必要な事だけを書く。
│ 通信制大学を人生のスキルアップに考えている
リポート作成で大事な事はいかに効率よく短時間でリポートを仕上げるか。
テキストの中で、各設題に対しての記述はほんのわずかである。
そのほんのわずかな記述のみを抜き出すだけで良い。
テキスト全てを勉強する必要はない。
参考文献も同じく、設題に関連する内容のみを抜き出し、後は省くのが得策である。
余計な事を覚えるのは時間の無駄である。
│ リポート作成手順
集める→抜き出す→作成。
テキストだけでなく、参考文献や資料を集め、その中で、設題と関係ない部分を省く。
→省いた内容を今度は本当に必要な内容だけを抜き出す。
抜き出した内容を集めて1つの文章として構成する。
リポートを作成。
いろいろと試しましたが、この方法が一番早く、的確にリポートを作成できました。
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2016年12月17日
人口について‐世界と日本から‐文学部史学科、人文地理学概説リポート
人口について‐世界と日本から‐文学部史学科、人文地理学概説リポート
地球上の4つの人口密集地域は、北半球にすべてある。インド、極東、西ヨーロッパ、アメリカ合衆国である。
インドは、人口の大部分が農耕を営む、農耕民族で、たくさんの人口を養う食糧生産が可能である。
また、土地も恵まれている。ガンジス川とプラマプトラ大河の毎年の氾濫によって、たくさんの自然のミネラルを含んだ栄養分がインドの土地にもたらされる。
そして、作物の栽培に有利な高温、多湿の気候である。
これらの理由のため、インドでは、たくさんの人口を抱えることができた。1997年の時点で、インドの人口は9億人を超えており世界でも第2位の人口を誇っている。
極東は、主に中国や東アジアの列島である。中国では西の方の山地地帯には人はあまり住んでいないが、東側の平地にたくさんの人が住んでいる。
インドと同じく農耕民族である。
広い中国では地域により土壌や気候が違うため、その土地にあった作物を上手く栽培している。
とくに、華南の長江流域の米作地帯ではたくさんの米が生産される。
これらの理由から、中国ではたくさんの人口を養うことができた。
中国の人口増加はすさまじく、1950年の時点では5億5500万人の人口が1977年の時点では12億4300万人である。
しかし、近年では中国政府は人口増加に歯止めをかけるべく、一人っ子政策などで、人口増加を抑える政策を行った。この政策は現在成功している。
西ヨーロッパは、緯度は比較的高めなのだが、海洋の影響で暖かく、作物を育てるのに都合のよい気候となった。
また、それぞれの土地にあった、作物をうまく使い分けて栽培した。
そして、ヨーロッパ人は、たえず、土地を開墾して、痩せた土地であっても肥料を与えて作物を作れる土地にして、収穫を上げていった。
その他、ヨーロッパでは、山地も上手く使い、夏になると家畜の放牧をおこない、農業と牧畜を組み合わせて、食糧を作っていった。
そして、いち早く文明を進歩させた西ヨーロッパでは、工業化が進み、その利益により、違う地域から食糧を輸入して、農業生産だけでは養うことができない沢山の人口を養った。
これらの理由で西ヨーロッパでは、沢山人口が密集した。
しかし、現在は人口もある程度落ちついた。
たくさんの国があるので、ここではEU加盟国15国、2003年の時点での人口は約3億8000万人である。
中国と比べてもけっして多い数とは言えない。
1997年の時点で、西ヨーロッパの1つの国を対象に見ると、西ヨーロッパの国々は世界人口のベスト10にすら1つの国も入ってない状況である。
北アメリカは、土地は豊で、大平原が多くあるため、たくさんの収穫が期待される。
そして、太平洋側の地域では、ヨーロッパの気候に、にているため、ヨーロッパの作物を簡単に馴化させることが可能だった。
この様にたくさんの作物を作ることが可能な条件がそろっていた。
また、アメリカでは、石炭や鉄鋼などの地下資源も豊富なために、ヨーロッパの様に工業化も進んでいった。
工業化による利益でたくさんの人口を養うことも可能であった。
1997年の時点で、アメリカ合衆国の人口は、2億6800万人である。
現在、世界の人口を考えると、西ヨーロッパ、北アメリカ、日本や中国の極東では、人口は安定して、逆に減少傾向にある。
そして、インドやアジア、アフリカの発展途上国の国々では、人口が爆発的に増加しており、近い将来人口過密地域に変更が生じるかもしれない。
日本の人口は、第2大戦後、爆発的に人口が増加の道をたどった。
それは、昭和22年〜24年にかけて、始まった第1次ベビーブームがきっかけで、現在の時点で考えても、この第1次ベビーブームの時に生まれた世代の人たちが人口に占める割合は多い。
一番人口が多い昭和24年の生まれの人は実に、240万に近い人口である。
第1次ベビーブーム後、出生率は下がっていった。それに伴い、人口増加率が、第1次ベビーブームのときは、180万を越えていたのが、100万人を切る人口増加率にまで下がった。
昭和32年ぐらいから出生率がだんだんと、回復してきた。そして、人口増加率は増えつづけた。
昭和42年のひのえうまの年を除いて、増えつづき、ついには、昭和46年〜49年の第2次ベビーブームを迎えた。
昭和48年は第2次ベビーブームの最盛期で、人口増加数は、140万人近い数となた。
しかし、第2次ベビーブーム以後は、出生率は下がっていき、それに伴い人口増加率は、だんだんと減っていった。
平成14年の人口増加は約14万5千人で、人口増加率と人口増加数は戦後最低の数字となった。
現在も、人口増加数は減りつづけている。
日本の人口は、1950年の時点で約8000万人 2002年の時点での、日本の総人口は約1億2700万人である。
約50年の間にかなりの人口が増えている。
世界的に見ても、日本の人口は、1997年の時点で第8位とかなりの上位である。
日本という、小さな枠の中では、現在の人口は多すぎると思われる。
しかし、出生率の低下で、近い将来日本の人口は減少に転じることが、予想される。
第2次ベビーブ−ムの世代がすでに、現在、結婚適齢年齢にさしかかっているにも、かかわらず、出生率はぜんぜん上がらない。
もし、第2次ベビーブーム世代が出産適齢期をすぎると、もっと出生率は減るのではないかと、思われる。
戦後の日本の人口の大きな特徴として、2つのベビーブームと、現在の出生率の低下の3つの大きな特徴がある。
この3つの特徴は今後、日本の人口問題に大きく関係してくる。
近い将来、もっとも、人口が多い代1次ベビーブーム世代が高年齢に達して人口の高年齢化が進むであろう。
そして、医学の進歩により、平均寿命は延びているため、ますます、この人口の高年齢化が進むことが考えられる。
そして、第2次ベビーブーム世代が老人になったときは、もっとすごい、人口の高年齢化が予想される。
(人文地理学序論 河上税 長島勝雄 大明堂 参照)(総務省統計局 日本国勢図会 中国情報局 海外移住情報EU加盟国編 世界国勢図会 以上のデータ参照)
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2016年12月16日
誰にも言えなかった大学進学‐26歳の大学一年生
誰にも言えなかった大学進学‐26歳の大学一年生
法政大学文学部史学科に入学する事が決った。
自分の条件にピッタリと合う大学で、この選択肢は結果的に正解であった。
大学進学に関しては、年齢的なものもあり、親や知り合いには大学進学のことを黙っていた。
定職に就かない若者に対して、世間の目は冷たい。
話をした所で、馬鹿にされて、話は終わるだろう。
また、入学した時点では本当に卒業できるのか、そして、教師になれるのかは未知数であった。
もし、途中で夢を挫折するような事があったら、恥ずかしい思いをするのは自分自身であった。
夢が実現するまでは誰にも知られない方が良いと思った。
まともに、大学の事を言えるようになったのは、卒業がほぼ確定された4年後の事であった。
今思えばもう少し早めに打ち明けて、金銭的な援助や協力をしてもらったほうが良かったと思う。
変な意地は人生にとってマイナスにしかならないと感じた。
2016年12月14日
公民科授業実践・アメリカ軍によるイラク捕虜の虐待について‐法政大学通信教育部教職課程(公民科教育法リポート)
公民科授業実践・アメリカ軍によるイラク捕虜の虐待について‐法政大学通信教育部教職課程‐公民科教育法リポート(2005年作成)
若者の平和に対する意識を考えると、まず、資料1では、イラク派遣で自衛隊入隊辞退者が続出しているとの事です。
自衛隊は国の仕事であり、国家公務員として、収入の安定した人気の職業です。
私自身も高校時代、航空自衛隊の試験を受けた事もあり、また、同級生も何人か自衛隊の採用試験を受けていました。
自衛隊の入隊辞退者が続出したと言う事は、イラク派遣によって、戦争の危険性が高まったと言う事が原因だと思われる。
自衛隊入隊を希望した若者は、安定職として自衛隊を選んだだけで、戦争はしたくないという事であろう。
資料1から若者は戦争には行きたくない、また、平和を望んでいると言う事が言える。
ちなみに、私の母校でもあり、教育実習に行った高校では、今のところ自衛隊入隊希望者はいないとの事です。
次ぎに、資料2では、高校生の憲法意識調査を行っている。
この資料では、戦争を放棄した憲法第9条について取り扱っている。
資料2では若者は、約4割以上の人達が9条を変えない方がよいとなっている。
また、自衛隊のイラク派遣についても、半数近い人達が反対を唱えている。
若者の意識として、戦争を反対し、戦争には行きたくない、また、平和を望んでいると言う事が考えられる。
そして、日本の平和が現在保たれている理由に関しても、平和憲法の存在が1番となっている。
しかし、日米安全保障条約の存在が2番になっている事は、抑止的な武力は認めるという意味にも取れる。
これらの事をまとめると、若者は、日米安保や自衛隊の存在を認めているので、武力の保持に関しては認める。
しかし、保持した武力は使うべきではなく、戦争は絶対にしてはいけないものとして捉えている。
若者は戦争の無い平和な世の中を望んでいると言う事が言えるでしょう。
今回の授業プランは、若者のもっと平和に対する意識を持ってもらいたくて作りました。
戦争というものはいかに残酷でぜったいにしてはいけない行為である。しかし、人間の歴史は戦争を繰り返してきました。
でも、戦争を繰り返してきた歴史から、人類は国際法という戦争の中にも人権的な秩序を考える思想を手に入れました。
授業のポイントとなるのは、国際法の存在とイラク戦争で、明らかに国際法違反をしているアメリカの行為である。
国際法の中で捕虜に関する項目は主にジュネーブ諸条約の第三条の中にある。
内容は、捕虜は敵対行為をしないように自由を奪われることはあるが、しかし、捕虜はつねに人道的に待遇され、不法な加害行為から保護されなければならない。
そして、例えどんな罪を犯している捕虜であっても、捕虜としての権利を認めなければならない。
生徒にはジュネーブ諸条約の内容を提示することによって、授業の最初に配る捕虜虐待の写真から推測すると、あきらかに、アメリカ軍がジュネーブ諸条約違反をしていることを分かってもらえると思う。
しかし、授業の本当の目的は、アメリカ軍によるイラク兵捕虜虐待問題ではない。国際法の存在にある。
国際法は国際間の法律である。
例えば、国家間の紛争時の取り決めや防衛、制裁、また商業的な取り決めなどあらゆる目的の国際法が存在している。
捕虜に関する事も国際法の一つに明記されている事柄である。
捕虜に関する国際法律の最初は、発行こそされなかったが1874年のブリュッセル宣言である。
以後、捕虜に関する法律は作られていき、そして、世界大戦の経験を通じて、1929年にジュネーブ諸条約ができた。
このようにジュネーブ諸条約は、人類の人権にたいする目覚めや戦争の悲劇などを通じて、施行作後を繰り返しながら作られたかけがえのないものであることを知ってもらう。
そして、身近な問題として過去の日本の国際法を無視した非人道的な捕虜の扱いも紹介して、戦争に対する問題点を知ってもらう。
今回の授業の分野は現代社会の国際情勢の項目で行う。
今回の授業は高校生を対象に考えた授業プランである。
導入―― 学習内容@ アメリカ軍によるイラク人捕虜虐待問題
学習活動――用意した(資料3)イラク兵捕虜虐待現場の写真のコピーを生徒にくばる。
・生徒と自由な会話のやりとりをしながら説明していく。
展開――学習内容@ 捕虜虐待について、生徒に意見を求める。
学習内容A なぜ捕虜を虐待したらいけないのか?
学習内容B 国際法の存在
学習内容C 国際法の歴史
学習活動――@ 生徒と一緒にアメリカ軍による捕虜の虐待について考え、生徒一人一人に自由で率直な意見を求める。
学習活動――A人間は10人いたら10人の考えかたがあるので、なぜ捕虜を虐待したらいけないのかという意見もあると思われる。そして、この問いに対して、生徒にそれぞれに自由な意見を求める。
学習活動――B学習活動Aの問に対する答えを私が考えたのが国際法の存在である。生徒に学習活動の答えの一例として、資料4を生徒に配り、資料4が捕虜の扱いに関する法についての資料である事を生徒に告げ、国際間には国際法という法が存在する事を生徒に分かってもらう。資料4は国際法の中の一つジュネーブ諸条約の捕虜に関する項目を整理して、また、捕虜に関する条約の一部を記載しているものである。資料4に記載されている記述を考えていくと、明らかにアメリカ軍は国際法違反を行っていることを生徒に分かってもらう。
学習活動――C捕虜に対する虐待は今回のアメリカ軍によるイラク兵捕虜虐待問題が初めてではなく、歴史をさかのぼっていけば過去幾度となく捕虜の虐待は行われてきた。捕虜虐待事例として身近な所から旧日本軍の第2次大戦中の行いを説明する。日本軍はジュネーブ諸条約を無視して、捕虜の虐待を行った。例えば、労務の酷使で、多くの捕虜を死なしてしまった。日本軍に捕まった捕虜の約4人に1人が死亡したと考えられている。この日本軍の捕虜に対する扱いを生徒に言葉と黒板への板書によって説明していく。
そして、捕虜虐待の歴史に対する反省から、国際法の中で捕虜に関する条約が作られていく。そして、国際法は人類が過去の反省を踏まえて、人間の人権を尊重し守るために作られた大切な法律であることを分かってもらう。
まとめ――@ 学習活動@本日のまとめと人権問題への関心
学習活動――A 今日のまとめを行う。そして、今日の授業からアメリカ軍によるイラク兵虐待問題は決して許されるものではないことを生徒に分かってもらい、例え戦争という特殊な空間であっても、また、どのような情況下の人間であっても、人には人権があり、その権利はだれであってもけっして、侵してはいけない大切なものであることを生徒に知ってもらう。
参考文献
(国際法第3版 有斐閣 1997年)
(http://www4.ocn.ne.jp/^tishiki/junebujouyaku.html ホームページ)
(日本とイギリスの「苦い過去」 小管信子 歴史書懇話会)
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若者の平和に対する意識を考えると、まず、資料1では、イラク派遣で自衛隊入隊辞退者が続出しているとの事です。
自衛隊は国の仕事であり、国家公務員として、収入の安定した人気の職業です。
私自身も高校時代、航空自衛隊の試験を受けた事もあり、また、同級生も何人か自衛隊の採用試験を受けていました。
自衛隊の入隊辞退者が続出したと言う事は、イラク派遣によって、戦争の危険性が高まったと言う事が原因だと思われる。
自衛隊入隊を希望した若者は、安定職として自衛隊を選んだだけで、戦争はしたくないという事であろう。
資料1から若者は戦争には行きたくない、また、平和を望んでいると言う事が言える。
ちなみに、私の母校でもあり、教育実習に行った高校では、今のところ自衛隊入隊希望者はいないとの事です。
次ぎに、資料2では、高校生の憲法意識調査を行っている。
この資料では、戦争を放棄した憲法第9条について取り扱っている。
資料2では若者は、約4割以上の人達が9条を変えない方がよいとなっている。
また、自衛隊のイラク派遣についても、半数近い人達が反対を唱えている。
若者の意識として、戦争を反対し、戦争には行きたくない、また、平和を望んでいると言う事が考えられる。
そして、日本の平和が現在保たれている理由に関しても、平和憲法の存在が1番となっている。
しかし、日米安全保障条約の存在が2番になっている事は、抑止的な武力は認めるという意味にも取れる。
これらの事をまとめると、若者は、日米安保や自衛隊の存在を認めているので、武力の保持に関しては認める。
しかし、保持した武力は使うべきではなく、戦争は絶対にしてはいけないものとして捉えている。
若者は戦争の無い平和な世の中を望んでいると言う事が言えるでしょう。
今回の授業プランは、若者のもっと平和に対する意識を持ってもらいたくて作りました。
戦争というものはいかに残酷でぜったいにしてはいけない行為である。しかし、人間の歴史は戦争を繰り返してきました。
でも、戦争を繰り返してきた歴史から、人類は国際法という戦争の中にも人権的な秩序を考える思想を手に入れました。
授業のポイントとなるのは、国際法の存在とイラク戦争で、明らかに国際法違反をしているアメリカの行為である。
国際法の中で捕虜に関する項目は主にジュネーブ諸条約の第三条の中にある。
内容は、捕虜は敵対行為をしないように自由を奪われることはあるが、しかし、捕虜はつねに人道的に待遇され、不法な加害行為から保護されなければならない。
そして、例えどんな罪を犯している捕虜であっても、捕虜としての権利を認めなければならない。
生徒にはジュネーブ諸条約の内容を提示することによって、授業の最初に配る捕虜虐待の写真から推測すると、あきらかに、アメリカ軍がジュネーブ諸条約違反をしていることを分かってもらえると思う。
しかし、授業の本当の目的は、アメリカ軍によるイラク兵捕虜虐待問題ではない。国際法の存在にある。
国際法は国際間の法律である。
例えば、国家間の紛争時の取り決めや防衛、制裁、また商業的な取り決めなどあらゆる目的の国際法が存在している。
捕虜に関する事も国際法の一つに明記されている事柄である。
捕虜に関する国際法律の最初は、発行こそされなかったが1874年のブリュッセル宣言である。
以後、捕虜に関する法律は作られていき、そして、世界大戦の経験を通じて、1929年にジュネーブ諸条約ができた。
このようにジュネーブ諸条約は、人類の人権にたいする目覚めや戦争の悲劇などを通じて、施行作後を繰り返しながら作られたかけがえのないものであることを知ってもらう。
そして、身近な問題として過去の日本の国際法を無視した非人道的な捕虜の扱いも紹介して、戦争に対する問題点を知ってもらう。
今回の授業の分野は現代社会の国際情勢の項目で行う。
今回の授業は高校生を対象に考えた授業プランである。
導入―― 学習内容@ アメリカ軍によるイラク人捕虜虐待問題
学習活動――用意した(資料3)イラク兵捕虜虐待現場の写真のコピーを生徒にくばる。
・生徒と自由な会話のやりとりをしながら説明していく。
展開――学習内容@ 捕虜虐待について、生徒に意見を求める。
学習内容A なぜ捕虜を虐待したらいけないのか?
学習内容B 国際法の存在
学習内容C 国際法の歴史
学習活動――@ 生徒と一緒にアメリカ軍による捕虜の虐待について考え、生徒一人一人に自由で率直な意見を求める。
学習活動――A人間は10人いたら10人の考えかたがあるので、なぜ捕虜を虐待したらいけないのかという意見もあると思われる。そして、この問いに対して、生徒にそれぞれに自由な意見を求める。
学習活動――B学習活動Aの問に対する答えを私が考えたのが国際法の存在である。生徒に学習活動の答えの一例として、資料4を生徒に配り、資料4が捕虜の扱いに関する法についての資料である事を生徒に告げ、国際間には国際法という法が存在する事を生徒に分かってもらう。資料4は国際法の中の一つジュネーブ諸条約の捕虜に関する項目を整理して、また、捕虜に関する条約の一部を記載しているものである。資料4に記載されている記述を考えていくと、明らかにアメリカ軍は国際法違反を行っていることを生徒に分かってもらう。
学習活動――C捕虜に対する虐待は今回のアメリカ軍によるイラク兵捕虜虐待問題が初めてではなく、歴史をさかのぼっていけば過去幾度となく捕虜の虐待は行われてきた。捕虜虐待事例として身近な所から旧日本軍の第2次大戦中の行いを説明する。日本軍はジュネーブ諸条約を無視して、捕虜の虐待を行った。例えば、労務の酷使で、多くの捕虜を死なしてしまった。日本軍に捕まった捕虜の約4人に1人が死亡したと考えられている。この日本軍の捕虜に対する扱いを生徒に言葉と黒板への板書によって説明していく。
そして、捕虜虐待の歴史に対する反省から、国際法の中で捕虜に関する条約が作られていく。そして、国際法は人類が過去の反省を踏まえて、人間の人権を尊重し守るために作られた大切な法律であることを分かってもらう。
まとめ――@ 学習活動@本日のまとめと人権問題への関心
学習活動――A 今日のまとめを行う。そして、今日の授業からアメリカ軍によるイラク兵虐待問題は決して許されるものではないことを生徒に分かってもらい、例え戦争という特殊な空間であっても、また、どのような情況下の人間であっても、人には人権があり、その権利はだれであってもけっして、侵してはいけない大切なものであることを生徒に知ってもらう。
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(国際法第3版 有斐閣 1997年)
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2016年12月12日
資本主義社会における労働の役割とは?‐消費によって貨幣が増えるなぞ(経済原論リポート)
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資本という概念が入ると、貨幣で商品を購入したとき、貨幣で商品を購入することによって、商品の価値と同じ貨幣を支払っているにもかかわらず、商品の価値よりも多くの貨幣を手に入れる事ができるのである。
このもとの商品の価値よりも多くなった部分の貨幣が余剰部分と見る事ができるであろう。
商品を消費する事によって、新たな価値が生まれ、また、消費された商品の価値よりも高くなるのが資本の流通形態と言えるであろう。
また、このように、商品の消費によって貨幣がたえず増大しているのが資本主義経済の特徴とも言えるだろう。
商品を消費する事によって貨幣が増えるという、夢のような話だが、この資本の謎を解くカギを握るのが労働力である。
資本主義社会では、賃労働者は労働力を商品として資本家に売り、そこで得た賃金によって生活をしている。
すなわち、貨幣がなければ生きて行くのは困難で、人間が生活を行うためにはお金が必要であり、お金によって、食事をし、余暇を楽しむ事ができる。
このことは、労働力を再生産するためには、お金が必要という事を意味し、お金を消費する事によって、労働力を再生産する事が可能になるのである。
すなわち、どのような社会であっても、生産と消費は必要で絶えず、生産と消費が繰り返されている。
生産物は労働力によって生まれ、また、労働力によって、生産物は消費されている。
生産物が消費を越えればそれは余剰となる。
そして、労働力を維持していくためには、必ず消費は必要で、この労働力が絶えず再生産されるのに必要不可欠な生産物の事を必須生活手段または必須生産物、労働ファンドと呼ぶ。
そして、必須生活手段を生産するのに必要な労働を必須労働と呼ぶ。
また、必須生活手段の社会的必要時間によって労働力の価値を規定する事ができる。
また、労働者が持っている労働価値は労働力を再生産する再生産費とも見る事ができ、これは、必須労働のことでもある。
労働者の労働力の価値は必須労働で決まる事も意味している。
資本主義的経済の労働市場では、資本家は労働力が再生産されるのに必要な必須生活手段の社会的必要時間で規定された労働力の価値を商品として労働者に貨幣によって支払う。
また、資本家は商品市場では、他の資本家から生産手段を購入する。すなわち、資本主義的経済において、余剰価値を生むためには、商品である、労働力と生産手段を購入して資本を投下しなければならないのである。
労働者は資本家に時間極めで労働力を商品として売る。
そして、資本家は労働者から買った時間はある程度支配して、資本家の指導のもとに、契約時間の間労働力を消費して、生産をおこなっていく。
また、労働力の消費の過程は、実際に労働を行っている、労働過程と労働力を消費して、労働力の消費によって新たな価値が生まれる価値増殖過程との2つに分ける事ができる。
労働過程の労働の事を具体的労働と言い、また、価値増殖過程での労働を抽象的労働と言う。
労働には2つの種類があり、具体的労働は具体的に行う労働を表し、労働によって、特定の物質に対して形態変化を起こさせるなどである。
この具体的労働では、価値変化は発生しない。
抽象的労働は、労働を抽象的に考え、また、労働を量で捉えて、労働力の支出を抽象的に見ていく。
この抽象的労働の時に新しい商品価値が生まれるのである。
具体的労働では新たな価値を生まない、この事を逆に考えると、元々存在した価値の事を指している。
すなわち、具体的労働では生産手段の中に価値が移転されて、前年と同じ価値が生産されている。
この事を資本で考えると、生産される価値は生産物の中に移転されているだけなので、投資される資本の価値は変化がなく、また、生産されるのに必要な資本の事でもある。
この変化がなく、不変に生産されるために必要となる資本は、毎回同じ価値の資本なので、不変資本と呼ばれている。
抽象的労働によって、新たな余剰価値を生み出す事になる。
抽象的労働は労働を抽象的に広く捉えている。
抽象的労働は新たに余剰価値になる部分と再生産に必要な部分とに分ける事ができる。
すなわち、抽象的労働では、労働力の価値を再生産し、そして、その労働力を再生産するのに必要となる必須労働時間と、さらにそれを越えて新たに生まれた余剰価値を生産するのに必要な余剰時間とが組み合わさっている事になる。
必須労働時間を超え、余剰労働時間が新たに増え、変化しているので、そこに、投下される資本の価値量も変化して増えているという事が言える。
そして、投下資本の価値量が変化して、増えているので、この事を可変資本と言う。
資本主義経済は貨幣の社会でもある。そのため、生産された商品は商品市場で売る事によって貨幣に変換される。
貨幣に変換される事によって、価値を表し、価値を得た事にもなってくる。
そして、同時に、余剰価値を貨幣に転換して得る事をも意味している。
そして、労働者は労働力を商品として売り、変わりに貨幣得て、その得た貨幣を使って資本家から必須生活手段を買い生活をしていく。
そして、また、労働力を再生産する。このようにして、資本主義経済では繰り返し生産物の再生産が行われて、余剰価値を生みながら、商品の生産が行われていくのである。
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資本という概念が入ると、貨幣で商品を購入したとき、貨幣で商品を購入することによって、商品の価値と同じ貨幣を支払っているにもかかわらず、商品の価値よりも多くの貨幣を手に入れる事ができるのである。
このもとの商品の価値よりも多くなった部分の貨幣が余剰部分と見る事ができるであろう。
商品を消費する事によって、新たな価値が生まれ、また、消費された商品の価値よりも高くなるのが資本の流通形態と言えるであろう。
また、このように、商品の消費によって貨幣がたえず増大しているのが資本主義経済の特徴とも言えるだろう。
商品を消費する事によって貨幣が増えるという、夢のような話だが、この資本の謎を解くカギを握るのが労働力である。
資本主義社会では、賃労働者は労働力を商品として資本家に売り、そこで得た賃金によって生活をしている。
すなわち、貨幣がなければ生きて行くのは困難で、人間が生活を行うためにはお金が必要であり、お金によって、食事をし、余暇を楽しむ事ができる。
このことは、労働力を再生産するためには、お金が必要という事を意味し、お金を消費する事によって、労働力を再生産する事が可能になるのである。
すなわち、どのような社会であっても、生産と消費は必要で絶えず、生産と消費が繰り返されている。
生産物は労働力によって生まれ、また、労働力によって、生産物は消費されている。
生産物が消費を越えればそれは余剰となる。
そして、労働力を維持していくためには、必ず消費は必要で、この労働力が絶えず再生産されるのに必要不可欠な生産物の事を必須生活手段または必須生産物、労働ファンドと呼ぶ。
そして、必須生活手段を生産するのに必要な労働を必須労働と呼ぶ。
また、必須生活手段の社会的必要時間によって労働力の価値を規定する事ができる。
また、労働者が持っている労働価値は労働力を再生産する再生産費とも見る事ができ、これは、必須労働のことでもある。
労働者の労働力の価値は必須労働で決まる事も意味している。
資本主義的経済の労働市場では、資本家は労働力が再生産されるのに必要な必須生活手段の社会的必要時間で規定された労働力の価値を商品として労働者に貨幣によって支払う。
また、資本家は商品市場では、他の資本家から生産手段を購入する。すなわち、資本主義的経済において、余剰価値を生むためには、商品である、労働力と生産手段を購入して資本を投下しなければならないのである。
労働者は資本家に時間極めで労働力を商品として売る。
そして、資本家は労働者から買った時間はある程度支配して、資本家の指導のもとに、契約時間の間労働力を消費して、生産をおこなっていく。
また、労働力の消費の過程は、実際に労働を行っている、労働過程と労働力を消費して、労働力の消費によって新たな価値が生まれる価値増殖過程との2つに分ける事ができる。
労働過程の労働の事を具体的労働と言い、また、価値増殖過程での労働を抽象的労働と言う。
労働には2つの種類があり、具体的労働は具体的に行う労働を表し、労働によって、特定の物質に対して形態変化を起こさせるなどである。
この具体的労働では、価値変化は発生しない。
抽象的労働は、労働を抽象的に考え、また、労働を量で捉えて、労働力の支出を抽象的に見ていく。
この抽象的労働の時に新しい商品価値が生まれるのである。
具体的労働では新たな価値を生まない、この事を逆に考えると、元々存在した価値の事を指している。
すなわち、具体的労働では生産手段の中に価値が移転されて、前年と同じ価値が生産されている。
この事を資本で考えると、生産される価値は生産物の中に移転されているだけなので、投資される資本の価値は変化がなく、また、生産されるのに必要な資本の事でもある。
この変化がなく、不変に生産されるために必要となる資本は、毎回同じ価値の資本なので、不変資本と呼ばれている。
抽象的労働によって、新たな余剰価値を生み出す事になる。
抽象的労働は労働を抽象的に広く捉えている。
抽象的労働は新たに余剰価値になる部分と再生産に必要な部分とに分ける事ができる。
すなわち、抽象的労働では、労働力の価値を再生産し、そして、その労働力を再生産するのに必要となる必須労働時間と、さらにそれを越えて新たに生まれた余剰価値を生産するのに必要な余剰時間とが組み合わさっている事になる。
必須労働時間を超え、余剰労働時間が新たに増え、変化しているので、そこに、投下される資本の価値量も変化して増えているという事が言える。
そして、投下資本の価値量が変化して、増えているので、この事を可変資本と言う。
資本主義経済は貨幣の社会でもある。そのため、生産された商品は商品市場で売る事によって貨幣に変換される。
貨幣に変換される事によって、価値を表し、価値を得た事にもなってくる。
そして、同時に、余剰価値を貨幣に転換して得る事をも意味している。
そして、労働者は労働力を商品として売り、変わりに貨幣得て、その得た貨幣を使って資本家から必須生活手段を買い生活をしていく。
そして、また、労働力を再生産する。このようにして、資本主義経済では繰り返し生産物の再生産が行われて、余剰価値を生みながら、商品の生産が行われていくのである。
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2016年12月10日
日中戦争、中国対日本の全面戦争‐中国現代史リポート(文学部史学科専門課程)
日中戦争、中国対日本の全面戦争‐中国現代史リポート(文学部史学科専門課程)
初めに、1930年以降から第二次大戦終結の時代にかけて、中国と日本との軍事力や経済力を考えると圧倒的に中国は不利だった。
この劣勢下で中国の粘りある抵抗戦が繰り広げられることになる。
この日中の戦いは、第二次世界大戦の中のひとつの重要な戦いとなり、他国を巻き込んでの壮絶な戦いとなる。
日中戦争当時両国の戦力を比較すると、日本は、現役兵38万人、予備兵160万人、海軍の艦艇は190万トン、飛行機2700機である。
中国は、現役兵170万人、訓練兵が150万人、海軍艦艇は6万トン、空軍は314機である。
兵力だけ見ると中国が圧倒しているが、当時はすでに戦争の重要なポイントが陸から空に変わっており、制空権を握るのが戦いの重要な要素になっている。
制空権を日本が圧倒的に握っていることが空軍の数から分かる。
また、中国の陸軍兵力は数では圧倒しているが、陸軍の指揮系統はばらばらで、装備や訓練も日本と比べて弱いと見る事ができる。
そして、中国国内はいまだに完全な統一体制ではなく、国民党と共産党の勢力争そいもまだ解決していない。
それに加えて、国内では列強による半植民地状態からも抜け出せていないのが現状である。
日本は、天皇を中心とした統一的な軍制であり、訓練も行き届き、装備も充実していた。
日中両国の軍事面だけを見れば、中国は圧倒的に不利なのだが、もっと、広い視野で見れば中国は有利と言えるだろう。
近代以降の戦争は、弟1次世界大戦に見られるような国をあげての総力戦によって勝敗が決定する。
中国は日本に比べて遥かに広大な国土とはるかに多い人口を誇っている。
国内だけでも、資源は豊富に存在している。
そして、日本は中国に比べると国土は比べ物にならないぐらい狭く、また、人口も少ない、地下資源も少ない。
総合的な国力となると、圧倒的に中国が優勢と言えるだろう。
一時的な戦闘では日本が有利だが長期戦となると、中国の方が有利なのである。
その他、国際的な世論も重要となり、日本は物資の供給を外国から閉ざされたら戦争を継続することは困難である。
中国にとっては、長期的に粘り強く戦えば勝利は見えてくるのである。
日中戦争当初、中国では統一的な抵抗運動ではなかった。
国民党の関心は日本よりむしろ、国内の共産党勢力に向けられていた。
国民党は日本との戦いはできるだけ避けて、兵力を温存する作戦である。
日本とは講和によって戦争を終結して終戦後は共産党勢力の打倒による中国統一構想であった。
しかし、日中戦争は、戦火を中国全土に拡大していくことになる。
こうした情勢で、国共はお互いに協力して日本と対決する方向へと向かっていく。
この国共の協力体制は日中戦争における1つの重要な転換期となる。
中国国民が一丸となって日本と戦う体制が整いつつあることを意味していた。
中国の主な抵抗運動はゲリラ戦による戦いである。
ゲリラ戦は兵力の差や装備の差があっても、十分戦える戦法である。
中国は粘り強く戦い、日中戦争は泥沼化していく。
この時点で日本の敗戦はほぼ決まっていたのだが、石油を断たれた日本は新たな戦争をはじめる。
その戦争が太平洋戦争である。
戦火は広がり世界大戦となっていく。
日中戦争以前の世界情勢を考えると、第一時世界大戦をへて、壊滅的になった経済をアメリカの資本力でなんとか持ちこたえていたが、アメリカ国内投資の増大から世界恐慌が始まる。
アメリカやヨーロッパ列強諸国は植民地や広大な領土を使ってなんとか恐慌対策をしたが、日本やドイツなどは、恐慌対策がうまくいかなかった。
日本はその打開策として中国進出策を強化していく。
日本は中国進出の過程で、国際的な批判を受け、だんだんと、国際舞台から孤立していくことになる。
そんな中、日本はドイツやイタリアと親交を深めていった。
そして、枢軸国を結成する。
中国は抗日戦の過程で、アメリカやソ連、イギリス、フランスといった、対枢軸国の国々と協力して日本と戦う態勢を作り上げていった。
世界の国々は、大きく分けて、2つの陣営に分かれて戦うことになる。
日中戦争も日本対中国の2国間の争いから、世界大戦の一環としての連合国対枢軸国の戦いの1つとして捕らえられる、国際的な戦争へと変わっていった。
国際的な戦いになると、他地域の戦争も重要となり、ヨーロッパ戦線でのドイツの敗北は東アジアでの日中戦争にも大きな影響を与えることになる。
ドイツの敗北によって日中戦争における中国の勝利は、確実になったと言えるだろう。
8年にも及ぶ日中戦争は現在から見れば、遠い昔話と思えるが、しかし、実際はそれほど昔ではない。
今現在でも実際に、日中戦争時に戦った人が生きているのである。生きている人がいるからこそ、現代でも日中戦争の事は重大な問題である。
最後に、日本と中国との関係は同じ東アジアで、しかも、文化的にも非常に似ている国なので、両国の関係は非常に重要である。
歴史的に見ても、日本は中国の真似をして、文化を作ってきた。
これからの時代は日本と中国はお互いに仲良くしないといけないのである。
地理的に海を隔ててではあるが、隣接しているがゆえに、両国は過去何度となく戦争繰り返してきた歴史をもつ。
しかし、戦争は決してやってはいけない行為だと思う。過去の反省を乗り越えて、両国は友好を保つべきである。
(中国抗日戦争史 劉大年 白介夫 桜井書店 参照)
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初めに、1930年以降から第二次大戦終結の時代にかけて、中国と日本との軍事力や経済力を考えると圧倒的に中国は不利だった。
この劣勢下で中国の粘りある抵抗戦が繰り広げられることになる。
この日中の戦いは、第二次世界大戦の中のひとつの重要な戦いとなり、他国を巻き込んでの壮絶な戦いとなる。
日中戦争当時両国の戦力を比較すると、日本は、現役兵38万人、予備兵160万人、海軍の艦艇は190万トン、飛行機2700機である。
中国は、現役兵170万人、訓練兵が150万人、海軍艦艇は6万トン、空軍は314機である。
兵力だけ見ると中国が圧倒しているが、当時はすでに戦争の重要なポイントが陸から空に変わっており、制空権を握るのが戦いの重要な要素になっている。
制空権を日本が圧倒的に握っていることが空軍の数から分かる。
また、中国の陸軍兵力は数では圧倒しているが、陸軍の指揮系統はばらばらで、装備や訓練も日本と比べて弱いと見る事ができる。
そして、中国国内はいまだに完全な統一体制ではなく、国民党と共産党の勢力争そいもまだ解決していない。
それに加えて、国内では列強による半植民地状態からも抜け出せていないのが現状である。
日本は、天皇を中心とした統一的な軍制であり、訓練も行き届き、装備も充実していた。
日中両国の軍事面だけを見れば、中国は圧倒的に不利なのだが、もっと、広い視野で見れば中国は有利と言えるだろう。
近代以降の戦争は、弟1次世界大戦に見られるような国をあげての総力戦によって勝敗が決定する。
中国は日本に比べて遥かに広大な国土とはるかに多い人口を誇っている。
国内だけでも、資源は豊富に存在している。
そして、日本は中国に比べると国土は比べ物にならないぐらい狭く、また、人口も少ない、地下資源も少ない。
総合的な国力となると、圧倒的に中国が優勢と言えるだろう。
一時的な戦闘では日本が有利だが長期戦となると、中国の方が有利なのである。
その他、国際的な世論も重要となり、日本は物資の供給を外国から閉ざされたら戦争を継続することは困難である。
中国にとっては、長期的に粘り強く戦えば勝利は見えてくるのである。
日中戦争当初、中国では統一的な抵抗運動ではなかった。
国民党の関心は日本よりむしろ、国内の共産党勢力に向けられていた。
国民党は日本との戦いはできるだけ避けて、兵力を温存する作戦である。
日本とは講和によって戦争を終結して終戦後は共産党勢力の打倒による中国統一構想であった。
しかし、日中戦争は、戦火を中国全土に拡大していくことになる。
こうした情勢で、国共はお互いに協力して日本と対決する方向へと向かっていく。
この国共の協力体制は日中戦争における1つの重要な転換期となる。
中国国民が一丸となって日本と戦う体制が整いつつあることを意味していた。
中国の主な抵抗運動はゲリラ戦による戦いである。
ゲリラ戦は兵力の差や装備の差があっても、十分戦える戦法である。
中国は粘り強く戦い、日中戦争は泥沼化していく。
この時点で日本の敗戦はほぼ決まっていたのだが、石油を断たれた日本は新たな戦争をはじめる。
その戦争が太平洋戦争である。
戦火は広がり世界大戦となっていく。
日中戦争以前の世界情勢を考えると、第一時世界大戦をへて、壊滅的になった経済をアメリカの資本力でなんとか持ちこたえていたが、アメリカ国内投資の増大から世界恐慌が始まる。
アメリカやヨーロッパ列強諸国は植民地や広大な領土を使ってなんとか恐慌対策をしたが、日本やドイツなどは、恐慌対策がうまくいかなかった。
日本はその打開策として中国進出策を強化していく。
日本は中国進出の過程で、国際的な批判を受け、だんだんと、国際舞台から孤立していくことになる。
そんな中、日本はドイツやイタリアと親交を深めていった。
そして、枢軸国を結成する。
中国は抗日戦の過程で、アメリカやソ連、イギリス、フランスといった、対枢軸国の国々と協力して日本と戦う態勢を作り上げていった。
世界の国々は、大きく分けて、2つの陣営に分かれて戦うことになる。
日中戦争も日本対中国の2国間の争いから、世界大戦の一環としての連合国対枢軸国の戦いの1つとして捕らえられる、国際的な戦争へと変わっていった。
国際的な戦いになると、他地域の戦争も重要となり、ヨーロッパ戦線でのドイツの敗北は東アジアでの日中戦争にも大きな影響を与えることになる。
ドイツの敗北によって日中戦争における中国の勝利は、確実になったと言えるだろう。
8年にも及ぶ日中戦争は現在から見れば、遠い昔話と思えるが、しかし、実際はそれほど昔ではない。
今現在でも実際に、日中戦争時に戦った人が生きているのである。生きている人がいるからこそ、現代でも日中戦争の事は重大な問題である。
最後に、日本と中国との関係は同じ東アジアで、しかも、文化的にも非常に似ている国なので、両国の関係は非常に重要である。
歴史的に見ても、日本は中国の真似をして、文化を作ってきた。
これからの時代は日本と中国はお互いに仲良くしないといけないのである。
地理的に海を隔ててではあるが、隣接しているがゆえに、両国は過去何度となく戦争繰り返してきた歴史をもつ。
しかし、戦争は決してやってはいけない行為だと思う。過去の反省を乗り越えて、両国は友好を保つべきである。
(中国抗日戦争史 劉大年 白介夫 桜井書店 参照)
記事を読まれた方はクリックをお願いします。
2016年12月09日
中国の近代化とは?‐伝統的封建国家から近現代的な国家への移行と孫文‐通信教育課部専門課程、中国現代史リポート
中国の近代化とは?‐伝統的封建国家から近現代的な国家への移行と孫文‐通信教育課部専門課程、中国現代史リポート
はじめに、清朝政府の軟弱な外交から辛亥革命が起きる。
革命の成果は摘み取られることになるが、しかし、辛亥革命の精神は国民の心にのこり、それが、学生運動となり、この運動が学生以外にも広がり、労働運動など市民運動に繋がっていく。
そして、またのちの国民革命へと繋がっていく。
また、辛亥革命の影響は、政治の分野にのみならず、中国の伝統的な社会を変えていった。
それは、服装の変化や辮髪の禁止や纏足の禁止など近代的な社会への変化に大きな影響を与えることになる。
また、対外的には2つの世界大戦や日本との戦争など国際情勢は波瀾に満ちていた。
清朝はヨーロッパ列強や日本などの外国との外交で消極的な売国外交を行うことになる。
それは、日清戦争時の外交にみられるように、広大な中国からみれば、東北部の局地戦での敗北によって、あっさりと負けを認め、簡単に領地の割譲や賠償金の要求に応じるような外交であった。
5.4運動時に出されたビラには(中国の土地は征服されても、譲り渡したりはしない。中国の人民は殺戮されても、屈服はしない)(中国の歴史859ページ引用)という文章が書かれている。
外国に屈することなく戦い続けることを望んでいると見ることができるだろう。
中国の国民は清朝の軟弱な外交のために外国の侵略を許し、半植民地状態にあまんじていると考えている。
清朝に対する不満から辛亥革命が勃発したと考えることができる。
辛亥革命の始まりは 1911年の武昌での蜂起である。
武昌蜂起をきっかけに次々に各省が独立を宣言することになった。
各省が個別に独立を宣言すると次ぎは、統一的な機関が必要になってくる。
そうした中、南京で各省の代表が集まり孫文を大総統に選出した。
1912年ここに中華民国が成立した。
清朝政府は中華民国に対抗する手段として軍事的な影響力をもつ袁世凱を登用した。
袁世凱が清朝政府の実験を握ることになった。
そして、袁世凱と孫文との間で妥協案が結ばれることになった。
孫文は清朝政府の崩壊と皇帝の退位をもとめ、その代わりに袁世凱の中華民国大総統の就任であった。
袁世凱が中華民国の大総統に就任してからは、彼による独裁政治がはじまり、辛亥革命の成果が摘み取られることになってしまった。
しかし、1度根付いた民主共和国の概念は深く人々の心にしみついて、革命の心は消えてはいなかった。
1919年初めての世界大戦が終了した激動の時代、戦勝国の1つとしてパリ講和条約に出席したが、しかし、何一つ情況は変わらずに半植民地状態から抜け出すことはできなかった。
こうした情勢の中、学生によって5.4運動が展開されていく。
これは、愛国心からくるもので、日本やヨーロッパを中心とした植民地主義国家に対する反発運動である。
学生たちの怒りは、軟弱な外交を行った3人の政治家に向けられた。
5.4運動の影響は国内では、学生達の愛国心ある行動に共感を覚えて、さまざまな、運動に影響を与えていく。
革命後の中国は対外的には、外国諸国に対して強い姿勢がでてくるのもたしかなことである。
日本やヨーロッパなどの植民地支配に対して徹底的に戦う姿勢がこのころからでてくるのではないだろうか。
例えば、日本と戦った(日中戦争)は8年近くも戦い続け決して屈することはなかった。
1894年の日清戦争と比べると国家外交の姿勢に大きな違いがあることが分かる。
東アジア最初の共和国として出発した中華民国だったが、国内は分裂状態でさまざまな問題を抱えて、半植民地状態から抜け出せずにいた。
袁世凱の独裁政治後、孫文は中国国民党を率いて新たな道を模索した。
孫文は中国の模範にソ連の存在を考えた。
ソ連は民衆運動からロシア革命となり、反帝国主義を実現させて、市民革命からなる国家を作った成功例である。
そして、1921年に中国共産党が創立されて、国民党と共産党は国民革命の遂行のために共同闘争体制を作り上げた。
そして、最初の運動が国民会議運動であった。
孫文死後も国民革命の火は消えずに中国各地に国民革命は広がっていくことになる。
孫文がソ連に国家の模範を見たことは、のちに、中国がソ連のような共産国となるきっかけとなっただろう。
孫文の中国における影響力を考えれば自然な流れと言えるだろう。
第2次大戦後おこなわれる、共産主義と資本主義との戦いのなかで、朝鮮戦争において、共産国側として、北朝鮮を軍事的に支援することに繋がったと言えるだろう。
最後に、ヨーロッパ列強の猛威がアジアにまで拡大され、皇帝が支配する伝統的な国家システムでは列強国に太刀打ちすることはでず、中国は半植民地化になった。
そんな中、新しい国家システムを作り真の独立を目指した。
辛亥革命から続く一連の市民革命は1つの時代の大きな転換期と言えるだろう。
伝統的な国家から近代国家への転換期である。
最終的には中国は、国家のモデルを列強国ソ連に求めることになった。
(中国の歴史 小島晋治 並木頼寿 明石書店 2001年 参照)
(中国史 尾形 勇 岸本美緒 山川出版社 1998年 参照)
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はじめに、清朝政府の軟弱な外交から辛亥革命が起きる。
革命の成果は摘み取られることになるが、しかし、辛亥革命の精神は国民の心にのこり、それが、学生運動となり、この運動が学生以外にも広がり、労働運動など市民運動に繋がっていく。
そして、またのちの国民革命へと繋がっていく。
また、辛亥革命の影響は、政治の分野にのみならず、中国の伝統的な社会を変えていった。
それは、服装の変化や辮髪の禁止や纏足の禁止など近代的な社会への変化に大きな影響を与えることになる。
また、対外的には2つの世界大戦や日本との戦争など国際情勢は波瀾に満ちていた。
清朝はヨーロッパ列強や日本などの外国との外交で消極的な売国外交を行うことになる。
それは、日清戦争時の外交にみられるように、広大な中国からみれば、東北部の局地戦での敗北によって、あっさりと負けを認め、簡単に領地の割譲や賠償金の要求に応じるような外交であった。
5.4運動時に出されたビラには(中国の土地は征服されても、譲り渡したりはしない。中国の人民は殺戮されても、屈服はしない)(中国の歴史859ページ引用)という文章が書かれている。
外国に屈することなく戦い続けることを望んでいると見ることができるだろう。
中国の国民は清朝の軟弱な外交のために外国の侵略を許し、半植民地状態にあまんじていると考えている。
清朝に対する不満から辛亥革命が勃発したと考えることができる。
辛亥革命の始まりは 1911年の武昌での蜂起である。
武昌蜂起をきっかけに次々に各省が独立を宣言することになった。
各省が個別に独立を宣言すると次ぎは、統一的な機関が必要になってくる。
そうした中、南京で各省の代表が集まり孫文を大総統に選出した。
1912年ここに中華民国が成立した。
清朝政府は中華民国に対抗する手段として軍事的な影響力をもつ袁世凱を登用した。
袁世凱が清朝政府の実験を握ることになった。
そして、袁世凱と孫文との間で妥協案が結ばれることになった。
孫文は清朝政府の崩壊と皇帝の退位をもとめ、その代わりに袁世凱の中華民国大総統の就任であった。
袁世凱が中華民国の大総統に就任してからは、彼による独裁政治がはじまり、辛亥革命の成果が摘み取られることになってしまった。
しかし、1度根付いた民主共和国の概念は深く人々の心にしみついて、革命の心は消えてはいなかった。
1919年初めての世界大戦が終了した激動の時代、戦勝国の1つとしてパリ講和条約に出席したが、しかし、何一つ情況は変わらずに半植民地状態から抜け出すことはできなかった。
こうした情勢の中、学生によって5.4運動が展開されていく。
これは、愛国心からくるもので、日本やヨーロッパを中心とした植民地主義国家に対する反発運動である。
学生たちの怒りは、軟弱な外交を行った3人の政治家に向けられた。
5.4運動の影響は国内では、学生達の愛国心ある行動に共感を覚えて、さまざまな、運動に影響を与えていく。
革命後の中国は対外的には、外国諸国に対して強い姿勢がでてくるのもたしかなことである。
日本やヨーロッパなどの植民地支配に対して徹底的に戦う姿勢がこのころからでてくるのではないだろうか。
例えば、日本と戦った(日中戦争)は8年近くも戦い続け決して屈することはなかった。
1894年の日清戦争と比べると国家外交の姿勢に大きな違いがあることが分かる。
東アジア最初の共和国として出発した中華民国だったが、国内は分裂状態でさまざまな問題を抱えて、半植民地状態から抜け出せずにいた。
袁世凱の独裁政治後、孫文は中国国民党を率いて新たな道を模索した。
孫文は中国の模範にソ連の存在を考えた。
ソ連は民衆運動からロシア革命となり、反帝国主義を実現させて、市民革命からなる国家を作った成功例である。
そして、1921年に中国共産党が創立されて、国民党と共産党は国民革命の遂行のために共同闘争体制を作り上げた。
そして、最初の運動が国民会議運動であった。
孫文死後も国民革命の火は消えずに中国各地に国民革命は広がっていくことになる。
孫文がソ連に国家の模範を見たことは、のちに、中国がソ連のような共産国となるきっかけとなっただろう。
孫文の中国における影響力を考えれば自然な流れと言えるだろう。
第2次大戦後おこなわれる、共産主義と資本主義との戦いのなかで、朝鮮戦争において、共産国側として、北朝鮮を軍事的に支援することに繋がったと言えるだろう。
最後に、ヨーロッパ列強の猛威がアジアにまで拡大され、皇帝が支配する伝統的な国家システムでは列強国に太刀打ちすることはでず、中国は半植民地化になった。
そんな中、新しい国家システムを作り真の独立を目指した。
辛亥革命から続く一連の市民革命は1つの時代の大きな転換期と言えるだろう。
伝統的な国家から近代国家への転換期である。
最終的には中国は、国家のモデルを列強国ソ連に求めることになった。
(中国の歴史 小島晋治 並木頼寿 明石書店 2001年 参照)
(中国史 尾形 勇 岸本美緒 山川出版社 1998年 参照)
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2016年12月07日
里甲制と明朝衰退とは‐通信教育課程文学部史学科‐中国近世史リポート
里甲制と明朝衰退とは‐通信教育課程文学部史学科‐中国近世史リポート
まず、里甲制を簡単に説明すると、1381年に洪武帝が制定した郷村組織である。
地主や自作農などの土地所有者を地理的に隣接した集まりを110戸集めて編成を行って、そして、この110戸の集まりを1里と呼んで地方行政の単位とした。
110戸の中で裕福なもの10戸を里長戸とした。
また、のこった100戸を10甲に分けて編成を行った。
そして、1里の中で、1里長戸と10甲が10甲首となって、賦役黄冊づくりや賦役の徴収、里内の治安の維持、中央への物資調達、地方公費の負担など、非常に重い負担と責任を課せられた。
しかし、毎年1年ごとに交代を行うために、実際は10年に1度の役回りであった。
以上の1里が地方行政末端の組織となって、徴税や正役、雑役を課すための機関として機能した。
このように明の行政は里甲制を通じで、全国のいたるところまで、その支配権を及ぼすことができたのである。
里甲制はあくまで、土地所有者にかかる税、言い替えるなら、土地に掛かってくる税を対象としているために、小作農や奴隷的な人達、雇われ人を対象にしたシステムではないのである。
明初期では、土地の所有権はほとんどが自作農や地主で占められていた。
そのため、明初期では、里甲制はうまく機能して、国家の財源や労働力の確保に役だっていた。
しかし、明中期に入ると少し事情が変わってくる。
明中期に入ると、国内生産量の増加から、商品流通が盛んになり商品貨幣経済が発達していく。
日本の江戸時代も明と同じなのだが、商品貨幣経済が発展してくると、土地(石高)を基礎にした税制度では時代の流についていけないのである。
また、明中期は皇室の所有地が増え、それに伴って、貴族や宦官、官僚など明王朝で地位が高い層の人たちが土地所有を増やして、自領の拡大に努めていった。
説明を付け加えると、明王朝の中央や地方行政の中枢を握っているのは、科挙試験に合格した科挙官僚である。
科挙官僚達は非常に強い権限と特権を有していた。
科挙官僚の給料自体は少ないのだが、科挙官僚としての特権を活かして、財産を増やして大土地所有を形成していった。
地位の高い人の大土地所有が増えると言うことは、言い返ると、土地を持たない人が増え農村の階層化が生まれることを意味している。
では、地位の高い人達の大土地所有がなぜ、明王朝にとってマイナスになるのかと言うと、特権階級の地位の高い人達は、法の隙間を見つけて税負担を逃れた。
そうなると、里甲制は土地所有者を対象にいた税制度なので、自作農層が減少した事が税の収入が減った1つのマイナス点となった。
その他、明中期の自作農や中小地主は税収減少のしわ寄せがきて、重い重税を課せられた。
そうなるとますます、土地を手放す地主や自作農が増えてくるのである。
まさに、悪循環である。
貧富の差が激しい時代を迎え、里甲制そのものを維持していくのが困難になってきたのである。
明末の16世紀という時代は、世界的に急変した激動の時代である。
ヨーロッパ人が多数アジアまで進出して、国際的になってきた。
国際商業には、新大陸からもたらされた銀が使われ明にも大量の銀が流入した。
このような時勢の中、税制度はこれまでの複雑な税制度から銀納による簡素な税制度の一条鞭法に変わった。
この一条鞭法により、税制度は簡素になったが、しかし、農民の負担自体は以前より多くなった。
明末は、ますます商品流通経済が促進された時代である。
16世紀の商品流通経済の活性化が里甲制に与えた影響として、財を求めて農民が商人として出稼ぎを行う者が増えたことで、農業が軽んじられて、農民の数か減ったことである。
農民の数が減ることは国家財政が減ることを意味している。
商人として能力がある者はたくさんの財を獲得してのし上がっていった。
しかし、大半の者は落ちぶれて、ますます、貧富の差が激しくなり、富を持ったのは貧民を押さえつけて、贅沢で優雅な暮らしをして、まさに、お金が全てという、少し混沌としたおかしな時代になった。
明末は、周辺国が力をつけた時代でもあり、明は対外的に守勢に立たされることになる。
明北方では依然としてモンゴルの侵入が続き、また、和寇の勢力は活発化していた。
いわゆる、北虜南倭の活動がピークに達した時代である。
北虜南倭以外にも、明北方の女真族の勢力拡大や日本の朝鮮出兵などがある。
対外的に守勢に立たされると軍隊の維持費などがたくさんいる。
お金がたくさんかかるために、そのしわ寄せが国内に求められて、農民はますます、重税をかけられたのである。
農民は反乱や土地を放置して逃亡や移民する人が増えて、里甲制による、税収入は、ますます減少した。
明代はちょうど時代の変革期で自然経済から商品貨幣経済に移行する時代であった。
明の対外的には朝貢貿易、内部には里甲制の2つの政策の柱はこの経済システムの移行についていけないために明は衰退の一途をたどる。
それに伴い権力者の腐敗が時間を刻むと同時に進んでいく。
これは中国歴代王朝でも見られる現象で宦官、外戚、官僚の腐敗により国力が低下する。
どんなに強力な王朝でも必ず滅びるのが歴史の宿命なのではないだろうか。
明が崩壊したのは歴史の必然なのかもしれない。
そして、最後に思うことは明末の農業が軽んじられて、お金の世の中っていうのは、今の日本を想像してしまった。
(中国史 尾形勇 岸本美緒 1998年 山川出版社 参照)
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まず、里甲制を簡単に説明すると、1381年に洪武帝が制定した郷村組織である。
地主や自作農などの土地所有者を地理的に隣接した集まりを110戸集めて編成を行って、そして、この110戸の集まりを1里と呼んで地方行政の単位とした。
110戸の中で裕福なもの10戸を里長戸とした。
また、のこった100戸を10甲に分けて編成を行った。
そして、1里の中で、1里長戸と10甲が10甲首となって、賦役黄冊づくりや賦役の徴収、里内の治安の維持、中央への物資調達、地方公費の負担など、非常に重い負担と責任を課せられた。
しかし、毎年1年ごとに交代を行うために、実際は10年に1度の役回りであった。
以上の1里が地方行政末端の組織となって、徴税や正役、雑役を課すための機関として機能した。
このように明の行政は里甲制を通じで、全国のいたるところまで、その支配権を及ぼすことができたのである。
里甲制はあくまで、土地所有者にかかる税、言い替えるなら、土地に掛かってくる税を対象としているために、小作農や奴隷的な人達、雇われ人を対象にしたシステムではないのである。
明初期では、土地の所有権はほとんどが自作農や地主で占められていた。
そのため、明初期では、里甲制はうまく機能して、国家の財源や労働力の確保に役だっていた。
しかし、明中期に入ると少し事情が変わってくる。
明中期に入ると、国内生産量の増加から、商品流通が盛んになり商品貨幣経済が発達していく。
日本の江戸時代も明と同じなのだが、商品貨幣経済が発展してくると、土地(石高)を基礎にした税制度では時代の流についていけないのである。
また、明中期は皇室の所有地が増え、それに伴って、貴族や宦官、官僚など明王朝で地位が高い層の人たちが土地所有を増やして、自領の拡大に努めていった。
説明を付け加えると、明王朝の中央や地方行政の中枢を握っているのは、科挙試験に合格した科挙官僚である。
科挙官僚達は非常に強い権限と特権を有していた。
科挙官僚の給料自体は少ないのだが、科挙官僚としての特権を活かして、財産を増やして大土地所有を形成していった。
地位の高い人の大土地所有が増えると言うことは、言い返ると、土地を持たない人が増え農村の階層化が生まれることを意味している。
では、地位の高い人達の大土地所有がなぜ、明王朝にとってマイナスになるのかと言うと、特権階級の地位の高い人達は、法の隙間を見つけて税負担を逃れた。
そうなると、里甲制は土地所有者を対象にいた税制度なので、自作農層が減少した事が税の収入が減った1つのマイナス点となった。
その他、明中期の自作農や中小地主は税収減少のしわ寄せがきて、重い重税を課せられた。
そうなるとますます、土地を手放す地主や自作農が増えてくるのである。
まさに、悪循環である。
貧富の差が激しい時代を迎え、里甲制そのものを維持していくのが困難になってきたのである。
明末の16世紀という時代は、世界的に急変した激動の時代である。
ヨーロッパ人が多数アジアまで進出して、国際的になってきた。
国際商業には、新大陸からもたらされた銀が使われ明にも大量の銀が流入した。
このような時勢の中、税制度はこれまでの複雑な税制度から銀納による簡素な税制度の一条鞭法に変わった。
この一条鞭法により、税制度は簡素になったが、しかし、農民の負担自体は以前より多くなった。
明末は、ますます商品流通経済が促進された時代である。
16世紀の商品流通経済の活性化が里甲制に与えた影響として、財を求めて農民が商人として出稼ぎを行う者が増えたことで、農業が軽んじられて、農民の数か減ったことである。
農民の数が減ることは国家財政が減ることを意味している。
商人として能力がある者はたくさんの財を獲得してのし上がっていった。
しかし、大半の者は落ちぶれて、ますます、貧富の差が激しくなり、富を持ったのは貧民を押さえつけて、贅沢で優雅な暮らしをして、まさに、お金が全てという、少し混沌としたおかしな時代になった。
明末は、周辺国が力をつけた時代でもあり、明は対外的に守勢に立たされることになる。
明北方では依然としてモンゴルの侵入が続き、また、和寇の勢力は活発化していた。
いわゆる、北虜南倭の活動がピークに達した時代である。
北虜南倭以外にも、明北方の女真族の勢力拡大や日本の朝鮮出兵などがある。
対外的に守勢に立たされると軍隊の維持費などがたくさんいる。
お金がたくさんかかるために、そのしわ寄せが国内に求められて、農民はますます、重税をかけられたのである。
農民は反乱や土地を放置して逃亡や移民する人が増えて、里甲制による、税収入は、ますます減少した。
明代はちょうど時代の変革期で自然経済から商品貨幣経済に移行する時代であった。
明の対外的には朝貢貿易、内部には里甲制の2つの政策の柱はこの経済システムの移行についていけないために明は衰退の一途をたどる。
それに伴い権力者の腐敗が時間を刻むと同時に進んでいく。
これは中国歴代王朝でも見られる現象で宦官、外戚、官僚の腐敗により国力が低下する。
どんなに強力な王朝でも必ず滅びるのが歴史の宿命なのではないだろうか。
明が崩壊したのは歴史の必然なのかもしれない。
そして、最後に思うことは明末の農業が軽んじられて、お金の世の中っていうのは、今の日本を想像してしまった。
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