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2016年11月30日

通信制大学の卒業の仕方‐リポートを書く


書く

通信制大学の卒業の仕方‐リポートを書く

書いて、書いて、書きまくって、ただ書き続ける。

通信制大学の卒業の仕方は、リポートを書き続ける。

それしかありません。

深く考えていても仕方がありません。

考えるよりも書くことが大事です。

これはリポートだけの事ではなく、科目履修試験についても同じことが言えます。

リポートを書けと言っても、知識がなければ書けません。

リポートを書くときは必ず

参考資料を集めよう。

図書館やインターネットを活用して、できるだけ、多くのリポートを書くためのネタを集める事が大切です。



(例)「廃藩置県について書け」このような設題だったら

図書館に行き、廃藩置県、幕末、明治維新に関連する図書を何冊も借り、また、インターネットでも廃藩置県について検索をかける。

これら集めた全ての情報を把握するのは難しいので、設題に関係する部分だけを抜き出しておく。

各資料の抜き出した項目をまとめて整理する。

関連する部分をまとめた資料を参考にリポートを作成する。

ネタが多いほどリポートをスムーズに書くことが出来ます。


クリックお願いします。


















「教科書に載らない歴史」はここをクリック 
高校で普段行っている授業の実践記録や日記集、研究など、教科書に載っている事だけを授業するなら教員なんていらない。誰も知らないことを授業で取り上げる事に意味がある。教科書では語れないことや取り扱って欲しい内容を取り揃える。教科書で語れない内容に真実や日本文化の素晴らしさが詰まっている。日本人としての心を取り戻す教育、その一部を紹介します。
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2016年11月29日

リポートの書き方‐合格リポートを参考に

必見合格済みリポート


リポートの書き方‐合格リポートを参考に

リポートをいきなり書けと言われても、慣れるまでは大変です。

一番手っ取り早くリポートを作成する方法とは?


合格済みリポートを実際に見て参考にする事です。

そこで、私がこれまで書いた合格リポートを全て紹介します。

あくまでも参考にしてください。


「注意点」
・写してそのまま提出してはいけない。写すだけでは力になりません。そんな事では科目履修試験や卒業論文が書けなくなります。

・著作権があるので、転売は違法です。

・私自身が学生の時に書いたリポートである。

・このリポートよりはレベルの高いリポートをめざして書いてください。









2016年11月28日

地方史学を学ぶ意味について‐単一民族国家説の否定‐通信教育課程(専門教養地方史学リポート) 

地方史学を学ぶ意味について‐通信教育課程(専門教養地方史学リポート) 


  私が中高生時代に学んだ歴史像は単一民族国家説を基本にした日本史像である。

それは、日本の歴史は、縄文、弥生、大和、奈良、平安、鎌倉、室町、安土、江戸、明治、大正、昭和とつづく、一本の太い流れにそって進んでいく統一的な歴史像であった。

しかし、けっして、日本の歴史は統一的な1つのものではない。


 例えば、沖縄が完全に日本の領土になるのは明治以降、東北が日本の支配を受けるのは奥州藤原氏以降で完全に日本の統治体制に入るのは豊臣政権、北海道が完全に日本領になるのは明治以降のことである。

地方に行けば、琉球王国があり、エミシ、アイヌの世界があり、日本とは全く違った文化や歴史を歩んできた地域もある。

そして、日本は近年アイヌ新法により、単一民族思想を捨てた。

このように、日本には複線的な日本史像存在しているので地方の歴史から日本史を見ていかないといけない。

それが地方史学である。

歴史と言うものは、見る角度が違えば全く違うものになっていく。

例えば、江戸時代日本は鎖国政策をして、長崎の出島という限られた空間でのみオランダと中国と交流を持っていた。

これが従来の私が学生時代に学んだ鎖国像である。

しかし、この鎖国像は地方の歴史をまったく無視している。

江戸時代当時は、北海道のアイヌと沖縄の琉球王国は外国である。

江戸時代を通じて外国であるアイヌと琉球は日本と交流を持った国である。

オランダ、中国以外の国と長崎の出島以外の空間でも日本は交流を持っていたと言うのが本当の鎖国像と言える。

このように、地方の歴史を見ることによって、中央の歴史像がまったく違ったものになることもある。

これは1つの地方史学を学ぶことによって得られる成果の1つではないであろうか。


 戦後主に近世農村史研究が活発化することになる。

近世江戸時代の人口を考えると、約80パーセントの人達が農業を営んでいたとされている。

日本は農耕民族の国といっても過言ではない。

従来の歴史像は支配者階級である武士の歴史である。しかし、人口の大部分を占める農民の歴史を考えなければ近世の歴史を把握したことにはならないと思う。

特に近世時代は職業によって住む場所も違えば、法や文化や風習も違う。

また、たくさんの藩が存在し現在のような統一的な国家ではない。

そして、移動手段が現在のように発達していなかったので移動は困難であったことが予想される。

特に近世時代は地方独特の文化や歴史が存在いていることになる。

地方独特な民衆の歴史を見ることによって、もう1つの日本の姿を見る事ができる。

これが地方史学を学ぶ1つの意義なのではないだろうか。

 
 地方史学とは、地方の歴史学のことであり、歴史学の1部門として学問的な位置付けを行うために、歴史研究の方法や目的、内容を整備し学問体系の中に位置付けられたものである。

学問として体系するためには、歴史に関する記述は真実の事を記述する必要がある。

そのためには、歴史記述の裏づけとなる証拠が必要となる。

証拠には資料が必要で、証拠となった資料が本当に事実を記述しているかどうかの資料批判も必要となってくる。

できるだけ、事実に基づいた学問的な歴史学として地方史学ができた。


 地方史学は郷土史が発展したものである。

郷土史とは地域独特の伝記や伝説の類を含めた学問である。

郷土史には、閉鎖的な地域自慢や英雄史観、物語史観などが折りこまれている。

簡単に言うなら、歴史的な事件があったとして、その歴史的事件を大げさに誇張して、また、英雄などの登場で、歴史的事件を面白く、お国自慢などを加え、物語風に作り上げた要素を含んでいる。


 戦前日本では天皇の神格性を維持するために、平気で伝説の類を国家に都合よく歴史として教えていた。

日本国民として、日本の神話や地域の神話を知る事は、とても大事なこと、だが、それと歴史事実を混合させると、それ以上の発展は望めない。

神話は何かしらの歴史事実に基づいて描かれた話、その何かしらの歴史事実を探求する事が大事になる。

戦後新しい時代を迎え、神や精霊などに縛られない、真実の歴史を知ろうとする時代の流れや、行政に都合のよい政府の歴史ではなく、地域で実際に住んでいる人々の生の歴史を知ろうとする時代の流れから地方史学が生まれたのではないであろうか。


 地方史学は中央政府によって作られた法などで、実際に地域で住む民衆がどのような影響を与え生きたかなどの、民衆生活史を知ることができる。

そのため、地方史学は、日本史を構成するとても重要な位置にある学問であるのではないだろうか。

郷土史が狭い地域を限定で研究するのに対して、地方史は、もちろん狭い地域を限定して研究するのだが、それだけではなくて、他の地域の研究をも行い比較対比も必要としている。

地方ごとに比較研究を行っていくと必ずたくさんの地域によって、いろんな差がでてくる。例えば言葉や習慣、苗字、農業、人格、など上げればきりがないほどの地域差がある。

地方史学の重要な目的の1つに限定された地域を研究して、そこに住む人々がどのような社会を形成して生活を営み、そして、文化を生み出して歴史を作っていったのかを解明する目的がある。

また、研究方法として、古文書や文書、遺跡、遺物、などの形として残って位いる研究材料だけでなく、民衆に語り継がれた話など、あらゆるものを使って材料にして研究を学問である。

これは、郷土史に近い存在で、地方史学とは、郷土史も含めて、総合的に対比や全体のつながりをも研究する総合的な学問と言えるだろう。


 最後に過去天皇制のよる単一国家説が日本史の主流を占めた時代の反省や欧米主観から見た日本史像への疑問、そして、総合学習に見られるような地域密着型の歴史教育が見直されている現在において、地方の歴史に対する関心は高まる時勢である。

地方史学の持つ意味は今後ますます重要性を占めてくるだろう。


いつもクリックありがとうございます。












2016年11月27日

徳川政権時代、江戸周辺の農村に発生する税の数々‐通信教育課程専門教養(地方史学リポート)





徳川政権時代、江戸周辺の農村に発生する税の数々‐通信教育課程専門教養(地方史学リポート)


  
 江戸時代の特徴は、身分制の社会編成である。農民が暮らす場所と武士が暮らす場所は隔離されていた。農民は農村で暮らし、武士や商人といった人達は城下町に暮らしていた。


 江戸時代の支配体制は治める領主により、かなりの違いを見せており、江戸周辺では江戸幕府が存在するために、幕府の直轄領(天領)となっていた。

江戸幕府から近いこともあり、幕府にとって、江戸周辺の農村は幕府財政を支える重要な場所であった。幕府権威を保つために、鷹狩が行われるなど、非常に重要な地域であった。そのため、江戸周辺の農村では特徴ある生活が営まれた。

江戸周辺農村は幕府領なので、統治には幕府から代官が任命されて、江戸周辺農村を治めた。代官は武士身分だが、武士の中でも比較的身分が低く、俸禄も少なかった。

しかし、代官が治める支配石高は多く、非常に大変な職であった。また、江戸周辺では特に、代官以外にもいろんな支配体制が組みこまれているために、実際に代官が行使できる権限は少なかった。

代官が支配した領土は5万石から10万石であるから、結構な大きさである。大名で考えると中クラスの規模であり、私の町である、丸亀藩は6万石である。

住んでいて思うことは、6万石でも結構な広さである。このように、代官は広い土地を支配していたのだが、そのわりには、俸禄も幕僚の数も30人ぐらいと少なく代官の力だけでは統治は難しかった。

少ない人数で広い領地を治めるので、どうしても、統治が手薄になってしまう。そのために、行われた政策が、有力な農民などを天領支配の統治機構に組みこむことである。

そして、有力な農民などを使った、大庄屋や郡中惣代などの中間支配機構が作られる。

中間支配機構の主な役割として、代官所から伝達された情報を農民達に伝える、年貢米の江戸への輸送の監督、また、村で争そい事が起きると、できるだけ、代官所の手をわずらわせる事を避けて、中間支配機構が争そい事の仲裁を行った。中間支配機構は代官支配体制の中でとても重要な役割を果たしていた。


 次ぎに農民達にはたくさんの現代風で言う税金がかけられた。

税金の圧迫で、農民としての身分を捨て、土地を逃げ出す人々も多数存在した。全国的に共通する税が米の生産量、石高によって割り当てられた税の年貢である。

そして、江戸周辺の農村では、この年貢の他に、鷹場に指定されている村が多く、その村では、鷹狩のために発生する、さまざまな負担が農民に課せられる。

また、絶えず洪水の危険をはらんでいる地域が多いので水に関して発生する、治水や用水維持などの水利負担が加えて課せられる。

鷹狩は将軍の権威を守るために行われる大変重要な行事である。

もし、将軍が鷹狩で鳥が取れないと言う事態になれば、将軍の権威はまる潰れとなる。

鷹場に指定された村ではさまざまな税が農民たちを苦しめたと予想される。

鷹場に課せられた負担は多種多様であった。

例えば、鳥の餌の確保やその外の用途のため、虫、蜘蛛、イナゴ、けら、蛍、松虫、葉、枝など、上ケ物と言われる物を収める負担がある。

また、鷹狩の時、鷹が捕まえる鳥の数が減ったら困るので、鳥の数の確保のために、鳥を殺すことは禁止されていた。これは、鳥と言う大事な食糧原が無くなる事を意味している。

 
 江戸は本来、洪水の多い地域である。

本来なら、耕地として適さないのだが、さまざまな努力、例えば、河川の治水、灌漑用水、水流の堰止め、耕地開発などの水利政策をおこなって、石高が増大した。

江戸の農村では、水利政策の時、発生するいろいろな負担を課せられた。

例えば、治水や灌漑用水を建設、維持、復旧に必要となる、人手、馬、船、お金、縄、油、薪、竹、木、いろんな道具などの負担。また、洪水対策のための人と俵などの負担。特徴として、水利負担は、その時代に必要とされる事柄や世の中の流れによって、変化していた。

例えば、初期の建設時期なら、多種多様に、お金や道具などの現物や人足を中心に負担、建設後なら、維持のために、人足と俵を中心に負担して、洪水対策などを行う。

幕末のような、災害の多い時期では、負担が軽くなる。このように、たくさんの負担が農民に課せられた。農民の負担は大きかったが、江戸周辺は飛躍的に石高が増加した。だが、水害や日照などの天災にたびたび襲われ苦しめられている。


 農民の生活で、特徴的なのが、5人組み制度である。5人が1組となり、例えば、5人の中の一人でも年貢なの税が治められなければ、連帯責任となって、5人とも罰がくだる。

また、村にはそれぞれ、村法があり、村法を破ると、村八分などの罰が降る。江戸時代の村は、連帯責任のために、犯罪が発生する確率が低い環境にある。

しかし、反面、領主が違えば、逮捕権がないため、犯罪者が逃げやすい世界でもある。

このような、5人組みのシステムによって、これまで、説明してきた厳しい税であっても、治めなければならない、環境に農民は負い込まれていたのではないだろうか。

(将軍の鷹狩 根崎光男 同成社 参照)
 
                       
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2016年11月26日

古代日本と古代朝鮮の深い結びつきとは‐通信教育部専門課程‐考古学リポート

古代日本と古代朝鮮の深い結びつきとは‐通信教育部専門課程‐考古学リポート

 古代日本と古代朝鮮は特に結びつきが強いと言える。

なぜなら歴史的に見ても古代日本の統一王朝である大和朝廷は朝鮮から来た民族という説も存在している。

また、実際に古代日本は朝鮮半島の一部を所有していたという説もあり、朝鮮半島の内乱に介入していたという歴史的事実がある。

考古学的に古代日本と古代朝鮮の結びつきを見ると古くは旧石器時代の日本の遺跡で発掘されるハンドアックスなどは、朝鮮半島南部で発掘される細石器と非常に似ている。

この時代のある説では日本と朝鮮は陸続きであったと言われている。

この二つのことを考えるとこの時代は、日本と朝鮮は一つの文化圏として区別無く存在していた可能性が高い。

その後、陸続きで無くなると、日本と朝鮮は別々の文化を歩んだが、少しは交流はあった。

例えば朝鮮の櫛目文土器が九州対馬の縄文時代遺跡の出土品にごくわずかに含まれていたり、また、逆に朝鮮半島南部の遺跡に縄文土器が出土したりしている。

このことから日本と朝鮮は交流があったことがうかがえる。


 つぎに人間の生活にとても大きな影響を与えた稲作とそれに伴う金属その他の文化は朝鮮半島から伝えられた。

東アジアの稲作は最初中国の長江中流地域といわれ、それが朝鮮半島に伝わりそして日本には、縄文時代終末期に伝わったという説が今のところ強い。

弥生時代のころ中国ではすでに統一的な王朝ができ社会秩序もととのい、周辺の国家に大きな影響を与えた。

朝鮮半島は中国の属国的な立場になり、文化的影響を大きく受けた。

それが海を越え日本にも伝達した。

日本では大陸文化の影響で貧富の差、支配階級の誕生、統一的国家の誕生、など大規模な変化があった。

これは、稲作により、食料や耕作地を持つものと持たないものの差が貧富の差、それが支配階級へと成長していった。

また、金属文化は日本人の生活を大きく変え、より便利なものになった。

そして、金属文化と乗馬文化は戦争の規模、戦術、スピード、を変え巨大国家ができやすい環境になった。

朝鮮からの大陸文化の伝達は遺跡によりある程度、証明する事ができる。

有名なものに縄文時代時代末期の佐賀県唐津市の稲畑遺跡、弥生時代の遺跡である、静岡県静岡市の登呂遺跡がある。

これらの遺跡には水田跡が見られ、この時代稲作が始まっていたという証明になる。

また、木製農具の制作に使われた磨製石器や稲の収穫具の石包丁が出土された。

これはらは、朝鮮の遺跡から出土されたものと同じ形式を持っていた。

このことから稲作と共に石包丁、磨製石器の技法が朝鮮から日本に伝わったことが推測される。

日本で出土された、銅剣、銅鐸、銅鏡、などに関しても朝鮮半島で同じ形式のものが出土されている。

このことは、朝鮮製の物が、日本に流入、もしくはモデルとされた可能性を示し、両国の繋がりを表すものである。

また、朝鮮の青銅器は中国東北地方の遼寧式の青銅器が源流とされ、中国―朝鮮―日本という流れで文化が入ってくるという事を示すものである。

そして、形質人類学から考えるとこの時代、九州北部や本州西橋から出土された人骨の中に、高顔で高身長という特徴を持つ人骨が出土される。

これは大陸から来た渡来人の骨であると推測され、日本における新しい文化である稲作、金属文化の伝来に、大陸から来た渡来人が大きく関係していると言えるだろう。

古墳についても大陸の影響を受けた。

古くは弥生時代の遺跡で見られる支石墓や箱式石棺は大陸でも同じ形式が見られ、影響を受けたと考えられる。

そして、古墳時代の古墳の構造上における変化である。早くから大陸で見られ、その変化は横穴式石室で見られる。

この技法が日本に影響を及ぼし、古墳製造の技術上昇に貢献した。

横穴式石室の源流は4世紀中頃楽浪群にあり、それが、5世紀に百済に伝わり、百済と交流が盛んだった日本に伝わった。

古墳時代は工芸技術が著しく発達し、文字の使用も見られた。

これは大陸との交流はもちろんのこと大陸から日本に移り住んだ帰化人の影響も強く受けた。

文字はだいたい5世紀頃から一般的に使用された。

文字の使用により新しい知識が容易に得られるようになり、文化の伝達のスピードも早くなり、仏教などの新しい思想も容易に入り、日本人に大きな影響を与えるようになった。

文字の伝達は日本を大きく変え、文化のレベルは上がり、歴史を文字で書き留める事ができるようになった。

すごくすばらしいことである。日本語の文字の源流が中国にあることは中国語を見れば誰にでも想像がつくはずである。

そして、初期日本製の文字を含んだ作品を見ると、大陸の渡来人の名が見られる。このことは、渡来人から文字が伝わった可能性を示すものである。


 最後に、もし、大陸からの文化伝来がなければ縄文時代のような狩猟採集の生活が続いていたかもしれない。

大陸からの文化伝来は現在の文明社会の始まりだったのかもしれない。

そして、日本は海に囲まれ独自の文化を歩んで来たように見えるが実は古代は非常に大陸との関係が強く、盛んな交流があった。

日本文化の源流は大陸にあり、日本は大陸文化を基本として独自に文化を築き発達させ、現在の日本文化を創ったと言えるだろう。

例えば文字に関しては日本独自の文体やカナの発明などがそうであるように。


参考(古代朝鮮と日本 西谷正 名著出版)


いつもクリックありがとうございました。















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2016年11月25日

日本国大君号‐世界一の国と渡り合う武士の魂とは‐通信教育部専門課程海外交渉史リポート

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日本国大君号‐世界一の国と渡り合う武士の魂とは‐通信教育部専門課程海外交渉史リポート


 東アジアは、儒教的な文化なので伝統や格式を重んじる傾向にある。

国書の中の形式や署名など、僅かなことであっても、大変重要な問題となり、僅かな食い違いから、国際的な問題にまで発展する傾向にある。

差出人である日本の徳川将軍の署名に関しても、その書き方にはさまざまな問題点が含まれている。


 日本国大君号は対外的な徳川将軍の称号の1つである。最初は朝鮮との国書のやりとりのなかで、初めて使われることになる。

 大君の意味は、朝鮮では、国王の嫡男、すなわち王子を指していう言葉である。

また、中国では大君は、天子の意味、すなわち、皇帝を指す意味である。

このように、中国と朝鮮ではその意味がちがうのである。

これは非常に重要な問題で、もし、中国と国交が正式になったと仮定すれば、それは、対等な立場での国交の樹立を意味している。

しかし、日本が朝鮮と日本国大君号で国書を交換する場合は、朝鮮側から見れば日本は子にあたるのである。

子は親よりも格式が下なので、国家間の間に例えると、朝鮮が親ということになり、すなわち、朝鮮の方が格式の高い国と言うことになる。

これは、日本にとって大変重要な問題である。

この問題に対して、新井白石は朝鮮との通信に際して、日本国大君号から対等な号である日本国王へと改めさせた。

しかし、享保時代以降は、元の日本国大君号へと戻った。


 中国では、古くから抱いていた思想がある。

それは、中華思想で、これは中国を中心として考える思想で、地理的にも文化的にも中国を中心とする思想である。

中華思想は言語などにも影響が見られ、周辺国を差別用語で呼び名を付けている。

また、周辺国を軽視して差別する文化的に優越思想の華夷思想である。

そのため、中国は外交を行うとき、周辺国とは対等な立場での外交を行わずに、中国の属国的な立場での外交を行った。

儒教的に表現すると、中国が親で周辺国が子と言うことになる。


 日本でも、この中華思想を日本風にアレンジした日本的な華夷思想が作られてきた。

中華思想と同じように、日本を中心として、周辺国を見る考えの思想である。

この中では、日本の周辺国である、北のアイヌや南の琉球、そして、東の朝鮮、これらの国々が日本から見て、華夷の国になる。


 徳川政権時代の日本は、中国の中華思想の枠組みに入らない、対等な立場での外交政策が基本的な方針であった。

中華思想の枠組みに入らず、日本的な華夷思想の両方から見て、考えられたのが、日本国大君号である。

大君は、中国では天子の意味をさすので、大君を使うことによって、中国と対等な立場の国であることを周辺国にアピールができ、また、国王よりも立場が上である大君を使うことによって、日本的な華夷思想の実現にもなっているのである。

日本国大君号は、江戸時代を通じて、中華思想の枠組みから外れた日本独自の思想として、広く使われ、アジアの国々にも受け入れられてくるのである。

日本国大君号以外でも、さまざまな将軍の名称が存在した。

例えば、征夷将軍、日本御主大御所様、日本国王、日本皇帝、日本将軍様、などで、返書としては、日本国源家康、日本国などである。

これらの名称に関して、これといった厳密な形式や国によっての使い分けなどは存在していなかったようである。

 
 ヨーロッパ諸国との国書のやり取りの中ではそれほど、形式や号に関する問題が出てくることはなかったが、しかし、お隣の朝鮮との国交を正常化するために行われた国書のやり取りの中では問題が出てきた。

 豊臣秀吉の朝鮮出兵いらい朝鮮との国交は断絶していたのだが、徳川政権になって、朝鮮との国交正常化を果たすことになる。

日本と朝鮮との国書のやり取りの中で問題となったのは、将軍の呼び名で、朝鮮側は、日本に対して将軍の呼称を日本国王と書くように願った。

この日本国王号は元々、足利義満の時に、明から日本国王として任ぜられて、贈られた称号である。足利義満は明との貿易のために、この日本国王で朝貢貿易を行うことになる。

この時は、足利義満は日本人としての面子よりも貿易での利潤を優先したと言う事になる。

これに対して、賛成する人もいたが、反対に国内では批判する人もいた。明から貰った日本国王を使うことは、明の属国であることを意味し、また、中華思想である華夷思想の枠組みの中に日本が入ることを意味している。

そのために、徳川政権では日本的な華夷思想や武士としての面子のために、この日本国王を使うことを拒絶していた。

しかし、朝鮮は明の華夷思想の枠組みに入り明を宗主国と認めていた。

日本に対しても同じ、明の属国として日本国王号での国書のやり取りを希望していた。

朝鮮との国書のやり取りの中で、日本と朝鮮の窓口となっていた宗氏は将軍の呼称を日本国から日本国王へと変え、朝鮮との国交正常を行った。

そして、満州族が明に侵略を始めると、日本と朝鮮との間での国交の関係は中国を抜きにしたものへと変わっていくことになった。


 日本国大君号からは、当時世界1の大国である中国と対等に渡り合う国としての強い意思と、大国にも屈することのない武士的な思想が感じとられる。


(天下泰平 横田冬彦 講談社 2002年 参照)


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2016年11月23日

古代ギリシア、戦争による光と影とは‐文学部史学科通信教育部専門過程(西洋史リポート)





古代ギリシア、戦争による光と影とは‐文学部史学科通信教育部専門過程(西洋史リポート)


 古代ギリシアでポリスと呼ばれる小国家が多数建国された背景として、地形的に山脈が多様に枝分かれし起伏が多く居住空間が分断され統一的な国家ができにくい地理的要因が考えられる。

国家間の紛争は絶えずあり、戦争は頻繁におこなわれ戦争の影響を多くうけた。


戦争による影響を考えると、密集隊戦術が原因の社会変化、軍事優先のスパルタ、ペルシアとの戦いによるアテネの変化、ギリシアの覇権をかけたペロポネソス戦争、コリントス戦争などの慢性化された戦争による社会の変化がある。これらのことを説明していきたい。


 古代ギリシアの民主政治成立には、戦争の影響があった。

ポリス創世記では戦争をするのは支配階級である貴族がするものであった。

しかし、ギリシア人は積極的に海外に進出し、数多くの植民都市を築き上げ、交易によって経済力を高めていった。

一般農民の中にも貿易に挑戦し、成功を治める者も現れ、貴族以上の財を有する者も現れた。

そして、交易ルートの拡大によりいままで入手しにくかった武器が手に入るようになると、貿易により成功を治めた経済的に裕福な平民のなかには、高価な武器を入手し、戦争に参加する者も現れた。


 次に戦争を行う際の戦い方として、密集隊戦術が成立した。

これは体を密着させ、相互の命を盾で守りあうという戦術である。

これにより、兵士の間では貴族、平民関係なく強力な結束と連帯感が生まれた。

これら、平民の戦争参加、密集隊戦術などの要因が影響し、平民と貴族の力の差は縮まり、平民は政治に参加しようようとして貴族と同等の発言力を求めるようになった。

また、それが可能となる社会ができてきた。そして、最終的に民主政治につながっていく。


 つぎにスパルタの軍事優先の社会について説明すると、スパルタ人はポリス形成の過程で周辺のラコニア地方を征服し、そして、全8世紀末、二度の侵略戦争で隣接するメッセニア地方を征服した。

この長い戦争中市民の結束を強化するために、市民間の平等化を推進した。また、占領した地域を統治する方法として武力による統治を選んだ。

そのためスパルタ人は7歳から集団生活に入り優秀な戦士になるための訓練をうけ、厳しい規律のもとでの軍事優先の生活を続けた。

生活は簡素で、食生活や衣類は質素なものだった。

これにより最強の軍隊をスパルタは有し、ペロポネソス同盟を結成し、ギリシアで位1,2を争う強力なポリスとなった。


 スパルタとならんで強力なポリスへと成長したアテネに関しても戦争が大きな影響を与えた。

前490年と前480年にギリシア本土に進行してきたペルシアとの戦いである。この戦いに際し、アテネは諸ポリスの中心となり大国ペルシア撃退の勝利に大きく貢献する。

この戦いの勝利によりアテネの軍事力を諸ポリスにしらしめ、前478年アテネを盟主とするデロス同盟が結成された。

ドロス同盟結成以降エーゲ海の制海権を握ったアテネでは海上貿易が活発となり、市民に経済論理にも変化の兆しが現れ、未発達であるが市場が成立し、貨幣経済が限定的だが進展した。

また、アテネは同盟諸都市の支払う税を自国の繁栄に流用し、アテネは繁栄を極め国内では、政治改革がおこなわれ、民主政治が実現する。


 ギリシア世界はアテネとスパルタによる覇権争いが行われ、これがペロポネソス戦争で、スパルタの勝利に終わり、アテネの権威は地に落ちた。

その後コリントス戦争やテーバイとスパルタのレウクトラの戦いがあった。これらの慢性的な長期の戦争は諸ポリスの力を弱めさせ国力は疲弊していった。

また、コリントス戦争時に再復興をとげたアテネでも侵略的なやり方のため、諸ポリスの反抗にあい同盟市戦争が勃発し国力は疲弊した。

とくにレウクトラの戦いで負けたスパルタは国力の疲弊はひどかった。

ギリシア国内のポリス市民は、経済的没落のため、生計を立てるのもままならず傭兵となることで生計を立てていった。

アテネでさえ将軍が個人的な利益のため外国に渡る者もあらわれ、スパルタでは国家政策として傭兵による収入で国家財政を補った。

ギリシア傭兵は当時では最強の傭兵であり非常に強かった。そのため各国はギリシア傭兵を必要とした。

アレクサンダー大王の東方大遠征でも多数のギリシア人傭兵が雇われ、ペルシア側でも多数のギリシア人傭兵が雇われた。

アレクサンダー大王の入植政策もあり、ギリシア文化が東方に伝わるきっかけとなった。

疲弊したギリシアは前338年カイロネイアの戦いでマケドニアに完敗し、ギリシアはマケドニアの支配下に置かれ、その後もローマなどの支配を受け他国に支配される歴史がつづき、ここに古代ギリシアは終演をむかえた。


 最後に古代ギリシアは戦争の影響で、貴族と平民が平等となり、古代では世界的に見ても珍しい民主政治が実現する。

そして、市民が団結し最強の軍隊を作り上げ戦争によりギリシアは繁栄を極める。だがその後皮肉なことに戦争によりギリシアは衰退した。

このことを考えると、短期の戦争は国を繁栄させる時もあるが長期の戦争は勝利しても国を疲弊させる時もある。

戦争というものは歴史を学ぶ上で非常に重要なことといえるだろう。


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2016年11月20日

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何度受験しても合格出来ない単位修得試験はどうすれば合格できるの?


テスト問題がある程度予測できるので、(単位修得試験のテスト対策はここから)難しい科目でも数回受ければ落ちることはほとんどありません。

しかし、中には何故か何度受験しても落ちる科目があります。



 不合格の理由

@文量が足りない。

A文章の書式や書き方に間違いがある。

B解答が出題者の求める内容でない。

@とAに関しては、事前学習で試験対策さえ出来ていれば、問題なくクリアーできる。

問題はBの場合、試験問題が分かっていても出題者の意図が分からない場合、不合格になり続ける可能性がある。

問題にそった解答を行って、3回不合格になったばあいはBの可能性が高いです。



 Bの対応

・解答をコンパクトにまとめる。採点者の中には、長く書かれた解答を嫌う人がいる。出題に対して、的確な答えだけを解答用紙に記入する。余分な事は一切書かない。文量を気にしない。

・逆説の解答を書く。採点者によって、考え方や歴史認識が違うので、これまで書いていた内容とは違った視点で解答をしてみる。

・教科書に載っていないような専門的な知識を解答の内容に入れる。

・必修科目でない場合は、さっさとあきらめて、次の科目を履修する


今となっても思い出したくもありませんが、何度受けても合格出来ない単位修得試験がありました。

試験は何度でも受験できるので、あらゆる方法を試してみよう。


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2016年11月19日

朱印船貿易について‐専門課程‐海外交渉史リポート

朱印船貿易について‐専門課程‐海外交渉史リポート

 朱印船貿易が始められたのは豊臣政権の時と考えられている。

日本は戦国時代をへて外国との貿易が活発になった。

戦国期、戦国大名や織田政権は外国との貿易を通じて、外国の技術や文化、軍事兵器をとり入れ、また、その貿易利潤が重要な軍資金となっていく。

豊臣政権時に日本の国は平定されるが、外国との貿易は盛んになっていく。


 当時は密貿易や海賊船も多くいたので、その区別のやり方として朱印状の交付が考えられた。

朱印状を持っている船が国から許可を与えられた正式な貿易船ということである。

外国との貿易が活発になる中、これまでの、無秩序であった外国との貿易に対して、ある程度の秩序を与えたと思われる。


 東アジアや東南アジアで、国家によって貿易許可書を配布して、貿易を行うスタイルは、ポルトガルが始めた。

ポルトガルは大航海時代をへて、マカオを中心としてアジア貿易で利潤を上げていた。

ポルトガルは外国との貿易船にカルタスを発行して、カルタスの所持を貿易船に義務付けた。

もし、カルタスを所持しないで、貿易を行うことは犯罪行為とみなされて、積荷の没収や船員には罰が与えられた。

これは、貿易の統制とともに、カルタスの発行に対しての税金をアジア貿易での利潤の1つと考えた。

 
 中国も海外渡航を行う時は、文引と呼ばれる国家から発行される、渡航許可書が必要とされる。

これらの許可書は現代風に言うとパスポートのようなものと考えられる。

アジアでは、貿易の際に、国から発行された証明書を元に貿易が行われる伝統や風習が存在していたことが、これまで説明したことで分かる。


 朱印船貿易で日本の輸出品の大部分は銀であった。

現在の日本でも銀座という地名が残っているほど、当時の日本では大量の銀貨が作られていた。

貿易船一隻約500貫目の銀が積み出されていた。

あまり、実感の沸かない数字だが、輸出銀だけで、当時の世界産銀の3分の1を占めていた。

世界経済にとって、日本の重要性が分かる。


 日本の外国からの輸入品で重要となるのは、生糸や絹織物である。

これらは、中国で主に生産されるものである。

本来なら中国と貿易をすることができれば手に入れることのできる製品である。

しかし、中国は日本を嫌っていた。

なぜなら、戦国期の大内氏、細川氏は中国貿易を巡って争いを続けていた。

その争そいの火種を中国本土まで持ちこんでしまって、中国から強烈な批判を受けた過去を持つ。

後、豊臣政権時の朝鮮出兵での国交の断絶。

などの理由から、中国は日本とは正式な貿易を行わなかった。


 中国の明代には海禁政策が行われて、国民の海外渡航が禁止されていた。

しかし、密貿易は盛んで、東南アジアまで、密貿易が盛んに行われていた。

 中国本土に上陸できない日本は、中国制の輸入品を求めて東南アジアに航海したと思われる。

東南アジアでは中国の密貿易者が集まるので、そこでの、出会い貿易を行ったと思われる。


 朱印状を貰った人の記録から朱印船貿易を考えてみると、徳川家康時代には積極的な朱印船貿易が行われていたのに対して、徳川秀忠時代になると朱印船貿易は下火になり急激にその数を減らしていることが分かる。

これは、徳川秀忠時代になると朱印船貿易に規制をかけていき、だんだんと数を減らし、将来的に朱印船貿易を廃止して海禁政策へと繋げるものだと考えることができる。

幕府は朱印船貿易の利益よりも、キリスト教の脅威を幕府の最重要課題としたと思われる。

日本人が外国に行くことによって、幕府の勢力が及ばない外国の地で、外国の思想(キリスト教)の思想が日本人に広まることを危険視したと思われる。

その他、日本の最重要輸入品である、中国制の生糸や絹織物を幕府が購入できるルートが朱印船貿易以外で開拓されたことも考えられる。

それは、アジア貿易の主流だったポルトガルが衰退し、変わりに、オランダへと移っていることも原因として考えられる。

日本ではキリスト教の布教を行わないオランダによる、中国制の製品の輸入のルートがあったからこそ、朱印船貿易を廃しできたのである。

江戸時代を通じてオランダは、朱印船貿易の地盤を継ぎ、日本貿易の独占化をはたすことになる。


 朱印船貿易を主に行っていたのは、豪商や大名などの資産家である。

それは、朱印状を取得する手続きの難しさや例え大名であっても、幕府の重臣のコネクションを必要としたことにある。

また、遠く離れた海外に貿易船を出すことは、それなりに大きな船を必要としたことや朱印船貿易で利益を得るためには、それなりの積荷などが必要で、それらを調達できる莫大な資金を必要としたことにある。

朱印船貿易が盛んになる中、航海の技術が未熟だった日本だが、世界の海航に進出して高度な航海術を有していた西洋式の航海術を取り入れていった。

また、それに伴い船を作る技術も西洋式の技術を取り入れて、中には、800トンの船も存在していた。日本は朱印船貿易を通じて海の技術が発展を遂げることになる。


 朱印船貿易時は日本が西洋の国と深い交流を持ち発展した時代である。

しかし、マイナス要素であるキリスト教のために西洋との交流が途絶えた。

もし、江戸幕府が朱印船貿易を活発に続け、諸外国と積極的に交流を行っていたら違う歴史がそこにはあったであろう。

(鎖国 岩生 成一 昭和63年 中央公論社 参照)


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