2016年12月25日
鎖国からくる江戸時代のつくられたイメージと幕府の対外政策‐法政大学通信教育部(公民科教育法リポート)
鎖国からくる江戸時代のつくられたイメージと幕府の対外政策‐法政大学通信教育部(公民科教育法リポート)
鎖国という言葉のイメージは国交を完全に閉ざして外国とは付き合いをしないというイメージがある。
これは、江戸時代と聞いて日本人が連想する、閉ざした世界のイメージを植付け、閉ざした世界によって日本は世界の流れから大きく取り残されてしまうというイメージを作るものだった。
このイメージが定着することによって、後に続く明治維新の評価を価値あるのにしている。
明治維新によって、日本は外国との国交を回復して、文明の開花を行って、世界の流れから取り残されない国を作ったというイメージを作り上げた。
明治維新によって日本は飛躍的に文化の進んだ国に成長したと言う事を強調するために江戸時代の鎖国のイメージが必要だったのではと思われる。
しかし、西洋化=文明の発達と捉えてもいいのかという疑問がある。
機械や兵器の上では進歩したと言えるが、日本の古来の文化を古く、遅れているもとして、西洋の文化は進んでいるという考え方は、間違った認識である。
これも鎖国が持つ暗いイメージがこの考えを助長していると思える。
江戸時代の鎖国のイメージを捉える時、外国との国交を閉ざしたのではなく、一部国交を閉ざしたと考えるべきである。
江戸幕府は鎖国ではなく、むしろ積極的に外国と関係をもつことを望んでいたようにも思える。
本来、江戸幕府は大きな利潤を生むので積極的に西洋の国と貿易を行いたいが、しかし、貿易とセットになっている、キリスト教が日本に布教されるのはいやである。
このため、仕方なく、キリスト教が日本に入ってこないように、貿易に規制を掛けたのである。
江戸幕府の対西洋各国の対外政策としては、貿易の利潤よりも、キリスト教の禁止を対外政策の最優先事項にしたのである。
そのために、ポルトガルやスペイン、イギリスなどキリスト教が貿易とセットになる国は排除する必要があったのである。
また、キリスト教の布教と貿易を切り離して考えてくれたオランダに対しては、江戸時代を通じて、貿易を行ったのである。
当時の日本にとってキリスト教は非常に危険な思想と受けとめられていることが分かる。
このように、少し書き方を変えるだけで従来の鎖国のイメージとだいぶ違ってくるのである。
次ぎに鎖国のもう1つの側面である長崎の出島に対するイメージである。
従来のイメージだと長崎の出島という、閉ざされた世界でのみオランダと中国のみと関係を日本が持って、その他の場所ではいっさい外国と関係を持たなかったというイメージがある。
当時の日本は徳川家の幕府、その他の大名、天皇など、日本の国の中にたくさんの国が存在して、その代表が徳川家の江戸幕府である。
江戸幕府の政策の1つに武家諸法度や参勤交代などのように幕府以外の領主の力を削ぎ、また、力をつけさせないことに政策の重点を置いている。
長崎の出島を幕府の直轄領にすることによって、大きな利潤を生む外国との貿易を幕府のみが掌握して、他領主に力をつけさせないことに、その目的があったのではと思われる。
次ぎに隣国に対しての対外政策について考える。
従来の教育だとオランダや中国とのみ長崎の出島で貿易を行ったと教えられた。
しかし、北のアイヌや南の琉球、西の朝鮮についての内容はほとんど省かれて教えられてきた。
江戸幕府の隣国に対する対外政策としては、豊臣政権のように外国を侵略して日本の領土を広げる野心はなかった。
琉球に関しては、実際に兵を送って支配したのだが、あくまでも、目的は中国との国交を再開することにあった。
実際に支配したのは、兵を送った薩摩藩で、江戸幕府の琉球の位置付けとしては、あくまでも、日本と交流のある日本に従属した通信国としての位置付けである。
これは、幕府に次ぐ勢力をもつ薩摩藩の利潤と中国との国交回復を目的とした考えの両方が共存する難しい情勢なのである。
北のアイヌに対しての対外姿勢は、異民族として夷と捉え、松前藩を通じて幕府との関係を持った。
東の朝鮮は、豊臣秀吉の朝鮮出兵以来関係は最悪であった。
江戸幕府の対外政策の中心となったのは、朝鮮出兵の戦後処理を行って朝鮮との国交の回復をおこなって、そして、朝鮮ルートから中国との国交の回復を狙うことが政策の中心となった。
この時、対朝鮮政策の仲介となったのが宋氏である。
朝鮮とは幕府の努力が実り国交を回復して通信の国としての位置付けとなった。
江戸時代における日本と外国との関係の位置付けは、日本的な日本流の華夷思想で、それによって日本の国としての国家の姿勢や自国意識を作ることになる。
江戸幕府には豊臣政権のような外国に打って出て大帝国を作る野望や西洋諸国のように自らが世界の海に進出する野望もない。
あくまでも、隣接国や自国と関係のある国と友好関係を持って交易を行うのが目的にある。
そういう意味では、消極的な対外政策といるかもしれないが、当時の情勢になって考えてみると、ごくごく普通の考え方なのである。
豊臣秀吉や世界の海に進出した西洋諸国のほうが当時としては珍しい考えかたと捕らえたほうがいいのではと思う。
もちろん、西洋諸国と比べれば日本は消極的な対外政策であった。
また、近世は現代のような情報もあまりなく、交通手段や船の技術なども進歩していない時代に海を渡って、広大な世界の国々と積極的に関係を持つ考え方は一般的な思想とは言えない。
日本の歴史教育は、世界の1地域にしか過ぎない西洋的な史観で歴史を考えているから、当時の江戸時代の日本は閉ざされた国だという鎖国のイメージが作れたのではと思われる。
(江戸開幕 集英社 藤井譲治 参照)
(天下泰平 横田冬彦 講談社 参照)
いつもクリックありがとうございます。
鎖国という言葉のイメージは国交を完全に閉ざして外国とは付き合いをしないというイメージがある。
これは、江戸時代と聞いて日本人が連想する、閉ざした世界のイメージを植付け、閉ざした世界によって日本は世界の流れから大きく取り残されてしまうというイメージを作るものだった。
このイメージが定着することによって、後に続く明治維新の評価を価値あるのにしている。
明治維新によって、日本は外国との国交を回復して、文明の開花を行って、世界の流れから取り残されない国を作ったというイメージを作り上げた。
明治維新によって日本は飛躍的に文化の進んだ国に成長したと言う事を強調するために江戸時代の鎖国のイメージが必要だったのではと思われる。
しかし、西洋化=文明の発達と捉えてもいいのかという疑問がある。
機械や兵器の上では進歩したと言えるが、日本の古来の文化を古く、遅れているもとして、西洋の文化は進んでいるという考え方は、間違った認識である。
これも鎖国が持つ暗いイメージがこの考えを助長していると思える。
江戸時代の鎖国のイメージを捉える時、外国との国交を閉ざしたのではなく、一部国交を閉ざしたと考えるべきである。
江戸幕府は鎖国ではなく、むしろ積極的に外国と関係をもつことを望んでいたようにも思える。
本来、江戸幕府は大きな利潤を生むので積極的に西洋の国と貿易を行いたいが、しかし、貿易とセットになっている、キリスト教が日本に布教されるのはいやである。
このため、仕方なく、キリスト教が日本に入ってこないように、貿易に規制を掛けたのである。
江戸幕府の対西洋各国の対外政策としては、貿易の利潤よりも、キリスト教の禁止を対外政策の最優先事項にしたのである。
そのために、ポルトガルやスペイン、イギリスなどキリスト教が貿易とセットになる国は排除する必要があったのである。
また、キリスト教の布教と貿易を切り離して考えてくれたオランダに対しては、江戸時代を通じて、貿易を行ったのである。
当時の日本にとってキリスト教は非常に危険な思想と受けとめられていることが分かる。
このように、少し書き方を変えるだけで従来の鎖国のイメージとだいぶ違ってくるのである。
次ぎに鎖国のもう1つの側面である長崎の出島に対するイメージである。
従来のイメージだと長崎の出島という、閉ざされた世界でのみオランダと中国のみと関係を日本が持って、その他の場所ではいっさい外国と関係を持たなかったというイメージがある。
当時の日本は徳川家の幕府、その他の大名、天皇など、日本の国の中にたくさんの国が存在して、その代表が徳川家の江戸幕府である。
江戸幕府の政策の1つに武家諸法度や参勤交代などのように幕府以外の領主の力を削ぎ、また、力をつけさせないことに政策の重点を置いている。
長崎の出島を幕府の直轄領にすることによって、大きな利潤を生む外国との貿易を幕府のみが掌握して、他領主に力をつけさせないことに、その目的があったのではと思われる。
次ぎに隣国に対しての対外政策について考える。
従来の教育だとオランダや中国とのみ長崎の出島で貿易を行ったと教えられた。
しかし、北のアイヌや南の琉球、西の朝鮮についての内容はほとんど省かれて教えられてきた。
江戸幕府の隣国に対する対外政策としては、豊臣政権のように外国を侵略して日本の領土を広げる野心はなかった。
琉球に関しては、実際に兵を送って支配したのだが、あくまでも、目的は中国との国交を再開することにあった。
実際に支配したのは、兵を送った薩摩藩で、江戸幕府の琉球の位置付けとしては、あくまでも、日本と交流のある日本に従属した通信国としての位置付けである。
これは、幕府に次ぐ勢力をもつ薩摩藩の利潤と中国との国交回復を目的とした考えの両方が共存する難しい情勢なのである。
北のアイヌに対しての対外姿勢は、異民族として夷と捉え、松前藩を通じて幕府との関係を持った。
東の朝鮮は、豊臣秀吉の朝鮮出兵以来関係は最悪であった。
江戸幕府の対外政策の中心となったのは、朝鮮出兵の戦後処理を行って朝鮮との国交の回復をおこなって、そして、朝鮮ルートから中国との国交の回復を狙うことが政策の中心となった。
この時、対朝鮮政策の仲介となったのが宋氏である。
朝鮮とは幕府の努力が実り国交を回復して通信の国としての位置付けとなった。
江戸時代における日本と外国との関係の位置付けは、日本的な日本流の華夷思想で、それによって日本の国としての国家の姿勢や自国意識を作ることになる。
江戸幕府には豊臣政権のような外国に打って出て大帝国を作る野望や西洋諸国のように自らが世界の海に進出する野望もない。
あくまでも、隣接国や自国と関係のある国と友好関係を持って交易を行うのが目的にある。
そういう意味では、消極的な対外政策といるかもしれないが、当時の情勢になって考えてみると、ごくごく普通の考え方なのである。
豊臣秀吉や世界の海に進出した西洋諸国のほうが当時としては珍しい考えかたと捕らえたほうがいいのではと思う。
もちろん、西洋諸国と比べれば日本は消極的な対外政策であった。
また、近世は現代のような情報もあまりなく、交通手段や船の技術なども進歩していない時代に海を渡って、広大な世界の国々と積極的に関係を持つ考え方は一般的な思想とは言えない。
日本の歴史教育は、世界の1地域にしか過ぎない西洋的な史観で歴史を考えているから、当時の江戸時代の日本は閉ざされた国だという鎖国のイメージが作れたのではと思われる。
(江戸開幕 集英社 藤井譲治 参照)
(天下泰平 横田冬彦 講談社 参照)
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