新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2021年03月28日
仏教信仰入門 H 十二処とは(十八界)
仏教のお祈りを、雑念の中で、ただ言葉を何度も繰り返すことで終わらせないために、正に仏教の道理に学び、あらゆる障害を考え、それを克服、調伏する方法を考えています。またこれは当然お祈りだけのことではなく、あらゆることに関する仏教的な智慧を学ぶことが出来て思わず熱が入ります。現在は四魔の五蘊魔に関するところを見ていますが、これが分かれば残るは死魔ということになります。今回は五蘊を更に掘り下げ十二処を図案化してみました。これが終われば、いよいよ死魔に達し、そして実際のお祈り時に発生する所謂”雑念”というものをそれらの視点から考えてみようと思っています。
十二処とは人間の構成器官とその対象を全て合わせた総称です。
六根と六境に分かれます。
六根で分類された人間の器官が働く対象こそが六境です。
色は五蘊のところでも出てきましたが、ここでは別の意味に使われます。いろ、かたちです。
法は心で思われるものを指します。
六根(器官)、六境(対象)に認識する心を分類して、
@眼識
A耳識
B鼻識
C舌識
D身識
E意識
これらを六識と言います。そしてこの6つの分類X3で十八界と言うのです。
さあ、そして次回は、人間の苦しみ、十二因縁、四苦八苦を勉強し、いよいよ、念珠での実証をしてみましょう。
合掌
仏教でいうところの十二処とは
十二処とは人間の構成器官とその対象を全て合わせた総称です。
六根と六境に分かれます。
六根とは?
よく六根清浄という言葉を聞いたことはありませんか?私たちが日ごろ無意識に生活している事象を仏教ではその存在を認識し、その清浄化を意識することが大事になっているのです。この六根を清めるのも、穢すのも我々の行動次第です。六境とは
六根で分類された人間の器官が働く対象こそが六境です。
色は五蘊のところでも出てきましたが、ここでは別の意味に使われます。いろ、かたちです。
法は心で思われるものを指します。
六識とは? 十八界とは
六根(器官)、六境(対象)に認識する心を分類して、
@眼識
A耳識
B鼻識
C舌識
D身識
E意識
これらを六識と言います。そしてこの6つの分類X3で十八界と言うのです。
さあ、そして次回は、人間の苦しみ、十二因縁、四苦八苦を勉強し、いよいよ、念珠での実証をしてみましょう。
合掌
2021年03月27日
仏教信仰入門 G 五蘊とは
前回までのまとめで、四魔の内の、煩悩魔、天魔、そして個別具体的に眠気と数珠を使うことを説明しました。しかし、何度も出てくる五蘊魔について未だ説明がされていません。ここでは調伏法は別として仏教における五蘊をスライドで説明します。
五蘊は存在を構成する5つの要素5つの集まりを色、受、想、行、識に分類しています。
色は肉体を含めた物理的現象です。有形の物質をさします。
受は感覚です。(視覚、聴覚などなど)感受作用ともあります。
想は表象、事物を想像する心の作用です。
行は意志です。
そして、識は知識、事物を識別する心の本体です。
合掌
全ての存在を構成する五蘊
五蘊は存在を構成する5つの要素5つの集まりを色、受、想、行、識に分類しています。
色は肉体を含めた物理的現象です。有形の物質をさします。
受は感覚です。(視覚、聴覚などなど)感受作用ともあります。
想は表象、事物を想像する心の作用です。
行は意志です。
そして、識は知識、事物を識別する心の本体です。
更に五蘊を深く掘り下げる。12処。
仏様に祈る際に、一体自分はどういう働きで存在して、何が故に雑念を起こし、何故色々な想念に悩まされるのか?この仏教の偉大なる智慧を勉強してみました。この五蘊はあくまで抽象的な表現によって略説化されていますので、次回は物質としての人間が持つ器官から分けられた12処を勉強しましょう。合掌
2021年03月18日
仏教信仰入門 E真言を唱える際の煩悩魔
真言を唱えるにあたってのあらゆる妨げ、について考えています。
まず、四魔(五蘊魔、天魔、煩悩魔、死魔)を認識しました。
次に、眠気を調伏しました。
次に何度も唱えた真言の数を数えるということそのものへのストレスもグーグルを検索しても中々出てこない数珠の使い方で調伏しました。
天魔についても調伏しました。
五蘊魔、煩悩魔、そして何気ない日常の罪のない雑念についてこれから話をします。
まずは煩悩魔です。
煩悩とはなにか?
煩悩とはなんでしょうか?あれこれウジウジと考え、悶々とすること。葛藤に身もだえすること。クヨクヨすること、組織への不満をあちこちでぶちまけ、周りの人間まで憂鬱にすること。30cmもない距離のパットを外すこと。思い浮かぶことは多いが、それはあくまでも煩悩の結果としての現象が思い浮かぶ場合が多いでしょう。
しかし、仏教でいうところの煩悩とは、貪瞋痴と言ってもっと理路整然と分けられています。
@貪(トン) 貪欲で貪りの心
A瞋(ジン) 怒り、愼恚(シンニ)
B痴(チ) 愚痴
これらを三毒といい三惑ともいいます。これらを調伏することこそが仏教の目指す理想の世界なのです。そこに心の安らぎを求めているし、当然、聖天様の信仰においても、最終的にはこれを目指すという意識が常に必要です。思えば私も、これが為に、浦島太郎になりコロナで引篭っているのです。
前回紹介しました天魔はいたずらに現れいたずらに消えていき、重大な因果を生むのですが、煩悩魔は一度現れるとしつこく、
ああまたあの快楽をもう一度云々
今度と言う今度は絶対に許さない。あったま来た云々
もう無理、もう嫌になっちゃう云々
これらが、生活を支配し、当然真言を唱えている時も大きな障害になるのです。
そして貪瞋痴は身口意の悪業を生む
多くの仏教宗派で唱えられている懴悔文(サンゲモン)というお経があります。我れ昔より造る所の諸(モロモロの)の悪業は、
皆な無始(ムシ)の貪瞋痴による、
身口意(シンクイ)より生ずる所なり。
一切我、今、皆、懺悔(サンゲ)したてまつる。
(私が昔から犯した数々の悪業は貪瞋痴の煩悩を因とした、身口意から生じたことであります。
今ここに一切を懴悔します。)
これは、聖天様の勤行でも毎日お唱えするお経であり、私も毎日朝夕唱えています。
身口意とは身体と言語と心の働きであり、その言葉自体は悪い意味はありませんが、それが貪瞋痴によって穢れ、次の悪業を生みます。身口意が犯す悪業が十不善業です。
身
殺生「せっしょう」 故意に生き物を殺す
偸盗「ちゅうとう」 与えられていないものを自分のものとする。泥棒。詐欺
邪淫「じゃいん」 道徳に背いた関係を持つ。不倫、売春。
口
妄語「もうご」 嘘をつく。
綺語「きご」 内容の無い言葉を話す。口から出まかせを言う。
悪口「あっく」 汚い言葉を使う。
両舌「りょうぜつ」 他人同士に葛藤を起こすようなことを言う。
意
慳貪「けんどん」 激しい欲をいだく。
瞋恚「しんに」 激しい怒りをいだく。
邪見「じゃけん」因果の道理を無視した誤った見解を持つ。
ということで煩悩魔の話は我々には具体的に、私が、いや我々が日々、犯している罪を懴悔する懴悔文に行き当たり、そして十善戒というこれも、日々お寺で唱えられているお経に辿りつきました。正にこれが仏教の智恵であり真骨頂なのです。
もちろんそんな悪業を、私はしていないという人がいるのかもしれません。即身成仏のようなあなたはともかく、基本的にその軽重を問わず、何らかの罪を犯し毎日を過ごしているわけで、この懴悔文を唱えることによって、煩悩にまみれた身口意を清めるのです。何故なら今からその身口意を使って、仏様にお祈りをするのですから。
まとめ 煩悩を取り除くということ
@煩悩は貪瞋痴と言う三種類の心の働きに分かれます。
A煩悩により、我々の身口意は大きく穢れ、そうして毎日を送っています。
B身口意が犯す悪業とは、
身が、殺生、偸盗、邪淫、
口が、妄語、綺語、悪口、両舌、
意が、慳貪、瞋恚、邪見
の合計10つの十不善業です。
これらは祈る者が、多かれ少なかれ毎日犯している罪であるから、これを毎日認識し浄化するために懴悔文や十善戒などのお経を唱え、清める必要があるのです。
煩悩魔を調伏するとは正にこのことであり、それが故にお祈りの勤行にそってお祈りをすることが以下に大事かわかるのです。ただ聖天様の真言だけを唱えれば良いというわけにはいかないのです。仏教に関係なく聖天様のにお祈りすれば助けて頂けるというわけではないのです。
2021年03月15日
仏教信仰入門 D 天魔
天魔を調伏する
今まで、一心不乱にお祈りすることを邪魔する四魔を紹介し、特に
@眠気
A遍数を数えること
の二つに焦点をあてて、これらの障害を克服する方法を模索しました。これは、まあ五蘊魔の領域でしょう。
なるほど、数珠を使うことによって、数を数えるというストレスは飛躍的に軽減し、数を数えていることを忘れて、はっと気が付けば100遍が終わっていたという精神の統一状態を生みました。この数珠を考えたのもお釈迦様だという事ですから、その智慧の無量の底の深さを感じるのでした。
さて、ここで天魔について考えてみましょう。
表題のとおり天魔は我々の内にあって、
@こんな事をして何になるのか
A誰に頭を下げているのか、やめろ やめろ。
B誰もいないところに何を祈ってるんだ?
C仏教なんてやめとけ。善行なんてやめてしまえ。
などと叫び、そそのかすのです。犯すべからず者を前にすると何故か、逆のことをしてしまう。
ダメだと言われると、やったらどうなるのだろうと考える。善良な家庭のちゃぶ台をひっくり返してしまう。全く厄介です。
偉い人の前にいると、ここでいきなりこの人にツバを吐きかけたらどうなるのだろうか?などと考えてしまう。
天魔には因果はなく、束縛もない。心の内から自由に表れ、無責任に消えていく存在。
かつて筆者はキリスト教の幼稚園に通っておりました。幼稚園の毎日の終わりには、必ず皆でアーメンとお祈りするのです。その時私の中の天魔が囁きました。「今ここで、アーメン ソーメン ヒヤソーメンと言えば皆を笑わすことが出来るぞ」、そこで私はその通りに口に出し、園長先生にこっぴどく叱られました。あまりにも叱られたために、私は皆を笑わせたのか覚えていないのです。そして暫くして私は幼稚園の近くで交通事故に遭いました。頭と手と足を骨折し、半死半生、3か月入院しました。かの笑わせようとした幼稚園の友達は千羽鶴を折って、毎日イエス様にお祈りをしてくれたのです。
また、大人になって東南アジアのある国にいた時、私は仕事でよく車の助手席に座っていました。その助手席のダッシュボードには、運転手が仏さまをいつもお供えしていました。(座面を両面テープでしっかりと固定していたのです。)私は、この助手席に座る時、常に天魔が去来し、「この仏様、一体何が偉いのだろう?今ダッシュボードに足を乗っけたからと言って、何か起こるわけでもあるまい。」と言い、私は何度かその想像をしてしまいました。ほどなくして、知り合いの女性が子宮がんになり、そのために私は長らく病院に通い、治療のための大金を使いました。生活が一変したのです。
このように¨天魔による業障は、全くもって唐突で、また無責任で、軽率なことから、因縁を作り、最後にとんでもない結果を生むものであるのです。特に弱いグラグラとした心にはこれは、天魔が付け入るすきはいくつもあるのでしょう。天邪鬼とも言うようです。
天魔は内なる存在であるが、人格を持った第三者として調伏する。
こうして仏教の勉強を重ねるにつれ、思うのは、天魔とは結局弱い自分の軽薄な思いそのものです。ところが自分の中には、良いことを行うと誓願する仏様、観音様もいて鬩ぎあっている。
天魔は、どこかから来た第三者だと思い、それと対峙することが肝要でしょう。東寺に立体曼荼羅があります。たとえばここに大日如来だけがおわして、お祈りしたとすれば果たして天魔を起こさずお祈りできるでしょうか?しかし、実際には大日如来の周りには、5明王が座るなり立つなりして恐ろしい顔で祈るものをにらんでいます。何故菩提心を起こし、熱心に拝む善男善女をあんな顔してにらむのでしょうか?
それはそう、あなたの内なる天魔が良からぬことをさせないよう、睨んでいるに違いないのです。
結論として、仏さまにお祈りする時は、是非とも仏さまの脇時に、忿怒神にいて頂くことがベストであると考えます。天魔は自分自身であるが、そ知らぬふりをして、彼らを憎み、嫌い、調伏し、それでも無理なら、忿怒神、明王、天部に調伏してもらいましょう。
次回は雑念について考察します。
2021年03月11日
仏教信仰入門 C 真言を何度も唱える時の数珠の使い方1 効用 図解付き
仏教について知りたい学びたいという欲求
(グーグルで検索しても出てこない情報を得ること)
(グーグルで検索しても出てこない情報を得ること)
初めに、仏教のお祈りをして一年も経たないものが何故こんな記事を書いているのか?
@今まで宗教をしたことがない。宗教に否定的で懐疑的な家庭にうまれた。
Aオウム事件などで、宗教を信じることに否定的な社会のムードもある。
B知りたいが、お寺の知り合いはいない。
C御坊様は、私のような愚かな人間を相手にしてくれるのだろうか?なんか怒られそうで怖い。
となる。少し仏教を勉強すれば、一切衆生の救済が仏教の目的であり諸仏の誓願であり、今正に積極的に勉強したいと思うものをお坊さんが否定するわけもないのだが、何から学ぼうと思うと、本かインターネットからとなる。
インターネットでお坊さんに相談するサイトで質問をしたところ、インターネットに書いてあることは嘘だらけなどと言われる始末である。インターネット上で、そう言われているのだ。お坊さんにしても色々と宗派があるのでインターネットに軽々しく載せられない情報もあろう。
数珠のことを調べると、数珠の使い方はほとんどでてこない。出てくるのは葬式の時の作法とか、数珠のならしかたとか、(数珠の作り方まであるのに)なので、自分の施行錯誤をここに記し、最後に住職様に確認できたところまでを記録します。
参考にした書籍
大栗道栄著 図説「理趣経入門」 すずき出版
印と真言の本 学研
お経の本 学研
真言 陀羅尼 梵字 その基礎と実践 大法輪閣
何度も同じことをするということへの苦手意識
数を数えるということは結構難しい。自分は多分3から怪しくなっている。真言を何度も唱えるのは何故か?そもそもそれがわからない。これは勉強を進めていって以後の話として、何よりも仏教では特に真言や念仏を何度も唱えなくてはならない。同じことを何度もすると、人は、不幸せになる。人が切れる時は、大概同じことが繰り返した時が多い。或はこれから先も、同じことが何度も起こるのか?俺は一生現場か?俺は一生球拾いか?俺は一生貧乏人か?等、枚挙にいとまがない。同じことを何度もすると不幸せになるのであるし、不幸を感じるのである。しかし、真言はこれを何度も唱えることによって、仏様に救われ幸せになるという。そもそもこの時我々はすでに以前に話した天魔に付け入られる可能性を秘めている。
数珠なしで数えることの限界
自分で数珠なしで数えられる限界は何回であろうか?私は精神統一されていない状況では三回も怪しい。真言では3回、7回、21回、54回?、108回という単位の回数が良く出てくるが、7回の場合4回目くらいから怪しくなる。真言が長ければ長いほど、どこが真言の最初と最後のつなぎ目か曖昧になり、怪しくなってくる。皆さんはどうですか?
指で数える。頭の中で数えてみる
指で数える場合は、これはかなり確実であるが、回数に制限がある。お祈りをしているので手を合わせている。指を思うように使えない。以前インド人が関節線を使って100くらいは指だけで数えることが出来ると聞いたことがあるが、この場合、両手を使わなくてはならない。指で数えられるのは10以下ではないか?手を合わせているので、そのひとつひとつの指に意識を持っていき、力をいれる。無理。
壁に貼り付けた数字を目で追う
次に、壁に写真のように数字を貼り付け、それを目で追いながら数える方法である。一時はこれがベストであると思い、数珠など使わなくてもいいのではと思ったが、唱える回数(以後遍数という)を重ねるごとにしんどい。辛い。嫌になる。これでは100遍唱えても疲れてしまう。目を使うからだろうか?仮想のテロップを流す
目の前に仮想のテロップを流すのは少ない遍数では、意外に効果的だ。集中もできる。少ない遍数ではこれがベストかと思う。数珠を買うことにした
そしていよいよ数珠を購入し、数珠によって遍数を数えてみた。購入した数珠はこちら
数珠は宗派によって違う。勿論お葬式で買う数珠ではありません。真言宗の正式な数珠で、ただお金がないので最も安い(それでも3000円チョットしました)数珠です。以下にこの数珠の説明図を載せます。
数珠の玉にこれだけの仏様がいらっしゃることは、凄いことだ。どんな本を読んでもまず数珠を買うようにとある。念珠が以下に仏教において大事かということ、数珠を使うことは、お釈迦様の予言なのである。
間違った方法で数珠を使う
ここまで、指導して頂けるお坊様もなく、インターネットと本の知識で毎日お祈りをしていたのである。聖天様の真言、オン キリク ギャクウンソワカを最初は300遍くらいから唱えて、数珠を使う前は300遍が一時間くらいかかって、上述の壁に張った数の表で唱えていた。
それを片手の親指で繰る方法(自分で考えた方法)でお唱えしたところ、なんと、三分の一くらいの時間に短縮したのである。最初から言われたとおりに数珠を使わなかった故に、数珠、しいては仏教の凄さを味わった次第である。
しかし、これを始めたのは冬の寒い時期。左の指だけで繰っていると、指に傷ができ、最後には皮がめくれてきたのである。しかし、これも修行と思い、痛みに耐えやっていると、その時々によって玉の流れが良かったり悪かったりすることに気が付いた。恐らく、汗を書いたり、脂がついたり、真言を唱えている時にこの玉の流れが悪くなると、まともに真言を唱える障害になり、真言を唱えることと、数珠を繰るメカニズムが密接に関わっていることを知るのであった。しかし、暑い季節には大変だなと思っいながら、間違った方法で数珠を繰りながら、数か月を過ごしたのである。
真言を唱える時の数珠の繰り方
そうして、その後、雨宝院の住職様についに正しい使い方を教えて頂くに至って、(と言え電話なので未だ間違っている部分もあるかもしれず、いずれアップデートするが)やっと数々の疑問が解けたので以下に記載します。しかし、本当にこれをグーグルで検索しても出てこなかった。合掌の状態で写真のように、念珠をセットします。
左の親指が球を一つ一つ触れながら、或は玉と玉の間に割り込みながら、左に向かって移動していきます。
どんどん行くと両手の合唱が離れ、まるでのび太があやとりをしているようになります。
ここに作法があるかはいずれまた確認してアップデートしますが、ある程度離れたら右の手を左に追いつかせ合掌を戻します。これを繰り返します。
これにより、片手の時のようなストレスはなくなります。数珠の停滞がなくなり、念珠に専念することが出来、300遍であれば10分も掛からなく(その人の唱える速度にもよる。)なりました。
住職様、ありがとうございました。
念珠の作法@
ここで@とつけたのは、今後未だ分かっていないことが分かりこの記事をアップデートする可能性があるからです。住職様に更に教えて頂いたことは数珠をどこまで繰るのかということです。母玉から開始して、赤い矢印にそって玉を繰るが、母玉の対極にある緒玉まで来たら、また母玉に戻る。 これを今まで通り越して一周して母玉に戻っていた。 |
というわけで、何事にも先達欲しきことであるが、こうして何とかまともに数珠が繰れる様になりました。グーグルでどう検索しても出てこなかったことなので、本当に困りました。しかし、この紆余曲折の中で、仏教のもつ、魅力と合理性を感じ取ったのです。またスムーズに繰ることが出来るようになれば、色々な雑念のなかで、数を数えることに関する’雑念は不思議と発生しなくなった。
次回は別の魔について記事を続けます。
おわり
2021年02月27日
仏教信仰入門 B お祈りの時(真言を何度も唱える)の眠気を克服する。
仏様にお祈りする際に何が問題になるのかを最初に列挙した。
お祈りする理由も前回のAで述べた。
4つの魔、四魔 (五蘊魔、煩悩魔、天魔、死魔)というこれらの魔が、祈る者と、仏様の間の感応道交を
邪魔するものである。
これらの魔が明確に分かれず微妙に絡み合っていく場合もあるのかなと思うのである。
どんなに長く寝ても、眠気が残っている時もあれば、どう考えても短い睡眠時間の後でも全く眠気のない時がある。眠気があると、お祈りに身が入らなくなる。眠気がないと体はほぼ無の状態(立っている、或は座って不動の状態)唱えているのは口で、気持ちは祈りに集中しなくてはならないが、眠気があると体の不動を維持できなくなるのである。眠気は大別して
祈りの気持ちはむしろ、眠気をその場で解消することに集中し、こうしてお祈りの身口意の三位一体がおおいに乱れる。身口意の全てがお祈りの為には機能しない。
あるいは居眠りなどすれば、もはや功徳どころの話ではない。
@について言えば、何はともあれ生活を改め早寝早起きをすることしかない。酒を飲めば眠れないときは眠くなり、酔いがさめれば、その時目が覚めたり、毎日の生活のリズムが乱れる。まず我ら凡夫はここから仏教を信仰する最初の功徳に気付くのである。ただお祈りすればよいのではない。生コーヒーや、眠くならないツボ押しは、所謂付け焼き刃である。一日を仏様に合わせて行動することによって、仏道を成ずる道を歩くのである。
Aは、これが悩ましいことであるが、勤行の中で懴悔文、三帰三竟などを唱える時はなんでもないのに、実際に真言を100遍、200遍、1000遍と唱えるうちに発生する眠気である。これを五蘊から解説すると、
色 > まずは体が最初に眠気のきっかけを作る。それはちょっとしたこと。瞼を触ったり、目がいつもより細めにあいていたり、心の中に何とも言えない眠気の雲が湧き出す。
受 > これらを感覚が認識し、経験的に眠気であると判断する。
想 > 嫌だな、辛い、結構寝たのにな これでこの先真言を全て唱えられるのかな?などと思う。
行 > 体が不安定になる。身口意が乱れお祈りに支障をきたす。
色 に戻った時、現状の眠気と乱れた身口意と、心の愚痴、不安などが負荷され、更に悪い状態に
陥り悪循環におちいる。ただ、身に覚えのある眠気、体調の状態ではまず”想”がきっかけを作ることもあるかもしれない。
例えば風邪をひいたり、口の中に変なデキモノが出来たり、それに気付いた時の葛藤が、徐々に膨らむことがあるので、これも五蘊魔が人に及ぼす独特の業障といえよう。
以下に現在自分で分かった範囲での2つの調伏法(克服法)を紹介する。
@は、まとめサイトなどにも書いてあったことで、やはり眠いのであれば少しでも寝てみれば良いということだと思う。ただ自分で試したが30分も寝てはいけないし、横になってもいけない。座って前かがみの状態で瞑想をしているように眠るのだ。ただここで厄介なのが、眠気がすぐ反応せず、逆に眠れない時もあるということである。あれだけ眠かったのに、眠れない。この場合10分目を閉じても眠れないのであれば、そこで見切りをつけることだ。
A人は興奮状態にあると同じ言葉を繰り返し、更に興奮状態を高める。卑近な例はここでは書かないが、同じ真言を何度も唱えると眠くなるが、逆に興奮状態を作ることもある二面性をもつ。繰り返しのスピードを速めればいらないことを考えなくなる。
以下にアマゾン配信の映画のショートカットを添付するが、お祈りを繰り返すことによる興奮状態、或は、何人もで合唱することの興奮状態を確認して頂き、自分をその状態に持っていくことである。
勿論、一回やってみてすぐ効果がないかもしれない。しかし何度もやると少しづつ出来るようになってくる。
同じことを繰り返すことに心の平和をもたらす。何故、何度も真言を唱えるのか?それは色々な本に書いてありますので、それをいずれ引用紹介させて頂きます。
(空海) アマゾン配信のショートカット
(日蓮と蒙古大襲来)アマゾン配信のショートカット
@まず眠気が真言を唱える前からあり、単なる寝不足によるものか、そうではなく五蘊魔によるものかを判定する。
A単なる寝不足であれば、早寝早起きを心がけ、酒を断ち、仏教的日常に自分の生活を変える。
B五蘊魔による眠気であれば、それが瞑想15分で断てるものか判断する。或は実際に瞑想15分を行う。
C行を重ねるにつけ、宗教的興奮状態を自らの脳から生み出す方法を見つける。具体的には
4-1 真言の唱える速度や音量をあげる。
4-2 座っていれば立ち上がる。
4-3 仏教の映画を見てイメージを作る。
などです。次回は真言を数えることの障害(数珠の効用)を考えてみます。
願以此功徳 普及於一切我等與衆生 皆共成佛道
下記のリンクも見てください。
" alt="" border="0" />お祈りする理由も前回のAで述べた。
4つの魔、四魔 (五蘊魔、煩悩魔、天魔、死魔)というこれらの魔が、祈る者と、仏様の間の感応道交を
邪魔するものである。
これらの魔が明確に分かれず微妙に絡み合っていく場合もあるのかなと思うのである。
眠気の種類
どんなに長く寝ても、眠気が残っている時もあれば、どう考えても短い睡眠時間の後でも全く眠気のない時がある。眠気があると、お祈りに身が入らなくなる。眠気がないと体はほぼ無の状態(立っている、或は座って不動の状態)唱えているのは口で、気持ちは祈りに集中しなくてはならないが、眠気があると体の不動を維持できなくなるのである。眠気は大別して
- @明らかに寝不足で真言を唱える前から認識
- A真言を何度も唱えている間に認識される眠気
祈りの気持ちはむしろ、眠気をその場で解消することに集中し、こうしてお祈りの身口意の三位一体がおおいに乱れる。身口意の全てがお祈りの為には機能しない。
あるいは居眠りなどすれば、もはや功徳どころの話ではない。
@について言えば、何はともあれ生活を改め早寝早起きをすることしかない。酒を飲めば眠れないときは眠くなり、酔いがさめれば、その時目が覚めたり、毎日の生活のリズムが乱れる。まず我ら凡夫はここから仏教を信仰する最初の功徳に気付くのである。ただお祈りすればよいのではない。生コーヒーや、眠くならないツボ押しは、所謂付け焼き刃である。一日を仏様に合わせて行動することによって、仏道を成ずる道を歩くのである。
Aは、これが悩ましいことであるが、勤行の中で懴悔文、三帰三竟などを唱える時はなんでもないのに、実際に真言を100遍、200遍、1000遍と唱えるうちに発生する眠気である。これを五蘊から解説すると、
色 > まずは体が最初に眠気のきっかけを作る。それはちょっとしたこと。瞼を触ったり、目がいつもより細めにあいていたり、心の中に何とも言えない眠気の雲が湧き出す。
受 > これらを感覚が認識し、経験的に眠気であると判断する。
想 > 嫌だな、辛い、結構寝たのにな これでこの先真言を全て唱えられるのかな?などと思う。
行 > 体が不安定になる。身口意が乱れお祈りに支障をきたす。
色 に戻った時、現状の眠気と乱れた身口意と、心の愚痴、不安などが負荷され、更に悪い状態に
陥り悪循環におちいる。ただ、身に覚えのある眠気、体調の状態ではまず”想”がきっかけを作ることもあるかもしれない。
例えば風邪をひいたり、口の中に変なデキモノが出来たり、それに気付いた時の葛藤が、徐々に膨らむことがあるので、これも五蘊魔が人に及ぼす独特の業障といえよう。
五蘊魔による眠気の調伏法(克服法)
以下に現在自分で分かった範囲での2つの調伏法(克服法)を紹介する。
- @瞑想と称して15分座って目をつぶる。
- A連続で一心不乱に唱えることで宗教的興奮状態を呼び込んで眠気を断つ
@は、まとめサイトなどにも書いてあったことで、やはり眠いのであれば少しでも寝てみれば良いということだと思う。ただ自分で試したが30分も寝てはいけないし、横になってもいけない。座って前かがみの状態で瞑想をしているように眠るのだ。ただここで厄介なのが、眠気がすぐ反応せず、逆に眠れない時もあるということである。あれだけ眠かったのに、眠れない。この場合10分目を閉じても眠れないのであれば、そこで見切りをつけることだ。
A人は興奮状態にあると同じ言葉を繰り返し、更に興奮状態を高める。卑近な例はここでは書かないが、同じ真言を何度も唱えると眠くなるが、逆に興奮状態を作ることもある二面性をもつ。繰り返しのスピードを速めればいらないことを考えなくなる。
以下にアマゾン配信の映画のショートカットを添付するが、お祈りを繰り返すことによる興奮状態、或は、何人もで合唱することの興奮状態を確認して頂き、自分をその状態に持っていくことである。
勿論、一回やってみてすぐ効果がないかもしれない。しかし何度もやると少しづつ出来るようになってくる。
同じことを繰り返すことに心の平和をもたらす。何故、何度も真言を唱えるのか?それは色々な本に書いてありますので、それをいずれ引用紹介させて頂きます。
(空海) アマゾン配信のショートカット
(日蓮と蒙古大襲来)アマゾン配信のショートカット
真言を唱える時の五蘊魔による眠気を調伏する方法まとめ。
@まず眠気が真言を唱える前からあり、単なる寝不足によるものか、そうではなく五蘊魔によるものかを判定する。
A単なる寝不足であれば、早寝早起きを心がけ、酒を断ち、仏教的日常に自分の生活を変える。
B五蘊魔による眠気であれば、それが瞑想15分で断てるものか判断する。或は実際に瞑想15分を行う。
C行を重ねるにつけ、宗教的興奮状態を自らの脳から生み出す方法を見つける。具体的には
4-1 真言の唱える速度や音量をあげる。
4-2 座っていれば立ち上がる。
4-3 仏教の映画を見てイメージを作る。
などです。次回は真言を数えることの障害(数珠の効用)を考えてみます。
願以此功徳 普及於一切我等與衆生 皆共成佛道
下記のリンクも見てください。