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2021年05月08日
仏教信仰入門 M FAQ1 お詫び
ここで私は皆様に二つのお詫びをしなくてはなりません。
一つはこの仏教信仰入門の記事が、他の、後から思いついたカテゴリーの追加によって更新が遅れたことです。
二つ目は、この前回にお約束をした煩悩スクリーンは、よくよく考えてみると、私にはまだ知識も、技術も難しくいろいろ考えてる間にどんどん時間が経ち、結局私がやるのは無理ではないかという結論に至ったことです。
そこでこの仏教信仰入門は、私が日頃、この雑念の問題を含め、いろいろと不安に思っていることを FAQ としてまとめ、その回答を考え、あるいは保留して人に聞き、そういう形で、それを皆様のFAQと同一であろうと勝手に納得し、まず一段落し、 そして次の勉強に入っていきたいのです。
すみません。申し訳ございません。
お許しください。ありがとうございます。
というわけで今回は私が色々考えてみた FAQ の項目をバナーにして下にまとめてみました。そしてこれを次回から二つ三つずつ、解決してそ、うして次のステップに踏み込もうと思っております。解決できないものは皆様のお知恵を借りるか、仏教の勉強が進んで行く中での宿題とさせて頂きます。
そして、この仏教信仰の 勉強は、この FAQ の後、
@まず仏教の基礎的なところで、まだ欠けている所について学び、
A次に密教について勉強し、
B今この日本においてあちこちに残る仏教軽視の爪痕を確認し、そしてそれを反省し、
C最後に仏教、密教の説明の中で、よく話が出てくるヒンズー教というものは一体仏教とどう違うのかを学びたいと考えております。
皆様、どうかよろしくお願いいたします。
何故真言を何度も唱えるのですか?
念誦中、眠くなったらどうしますか?
数珠の使い方が正しいか不安です。
真言の節回しが正しいか不安です。
真言を唱える時の呼吸はどうですか?
雑念を0にする究極の方法は?
真言を唱える音量は?
真言を唱える時の入我我入とは?
五種念誦とは?
真言を唱える時の感謝の気持ちとは?
真言を唱える時の刹那とは?
以上です。また何かありましたら、リクエストお願いします。
次回から、内容に応じて、一つ三つとまとめて、記事にします。
どうか次回からよろしくお願いいたします。
合掌
タグ:仏教のFAQ
2021年04月29日
仏教信仰入門 F ここまでのまとめ
仏教を信仰すること、特にお祈りをすることについて色々と考えてきました。
そして色々と障害がありその、克服(調伏)方法を考えてきました。
お祈りをする同機は、人様々でしょうから、ここであえて深く語ろうとはおもいませんが、私個人に立ち返ってみると、人間の努力ではどうしようもない状況に置かれた時、仏様に御すがりするしかなかったと言えます。逆に自然と子供のころから信仰を身に着けた人もいるのでしょう。羨ましいことです。
4つの魔の存在を認識することで、お祈り(あるいは真言を唱える)ことを邪魔する存在を明確化しました。
そしてそれらの調伏法を考えてきました。
眠気は、五蘊魔のカテゴリーに入ると思うのですが、その中でも何度も真言を唱えるのに大きな障害になるので真っ先に取り上げました。
そして以下のようにまとめました。
@まず眠気が真言を唱える前からあり、単なる寝不足によるものか、そうではなく五蘊魔によるものかを判定する。
A単なる寝不足であれば、早寝早起きを心がけ、酒を断ち、仏教的日常に自分の生活を変える。
B五蘊魔による眠気であれば、それが瞑想15分で断てるものか判断する。或は実際に瞑想15分を行う。
C行を重ねるにつけ、宗教的興奮状態を自らの脳から生み出す方法を見つける。具体的には
4-1 真言の唱える速度や音量をあげる。
4-2 座っていれば立ち上がる。
4-3 仏教の映画を見てイメージを作る。
眠気と共に特に何度も真言を唱える際に大変なのは、その真言の数を数えるということである。
そこで念珠の際の数珠の使い方で、以下にこのストレスが減少するかを説明しました。
天魔については、我々が日頃考えている存在だが中々対象化できない存在、それを仏教はちゃんと対象化していました。そしてそれを調伏する手段もまた、如何にも仏教らしいものでした。何故ご本尊の周りに脇侍がいて、その脇侍が恐ろしい忿怒相をしているのか?それはご本尊を守るというより、我々の中の天魔を調伏することにあったと思うのです。
以下に下手糞なプレゼンテーション動画を作りましたので、ご覧ください。
そして最後に、煩悩魔の調伏として、煩悩を三毒、三悪の貪瞋痴に分けました。以下の図です。
そして、その煩悩が為に身口意が乱れ、十不善業を大なり小なり起こしてしまう、それを懴悔文を唱えることで清浄化し、これで煩悩魔の調伏は出来ることを学びました。或は、以降、これ以上の真言、お経をもって更に身口意を清め、前世を清め、という方法にも行き当たるでしょう。
身口意の起こす諸悪業を下記の図で示します。
これらの悪業を必ず清め認識するために、以下の懴悔文を毎回勤行でお唱えするのです。
以上ここでのまとめでした。
我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋癡 従身口意之所生 一切我今皆懺悔
合掌
そして色々と障害がありその、克服(調伏)方法を考えてきました。
お祈りをする同機は、人様々でしょうから、ここであえて深く語ろうとはおもいませんが、私個人に立ち返ってみると、人間の努力ではどうしようもない状況に置かれた時、仏様に御すがりするしかなかったと言えます。逆に自然と子供のころから信仰を身に着けた人もいるのでしょう。羨ましいことです。
お祈りの精神統一を邪魔する4つの魔
4つの魔の存在を認識することで、お祈り(あるいは真言を唱える)ことを邪魔する存在を明確化しました。
そしてそれらの調伏法を考えてきました。
眠気の克服
眠気は、五蘊魔のカテゴリーに入ると思うのですが、その中でも何度も真言を唱えるのに大きな障害になるので真っ先に取り上げました。
そして以下のようにまとめました。
@まず眠気が真言を唱える前からあり、単なる寝不足によるものか、そうではなく五蘊魔によるものかを判定する。
A単なる寝不足であれば、早寝早起きを心がけ、酒を断ち、仏教的日常に自分の生活を変える。
B五蘊魔による眠気であれば、それが瞑想15分で断てるものか判断する。或は実際に瞑想15分を行う。
C行を重ねるにつけ、宗教的興奮状態を自らの脳から生み出す方法を見つける。具体的には
4-1 真言の唱える速度や音量をあげる。
4-2 座っていれば立ち上がる。
4-3 仏教の映画を見てイメージを作る。
数珠を使って真言を唱える
眠気と共に特に何度も真言を唱える際に大変なのは、その真言の数を数えるということである。
そこで念珠の際の数珠の使い方で、以下にこのストレスが減少するかを説明しました。
これはリンク先の記事を参照願います。
天魔の調伏 (動画)
天魔については、我々が日頃考えている存在だが中々対象化できない存在、それを仏教はちゃんと対象化していました。そしてそれを調伏する手段もまた、如何にも仏教らしいものでした。何故ご本尊の周りに脇侍がいて、その脇侍が恐ろしい忿怒相をしているのか?それはご本尊を守るというより、我々の中の天魔を調伏することにあったと思うのです。
以下に下手糞なプレゼンテーション動画を作りましたので、ご覧ください。
煩悩魔は懴悔文を唱えることで清める
そして最後に、煩悩魔の調伏として、煩悩を三毒、三悪の貪瞋痴に分けました。以下の図です。
そして、その煩悩が為に身口意が乱れ、十不善業を大なり小なり起こしてしまう、それを懴悔文を唱えることで清浄化し、これで煩悩魔の調伏は出来ることを学びました。或は、以降、これ以上の真言、お経をもって更に身口意を清め、前世を清め、という方法にも行き当たるでしょう。
身口意の起こす諸悪業を下記の図で示します。
これらの悪業を必ず清め認識するために、以下の懴悔文を毎回勤行でお唱えするのです。
以上ここでのまとめでした。
我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋癡 従身口意之所生 一切我今皆懺悔
合掌
2021年04月20日
仏教信仰 K 雑念を考える 2 再度祈る目的を認識する。浦島声聞太郎
煩悩スクリーンに入る前に、このシリーズの最初で「なんのために祈るのか?」について書いているが、この時は仏教の知識も少なく、感情的な説明になっているので、以下にスライドを使い、説明します。これはあくまで私の場合であるが、しかし、私という非常に分かりやすい失敗者のケースから、なんのために祈るのか?何故、雑念の無い状態が必要なのか?ということを理解してください。
↑ 太郎は、ある日亀に連れられ、海の底の、竜宮城に連れていかれました。
↑ 竜宮城では、大歓迎を受け、太郎は今まで地上で出来なかったことをしました。亀も最初は一緒に楽しんでいましたが、途中でどこかに消えてしまいました。そうして彼は時を重ねました。楽しいことは苦しみと表裏一体でありました。
↑ そうして何十年も経ってから、亀が現れ、「もう地上に帰らなければ」と促しました。その表情は、あのどこへでも連れて行ってくれた亀ではなく、冷たく、厳粛な面持ちでした。そこで仕方がなく、地上に帰ることにすると、竜宮城の最も若い「牛の餌を司る乙姫」がひとつの箱をくれました。その時すでに、竜宮城には太郎の子供が何人もおりましたが、いつの間にか姿を消していました。そして、姫は言いました、「地上に上がったら、その箱を開けてください。今までの楽しかったことが全て詰まっていますから」そういって彼女は笑いながら泣いてその男を見送りました。
亀に送り届けられた海岸で、太郎は箱を開けました。するとそこには、今まで積み上げられた集諦という苦が充満し、太郎は一挙に歳をとりました。住んでいた村の物は誰一人彼を知らず、太郎は独りぼっちになりました。また色々な病気を患っていたのです。
↑ 太郎は仏教に助けを求めました。しかし、困ったときだけこうして助けを求めてくる太郎に、今から何をしても間に合う修業はありませんでした。太郎は、その蓄積された集諦を得た時間と同じだけの時を、修行に使うことは出来ないほど老いていました。このままでは、因果の集諦に太郎は押しつぶされそうでした。
↑ そうして、太郎は密教に出会いました。それは、天尊に直接にアクセスするために真言を何度も唱え、三摩の境地に達し、そして天尊と一体化することで、苦を抜き楽を得るというものでした。
しかし、太郎は自分の中にある何が苦で、何が楽であるかも理解していませんでした。そこで太郎は、仏教を学び、苦と楽の表裏一体、それを乗り越える八正道を理解したのです。
↑ そう、今あなたも太郎です。太郎は毎日真言を唱え、自分を苦しめる四苦八苦を調伏しようと頑張っています。なんのために祈り、何を目指すのかを太郎は皆さんと共に再認識したのです。そしてその障害となる雑念の克服をこれから考えるのです。
合掌
↑ 太郎は、ある日亀に連れられ、海の底の、竜宮城に連れていかれました。
↑ 竜宮城では、大歓迎を受け、太郎は今まで地上で出来なかったことをしました。亀も最初は一緒に楽しんでいましたが、途中でどこかに消えてしまいました。そうして彼は時を重ねました。楽しいことは苦しみと表裏一体でありました。
↑ そうして何十年も経ってから、亀が現れ、「もう地上に帰らなければ」と促しました。その表情は、あのどこへでも連れて行ってくれた亀ではなく、冷たく、厳粛な面持ちでした。そこで仕方がなく、地上に帰ることにすると、竜宮城の最も若い「牛の餌を司る乙姫」がひとつの箱をくれました。その時すでに、竜宮城には太郎の子供が何人もおりましたが、いつの間にか姿を消していました。そして、姫は言いました、「地上に上がったら、その箱を開けてください。今までの楽しかったことが全て詰まっていますから」そういって彼女は笑いながら泣いてその男を見送りました。
亀に送り届けられた海岸で、太郎は箱を開けました。するとそこには、今まで積み上げられた集諦という苦が充満し、太郎は一挙に歳をとりました。住んでいた村の物は誰一人彼を知らず、太郎は独りぼっちになりました。また色々な病気を患っていたのです。
↑ 太郎は仏教に助けを求めました。しかし、困ったときだけこうして助けを求めてくる太郎に、今から何をしても間に合う修業はありませんでした。太郎は、その蓄積された集諦を得た時間と同じだけの時を、修行に使うことは出来ないほど老いていました。このままでは、因果の集諦に太郎は押しつぶされそうでした。
↑ そうして、太郎は密教に出会いました。それは、天尊に直接にアクセスするために真言を何度も唱え、三摩の境地に達し、そして天尊と一体化することで、苦を抜き楽を得るというものでした。
しかし、太郎は自分の中にある何が苦で、何が楽であるかも理解していませんでした。そこで太郎は、仏教を学び、苦と楽の表裏一体、それを乗り越える八正道を理解したのです。
↑ そう、今あなたも太郎です。太郎は毎日真言を唱え、自分を苦しめる四苦八苦を調伏しようと頑張っています。なんのために祈り、何を目指すのかを太郎は皆さんと共に再認識したのです。そしてその障害となる雑念の克服をこれから考えるのです。
合掌
2021年04月17日
仏教信仰 K 雑念を考える 1 雑念煩悩スクリーン
今まで私は、お祈りの時に発生する雑念について、或は心を無にしてお祈りするのはどういうことかを考えるにあたり、そもそも自身をみつめ、自身の煩悩、五蘊の在り方を認識し、完璧な煩悩体としての自身の認識を新たにしました。
この煩悩体が実際に勤行でどう作用して、それをどう解決していくのかを考えていきたいと思います。
以下に現象としての雑念の種類と、その雑念によっておこる信仰への障害、そして現在手に入る知識の中での対策方法を列挙します。
雑念の種類
@肉体的なお祈りでのトラブルに関する不安からくる雑念。
眠気
呼吸
数を数える
その他 体の痛み
Aお祈りそのものが正しく行われているのか、法に対する不安からくる雑念。
B天魔から来る雑念
C車を運転しながら、風景が目に入る程度の雑念
D仕事に関する雑念。仕事の悩み、或は仕事のアイデアが閃くなどの雑念。
E気が付く という雑念
F怨憎会苦、愛別離苦が絡む、或は絡まない人物の登場、思い出など
G何の脈絡もなく出てくる場所の情景、映画やテレビのシーン
H単純な外部の雑音、或は忙しい。
雑念により恐れている結果
@単純にミスをする。(お経の読み違いなど)
Aこんなこと意味があるのか?と少しでも思ってしまう。
B勤行の中断
C勤行の減少
Dその信仰の停止(全ての努力が無に帰する)
E実際に願い事が叶おうが叶うまいが、仏教信仰そのものへの絶望
雑念を止めるため何が推奨されているか?あるいは何をしたか?
@入我我入
A観想
B感謝の気持ちで祈る
C五種念珠
D真言を書いておく
E願い事が叶った姿を想像する。
以上です。まずは、これから下に、勤行の際の雑念煩悩スクリーンを設置し、実際にどのような形で煩悩が発生するかを次回から検証していきます。これは、実際の勤行の状態を再現し、上記各種の雑念が何であるのかを判断する装置です。
合掌
2021年04月16日
仏教徒
1.2億人 日本の人口
8400万人 文化庁の調査による日本の仏教系団体の信者数
人口の34% NHKのアンケートによる仏教を信仰していると答えた人
人口の49% 上記のアンケートで宗教を信仰していないと答えた人
約792万人 浄土真宗本願寺派の信者
約791万人 真宗大谷派の信者
約602万人 浄土宗の信者
約360万人 高野山真言宗の信者
約351万人 曹洞宗の信者
約348万人 日蓮宗の信者
約136万人 天台宗の信者
約36万人 臨済宗妙心寺派の信者
約34万人 仏教系の僧侶等(男女あわせて)
約5万3千人 浄土系の僧侶等
約11万4千人 真言宗の僧侶等
約2万2千人 禅系の僧侶等
約10万5000人 日蓮系の僧侶等
約1万5000人 天台系の僧侶等
2,462万人 プロ野球ファン人口
1,098万人 サッカーJリーグファン人口
@仏教団体が認識している信者数より、仏教を信仰していると答えた人は少ない。
Aいずれにしても、3人に一人、2人に一人が仏教徒である。
B日本で最も信者が多い仏教宗派は浄土真宗である。
C日本で最も教師(僧侶)が多いのは、真言宗である。
Dここには書いていないが日本で最も寺院の数が多いのは曹洞宗である。
Eプロ野球とJリーグファンを合わせるとほぼ仏教徒の人口に近い。
F日本での一般的な営業マンの研修で教えられることは、お客さんと宗教、政治、野球の話題はタブーである。
ということがわかりました。(私が。あなたも?)
ああ、それで、自分の信仰を自己紹介で言わないのです。
政治はまあ、色々と失望の歴史があり、政治家も世襲制かタレントが当たり前になり、あきらめの話題しかないが、野球や、サッカーの好き嫌いもタブーなので、こてこての関西人がどこか遠くをみながら、知り合って7年目に巨人ファンであることをカミングアウトしたりする。
いわんや宗教をや。
商売を円滑に進めるなら、人間関係を円滑にするなら、嫌な人とも仲良くするためなら、自分の信仰は伏せておく。それが今の日本なのです。
宗教は恥ずかしい。
宗教はこっそりと信仰。
知らぬが仏。
触らぬ神にたたりなし。
あの人は本当はいい人。
元気をもらった。信仰なき美辞麗句慣用句。
ですから、相手の行動様式や、考え方の基準がわからないので困ってしまう。その行動言動の拠り所がわからない。しかも、今の信仰は、葬式戒名、追善供養が主なので、信仰=考え方、生き方 にならない。
仏教軽視、信仰軽視、空っぽの宗教信仰人口。でも死んだら供養してもらいたいし、戒名が欲しい。
私はそういう日本人の最も甚だしい悪果です。
そして、さんざん十善戒を破り、その因果から、今、五体投地して仏様に御すがりしているわけです。
合掌
8400万人 文化庁の調査による日本の仏教系団体の信者数
人口の34% NHKのアンケートによる仏教を信仰していると答えた人
人口の49% 上記のアンケートで宗教を信仰していないと答えた人
約792万人 浄土真宗本願寺派の信者
約791万人 真宗大谷派の信者
約602万人 浄土宗の信者
約360万人 高野山真言宗の信者
約351万人 曹洞宗の信者
約348万人 日蓮宗の信者
約136万人 天台宗の信者
約36万人 臨済宗妙心寺派の信者
約34万人 仏教系の僧侶等(男女あわせて)
約5万3千人 浄土系の僧侶等
約11万4千人 真言宗の僧侶等
約2万2千人 禅系の僧侶等
約10万5000人 日蓮系の僧侶等
約1万5000人 天台系の僧侶等
2,462万人 プロ野球ファン人口
1,098万人 サッカーJリーグファン人口
@仏教団体が認識している信者数より、仏教を信仰していると答えた人は少ない。
Aいずれにしても、3人に一人、2人に一人が仏教徒である。
B日本で最も信者が多い仏教宗派は浄土真宗である。
C日本で最も教師(僧侶)が多いのは、真言宗である。
Dここには書いていないが日本で最も寺院の数が多いのは曹洞宗である。
Eプロ野球とJリーグファンを合わせるとほぼ仏教徒の人口に近い。
F日本での一般的な営業マンの研修で教えられることは、お客さんと宗教、政治、野球の話題はタブーである。
ということがわかりました。(私が。あなたも?)
ああ、それで、自分の信仰を自己紹介で言わないのです。
政治はまあ、色々と失望の歴史があり、政治家も世襲制かタレントが当たり前になり、あきらめの話題しかないが、野球や、サッカーの好き嫌いもタブーなので、こてこての関西人がどこか遠くをみながら、知り合って7年目に巨人ファンであることをカミングアウトしたりする。
いわんや宗教をや。
商売を円滑に進めるなら、人間関係を円滑にするなら、嫌な人とも仲良くするためなら、自分の信仰は伏せておく。それが今の日本なのです。
宗教は恥ずかしい。
宗教はこっそりと信仰。
知らぬが仏。
触らぬ神にたたりなし。
あの人は本当はいい人。
元気をもらった。信仰なき美辞麗句慣用句。
ですから、相手の行動様式や、考え方の基準がわからないので困ってしまう。その行動言動の拠り所がわからない。しかも、今の信仰は、葬式戒名、追善供養が主なので、信仰=考え方、生き方 にならない。
仏教軽視、信仰軽視、空っぽの宗教信仰人口。でも死んだら供養してもらいたいし、戒名が欲しい。
私はそういう日本人の最も甚だしい悪果です。
そして、さんざん十善戒を破り、その因果から、今、五体投地して仏様に御すがりしているわけです。
合掌
2021年04月11日
仏教信仰入門 J-4 道諦とは?(図解)
四諦説の最後は、いよいよ、どうしたらさとりに到達出来るのか?という事になります。
そこでお釈迦様が説かれるのが、八正道です。
正しいという言葉が並びます。伝統的解釈を引用し、下に添えます。
四諦の理を正しく見て、正しく思い、それを正しく言葉にすること。上の三つのどれかが欠けていたら、この道を進むことは出来ません。
邪業を除き、清浄の身業に住する。
身口意を清め、邪命を離れる。
涅槃に至る道に努めること
正道を憶念して邪念無きこと。
無漏清浄の禅定に入ること。
ということで、やっと涅槃に至ることが出来ました。
それでは実践ではどうなのでしょうか?
それを次回から検証していきます。
合掌
2021年04月05日
仏教信仰入門 J-3 集諦とは? (図解)
集諦は我々の病気の原因です。そして、肉体的にも精神的にもそれは欲の集積ということが言えます。肝臓が悪くなれば、それは永年のアルコールの摂取の積み重ねであるし、糖尿病になれば、それは積年の贅沢な食生活に起因するのでしょう。肺がんになれば、やはり習慣的な喫煙ということがよく言われる。生活習慣病とは正にこの集諦のことで、あらゆる苦諦は、その人間の欲望という習慣集積の結果ともいえます。
ただ、ここで思うのは、そこに個人差がある。どれだけ飲酒を重ねても肝臓を悪くしない人もいる。ボイラーのように喫煙する人でも、肺は綺麗だという人もいる。それはその人の体力、体質のせいかもしれないが、不平等だとも思う。という事は、どれだけ欲望の激しい人も苦諦に陥らない場合もあるのではないか?
しかし、お釈迦様のみつけた真理は、この人間の不平等ということにも実によく配慮している。だから一見特有の具体例のような内容の説法にも普遍性があります。
そもそも、人生は期限があり、終末があることにおいては、全ての人に平等であり、そして、どんなに華やかな人生にも暗転の日が来ることは誰しも納得するところです。その期間において、長さにおいて不平等ではありますが、よい時間が長ければ長いほど、その思い出に苦しことも大きく、終活とは正に、この時点において行うものではないか思っていますがこれは余談です。
現代社会において、宗教をおおっぴらに語ることは実に控えめです。誰が何の宗教を信じているのかもわからず、自分の祖先が何を信じているのかもよく分からない。オウム心理教の事件も含め、宗教をしているというとどこか色眼鏡です。そのかわり、現代社会の精神支柱は”愛”です。家族愛、夫婦愛、親子愛、恋愛、愛を含む言葉は、変換候補なしにすぐに変換されます。愛と言う信仰があるといってもよい。愛と感動の云々は必ず涙を呼び起こす。ところが十二因縁でもあったように、仏教において、この愛に対する観念は実に、ドライというほかはありません。愛とは苦の因に他ならないというのです。また激しい愛は、転じて、激しい憎でもあるというのです。
愛欲と性欲はどう違うのか分かりませんし誰かに教えてもらいたいところです。愛のない、性欲の成就は誰からも基本疎まれるところかと思いますし、私の人生の失敗も正にそこにありました。そしてお釈迦さまはこれが、集諦の一つであると説くのです。
人間として生活をしていれば、どこかで人生に疲れ、自分を癒してくれる楽園に行きたいと考えるのでしょう。現世では、もうこれ以上何をしても無理だとの諦めもあります。
あらゆる自らの罪が、苦諦が重なって、にっちもさっちもいかなくなった時に、人は消えてなくなりたいと考えます。死にたいという人もいるでしょう。「私は貝になりたい」という映画がありました。自分と言う存在を消したいと考えるのは当然、人生が良い時に起こる病状ではないと思います。
苦諦は、今までに勉強した十二因縁、貪瞋痴といった煩悩もまた大きな要素として含まれるものです。
使い古された、陳腐な慣用句、「愛とは何か?」という問いにお釈迦様の答えは一貫しています。愛とは苦の因、愛とは憎なしにありえないもの。
次は滅諦にはいります。
合掌
2021年04月04日
仏教信仰入門 J-2 苦諦とは? (図解)
苦諦は我々を病気にたとえ、その苦しみの病状であると説明しました。
一体、我々人間はどんな病気を持っているのでしょう。私は思うのですが、ここまで具体的で、それでいてどんな状態にも当てはまる象徴による対象化、それこそがお釈迦様のすごさなのでしょう。
人間は生きているその状態で肉体的に四苦、精神的に更に四苦、合わせて八苦の苦しみを抱えています。まずは肉体的には、
この4つの分類では、生まれることが入っています。ということは、生まれる前があって、生まれた時の苦しみを数えているものと思います。輪廻の死生観のたまものでしょう。
そして、精神的には、更に四苦があげられます。
この4つは、一つ一つ見ていきましょう。
それが誰であれ、愛する者と別れることは辛いもので、愛していなくても好感を持っていたり、仲良くしている人とは、とかく別れなければならないことがあります。それが死を持っての別れである場合もある。転勤、単身赴任、早逝、難病、徴兵、その喪失感は何を持っても抗えるものではありません。
ところが、憎い相手、不俱戴天の仇は、何故か自分の元から去りません。むしろ自分の傍にいて、こちらの背中をつついたりするものです。もう顔も見たくないのに、何故か携帯電話を何気なく見ると、その者の写真が保存されていたりするものです。全くもって、こういう時には自分の身の置きどころが無く、内心では怒りに燃えているが、それをまともにぶつけることも出来ず、これを持って精神の苦しみとしています。
RCサクセションの「雨上がりの夜空」にという歌があります。この歌は、よく読むとこの求不得苦と五蘊盛苦を聞いた時、真っ先に思い浮かんだ歌です。著作権のこともあるので、ここに歌詞は載せませんが、(ちなみにさっき検索したら歌詞が変えられていました。)私は男性なので、男性的な苦しみしか想像できませんが、求める情熱は強大で、その対象である女性は常にか弱いのです。疲れていたり、病気だったり、そういう理由で。しかしその断固とした拒絶は、求める情熱より更に強大で、何も寄せ付けません。体調が悪いといいながら.... 勿論、男女間のことだけではないでしょう。求めよ、さらば与えられんではないのです。
そして、その求めるエネルギーは、健康であればあるほど五蘊が欲望をたぎらせ、求める相手の断固たる拒絶とは全く相反する形で増大します。そして更に求めるものを得ることが出来なくなるのです。
以下に辞書に書いてあるお釈迦様の言葉を引用します。
" (前略) 次に比丘らよ、輪廻転生に導き、喜びと貪りを伴い、いたるところで喜び楽しもうとする熱愛欲求(渇愛)-欲愛、有愛、無有愛ーなるものは「苦の集(原因)」であるというのが、苦の生起の原因に関する神聖なる真理(苦集聖諦)である。”
私は熱愛を善とする世界に生きています。そして自らに照らし合わせれば、そう思っていたけれども熱愛などではなかったという証拠がいくつも思い当たる。ところがそうと思っていたので、浦島太郎になってしまいました。
以上でこの身につまされることだらけの苦諦の説明は終わります。次回は集諦です。
ただ、上記「渇愛」も興味深く、これもまた別の機会に勉強します。
合掌
仏教信仰入門 J-1 四諦とは? (図解)
お釈迦様は言いました。人は自らの体、心に真理の光を当てることによって初めて仏道を歩むことが出来、その積み重ねの中で得た正しい智慧によって解脱にいたると。苦しみから解放されると。
「眠れない者に夜は長く、疲労せし者に一里の道は遠い。真理の法を知らぬ無明なる者には、生と死の輪廻の道は果てしなく長い」(法句経)>>>>>> 引用は引用文献一覧へ。
まずは、長年の貪瞋痴による罪があり、それによる苦しみがあり、それから救われたいと思い、聖天様への信仰に入り、すると色々と自らがお祈りをするには問題があり、何故ならそれは、仏教の基礎を理解しないで信仰に入っているからであり、そのように悪因を辿って、本日2021年4月4日、いよいよ仏教の根本思想である四諦にたどり着きました。
仏教とは小学1年の次は2年、その次は3年とコースを学ぶこともあるのでしょうが、我々のように必要に駆られた罪深き凡夫は、仏様の方便に引かれ、こうして今、四諦を語っているのです。
謂わば、我々人間は病気です。病気に苦しんでいます。この世に生まれ病気でない人間は一人もいない。それを苦と呼んでいます。どんなに爽やかな善良な人間でも、人知れず苦しんでいる。私のように諸悪の権現ながら愚かで弱い人間など苦しみが何であったか分らぬほど、苦しみと楽しみを混同しているほど重病です。お前と一緒にするなと言われてもそうなのだから仕方がない。苦しみの前に人間は平等です。
@この病気の病状を苦諦と言います。
Aそして、お医者さんはその人が、何故病気なのか、原因を把握しなければならない。それが集諦です。
Bそして、その病態をどのような健康体にするかをお医者さんは知っています。それが滅諦です。
C最後にその人にあった治療法を施す。それが道諦なのです。
お釈迦様が菩提樹の下で今までこのブログで説明した縁起の道理を悟られたのですが、これを分かりやすくして、衆生を指導教化するために考えられたのが四諦なのです。
次回はその四諦の1、苦諦について勉強しましょう。
合掌
「眠れない者に夜は長く、疲労せし者に一里の道は遠い。真理の法を知らぬ無明なる者には、生と死の輪廻の道は果てしなく長い」(法句経)>>>>>> 引用は引用文献一覧へ。
まずは、長年の貪瞋痴による罪があり、それによる苦しみがあり、それから救われたいと思い、聖天様への信仰に入り、すると色々と自らがお祈りをするには問題があり、何故ならそれは、仏教の基礎を理解しないで信仰に入っているからであり、そのように悪因を辿って、本日2021年4月4日、いよいよ仏教の根本思想である四諦にたどり着きました。
仏教とは小学1年の次は2年、その次は3年とコースを学ぶこともあるのでしょうが、我々のように必要に駆られた罪深き凡夫は、仏様の方便に引かれ、こうして今、四諦を語っているのです。
四諦とは何か?
謂わば、我々人間は病気です。病気に苦しんでいます。この世に生まれ病気でない人間は一人もいない。それを苦と呼んでいます。どんなに爽やかな善良な人間でも、人知れず苦しんでいる。私のように諸悪の権現ながら愚かで弱い人間など苦しみが何であったか分らぬほど、苦しみと楽しみを混同しているほど重病です。お前と一緒にするなと言われてもそうなのだから仕方がない。苦しみの前に人間は平等です。
@この病気の病状を苦諦と言います。
Aそして、お医者さんはその人が、何故病気なのか、原因を把握しなければならない。それが集諦です。
Bそして、その病態をどのような健康体にするかをお医者さんは知っています。それが滅諦です。
C最後にその人にあった治療法を施す。それが道諦なのです。
お釈迦様が菩提樹の下で今までこのブログで説明した縁起の道理を悟られたのですが、これを分かりやすくして、衆生を指導教化するために考えられたのが四諦なのです。
次回はその四諦の1、苦諦について勉強しましょう。
合掌
2021年03月29日
仏教信仰入門 I 十二因縁とは
今までのあらすじ(長文注意)
某仏教国で国家規模の陰謀にあい、30年の浦島太郎としてこの日本に帰ってきた私は、人生最大の苦境を乗り越えるため、まずは塩まじないを始め、毎日トイレの掃除をし、水道代を高騰させるが何も起こらず、インターネットで呪いを検索し、今まで自分を騙し惑わした人間を呪うことを考え、蝋燭やら、折り紙やら、獣の皮やら、4つばのクローバーやら、果ては般若心経を写経し、そこに人の不幸を書いてジャムだか練りウニの瓶に詰め人気の無い夕方に、母が手塩に掛けた庭にこれを埋め、今では、この庭をほればザックザックと般若心経が出土する次第です。
そうこうしているうちに、般若心経をきっかけに仏教に目覚め、沢山の人を呪うにはあまりにも自分の念が足らず、それよりは、自分を救ってくださいと自分一人のために、仏様に祈ることはエネルギーから言っても可能であると気が付き、ところが日本の仏教は大乗仏教で人の為にも祈るのだと知り、私が沢山の人を呪う呪いから沢山の人の救いを求める方向に転換するのは、これぞ正に仏教の方便の力と、その智慧の深さに敬服し、大きく転換したわけです。
とは言え、そこは浦島太郎。愚かさゆえに現世利益、功徳を中心に仏教信仰を始め、孔雀明王様を信仰し、陀羅尼を暗唱し、孔雀明王様の背景にある仏教のロジックを考えず、またその誓願なるものは、むしろ国家守護の仏教であり、そうこうしているうちに、聖天様のご縁を得ました。
大乗仏教、真言宗において、密教において沢山の天尊があられるのは、その誓願の違いもあるようで、今、誰よりも罪深い自分として、その背後にある強固な観世音菩薩の信仰をもつ、聖天様信仰に帰依しました。
聖天様信仰で重要なことは一心不乱に聖天様に御祈りすることで、またその真言を唱える遍数も1000とか2000とか多く、三遍の真言でも無量の雑念にとらわれる自分は、何よりもこの雑念退治を学ぶことにしたのです。
そんな時、私は、大映映画の(釈迦)をアマゾンプライムで見て、なるほど、雑念の調伏ということはお釈迦様にも第1課題であり、人間の宿命的愚かさ、そのものが信仰の邪魔をすると知ったわけです。
それで、このブログでは勿論、自分の勉強にもなるし、皆様インターネット衆生の救済のためにも図解で、この仕組みを追求することを試みています。
今まで五蘊を掘り下げて、人間という生き物の宿命的に持つ存在の対象化を解説しました。そして、次に経時変化としての人間の変化、弱さに触れていきます。勿論未だまだ深いことは分かっていませんし、これから先、勉強をすすめますが、これをもって、実際のお祈りの勤行でおこる事の予備知識としたいと思います。
十二因縁とは
仏教の根本的な考え方として、縁起がある。縁起がいいとか悪いとか言うのは、経時変化として、あることを怠ったが為に、ある結果を招いたということを重視することである。酒を飲みすぎて吐くのも、女性を信じすぎて騙されるのも、全てがこの縁起であり、そこから法が生まれるのです。そして我々人間が生まれてから死ぬまでの縁起を12の段階に分けたものが十二縁起です。
お釈迦様がこの真理を悟り、そして実際に人間観察をして、検証し完成させたとのこと、(実際には色々な議論があるようであるが、それは今後勉強を進めます。)
それでは、12縁起をそれぞれ見ていきましょう。
仏教における無明とは?
生まれてくる前が0の状態では、縁起は発生しない。しかし、縁起を信じる心はこの状態において0であるから、無明です。それは、その生を受ける以前の因縁を信じるとか知っているとか言う状態にないのです。
仏教における行とは
前世での業をさします。前世で行われた行為と習慣をさします。
仏教における識とは
認識する主体の心が生まれる瞬間です。
仏教における名色とは
母胎の中で、認識としての対象が現れます。名は精神的なもの、色は物質的なものです。
仏教における六入とは
前回十二処のところで学んだ六根が胎内で形成されます。
仏教における触とは
六根、その対象である六境、そして認識される六識、これらの融合。
仏教における受とは
認識という能力を経て、苦と楽を感受することができるようになる状態。
またその苦楽の感じ方は人によって違うが、それこそは前世よりの業の差異である。
仏教における愛とは
苦を避け、楽を求める状態。苦を避ける、つまりそれは憎となる。合わせて愛憎となる。
仏教における取とは何か?
愛の後に来る実際の行動。愛するものにはこれを取ったり独占したりし、憎むものはこれを捨て、殺傷したりする。
仏教における有とは?
愛と取によって最終的に業を形成する働き。習性的存在。
仏教における生とは?
前の有としての性格や素質を帯びて生き、生まれること。
仏教における病死とは
ここまでに発生した行為経験によって、輪廻の苦悩は解消されない。しかし上述までの行為経験を戒め精進することによって、流転縁起による輪廻の苦悩から解脱することが出来る。これを還滅縁起という。
何故同じことを繰り返すとおこられるのか?
何故仏教は同じ真言や念仏を何度も唱えるのか?
何故同じことを繰り返し行い評価されるのか?
或は、同じことを繰り返すことを我々は何故、苦とかんじるのか?
長くなりました。
次回に四苦八苦について勉強し、いよいよ実証しましょう。