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2015年10月11日

耐え忍び、仏道を求め、境涯を上げることが肝要であること

又た仏子の 忍辱の力に住して
増上慢の人の 悪罵捶打すれども
皆悉な能く忍んで 以て仏道を求むるを見る
妙法蓮華経 序品第一 85頁

仏道修行者は、どのような人間なのか。

まず、耐え忍ぶのが仏道修行者です。

増上慢という思い上がった人間からの悪口、罵倒、暴力等々があったにしても、すべて耐え忍ぶということです。

なぜ、耐えるのかというと、仏道を求めるという大きな目的があるからですね。

言い換えると、思い上がった人間の相手をしている暇はないということです。

仏道を求めるにあたって、思い上がった人間は必要ないのですね。勝手にさせておけばよいということでしょう。

人生の時間は、無限ではなく有限です。若い時は永遠のように感じられた人生の時間も、年を取るにしたがって、あまりにも限られた時間であることが実感されます。

その時に、思い上がった人間を相手にする時間があるのかという問いを立てた場合、全くないという答えが瞬時に出てきます。

貴重な時間、つまり、貴重な我々の命をくだらない人間のために使ってはいけません。

若い時には分からないものです。よって、思い上がった人間、くだらない人間は、若い人に近づくのですね。

ある程度の年齢になった人には近づきません。ごまかしがきかないからですね。思い上がった人間、くだらない人間であっても、その辺はよく分かっているようで、直観的に分かるようですね。そのような嗅覚は敏感なのでしょう。獣のようですね。

我々としては、仏道修行者として、仏道を求めればよく、境涯を上げに上げるべきでしょう。
posted by lawful at 06:00| 法華経並開結

2015年10月10日

生きていることそれ自体を楽しむ

妙とは蘇生の義なり蘇生と申すはよみがへる義なり
法華経題目抄 947頁

法華経の題目は、妙法蓮華経ですが、この妙の一字に深い意味があるのですね。

日蓮は、妙には蘇生の意味があると言います。

人間、それなりに長く生きてきますと、ダラダラした感じになります。新鮮さがなくなるのですね。

小さな子供の時を思い返しますと、生きていることそれ自体が楽しかった。

しかし、今はどうか。子供の頃の天真爛漫さは当然なく、見識はあるかもしれないが、それだけのことで、生きていることそれ自体を楽しんでいるとは言い難い。

人間たるもの、本来的には、生きていることそれ自体に楽しみを感じなくてはなりません。

そのためには、蘇生しなければならないのですね。

妙の一字をもって蘇生するということです。よみがえるということです。

信仰をする意味は、よみがえるためであり、そのための呪文が南無妙法蓮華経というわけですね。

子供の頃と同じような感じにはならなくとも、現在の年齢に応じて、生きていることそれ自体の喜びを感じて生きていきたいものです。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月09日

試されていると考えること

鉄は炎打てば剣となる賢聖は罵詈して試みるなるべし
佐渡御書 958頁

嫌な人がいるもので、不愉快になることがありますが、ただ単に嫌だと思ったり、不愉快になったりするだけでは芸がないと思いますね。

日蓮仏法を信仰しているならば、日蓮仏法ならではの対処の仕方があるわけで、それを行うことですね。

日蓮の言葉によると、嫌な人の不愉快な振る舞いは、その振る舞いを受けている人が賢人、聖人であるかを試すためであるという。

通常、受け手は賢人、聖人でもありませんから、その受け手は、嫌な気持ちになり不愉快になって、それで終わりです。

しかし、日蓮仏法信仰者としては、それで終わってはいけません。嫌なこと、不愉快なことは、私を試すために出てきたことと考えるのですね。

そして、この嫌なこと、不愉快なことに振り回されず、堂々としていられるならば、賢人であり、聖人であることが証明できると考えるようにしなければなりません。

また、賢人、聖人たるために、より高い次元から、嫌な人の不愉快な振る舞いを観察することです。

そうしますと、嫌な気持ちになることもなく、不愉快になることもありません。

つまり、くだらない人間の振る舞いがあまりにもみっともなく、ばかばかしくなるのですね。

我々としては、いちいち、くだらない人間の嫌な不愉快な振る舞いを相手にせず、バカな人間がいるものだ、と高みから見下ろしておけばよいのですね。

そもそも、そんなくだらない人間を相手にするほど暇ではありませんので、警戒はしつつも、まともに相手にしないことですね。

賢人、聖人かどうか試されているのだと思うだけでよいでしょう。

そうしますと気が楽になるものです。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月08日

犬を相手にしてはいけません

鹿をほうる犬は頭われず師子を吠る犬は腸くさる
兄弟抄 1080頁

人を不愉快な気持ちにさせる人が一定数いますが、このような人は、兄弟抄でいうところの犬とみてよいでしょう。

ただ、自分自身が鹿程度であれば、犬に実害はありません。

自分自身が師子たる人間であれば、犬の腸は腐るということです。

我々としては、犬に対して何かをする必要はなく、ただただ、自らが師子たり得ればよいのですね。

兄弟抄でいう師子とは、真実の法華経の行者といえるでしょう。

自らの信仰に基づき、真実の法華経の行者になることに専念しておけばよいのです。

そうして自らが師子たり得たのち、犬は師子に対して吠えた報いとして腸が腐るというわけです。

我々としては、犬に対して、直接、手を下す必要はないのですね。勝手にそうなるというだけのことです。

そのためには、自らの信仰を透徹させ、真実の法華経の行者になることです。

犬に対してむかつく暇があれば、御書、法華経を研鑽し、方便品、寿量品、題目を自分のものにする修行を行うことですね。

そして、世法において、自分自身がしなければならないことに励むことですね。

犬を相手にするのではなく、自分自身の課題に取り組むことが肝要であり、そうしている内に犬のことなど気にならなくなるでしょう。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月07日

何を以て勤行、唱題を行うか

願わくば一切の道俗一時の世事を止めて永劫の善苗を種えよ
守護国家論 37頁

信仰をする上で、日常生活を大切にすることは当然のことですが、日常生活に流されないためにも、一時は、宗教的な時間を持つことが必要です。

日蓮は、「永劫の善苗を種えよ」と言います。

永遠に続く、善なる苗を植えるとは、具体的にどのようなことなのでしょうか。

端的に言うと、勤行、唱題というのがそれにあたるでしょう。

法華経の方便品、寿量品を読誦し、南無妙法蓮華経との題目を唱えるという基礎的な仏道修行を行うことです。

この勤行、唱題は、極めて宗教的な事柄であり、世事と対極にあるものといえます。

世事を一時止めて、勤行、唱題をすることにより、永遠に続く善なるものを自分の中に植えていくということです。

世事だけでなく、宗教的な行為を組み込むことにより、世事に潤いを与えるのですね。ここに勤行、唱題の意義が見出せます。

単なる習慣としての勤行、唱題には、さほど、意味があるとは思えませんが、日蓮が守護国家論で言う永劫の善苗を植えるための勤行、唱題であれば、大きな意味があります。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月06日

南無妙法蓮華経の位置付け

南無妙法蓮華経と申すは一代の肝心たるのみならず法華経の心なり体なり所詮なり
曾谷入道殿御返事 1058頁

日蓮仏法においては、南無妙法蓮華経との題目を唱えます。

根本の法が南無妙法蓮華経なのですが、どのような位置付けなのでしょうか。

日蓮によると、一代聖教という全経典の肝心というのですね。中心ということですね。

そして、法華経の心であり、体であり、所詮とまで言い切ります。

中心の中の中心、そして、その中心というふうに、とことんまで根本たる法であると強調します。

一代聖教は莫大な量があり、法華経にしても、さほど分量が多くないとはいえ、それなりの分量があります。

仏教信仰、法華経信仰をするといっても、そう簡単ではないのですね。

しかし、日蓮は、一代聖教、法華経の骨髄として、南無妙法蓮華経を立てました。

南無妙法蓮華経と唱えるのにかかる時間は、1.5秒から2秒です。

数秒にて仏教信仰ができるわけですから、相当、斬新ですね。

ただ、南無妙法蓮華経と唱えることができるかというと、ほとんどの人にとって、唱えることは困難でしょうね。

南無妙法蓮華経との題目だけを取り出されても、一代聖教、法華経を凝縮した法ということが分からない限り、単なる呪文と思ってしまいます。

やはり、御書と法華経との研鑽をしておきませんと、南無妙法蓮華経の位置付けが分からず、唱える気にはならないでしょう。

結局は、御書、法華経の研鑽が必要ということです。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月05日

日蓮は、なかなか口が悪いこと

日蓮は真言・禅宗・浄土等の元祖を三虫となづく
撰時抄 286頁

日蓮は、法華経を第一の経典と定め、南無妙法蓮華経の題目を唱える宗教を創出しました。

その点からすると、真言宗、禅宗、浄土宗は、法華経を第一としない宗派であり、問題があると厳しく指摘するのですね。

一代聖教及び天台、妙楽等々の解釈を通しながら、理詰めで、当初は、禅宗と浄土宗とを批判します。

その後、真言宗をも厳しく批判するに至ります。

日蓮は、この三宗に対して、「三虫」との評価を下します。虫けら扱いなのですね。

口が悪いですね。

まあ、佐渡流罪等々に遭った身からすると、「三虫」以下と言いたいぐらいだったのかもしれません。

いずれにしても、言いたい放題です。

道理で、日蓮には敵が多いわけです。

逆に言うと、はっきり立場を明確にしていますので、法華経信仰をする身からすると、真言宗、禅宗、浄土宗になびく気持ちは一切持ち得ないですね。

法華経一本で行こうとの気持ちが定まるというものです。

この言葉から分かるように日蓮は強烈な人ですね。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月04日

「大恩」を報じるために御書と法華経とを極めること

仏教をならはん者父母・師匠・国恩をわするべしや、此の大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきはめ智者とならで叶うべきか
報恩抄 293頁

仏教信仰をする上で、父と母、そして、師匠ですから、さまざまな事柄を教えてくれた人々、また、国恩ですから、ありとあらゆる人々に対する恩を報じることが大切です。

ただ単に恩を報じればよいかというと、そう簡単でもないようです。

「父母・師匠・国恩」の恩は、「大恩」というぐらいですから、相当なものが要求されます。

日蓮の指摘によると、仏法を極めよ、と言うのですね。そして、智者であれ、と言います。

仏法を極める途中で寿命が来てしまうと思いますが、とにかく、極めよ、ということです。

通常であれば、間に合いませんね。八万法蔵をすべて読むことすら無理でしょう。

とすれば、絞りをかけるしかありません。

日蓮仏法を基軸にしているわけですから、御書と法華経とを極めるということになります。

御書と法華経とだけでも、なかなかの分量であり、法門の内容も非常に深い。

しかし、「大恩」を報ずるには、御書と法華経とを極め、智者となることが絶対条件ですから、やるしかないわけですね。

日々、御書を拝し、法華経を読む中で、自身の信仰を透徹させ、「大恩」を報じていきたいものです。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月03日

現代においては、在家で信仰することが本来的な姿であること

智者とは世間の法より外に仏法を行ず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり
減劫御書 1466頁

知性のある人、智慧のある人は、どのような人か。

世の中の道理、法律、慣習、伝統、文化等々に基づきながら、自身の仏法信仰を行える人ということですね。

世の中のことを知らずして、実の所、信仰は完遂できないでしょう。

信仰は、あくまで自身の生活基盤の上で展開されるべきものであり、山林に交わるのが信仰ではありません。

その点からすると、在家仏教というのが本来の信仰のあり様と思われますね。

確かに、出家仏教も結構なのですが、現代においては、在家仏教で十分でしょう。

昔であれば、本もなければ、ネットもなく、情報そのものがないわけで、比叡山などの特定の場所に行かない限り、仏教信仰ができなかったという事情があります。

しかし、現代は、本もあり、ネットもあり、情報もあり過ぎるぐらいであり、仏教信仰において困ることはないのですね。

あるとすれば、よく分からない新宗教団体が信仰の邪魔をするというぐらいでしょうか。

いずれにしても、仏教信仰をする上で、出家する必要性がないのですね。

在家で十分であるだけでなく、在家でなければならないとも思います。

日々の生活の中での困難に対して、それを乗り越えるべく、仏教が存在しているのですから、実生活の中で生きていくところでこそ、仏教は輝くというものです。

世の中のことを知悉し、その上で信仰することを日蓮は指摘してくれているわけです。

我々としては、ただただ、実践すればよいということですね。
posted by lawful at 06:00| 御書

2015年10月02日

職場での心得を学ぶ

公場にして理運の法門申し候へばとて雑言・強言・自讃気なる体・人目に見すべからず浅猨しき事なるべし
教行証御書 1283頁

公の場において、法門を申し述べる際、余計なこと、くだらないこと、大きな声を出したり、脅しをかけてみたり、また、ドヤ顔をしてみたり、という浅ましい姿を見せてはいけないということです。

我々にあてはめてみますと、職場などが公の場ですね。

職場においては、どうでもいいことを言わず、偉そうなことを言わず、調子に乗ったことを言わず、浅ましい姿を一切見せないことですね。

しかし、実際は、浅ましい姿をさらしているものです。

注意したいものですね。

職場においては、職場に必要なことのみを言い、為すべきことを為す、という態度が好ましいですね。

所詮、ビジネスなのですから、然るべき儲けがあればよく、余計なことは言わないに限ります。

「雑言・強言・自讃気なる体」をさらす時間があるならば、さっさと、するべき仕事をしておくことですね。
posted by lawful at 06:00| 御書

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