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2015年10月21日
人生はこれからであること
大事には小瑞なし、大悪をこれば大善きたる、すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし、各各なにをかなげかせ給うべき
大悪大善御書 1300頁
自分の人生を思い返した時、今までの人生は、ある意味、大悪であり謗法であったと考えることができます。
今までの人生の全てが悪いというわけではありませんが、さほどいい人生ともいえない。
中途半端に今までの人生がよかったと考えることは好ましくないのではないかと思うのです。
今までの人生を否定するほどの強烈な感覚が必要と思うのですね。
これからの人生は、確かに今までの人生の続きではあるのですが、今までの人生をただなぞる人生にしたいとは思わないのです。
全く別の人生になるわけではありませんが、質的に異なった人生となるような気がしますし、また、そうあろうと考えているのですね。
その際、上記の御文が参考になります。
そう、今までの人生は大悪であった、謗法であったと考えるのですね。
しかし、これからの人生は、大正法が広がるような人生となり、嘆くことがあろうか、と考えるのですね。
まさに、自分の人生はこれからであるというわけです。
過去は過去として認識はしつつも、終わったことであり、実のところ、どうしようもないのです。
何かを為すといっても、未来のことしか為せません。
これからの人生といっても、過去からの継続という側面があり、その側面による制約はありますが、全くがんじがらめというわけでもなく、質的に変化を起こす余地が残っています。
その余地を利用しながら、変化の人生としていきたいのですね。
どこか遠くに行くわけでもなく、表面的な変化でお茶を濁すのではなく、内面から質を変化させるのです。
傍目には、変化が分からないぐらいの変化がよいでしょうね。
しかし、毎日、毎日、変化するということが大切です。
何気ない日々のように見えて、一日一日は極めて貴重です。
毎日が記念日といっても差し支えないでしょう。
いずれにしても、これからの人生が本当の人生であるとの気概で生きていきたいものです。
2015年10月20日
新宗教団体の構成員のほとんどは、悪知識であること
後世を願はん人は一切の悪縁を恐るべし一切の悪縁よりは悪知識を・をそるべし
顕謗法抄 452−453頁
「知識」とは、中国古典では、知人、知り合いのことですから、悪知識といえば、悪い知人、知り合いということになります。
もっと言うと、人の幸せを妨害する悪い奴となりましょう。
先々のことを考える人にとっては、悪縁に気を付けることは当然のこととしながらも、もっと気を付けなければならないのが悪知識であるという。
今から思い返せば、新宗教団体の構成員の人々の多くは、悪知識でしたね。
御書は読まない、法華経といってもポカンとしている人々ですから、そもそも、宗教団体の構成員たる資格がないのですね。
その割には、教団において大きな顔をしています。所詮、その程度の教団であったということでしょう。
実は、教団とはいいつつ、宗教団体ではなかったのかもしれません。
では、何だったのでしょうか。寄合?
今となっては、教団そのものは、どうでもいいことですので、よいのですが、悪知識の巣窟であるということは、しっかりと認識しておかなければなりません。
信仰は、教団で行うのではなく、自分が行うものです。
その点を勘違いしていますと、教団に一杯食わされます。
貴重な時間、お金、エネルギーを吸い取られます。
教団と距離を置けば、時間、お金、エネルギーを確保することができます。
本来、自分がしなければならないことをすればよいのですね。
信仰を行うならば、御書、法華経の研鑽に勤しむべきでしょう。
あえて求めるならば、善知識を求めるべきでしょう。
しかし、この善知識と出会うことは稀です。
よって、まずは、自分自身が善知識になるべく、信仰、研鑽に励むことです。
信仰する意味とは、自らが善知識になることといえるでしょうね。
2015年10月19日
村上春樹さんから自分の気持ちを正確に伝えることを学ぶ
僕の経験から言うなら、外国人に外国語で自分の気持ちを正確に伝えるコツというのはこういうことである。
(1)自分が何を言いたいのかということをまず自分がはっきりと把握すること。そしてそのポイントを、なるべく早い機会にまず短い言葉で明確にすること。
(2)自分がきちんと理解しているシンプルな言葉で語ること。難しい言葉、カッコいい言葉、思わせぶりな言葉は不必要である。
(3)大事な部分はできるだけパラフレーズする(言い換える)こと。ゆっくりと喋ること。できれば簡単な比喩を入れる。
以上の三点に留意すれば、それほど言葉が流暢じゃなくても、あなたの気持ちは相手に比較的きちんと伝えられるのではないかと思う。しかしこれはそのまま〈文章の書き方〉にもなっているな。
村上春樹『やがて哀しき外国語』講談社 174−175頁
今の私に外国人に英語で何かを伝える場面はありませんが、英語を「読む」「聞く」に焦点を定めて勉強しているとはいえ、基礎的な、中学程度の英会話ぐらいは、さすがにマスターしたいと考えていることから、どのような態度で英会話に取り組むべきか、村上春樹さんの指摘が明快に示してくれています。
まずは、自分が伝えたいことを英語でどう言えばいいかを考えて勉強することですね。
暗記用英文を自分が言いたいことに言い換えて覚えるというのも一つの方法でしょう。
自分が日本語で言うことを英語にすればよいですね。
つい、難しい言葉を使うのがよいのではと勘違いしてしまいがちですが、英語のネイティブでもない私が難しい言葉を発しても仕方がないでしょう。
「読む」「聞く」においては、難しい言葉をも理解するにしても、「話す」際には、基礎的な英単語を使うよう心掛け、そのための勉強に特化することですね。
また、大事なことこそ、分かりやすい言葉で表現することが大切なのですね。
まとめますと、英会話に関しては、シンプル、ベーシック、スタンダードな言葉を使うようにすることですね。
ただ、一応、簡単な英会話ができるようになったところで、使う機会はないでしょうね。
そうはいっても、英語を「聞く」際に、英会話を練習した成果は生きてくるでしょうから、無駄にはなりませんね。
2015年10月18日
村上春樹さんから英語習得法を学ぶ
語学の習得にとってもっとも必要なのは、何を目的とするかをまず明確にすることです。日常会話ができるようになることが大事なのか、あるいは原語で本を読めるようになることが大事なのか、それとも職業的に英語を使えるようになりたいのか。そのへんの目的の見極めが大事になります。その目的にあわせて、とるべき方法が決定されます。「**語がなんとなくできるようになるといいなあ」というようなぼんやりした意識では、まず語学の習得はできない。
村上春樹『「ひとつ、村上さんでやってみるか」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける490の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか?』朝日新聞社 318頁
外国語を習得する方法は(ほぼ)ひとつしかありません。それは外国語を習得しなければ生き残っていけないという環境に身を置くことです。そうでない限り、普通の能力しか持っていない人には、外国語の習得はまず無理みたいです。でもそういう環境に身を置くのは、実際にはけっこうきついですよ。
同書 250頁
よく言われることですが、外国語会話の基本は聞き取りです。聞き取りさえできれば、あとは相手が勝手にしゃべってくれます。そして聞き取りができるようになると、こちらも自然にしゃべれるようになるものなんです。ですから、とにかく聞き取りの練習をなさることがとりあえずはいちばんだと、僕は思います。コツは同じものを何度も何度も、飽きるくらい繰り返して聞くことです。そうしないと身に付きません。
同書 112頁
英語習得のためには、まずは、目的を明確にすることですね。
私の場合、なんとなく英語ができればよいという感じですね。なかなか身に付かないわけです。
取り立てて英会話をしたいわけでもなく、英書の本を読まなければならないわけでもなく、職業的に英語が必要というわけでもありません。
このように書くと英語を習得する目的がないようですが、全くないとも思えません。
ネットにおいて、英語の記事がありますから、それを読みたいとは思います。また、動画にて英語のニュースを理解したいとも思います。
直接、英語で話をしたいという気持ちは特別ないのですが、ネットにある英語には親しみたいと考えています。
情報が日本語だけというのが気に入らないのですね。英語でも情報を取りたい、その情報を知りたいという欲求があるのですね。
全く別の視点を得たいという目的もあるのですね。
英語を「読みたい」「聞きたい」という欲求が強く、「話したい」「書きたい」という欲求はさほどありません。
「読みたい」「聞きたい」に特化するのがよいかもしれません。
ただ、英語習得の過程において、「読みたい」を確実にするために、英文を書くという作業は必要でしょう。
また、「聞きたい」を確実にするために、英語の音読は必須でしょう。
結局、「読む」「聞く」「話す」「書く」をすることになりますが、「読む」「聞く」に焦点を定め、英語習得に勤しむのがよいですね。
日本にいる限り、英語を使わなければならない環境に身を置くことは、まず、ありません。
日本語で十分であり、英語ができなくとも、実際、何も困らないですね。
英語を習得したいという欲求は、ぜいたくな欲求といえるでしょう。
学生時代でしたが、二週間程、インドに旅行に行ったことがあります。
デリーでは、友人がいましたので、友人まかせでしたが、デリーを後にしてからは、一人ですから、自分でどうにかするしかないのですね。
そうしますと、英語が話せるのですね。
不思議な感覚でした。まず、中学1年生及び2年生の英語の教科書が思い出されるのですね。頭の中に電子書籍がある感覚です。
中学1年、2年ですから、現在形、過去形、未来形の表現が可能です。
実際、これらの表現だけで、旅行するに困ることはありません。
ただ、中学3年生の英語の教科書は出てきませんでした。旅行中も思っていたことですが、現在完了の表現ができれば、それはそれでよいのですが、別に使わなくとも意思疎通は図れますし、困らないのですね。ましてや、関係代名詞の表現など全く必要なかったというところでしたね。
よって、中学3年生の英語の教科書は、私の頭の中の電子書籍に組み込まれなかったのですね。
不思議なもので、旅行する上で、必要なことは思い出すが、さほど必要でないことは思い出さないものなのですね。
生きていく上で必要なものだけが思い出されたというわけです。
一人で旅行していたので、確かに、必死でしたね。よって、思い出したのでしょう。
旅行を続けているうちに、段々と英語での意思疎通がスムーズになりました。
それは、インド人が好奇心旺盛で私に話しかけてくるからなのですね。
私は、彼らの英語を聞きます。そうしますと、「このような表現があったな」ということで、私は、その表現を身に付けるのですね。
そして、別の人と話す時、その表現を使うのですね。そうすると、また、彼らから別の表現が出てきますので、それを聞いた私は、また、その表現を身に付けるのですね。
このようなことを繰り返すと、表現が増えていき、ストレスなく英語を話すことができるようになります。
ヴァラナシだったでしょうか、もしかすると、ガヤにいる時だったかもしれませんが、英語で夢を見るに至るのですね。このようなことは初めてであり、びっくりしたものです。
その後、英語で夢を見たいと意識し始めると、見なくなるのですね。それ以来、英語で夢を見たことはないですね。
そして、カルカッタに到着した時には、旅行する分に必要な英語がマスターできているという感じでしたね。言いたいことが英語で言えるという感覚でした。
その時になると日本語でものを考えていませんでしたね。そもそも、日本語が必要ないのですから。
所謂、英語脳だったのでしょう。
一人で旅行ですから、英語ができなければ生きていけず、そのような環境にいたからこそ、英語が使えるようになったということですね。
いい思い出ですが、正直なところ、その時は、きつかったですね。苦しかったともいえますね。
そして、帰国となり、成田空港に降り立って、ほどなくすると、英語でものを考えようとしても考えられなくなったのですね。そして、なにか英語で言ってみようと試みたところ、全く英語が出てきませんでした。
これも不思議な感覚でした。さっきまで、無理なく英語を話せていたのに、日本語の環境に戻った途端、脳が英語を不必要と判断したのか、英語が話せなくなったのですね。
インドに行く前の状態に戻ったという感じです。全く英会話のできない日本人という感覚ですね。
それ以来、日本にいるときに英語を話す機会に巡り合ったことは、ほとんどないですね。
そう、日本にいると、実際に会う人々との間で英語は必要ないのですね。
ただ、ネットが出て来てから、英語に接する機会が増えました。
日本でネットが出始めたころ、ちょっと西洋思想のことを調べてみますと、日本のサイトは貧弱であり、ネットサーフィンするうちに、英語のサイトに行き着くのですね。
しかし、英語が読めませんので、せっかくそのサイトに行き着いても内容を知ることができないのですね。
このようなことから、英語のサイトを読みたいと思いつつ、英語の勉強を始めても、その都度、挫折するということの繰り返しでした。
そうこうしているうちに、日本のサイトも充実しはじめ、日本語で情報を取るのに問題がなくなってきました。
そうすると英語を学ぶモチベーションが下がるのですね。脳が必要ないと判断するのでしょう。
しかし、英語のサイトもそれ以上に充実し、やはり、英語にてネットを楽しみたいと考えるようになり、再び、英語習得に取り組み始めたというわけです。
村上春樹さんの指摘を参考にし、英語を「読める」「聞ける」状態にしたいですね。
マスターすべき英語の範囲を限定し、繰り返し学ぶことですね。そして、マスターした英語でネットを楽しむことですね。
2015年10月17日
古典は、その古典自身をそのまま読むのが本筋です
偉大な本は、おしなべて退屈な部分を含んでいるし、古来、偉大な生涯は、おしなべて退屈な期間を含んでいた。現代のアメリカの出版業者が、初めて持ち込まれた原稿として旧約聖書を目のあたりにした場合を想像してみるがいい。たとえば、家系について彼がどんなコメントをするかを想像するのはむずかしくない。「ねえあなた」と彼は言うだろう。「この章はぴりっとしていませんな。ほとんど説明もなしに、ただ固有名詞をずらずら並べたって読者の興味を引きつけることはできませんよ。確かに、ストーリーの冒頭は、スタイルもなかなか見事です。それで、私も初めはすこぶる好ましい印象を与えられたのでした。でも総じて、何もかも洗いざらい語りたいという気持ちが強すぎます。さわりの部分を選び出し、余計な個所を省いてください。そして、適当な長さに縮まったら、もう一度原稿をお持ちください。」こんなふうに現代の出版業者は言うだろう。
『ラッセル幸福論』安藤貞雄訳 岩波文庫 68−69頁
所謂、古典といわれるものは、すべてといっていいほど、上記の指摘を蒙るでしょうね。
旧約聖書に限らず、法華経においても固有名詞の羅列があり、その部分は「ぴりっとしていませんな」と言われるでしょうね。
内容に関しては、「なかなか見事です」との評価を得るにしても、語り過ぎとの指摘を受けます。
分量が多いとの指摘ですね。
余計な個所を取り除き、適当な長さにしてくださいというわけです。
『ラッセル幸福論』は1930年の著作ということですから、今から85年も前のことです。
その当時の出版業界ですら、上記のとおりなのですから、今でしたら、どうなるのでしょうか。
このような感じかもしれませんね。
「固有名詞の羅列は意味不明ですね。ここは要りません。ストーリー、スタイルもなかなか見事ですが、少し込み入っていますね。もう少し簡略にしてもらうとよいでしょう。今の読者は、長文を好みませんので、短くしてください。この原稿の要約を作成いただきましたら、それをお持ちください。こちらで、再度、短く編集します」
もしかしたら、そもそも採用されず、出版すらされないかもしれません。
古典は、だいたい冗長です。
御書にしても、冗長な部分がありますし、法華経にしてもそうです。
正直なところ、現代の読者向きの本ではありませんね。
では、御書、法華経の要約を作り、短く編集したものでよいかというと、そうでもないのですね。
要約や短くしたものであると、御書、法華経の魅力が半減するのですね。半減どころか、ほとんど魅力が減じてしまうのですね。
所謂、資料になってしまうのですね。日蓮や法華経製作者の息吹が感じられなくなるのですね。
やはり、古典は、そのまま読むのがよいようです。
ただ、そのまま読むといっても、ただでさえ量が多い古典をあれもこれも読むわけにはいきません。
選択をする必要が生じるのですね。
私の場合、御書と法華経とを選択していますが、人それぞれの選択があり得ます。
クリスチャンの人にとっては、聖書でしょうし、ムスリムの人にとっては、コーランとなるでしょう。
その他、いろいろな選択があるでしょう。
要約でいいならば、たくさん読めるでしょうが、上記のとおり、要約では肝心なところが抜け落ちます。
いたずらに量を求めるのではなく、質を求めるべきでしょう。つまり、自分が読むべき古典を絞り込むことです。
絞り込んだ古典に関しては、何度も読み返すべきであり、この点においては、量を求めるべきですね。
2015年10月16日
日常生活を楽しむこと
「わしが小坊主のとき、先代がよう云われた。人間は日本橋の真中に臓腑をさらけ出して、耻ずかしくない様にしなければ修業を積んだとは云われんてな。あなたもそれまで修業をしたらよかろ。旅などはせんでも済む様になる」
夏目漱石『草枕』新潮文庫 148頁
禅僧の言葉として発せられたものです。
なかなか味わいのある台詞ですね。
恥かしくないように生きろということです。
そうすれば、旅などしなくてもよくなるということです。
旅など、自分の住んでいるところと違うところに行くことは、見識を広めるためにおいても、いいことだと思われるところですが、別に無理をしてまで、あちこち行く必要もないでしょうね。
ある程度は、旅もすればよく、あちこち行くことも結構だと思いますが、いつまでも旅だなんだといってフラフラしているのも考えものですね。
今、自分がいるところで充実するべきでしょう。
あそこへ行きました、ここへ行きました、の報告に終始している人は、禅僧からすると修業を積んでいない人と映るでしょうね。
自分が動かずとも楽しめるほどの人間になるべきですね。存在そのものを楽しむという視点です。
旅は旅で結構ですが、まずは、自分の住んでいるところで楽しむという基本、根本があった上での旅ならば意味があるでしょう。
自分の住んでいるところが気に入らないならば、引っ越しをすればよいだけです。
日常生活の充実がメインであって、非日常は非日常ですから時々でよいのですね。
人生の時間のほとんどを占める日常生活の幸福なくして人生の幸福もありません。
禅僧の台詞は、このようなことを示していると思いますね。
2015年10月15日
天は見ている
このまま人に知られず北方に窮死すると思われた蘇武が偶然にも漢に帰れることになった。(中略)天は矢張り見ていたのだという考えが李陵をいたく打った。見ていないようでいて、やっぱり天は見ている。彼は粛然として懼れた。
中島敦『李陵・山月記』新潮文庫 150−151頁
人生、ままならないことが続くものですが、腐ることなく自らが為すべきことを為していれば、それなりの結果が出てくるものです。
天は見ているということですね。
しかし、人は、為すべきことを為し続けることなく、途中で、投げ出してしまいます。
このような人を天は見捨てます。
たったこれだけのことですが、実際に自身が困難に陥った場合、為すべきことを淡々と為すことができるかというと、できないようです。
腐り、憤り、文句を言い、肩に力が入り、無駄な動きに終始し、為すべきことは為さない。
天を怒らせることばかりをするのですね。そして、天は見ていないと悪態をつく。
実は、天は、よく見ているのですね。よく見ているけれども、手を差し伸べない。
なぜか。天は、しっかり見ることによって、手を差し伸べてはならない人間であると判定しているのですね。
天は、やはり見ている。ただ、人によって手を差し伸べる時もあれば、手を差し伸べない時もある、ということですね。
我々としては、天から手が差し伸べられるほどの人間になるべく、研鑽に努めたいものです。
2015年10月14日
そう簡単に罪は消えないこと
日蓮も過去の種子已に謗法の者なれば今生に念仏者にて数年が間法華経の行者を見ては未有一人得者千中無一等と笑しなり今謗法の酔さめて見れば酒に酔る者父母を打て悦しが酔さめて後歎しが如し歎けども甲斐なし此罪消がたし
佐渡御書 959頁
日蓮は、法華経を第一として仏教を再構成した人ですが、清澄寺が天台宗の寺であることから、天台・真言の教義を学び、また、念仏をも学んでいた経緯があり、上記のような記述が出てくるのですね。
鎌倉仏教の始祖たちを見ると、法然は念仏、道元は禅、日蓮は法華経とそれぞれ専修となるのですが、それまでの仏教界は、八宗兼学だけでなく、禅宗、浄土宗をも含め、総合仏教の様相であったのですね。
法然、道元、日蓮にしても、全員、比叡山出身であり、比叡山が総合仏教センターであったことが窺われます。
日蓮は、自分の過去世の謗法の故、仏門に入って数年の間、念仏者の観点から、法華経の行者を成仏できない者と笑ったことがあり、この罪は消えがたいと述懐しています。
当時は、これが正しいと思っていたことでしょうが、月日が流れ、日蓮自身、仏教研鑽を積む中で、法華経を最高とする法門に行き付き、過去の過ちに思い当たるのですね。
我々としても、同じようなことがありますね。
新宗教団体の考え方に染まっている時は、その教団の言うことを正しいと思い込んでいましたが、研鑽を続けていく中で、教団の言っていることが、御書、法華経と乖離しており、まったく正しくないと気付くのですね。
その時、過去において、教団の考え方を吹聴していた自分自身を恥ずると共に、この罪を消したいと思うのですが、日蓮の言葉の通り、そう簡単にこの罪が消えるわけではありません。
長い年月をかけて、誤った考え方で他者に迷惑をかけたことは、長い年月をかけて償わなければなりません。
もう知りませんよ、と言ってごまかせるものではないのですね。
我々としては、今後、御書、法華経を研鑽していく中で、間違った解釈、曲解を排していかなければなりません。
そして、価値のある仏法信仰をしていく中で、他者によい影響を与えるほどの人間になることです。
そうすることによって、今までの罪を消していきたいと思います。
2015年10月13日
日蓮は本当のことを言ってしまっています
世間の浅き事には身命を失へども大事の仏法なんどには捨る事難し故に仏になる人もなかるべし
佐渡御書 956−957頁
仏教は、仏になること、成仏することを目指した宗教です。
しかし、日蓮によると、仏になる人、成仏する人は、ほとんどいないようです。
手厳しいですね。
そう簡単に仏になれるとは思いませんが、ほとんどいないという事実を述べてしまうとは、日蓮という人はおもしろい人ですね。本当のことを言ってしまっています。
新宗教団体になりますと、仏になれるとは言わなくとも、絶対に功徳があると強調します。しかし、功徳を得る人など、ほとんどいないという事実は隠します。
日蓮の方が良心的ですね。
考えてみれば、仏の境涯たるもの、一生をかけて完遂する事業でしょう。打ち出の小槌のような感覚で信仰する人には縁がないでしょうね。
そのような人は、新宗教団体にうまく騙されるのですね。自業自得というところでしょうか。
我々としては、日蓮の言葉を重く受け止め、仏の境涯に至る人は、ほとんどいないけれども、それにもかかわらず、我々は信仰をし、仏の境涯を目指すという気概が必要ですね。
2015年10月12日
愚か者との縁を切っても問題ありません。むしろ、切るべきです
又た菩薩の 諸の戯笑
及び癡なる眷属を離れ 智者に親近し
一心に乱を除き 念を山林に摂め
億千万歳 以て仏道を求むるを見る
妙法蓮華経 序品第一 85−86頁
菩薩の特質のひとつが妙法蓮華経序品第一に示されています。
菩薩は、くだらない戯れを寄せ付けません。そして、くだらない笑いには目もくれません。
愚か者との縁は切り、智者と親しむよう心掛けます。
乱れた心を安定させ、禅定の状態を保ち、仏道を求めます。
この菩薩と比べ、我々はどうか。
くだらないことに多くの時間を取られ、愚か者に振り回されている感じがしますね。
智者に近づく努力、言い換えれば、良書を読む努力を怠っている懸念がありますね。
反省することしきりです。
序品で示された菩薩のように、メリハリが必要ですね。
切るべきは切るという冷徹な姿勢がありませんと、ダラダラした人生になります。
そして「一心に」ですから、仏道を求めるため、集中することが肝要です。
よく世間で言われる、選択と集中ということを法華経も指摘しているのですね。
古来、人間の行わなければならないことは、さほど変わっておらず、実践する人間が、いつの世にもほとんどいないということでしょう。
我々としては、法華経を通し、仏道を求める実践を行っていきたいものです。