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2024年11月07日

『仏教哲学大辞典』の「創価学会」の項目を読み比べる

創価学会は、『仏教哲学大辞典』という辞典を編纂しており、最初に発行されたものは第1巻から第5巻にわたる大部な書となっています。1964年から1969年にかけて発行されており、大事業であったことが窺えます。

その第4巻に「創価学会」の項目があります。その一部分を見てみましょう。
創価学会は、日蓮大聖人の大仏法が純粋に伝わっている唯一の宗教である日蓮正宗の信徒として、大聖人の御遺訓を守り各自の生活に実践すると共に、法華折伏破権門理の御金言に従って、あらゆる不幸の根源であるいっさいのあやまれる宗教、さらに偏頗な思想を糺し、未だ真実の大歓喜を知らない人々を、日蓮大聖哲の顕わされた三大秘法の大御本尊に導入し、自他ともに絶対幸福の境涯を得、もって万人の希求する世界平和を達成しようと努める真摯な同志の集まりである。
したがって、創価学会には、それ自体の教義はない。
『仏教哲学大辞典』第4巻(1968)

日蓮正宗の信徒団体ですから、「創価学会には、それ自体の教義はない」というのはその通りと思います。教義は、日蓮正宗のものを使えばいいのですからね。

当然のことながら、日蓮正宗を持ち上げています。威勢のいい文言が並んでおり、やる気満々であることが見て取れます。この第4巻は1968年に発行されており、当時の創価学会の勢い、熱量がいかほどであったかがひしひしと感じられます。向かうところ敵なしという感覚であったのでしょう。

「未だ真実の大歓喜を知らない人々を」などという記述など、今から読みますと、なかなか突っ込みどころがある文言です。「真摯な同志の集まり」と書いており、自己評価が非常に高いですね。当時は、本当にこのように思っており、ある意味、純粋であったのでしょう。

では、新版の『仏教哲学大辞典』の「創価学会」の項目の一部を見てみましょう。
日蓮正宗の在家の信徒をもって構成されている宗教団体。
『仏教哲学大辞典』新版(1985)

あっさりとした記述ですね。この後は、創価学会の歴史等が記載されています。客観的な記載となっており、1968年の頃のような熱さはないですね。1985年頃の創価学会は、やや落ち着いた感じだったのでしょう。その間、いろいろありましたからね。

では、最後に第三版の『仏教哲学大辞典』の「創価学会」の項目の一部を見てみましょう。
創価学会は、日蓮大聖人の仏法を信奉する在家の宗教団体である。その国際的な組織であるSGI(創価学会インタナショナル)は、百六十三カ国・地域にメンバーを擁している(二〇〇〇年六月現在)。「創価」とは価値創造を意味し、個人の幸福の実現とともに、仏法の人間主義、生命の尊厳の思想を基調として、文化・教育・平和の創造に寄与し、人類社会に貢献することをめざしている。
『仏教哲学大辞典』第三版(2000)

2000年の『仏教哲学大辞典』には、日蓮正宗の信徒という文言がなくなっています。日蓮正宗と決別したあとの『仏教哲学大辞典』ですから、当然、記載に変化が生じているのですね。「日蓮大聖人の仏法」という言い方になっています。

第三版では、国際的に広がっているという記述があったり、「創価」が価値創造を意味すると説明したり、人間主義、生命の尊厳という言葉も出てきます。文化・教育・平和という単語も出てきており、やや、上品な感じになっていますね。初版のころのような暑苦しさはなくなっています。

現在のところ、『仏教哲学大辞典』の第四版の発行はなく、第三版の発行から約24年が経過しており、現在において「創価学会」の項目はどのような記述になるのでしょうか。

もう、日蓮正宗の教義をそのまま使うわけにもいきませんから、創価学会の教義はこのようなものであるという説明を加えるかもしれません。しかし、初版において、「創価学会には、それ自体の教義はない」と記載していることからして、取って付けた教義を書くわけにもいかず、悩ましいところですね。

初版、新版、第三版と見てきましたが、やはり、初版の記述が興味深いですね。新版、第三版は客観的であり、面白みに欠けます。その点、初版は、勢いがあり、ドヤ顔が浮かぶような暑苦しさがあり、そこがある意味、魅力的なのですね。この魅力があったため、当時は、実際に会員が増えていましたからね。

ただ、1970年頃から会員の増加はほとんどなく、1985年、2000年の頃では、宗教二世、三世でどうにか若さを保っていた時代といえるでしょう。

現在、2024年においては、会員の高齢化、若年層の減少により、かつての勢いはありません。初版の『仏教哲学大辞典』の記載を読んで、このような時代があったのかとしみじみと感じ入るところですね。教団の栄枯盛衰が見えてきます。

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2024年10月27日

自らにおける信仰の三大部

日蓮仏法を信仰していく中で、法華経、御書を研鑚することになりますが、法華経もそれなりの分量であり、御書に至ってはなかなかの大部であり、通し読みにも時間がかかるものです。

日蓮が釈尊の一代聖教の中から法華経を選択したように、我々も、なにがしらの選択が必要に思われるのですね。確かに仏教の経典すべてを学ぶことは好ましいことでしょうが、仏教の専門家でもない庶民である我々にとって、すべてを学ぶことはできませんし、また、すべてを学ぶ必要があるかといえば、ないといえるでしょう。別に全部を学ばなくとも、然るべき根本となるものを軸にすればよいと思います。

御書でいえば、400編以上の御書がありますが、ひとつを選ぶとすれば、「如来滅後五五百歳始観心本尊抄(観心本尊抄)」になるでしょう。日蓮仏法の根本の書といえば、本尊抄に決まるといってよいでしょうし、反論はないものと思われます。

では、次に法華経の内でどの品を選ぶかといえば、本尊抄を読めば分かるように如来寿量品になります。

本尊抄と寿量品とが我々が研鑚すべき、また、繰り返し読むべき書となります。毎日、本尊抄を読み、また、寿量品を読むということは、さほど困難ではありません。もちろん、本尊抄を全部読むとなりますと1時間程度の時間がかかりますから、本尊抄の一部を読むということになりますが、とにかく、毎日、本尊抄を少しずつ読んでいけば、13日程度で1周します。寿量品においては、勤行において、「自我偈」を読誦しますので、毎日、寿量品に親しんでいるといえます。

毎日の信仰において、「南無妙法蓮華経」との題目を唱えていますが、どこに向かって唱えているかといえば、日蓮の大曼荼羅に向かって唱えています。やはり、日蓮仏法の信仰において、本尊、日蓮の大曼荼羅が中心になります。

このように考えますと、「本尊、日蓮の大曼荼羅」、「本尊抄」、「寿量品」が日蓮仏法の信仰における三大部といえるでしょう。この三大部に集中しながら自らの信仰を透徹させるのがよいと思うのですね。

もちろん、その他の御書、その他の法華経の品を読むわけですが、根本として、毎日触れる書として、本尊抄、寿量品を選択し、その軸を確固たるものにした上で、その余の書に広げていくという姿勢が重要です。あれもこれもといったふらふらした姿勢は、信仰において好ましくありません。

一般庶民である我々の信仰としては、一番重要なところを見定めることが肝要です。「本尊、日蓮の大曼荼羅」、「本尊抄」、「寿量品」という三大部に毎日触れながら、信仰していくことは、それほど難しくはありません。ある意味、易行ですね。易行だからといって、功徳が少ないわけではありません。むしろ、易行であるからこそ、実行できるわけですから、確実に功徳が得られます。毎日のことですから、いつの間にか相当な蓄積となります。できないことをやろうとしても、できないわけですから、功徳など発生しません。しかし、できること、所謂、易行であれば、あとはするかしないかだけですから、さっさと発心して信仰を進めていけば良いですね。

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2024年07月27日

自分に仏界、仏法界があることを信仰すること

問うて曰わく、十界互具の仏語分明なり。しかりといえども、我らが劣心に仏法界を具すること、信を取り難きものなり。
『日蓮大聖人御書全集』新版 128頁(観心本尊抄)

日蓮は、「観心本尊抄」において、質問者に上記の問いを立てさせています。十界互具の理屈は理解できても、自らの劣った心に仏界、仏法界があるとは、なかなか、実感を持ちにくいものです。この点をよく表した文です。

しかし、仏法を信仰するとは、自らの心、生命に仏界、仏法界が備わっていることを覚知し、それを顕現することにありますので、実感が湧かない、信じることができないなどと言っている場合ではないのですね。我が身、仏身となるように信仰しなければなりませんし、そうでなければ信仰する意義は一切ないといってよいでしょう。

「観心本尊抄」を拝しながら、自らの仏界をとことんまで追求することが大事です。仏があるのか、ないのか、という問いを立てるのではなく、自分の中に仏が存在すると信仰することですね。あるか、ないか、ではなく、もうあるのだという信仰が必要です。

仏の生命、仏界、仏法界が己から出てこないならば、仏教を信仰しているとはいえず、どんなことがあろうとも我が身から仏が滲み出るようにすべきであり、これが信仰なのですね。

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2024年07月26日

自らの中に地獄界を見て、対策を練る

経に云わく「提婆達多乃至天王如来」等云々。地獄界所具の仏界なり。
『日蓮大聖人御書全集』新版 125頁(観心本尊抄)

地獄界であっても仏界を備えていることを示しています。法華経の提婆達多品からの引用ですね。

「観心本尊抄」の最大のテーマは、衆生に仏界が備わっていること、人間には仏性が存在することを示すことにあります。よって、上記の文などは、まさにそのことを示しており、地獄界の生命ですら仏界があるということを言うことにより、より一層、衆生に仏界があることが確実視されるわけです。

「観心本尊抄」の表向きのテーマは、人間に仏性があるということに間違いないのですが、私としては、上記の文を読むとき、どうしても裏のテーマが気になってくるのですね。つまり、人間には、地獄界の生命が厳然と存在するという事実です。十界互具ですから、仏界があるならば、当然、地獄界もあるわけで、極めて卑しい生命状態である地獄界が自らの中にあるとすることは、いささか不愉快なのですね。

端的に地獄界の生命状態を言い表すと、犯罪行為を行う生命状態などが典型例でしょう。虐殺行為、強盗、強姦、暴行傷害、放火などあきらかに地獄界といってよいですね。誹謗中傷を行う状態なども、まさに、地獄界です。所謂、人間的にいやらしい行為をしている人間は、地獄界の人間と見てよいと思います。

また、怒りにまかせて暴言を吐いてみたり、意地悪をしてみたり、いじめをしてみたり、無視をしてみたり、人の嫌がることを平気でする人間も、地獄界の人間であることは間違いないでしょうね。

このようなみっともない生命が自分の中にあるということを認めるのが十界互具ですから、仏道修行も簡単ではありません。仏界があるという良い面、清々しい面を見る分には心地よいのですが、己の中に地獄界があるという極めて不愉快な事実、認めたくない事実、具合が悪くなるような事実を把握することも信仰の一環です。

人間なるもの、環境によって、仏界の仏に成れると同時に地獄界の提婆達多にも成れるものです。いざ、地獄界の生命状態を出してもよい環境に身を置いたとき、人間はたやすく、上記にあげた忌まわしい行為をこともなげに行います。

リヴィウ(現在のウクライナ)や各地で発生したポグロム(ユダヤ人に対する組織的な略奪や虐殺を意味するロシア語)など、地獄界の所作といえます。人間は、集団になると凶暴化する傾向があるようで、関東大震災後の福田村事件などもその典型例であり、まさに地獄界の振る舞いです。このような事件をみたとき、自分とは関係がないと思いたいのですが、自らの生命の中にこのような悪魔的な行為をする生命状態が存在すると十界互具の法門で明らかにされ、その法門を信仰をしている限り、私は知りません、関係ありません、とは言えないのですね。

自分の中にある地獄界なるものを把握し、それが暴発しないようにするのが信仰のひとつの形でしょう。地獄界の生命状態という不愉快な事実に目を背けることなく、自らの邪悪性を明確に見て、その邪悪なるものを飼い慣らすほどの人間になる必要があります。

私には地獄界の生命状態などありません、などという態度をとっていますと、いざ、地獄界を十全に開陳してもよいという環境になった際、歯止めが効くことなく、集団虐殺、集団リンチなどの行為をしてしまうものです。自らを律するためには、まずは、自分に地獄界の生命状態があるという事実を認め、それを見つめ、その地獄界に振り回されないよう、どのようにすればよいか、常日頃、考えておくことですね。そのために信仰しているともいえましょう。何もないときに不都合な事実に立ち向かっていれば、いざというとき、狂乱することはなくなります。準備しておくことが肝要というわけです。

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2024年07月25日

「観心本尊抄」を読むと「法華経」を読まなければならないことが分かる

「観心本尊抄」には、九界に仏界がある文証として方便品の文をあげています。
法華経第一の方便品に云わく「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」等云々。これ九界所具の仏界なり。
『日蓮大聖人御書全集』新版 125頁(観心本尊抄)

方便・自我偈の勤行において出てこない部分ですね。方便品で読誦するのは十如是までの部分であり、それ以降の部分にこの文があるのですね。

このことから、勤行で読誦するところ以外の文を確認するためにも、方便品のすべての文を読む必要があります。「法華経」そのものを読むという姿勢が求められます。

また、「観心本尊抄」には、仏界にも九界が存在している文証として寿量品の文をあげています。
寿量品に云わく「かくのごとく我は成仏してより已来、はなはだ大いに久遠なり。寿命は無量阿僧祇劫にして、常住にして滅せず。諸の善男子よ。我は本菩薩の道を行じて、成ぜしところの寿命は、今なおいまだ尽きず、また上の数に倍せり」等云々。この経文は仏界所具の九界なり。
『日蓮大聖人御書全集』新版 125頁(観心本尊抄)

これも方便・自我偈の勤行で出てこない部分です。所謂、長行の部分にある文ですね。

寿量品に関しては、自我偈だけでなく、長行の部分を確認しておく必要があります。やはり、「法華経」を読まなければならないのですね。

方便・自我偈の勤行を大切にしながらも、その方便・自我偈に含まれない方便品の文、寿量品の文を大切にしたいものです。「御書」だけでなく、「法華経」もしっかりと読むという信仰が肝要です。

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2024年07月24日

「一念三千」から環境が大事であることを把握する

 問うて曰わく、百界千如と一念三千と差別いかん。
 答えて曰わく、百界千如は有情界に限り、一念三千は情・非情に亘る。
『日蓮大聖人御書全集』新版 124頁(観心本尊抄)

「百界千如」は、十界にそれぞれ十界があることから十界互具で百界となり、それに十如是をかけて千如となりますので、当然、三世間は含まれていません。「一念三千」に至って、三世間が加わります。この三世間には、「五陰世間」、「衆生世間」、「国土世間」がありますが、ポイントとなるのは、非情に相当する「国土世間」ですね。この「国土世間」が含まれているところに「一念三千」の意義があります。

では、この「一念三千」意義とは何なのか。端的に言うと、環境が大事であるということになりましょう。我々は、有情の存在であり、自らの信仰心でもって、人生を切り開くことができると考えがちです。確かに我々自身が精進すること、努力することは大切であり、重要なのですが、実のところ、その精進にしても努力にしても環境に制約されています。環境が悪いと精進、努力すらできないのですね。環境を無視して信仰はできず、自らの人生が開かれることもありません。

つまり、「一念三千」の法門は、環境が整わない限り、十全たる信仰にならないことを示しているのです。自分が努力すれば、精進すれば、それでよいといった「百界千如」レベルでは、話にならないわけです。「一念三千」に至ってはじめて信仰がスタートするといえましょう。

とにかく、環境が大事であるという点、環境を整えるという点を忘れず、信仰、生活をしていくべきですね。

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2024年07月23日

毎朝、2ページの「観心本尊抄」の音読

本日から、毎朝、2ページの「観心本尊抄」の音読をはじめました。

「観心本尊抄」の冒頭は、『摩訶止観』の引用からはじまります。
摩訶止観第五に云わく〈世間と如是と一なり。開合の異なり〉
 「夫れ、一心に十法界を具す。一法界にまた十法界を具すれば、百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば、百法界には即ち三千種の世間を具す。この三千、一念の心に在り。もし心無くんば已みなん。介爾も心有らば、即ち三千を具す乃至ゆえに称して不可思議境となす。意ここに在り」等云々〈ある本に云わく「一界に三種の世間を具す」〉。
『日蓮大聖人御書全集』新版 122頁(観心本尊抄)

一念三千論の典拠を示す文ですね。『摩訶止観』には、「一念三千」のことを縷々述べているのかと思われるところ、実際は、そうではないようです。
『摩訶止観』のこの文が天台の全講述・著述中唯一の一念三千論の典拠である。
浅井円道《仏典講座38》『観心本尊抄』大蔵出版 43頁

とのことです。『摩訶止観』は、なかなかの大部の書ですが、一念三千論に関わる記述は、「観心本尊抄」冒頭に掲げられたこの箇所のみというのですから、ほんの数行です。『摩訶止観』の現代語訳でも1ページに満たない分量です。

この『摩訶止観』の文にしても、よくよく読みますと「一念三千」とは書いていません。
しかしこの文の中には「介爾有心即具三千」とはいわれるが、一念三千という名目は見あたらない。つまりこれを一念三千と命名したのは天台ではなく、天台滅後の誰かであるということになるが、それは現存する文献による限りでは中国天台宗第六祖の妙楽大師湛然である。
浅井円道《仏典講座38》『観心本尊抄』大蔵出版 43頁

というのですね。天台は、「一念三千」と明確に言っておらず、文献による限り、「一念三千」と命名したのは妙楽ということなのですね。

日蓮仏法において「一念三千」は重要な法門ですが、名目からすると天台からではなく、妙楽からということです。もちろん、一念三千論は天台からですが、一念三千論について述べているのが「観心本尊抄」で引用されている部分だけという薄さを考えますと、「一念三千」を深めていったのは、妙楽、日蓮であったといえるでしょう。

仏教の歴史を考えますと、後代になるにつれ、法門が豊潤になると見てよいかと思います。

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2024年07月22日

「報恩抄」音読完了

本日、「報恩抄」の音読を完了しました。続いて「報恩抄送文」も音読しました。

「観心本尊抄」「法華取要抄」「立正安国論」「開目抄」「撰時抄」「報恩抄」と音読し、五大部と「法華取要抄」とを合わせた六大部の音読を終えたことで一つの区切りとしたいと思います。

明日からは、「観心本尊抄」の毎朝2ページの音読をはじめたいと考えています。見開きごと読んでいくということですね。

「報恩抄送文」を読んでみますと、重要なことが書いていますね。
親疎となく、法門と申すは、心に入れぬ人にはいわぬことにて候ぞ。御心得候え。
『日蓮大聖人御書全集』新版 262頁(報恩抄送文)

信仰心のない人に説法してもしょうがない、ということですね。やはり、信仰、法門ということに関し、心がない人、受容する器のない人には、何にも言わない方がいいですね。時間の無駄、エネルギーの無駄といえましょう。

また、このような指摘もあります。
またこの文は随分大事の大事どもをかきて候ぞ。詮なからん人々にきかせなば、あしかりぬべく候。
『日蓮大聖人御書全集』新版 263頁(報恩抄送文)

万一、信仰心のない、どうしようもない人に、この法門を聞かせるようなことがあるならば、悪いことになるというのですね。単なる無駄で終わるのではなく、好ましくない方向に物事が進んでしまう危険性があるわけです。

信仰のこと、仏教のこと、宗教のことという極めて精神性の高い事柄は、安易に口にすべきではないですね。信用できる人とは語らうにしても、そうでない人々と信仰、仏教、宗教のことを語らうことは、実際のところ不可能でしょうね。

我々としては、御書をしっかりと拝しながら、地道な信仰を続けるのがよいようです。地に足が付いた信仰、一歩一歩踏みしめていくような信仰、弛まない信仰、このような信仰が求められます。

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posted by lawful at 22:13| 御書

2024年07月18日

『真ん中のひじ掛けの妖精』五分目悟 (著)を予約しました。

いつもYoutubeの動画で楽しませてもらっている五分目悟さんが本を出されたということで、本日、予約しました。

特典として「オリジナル描き下ろしミニ漫画」がデータ配信されるようです。

本の発売日は、令和6年8月6日です。予約したのは、五分目悟さんの動画が気に入っているからですね。クオリティが高いことは間違いなく、じわじわと楽しみたいと考えています。
posted by lawful at 22:17| 読書

2024年07月15日

新版の御書に誤植があるようです

毎朝の御書1ページ音読を続けておりますが、「報恩抄」の次の一節に関し、意味が通らないのではと思い、いろいろと調べてみました。

まずは、『日蓮大聖人御書全集』新版で、その箇所を確認してみましょう。
愚者と愚者との唱うる功徳は天地雲泥なり。
『日蓮大聖人御書全集』新版 255頁(報恩抄)

「愚者」と「愚者」では、意味が取れないですね。

旧版といいますか、新版でない御書を見ますと、
愚者と智者との唱うる功徳は天地雲泥なり
『日蓮大聖人御書全集』324頁〜325頁

となっています。

「愚者」と「智者」となっています。これであると意味が通ります。

新版の御書の方に誤植があるようですね。

現代語訳で確認しますと、
愚かな者が法華経の題目を唱える功徳と智慧のある人が他経の題目を唱える功徳には、天地雲泥の差がある。
『現代語訳 報恩抄』聖教新聞社 244頁

となっています。分かりやすく現代語訳されています。

「愚者」と「愚者」では、意味が通らないですね。やはり、「愚者」と「智者」との対比にならないと天地雲泥であるとはいえません。

編年体、昭和定本、昭和新修でも確認しましたが、やはり、「愚者」と「智者」となっています。

真筆ではどうかと思ったのですが、『日蓮聖人真蹟集成』には、当該箇所はなかったですね。報恩抄の真筆は一部分残っているようですが、「身延曾存」ともありますので、当該箇所は、焼失しているのかもしれません。

いずれにしても、意味の上から「愚者」と「智者」としませんと、意味が通りませんので、新版の御書で当該箇所を読むときは、「愚者」と「智者」と読み直すことが必要ですね。

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posted by lawful at 14:35| 雑感

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